第11話 逃げないという選択
「逃げません」
私は、もう一度そう言った。
記憶法院の小さな面談室。
机の向こうには執行官が二人。
私の隣にはリオラ。
扉の外には衛兵。
そして、廊下のさらに向こうにギデオンがいる。
いるはずだ。
会ってはいない。
リオラが来てから、彼には別室で待ってもらっている。
「エステル」
リオラが低い声で言う。
「今の段階なら、監察局の保護権限へ移すこともできる」
「ギデオンが言っていたわ」
「彼から聞いたの?」
「逮捕される直前に」
「そう」
リオラは腕を組んだ。
「それを選ばなかった理由は?」
「逃げたように見えるから」
「見える、だけ?」
「見えることも重要でしょう」
私は机の上の書類へ視線を落とした。
殺害教唆。
証拠隠滅。
逃亡のおそれ。
私がマルセル判事を殺せと命じた記憶。
それが今、私をここに座らせている。
「監察局へ移れば、形式上は合法でも、ギデオンの権限を使って逃げ込んだと受け取られる」
「その可能性は高い」
「なら嫌」
「もう一つあるでしょう」
リオラが私を見る。
さすがに長い付き合いらしい。
今の私の顔からでも、何か分かるようになってきたのだろうか。
「ギデオンの保護下に入ったら」
私は言葉を選んだ。
「事件の中心にいる私が、また彼の判断の中へ入る気がする」
リオラは何も言わない。
「彼が何かを隠しているのは確か。理由もまだ全部聞いてない。そんな状態で『安全だから』って彼の管理下へ行ったら、私はたぶん楽になる」
「楽になるのが嫌?」
「怖いの」
自分でも少し驚いた。
でも、本当だった。
「判断しなくてよくなるから」
護衛。
移動。
情報。
危険。
全部、ギデオンに任せればいい。
あの人はきっと、上手くやる。
だからこそ危険だ。
「私はもう、知らないうちに守られるのは嫌」
リオラはゆっくり頷いた。
「分かった」
執行官の一人が書類を差し出す。
「では、記憶法院による監視付き保護拘束を受け入れる意思がある、ということでよろしいですか」
「条件を確認します」
「もちろんです」
書類を読む。
拘束期間。
行動範囲。
面会。
通信。
証拠への接触制限。
居住場所。
「牢ではないのね」
「逃亡の意思が低く、暴力行為のおそれもないと判断されています」
「殺害教唆の容疑者なのに?」
「殺害を直接実行した容疑ではありません」
「ずいぶん細かい」
「法律ですので」
私は少しだけ笑った。
「嫌いじゃないです」
執行官が初めてわずかに表情を緩めた。
「滞在場所は、記憶法院管理の保護館になります」
「外出は?」
「原則禁止。ただし弁護活動、医療、法院への出廷、捜査上必要な現場確認については申請可能です」
「面会は?」
「弁護人。家族。捜査担当者。その他は審査」
「ギデオンは?」
執行官の眉が動いた。
「ヴァルデン公爵は監察局長官として事件に関与していますので、捜査上の面会は可能です」
「私的な面会は?」
「別途申請です」
私は頷く。
それでいい。
「書類へのアクセスは?」
「あなた個人の所有物は原則可能。ただし証拠指定を受けたものは不可」
「九一七番の資料は?」
「現在、証拠保全の対象です」
胸の奥が沈む。
「全部?」
「写しの一部については弁護人を通して閲覧申請できます」
私はリオラを見る。
「お願い」
「もう出してある」
「早い」
「弁護士なので」
父と同じことを言う。
少し笑いそうになった。
「では、最後」
私は書類の一番下を指した。
「この保護拘束中、王立記憶院は私の記憶晶へ触れられる?」
執行官が一瞬止まった。
リオラも顔を上げる。
「通常の保全権限は残ります」
「通常」
「ただし、殺害事件の証拠に指定された記憶晶については、記憶法院の許可なく移動、接続、再封緘その他の処置はできません」
「私の全記憶晶を証拠指定できる?」
「全部は難しい」
「なぜ?」
「事件との関連性が必要です」
当然か。
私は少し考える。
「空晶になっていた三つは?」
「既に異常保管事件の証拠として仮指定されています」
「昨日公開された殺害命令の記憶晶は?」
「本指定済みです」
「なら、それだけでも今はいい」
全部守れない。
だから重要なものから守る。
私は署名欄を見た。
また署名。
ここ数日、ずっと自分の名前を書いている気がする。
離縁。
記憶売却。
協力条件。
保護拘束。
人生は紙で決まるのではない。
でも紙に何を書くかで、人生の形はかなり変わる。
「署名します」
ペンを取る。
リオラが横から言った。
「最後に一つ」
「何?」
「これは逃げないという意味であって、自分から有罪を受け入れるって意味じゃないからね」
「分かってる」
「あなた、妙なところで律儀だから」
「過去の私も?」
「今のあなた」
即答だった。
私は少し笑って署名した。
エステル・ローヴェン。
*
保護館は、牢獄というより古い寄宿舎に近かった。
石造りの三階建て。
窓には細い銀線が組み込まれている。
魔術的な脱走防止。
でも鉄格子ではない。
部屋には寝台。
机。
椅子。
本棚。
暖炉。
「意外と普通」
私が言うと、リオラが鞄を置いた。
「貴族や高官も入る施設だから」
「快適な牢」
「その言い方をすると職員に嫌われるわよ」
「聞こえてないでしょう」
扉の外から咳払いが聞こえた。
二人で顔を見合わせる。
「聞こえてた」
「聞こえてたわね」
少し笑う。
本当に、こういう短い時間が助かる。
重い話ばかりでは息が詰まる。
私は窓辺へ行った。
遠くに王立記憶院の塔が見える。
さらにその向こう。
王宮。
十二年前の白鐘広場は、ここからは見えない。
「リオラ」
「何?」
「私の殺害記憶、本物だと思う?」
彼女はすぐには答えなかった。
「弁護士として?」
「友人として」
「なら、答えは同じ」
「どっち?」
「分からない」
私は振り返る。
リオラは真顔だった。
「今ある証拠だけなら、偽物だと断定できない」
胸が少し痛んだ。
でも、それでいい。
「ギデオンは最初、『あり得ない』って言った」
「彼らしい」
「あなたは言わないのね」
「言ってほしい?」
「分からない」
私は窓へ戻る。
「少しだけ、言ってほしい気持ちはあるかも」
「友人としては信じたい」
「うん」
「でも、あなたが欲しいのは信仰じゃないでしょう」
その言葉が胸へ刺さる。
「証拠」
「そう」
リオラは机に書類を広げた。
「なら作る」
「何を?」
「偽造証明の道筋」
私は椅子を引いた。
「できるの?」
「やるの」
リオラが一本目の紙を置く。
「まず、あの記憶晶が正規抽出されたものか」
二本目。
「いつ、誰が、どこで保管したか」
三本目。
「エステル本人の記憶とする根拠は何か」
四本目。
「映像内容に物理的矛盾がないか」
五本目。
「前後の記憶が存在するか」
六本目。
「殺害実行者とあなたの接点が本当にあったか」
私は紙を見る。
少しだけ頭が整理される。
「つまり」
「映像に映っているあなたが本物かどうか、だけじゃない」
リオラが言う。
「証拠の入口から出口まで全部見る」
「記憶晶そのもの」
「保管」
「内容」
「周辺事実」
「そう」
私はペンを取る。
「じゃあ、まず何から?」
「殺害命令の記憶晶の正式な鑑定申請」
私は顔をしかめる。
「鑑定って言葉、嫌い」
「普通の法的鑑定よ。特殊能力じゃない」
「ならいい」
リオラが笑った。
「それから」
「まだある?」
「山ほど」
彼女は別の紙を出す。
「マルセル判事の死亡時刻。最後に会った人間。なくなった書類。監察局へ接触した理由」
「ギデオンが持ってる情報?」
「一部は」
「聞ける?」
「聞く」
「私が?」
「私も同席する」
少し安心した。
「それがいい」
自分でも分かる。
今の私は、ギデオンと二人きりになると話が事件だけでは済まない。
過去の結婚。
今の距離。
隠し事。
謝罪。
全部が混ざる。
それが悪いわけではない。
でも今は、まず事件だ。
*
午後。
ギデオンとの面会が許可された。
保護館の面談室。
机を挟んで、私とリオラ。
向かいにギデオン。
扉のそばに記録官。
「元気か」
最初の言葉がそれだった。
私は少し笑う。
「逮捕された翌日の人に聞く質問としては普通ですね」
「普通の質問を選んだ」
「努力は認めます」
リオラが咳払いする。
「元夫婦の会話はあとにして」
「すみません」
私とギデオンの声が重なった。
一瞬だけ沈黙。
リオラが額を押さえる。
「そこまで息を合わせなくていい」
少し空気が緩む。
ギデオンが机へ薄い資料を置いた。
「監察局から開示できる範囲を持ってきた」
私はすぐ手を伸ばさなかった。
「私に見せていいもの?」
「ああ」
「特別扱いではなく?」
「事件関係者への情報開示として正式に許可を取った」
「誰の許可?」
「副長官と法務官」
私はリオラを見る。
彼女が資料の印章を確認する。
「問題なさそう」
そこで初めて受け取った。
「何が分かった?」
ギデオンの顔が硬くなる。
「マルセル判事は殺される三日前、監察局へ面会申請を出していた」
「目的は?」
「白鐘広場事件の封緘記録について」
私は息を止めた。
「封緘記録」
「詳細は分からない」
「あなたは会った?」
「いや。私ではなく記録監察課を指定していた」
「なぜ?」
「そこも不明だ」
リオラが資料を見る。
「面会は実現した?」
「していない」
「どうして?」
「申請翌日に、マルセル本人から延期の連絡が入った」
私は眉を寄せる。
「延期?」
「理由は書かれていない」
「本人から?」
「書面上は」
その言い方。
私はすぐ反応した。
「書面上は?」
ギデオンが頷く。
「署名は本人のものに見える。ただし、今は原本を確認中だ」
「偽造の可能性?」
「まだ何とも言えない」
私は紙へ書く。
マルセル。
白鐘広場。
封緘記録。
延期。
殺害。
「私との接点は?」
「正式記録上は確認できていない」
「過去にも?」
「監察局の範囲では」
また限定。
でも今は分かる。
どこまでが答えか。
「王立記憶院側は?」
ギデオンが少し黙る。
「そこは回答待ちだ」
「総裁権限の開封記録も?」
「ああ」
「いつまで?」
「今日中には一次回答が来る」
リオラが腕を組む。
「遅いわね」
「記憶院側は、内部保全案件として独自調査を始めた」
「それって」
私は言った。
「自分たちの保管庫で起きた不正を、自分たちで調べてる?」
「そうなる」
嫌な感じがする。
でも、それだけで悪いとは言えない。
「記憶法院から外部監査を入れられない?」
リオラが答える。
「申請中」
「本当に早い」
「弁護士なので」
今日二回目。
私は少し笑った。
ギデオンも口元を緩めかける。
そのとき。
面談室の扉が叩かれた。
記録官が開ける。
保護館の職員が、一通の封書を持っていた。
「ハート弁護人宛てです」
リオラが受け取る。
封蝋を見る。
顔が変わった。
「記憶法院?」
「ええ」
開封。
読む。
数秒。
彼女の眉間に皺が寄る。
「何?」
私は聞く。
リオラは紙を机へ置いた。
「殺害命令記憶の予備確認結果」
「もう出たの?」
「外観と封緘履歴だけ」
私は息を詰める。
「どうだった?」
「記憶晶の銀縁は正規」
「つまり本物?」
「外側は」
リオラが言う。
「抽出日時、術者、立会人、保管番号。全部、あなたの売却記憶群に対応してる」
胸が冷える。
ギデオンが資料を取ろうとして、止まる。
「見ていいか?」
リオラが渡す。
彼は読む。
「……だが」
「何?」
私が聞く。
ギデオンが一箇所を指した。
「この保管番号」
見る。
数字。
記号。
私はどこかで似たものを見た気がした。
「九一七番の一覧?」
リオラがすぐに自分の写しを出す。
照合。
違う。
完全一致ではない。
でも。
「同じ区分記号」
私は言った。
九一七番にあった十六件。
白鐘広場生存者の記憶晶番号。
それらと同じ先頭記号。
《B》
殺害命令記憶にも。
《B》
私は紙を並べた。
「Bって何?」
ギデオンは首を振る。
「まだ分からない」
「でも偶然?」
リオラが言う。
「それもまだ分からない」
私はじっと番号を見る。
白鐘広場生存者。
マルセル判事。
私の殺害命令記憶。
同じ区分記号。
意味は不明。
ただ。
初めて、殺害事件と白鐘広場事件の間に、記録上の共通点が一つできた。
「これは証拠?」
私は聞く。
リオラは首を振る。
「まだ手がかり」
「じゃあ書く」
私は紙へ記す。
《B区分》
それだけ。
意味を勝手に足さない。
まだ知らない。
でも。
逃げなかったから、ここまで見られた。
法の中に残ったから、正式な記録を取りにいける。
「エステル」
ギデオンが言う。
「何?」
「昨日」
少し言葉を探している。
「監察局へ移らないと決めたとき、私は反対したかった」
「知ってます」
「今も、安全だけを考えれば反対だ」
「はい」
「でも」
彼は私を見る。
「君がここに残ったから取れる証拠もある」
私は返事をしなかった。
「……選択を尊重する」
それだけだった。
今さら。
本当に今さら。
でも。
私はその言葉を、過去の夫からではなく、今ここにいる男から受け取った。
「ありがとうございます」
短く答える。
そして、すぐ資料へ視線を戻した。
許したわけではない。
恋に戻ったわけでもない。
ただ一つ。
私が決めたことを、彼がそのまま受け止めた。
それを記録しておこうと思った。
証拠と同じように。
感情もまた、勝手に結論へつなげず。
今起きたことだけを。
机の上には、殺害命令記憶の番号。
その横に、白鐘広場生存者たちの番号。
同じ《B》の文字。
逃げずにここへ残った私の前で。
二つの事件が、初めて一つの記号で触れた。




