第12話 彼女だけが私を知らない
エステルは、もう私を見ても安心しない。
その事実に慣れる日は、おそらく来ない。
記憶法院の保護館を出たあと、私はしばらく馬車へ乗れずにいた。
石段の下。
雪の残る中庭。
監察局の護衛が少し離れて待っている。
誰も声をかけてこない。
ありがたかった。
先ほどの面談で、エステルは私に「ありがとうございます」と言った。
ただそれだけだ。
私が彼女の選択を尊重すると言ったことへの礼。
妻だったころなら、礼を言われるようなことではなかった。
いや。
違う。
礼を言われる以前に、私は彼女へ選ばせていなかった。
「閣下」
副官のセドリックが控えめに呼んだ。
「馬車を」
「少し待て」
「承知しました」
私は保護館の三階を見る。
どの窓がエステルの部屋かは知らない。
調べれば一分で分かる。
監察局長官である私には、それくらい容易い。
だから調べない。
三日前までなら。
私は調べていたかもしれない。
危険がないか確認するために。
警備状況を知るために。
緊急時の脱出経路を把握するために。
理由はいくらでも作れる。
そして最後にはこう言う。
――君を守るためだ。
「……便利な言葉だったな」
「何か?」
「いや」
守るため。
私はその言葉で、どれほど多くのことを正当化したのだろう。
エステルが保護館へ入ると決めたときも、私は反対したかった。
監察局管理の施設なら、警備はもっと厚い。
移送経路も隠せる。
誰が接触するかも管理できる。
安全だけを考えれば、今でもそちらが正しいと思っている。
だがエステルは言った。
判断しなくてよくなるのが怖い、と。
それをリオラから聞いたとき。
私は何も言えなかった。
彼女は、私の隣にいたころからそう感じていたのだろうか。
安全。
便利。
効率。
確実。
私はいつも正しい選択肢を用意した。
少なくとも自分ではそう思っていた。
その代わり。
彼女が間違える自由まで奪っていた。
「監察局へ戻る」
私はようやく言った。
*
執務室へ戻ると、机の上に三つの案件が積まれていた。
マルセル判事殺害事件。
エステル・ローヴェンの記憶晶不正交換。
白鐘広場関連封緘記録の照会。
三つ。
本来なら別々に扱うべき案件だ。
だが今は、どれも互いに触れ始めている。
私は一番上の報告書を開く。
マルセル判事。
殺害三日前。
監察局記録監察課への面会申請。
目的。
《白鐘広場事件における封緘記録の照合》
その翌日。
延期申請。
本人署名。
そして殺害。
「原本は?」
セドリックへ尋ねる。
「文書検査室です。筆跡は本人のものと一致する可能性が高いとの一次報告」
「可能性」
「まだ確定ではありません」
「紙は?」
「法院内部で使用されるものです」
「誰でも取れる?」
「職員なら」
つまり、何も分からない。
私は紙を置く。
次。
エステルの記憶晶。
三つの空晶。
総裁権限での開封。
実行者署名欠落。
そして、彼女がマルセル殺害を命じたとされる記憶晶。
銀縁は正規。
保管番号も正規。
外側だけなら。
完璧だ。
「中身の詳細確認は?」
「記憶法院が独自に進めています」
「監察局から申請は」
「提出済み」
「私の名義ではないな」
「副長官名義です」
「それでいい」
セドリックが私を見る。
ほんのわずかに。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「以前なら、閣下ご自身の特別権限を使ったかと」
私は報告書から目を上げた。
「そうだな」
「今回は使わない?」
「使えば、エステルに関する証拠へ私が個人的に干渉したと言われる」
「彼女を守るためでも?」
昔の私なら、そこで迷わなかった。
必要なら使う。
結果が正しければいい。
今は違う。
「守るため、という理由で手続きを曲げれば」
私は言った。
「それ自体が彼女の不利益になる」
セドリックは黙った。
長く仕えている男だ。
たぶん。
私が変わったとでも思っているのだろう。
違う。
変わったのではない。
今さら、自分が何をしていたかを見せつけられているだけだ。
机の端に、小さな紙があった。
保護館でエステルが作った協力条件の写し。
彼女の許可を得て、正式な記録として監察局にも一部提出している。
一。
命令しない。
二。
無断で触れない。
三。
質問に対し、意図的に事実を省略しない。
四。
答えられない場合は明言する。
五。
彼女に関する決定を勝手にしない。
六。
危険は説明する。選ぶのはエステル本人。
私は何度も読んだ。
難しい内容ではない。
夫婦なら当然だったはずのことだ。
なのに。
私には、契約書にして署名しなければ守れないほど欠けていた。
*
夕刻。
監察局の食堂へ降りると、蜂蜜壺が目に入った。
私は足を止めた。
馬鹿げている。
ただの蜂蜜だ。
それでも、雨の日の記憶が蘇る。
エステルは甘いものが好きだった。
冬になると特に。
紅茶にも蜂蜜を入れた。
私が入れると多すぎると笑った。
一杯だと言えば、匙が大きいのだと返された。
昨日。
彼女は私に聞いた。
蜂蜜は好きですか、と。
あの記憶を見たのだと分かった。
だが聞かなかった。
何を見た。
どこまで見た。
何を感じた。
全部知りたかった。
七年間のどの瞬間を、今の彼女が見たのか。
そして。
そこにいた私を、どう思ったのか。
知りたくて仕方がなかった。
でも聞かなかった。
そのことを、まるで善行のように考えそうになってやめる。
聞かないことが偉いのではない。
彼女の記憶なのだから。
聞かない選択が普通なのだ。
私は食事を取らずに執務室へ戻った。
机の引き出しを開ける。
一枚の紙。
離縁届の写し。
保管する必要はなかった。
公的な原本は法院にある。
それでも捨てられずにいる。
エステル・ヴァルデン。
彼女が最後にその名前を書いた紙。
その下に。
ギデオン・ヴァルデン。
二つの署名。
それを見ていると、記憶院の抽出室を思い出す。
銀の光。
寝台。
彼女の顔。
『次に会ったとき、愛称で呼ばないでください』
あのとき。
私は何と答えたのだったか。
たぶん、何も言えなかった。
翌日。
彼女は本当に私を知らなかった。
「……どなたですか?」
あの一言。
私は一生忘れない。
彼女は忘れた。
私だけが覚えている。
初めて手を繋いだ日。
求婚した夜。
結婚式。
喧嘩。
仲直り。
彼女が高熱を出して三日眠れなかった夜。
私が帰宅を遅らせ、彼女が一人で夕食を食べた夜。
初めて「あなたは私を守っているのではなく、閉め出している」と言われた日。
全部。
私だけが覚えている。
この記憶は、私の財産ではない。
彼女に近づく権利でもない。
分かっている。
それでも。
ときどき。
あまりにも重い。
二人で持っていた七年を、突然一人で持つには。
「閣下」
扉が叩かれた。
「入れ」
セドリック。
新しい資料を持っている。
「例のB区分について、照会結果が一部出ました」
私は離縁届の写しを引き出しへ戻す。
「話せ」
「正式名称は非公開です。ただし、用途だけ確認できました」
「用途?」
「通常保管ではありません」
私は顔を上げた。
「では?」
「特別封緘指定を受けた証言記憶に使われる区分のようです」
白鐘広場生存者十六人。
すべてB区分。
そして。
エステルが殺害を命じた記憶もB。
「誰が指定する」
「複数経路があります。記憶法院、王立記憶院、王命」
「十二年前の白鐘広場は?」
「現在照会中です」
「急げ」
言ってから止まる。
「いや」
セドリックが待つ。
「正規手続きで最短を」
「承知しました」
それだけの訂正。
なのに自分で嫌になる。
私は何年、こうやって「急げ」の一言で人を動かしてきた。
セドリックが退室しかける。
「待て」
「はい」
「この情報は、エステル側へ開示できるか」
「現時点では、用途部分のみなら可能かと」
「リオラ・ハートへ正式に送れ」
「閣下から?」
私は少し考える。
「監察局記録監察課名義で」
「承知しました」
また一つ。
私個人の力ではなく。
手続きを使う。
そんなことを、一歩進んだように感じる自分が情けなかった。
*
夜。
保護館へ資料が届いたという連絡を受けた。
それだけ。
私は面会申請を出さなかった。
理由はある。
明日、捜査上必要な面会が予定されている。
今夜わざわざ私的面会を申請する必要はない。
会いたいから。
それだけなら。
行かない。
執務室の窓を開ける。
冷気が入る。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
白鐘。
十二年前。
私は当時二十三歳だった。
監察局にはまだいなかった。
事件の全貌を知る立場でもない。
それでも後年。
記録を読んだ。
読んで。
疑問を持った。
そして。
疑問を持ちながら、深く踏み込まなかった。
理由はいくつもある。
王家機密。
古い事件。
政治的安定。
証拠不足。
全部、本当だ。
だが今。
マルセルは死んだ。
エステルは殺人犯にされようとしている。
白鐘広場生存者の記憶と、エステルの殺害命令記憶が同じ特別区分に入っている。
偶然だと片づけるには、接点が増えすぎた。
そして。
私はまだ。
エステルに話していないことがある。
条件三。
意図的に事実を省略しない。
条件四。
答えられないなら、そう明言する。
明日の面会で。
彼女はたぶん聞く。
私が王立記憶院について、以前から何を知っていたのか。
そのとき。
どこまで答えられる。
私は目を閉じた。
また同じことをしそうになる。
今のうちに、彼女に与える情報を選別しようとする。
どこまでなら安全か。
何を話せば、彼女は何をするか。
その思考そのものが。
私の過ちだった。
「……選ぶのは、彼女だ」
口に出す。
簡単な言葉だ。
実行するのは難しい。
たぶん私は。
まだ何度も間違える。
それでも。
今度は、間違えたあとに彼女から奪わない。
許されるかどうかも。
戻ってくるかどうかも。
私が決めることではない。
窓の外で鐘が六度目を打つ。
私は机へ戻り、明日提出する資料を開いた。
エステルが私を知らないことは。
私にとって罰なのかもしれない。
だが。
彼女が私を知らないからこそ。
今の私が何をする人間なのか。
もう一度、最初から見られている。
それが恐ろしくて。
少しだけ。
救いでもあった。




