第13話 違法記憶市場
記憶を売る場所は、王立記憶院だけではない。
「もちろん違法だけどね」
リオラはそう言って、私の前に地図を広げた。
保護館の面談室。
朝から冷たい雨が降っている。
地図には王都南部の一角が赤鉛筆で囲まれていた。
「旧染物街?」
「表向きはね」
「裏向きは?」
「忘れたい人と、他人の記憶を欲しがる人が集まる場所」
私は地図から顔を上げた。
「そんなもの、本当に買う人がいるの?」
「いるわよ」
リオラは指を折った。
「希少な舞台を最前列で見た記憶。亡くなった歌手の最後の公演。高級娼館での夜。外国の戦場。賭博の大勝ち。自分では一生経験できないものなら何でも」
「見世物みたいに?」
「その程度ならまだまし」
声が少し低くなる。
「職人の技術記憶。尋問された経験。誰かの私生活。盗まれた恋愛記憶」
胸の奥が冷えた。
「本人の同意なし?」
「違法市場に同意書を期待しないで」
私は無意識に自分の額へ触れた。
七年間の結婚生活。
私の記憶も。
誰かに盗まれた三つがある。
「私の空晶と関係があると思ってる?」
「分からない」
リオラは即答した。
「だから調べる」
机の端には、記憶法院から届いた外出許可証がある。
《弁護活動に必要な現地確認》
監視付き保護拘束になってから初めての外出だ。
護衛は二人。
ただし旧染物街へ入る手前で目立たない位置に下がる。
「ギデオンは?」
私が聞く。
「来ない」
「意外」
「来たがった」
「でしょうね」
「でも今日は監察局長官の顔を連れていくと誰も口を開かない」
それは納得できる。
「本人は?」
「かなり不満そうだった」
少し想像できた。
「何か言ってた?」
「『危険だ』」
「普通ね」
「そのあと『根拠は、違法記憶市場では過去五年で強盗事件が十七件、暴行が二十三件』」
私は思わず笑った。
「努力してる」
「数字で心配する元夫ってどうなの」
「分かりやすくていいんじゃない?」
「あなた、少し甘くなってない?」
私は笑うのをやめた。
「そう見える?」
リオラは私を数秒見た。
「今のは忘れて」
「過去の私と比べた?」
「違う。余計なことを言った」
私は少し考え、
「なら、忘れる」
と答えた。
今の私がギデオンをどう見ているか。
そこに昔との比較はいらない。
*
旧染物街は、王都の中でも色が濃かった。
建物の壁に染料が染み込み、赤や藍や黄土色の跡が残っている。
雨で濡れると、それがさらに鮮やかになる。
「きれい」
私が言うと、リオラが顔をしかめた。
「道だけ見ればね」
「人は?」
「財布を前に持って」
「急に現実的」
二人で外套の襟を立てて歩く。
表通りには布問屋。
仕立屋。
染物工房。
違法市場らしいものは何もない。
リオラが小さな酒場へ入った。
看板には《青瓶亭》。
昼前なのに薄暗い。
客は三人。
誰もこちらを見ない。
「奥の席」
リオラが言う。
座ってすぐ、給仕の少年が来た。
「何を?」
「冬梨酒を二つ」
「昼から?」
私が聞くと、リオラが足を踏んだ。
「痛い」
少年は無表情のまま言った。
「冬梨酒は切れてる」
「では、去年の夏を一杯」
妙な注文。
少年の視線が初めて私たちへ向いた。
「どの夏?」
「鐘が鳴る前」
数秒。
少年が奥へ引っ込む。
私は小声で聞いた。
「何それ」
「合言葉」
「詳しいわね」
「弁護士なので」
「もう何でもそれで通すつもり?」
「便利でしょう」
しばらくすると、別の男が現れた。
四十代くらい。
痩せていて、指先だけが妙にきれいだ。
「ハート先生」
「久しぶり」
「来ないほうがいい場所ですよ」
「あなたがそれを言う?」
男が笑った。
目は笑っていない。
「そちらは?」
「依頼人」
「名前は?」
「教えない」
「なら売れない」
「買いに来たんじゃない」
男が椅子へ座る。
「じゃあ何を?」
リオラは一枚の紙を出した。
《B-31-044》
一つだけ。
十六件全部は見せない。
「この形式、見たことある?」
男の目が止まった。
本当に一瞬。
でも私には分かった。
「ありますね」
私が言う。
男が私を見る。
「何が?」
「今、数字を見て反応した」
「気のせいだ」
「なら別の店へ行く」
私は立ち上がる。
リオラが止めない。
三歩。
「待って」
男が言った。
私は戻った。
「見たことはある」
「何の番号?」
「記憶院の保管番号だ」
「それは知ってる」
「なら帰りな」
「Bは?」
男の顔が固くなる。
「知らない」
嘘。
そう思った。
でも証明できない。
私は座り直した。
「あなたを捕まえに来たわけじゃない」
「みんなそう言う」
「監察局ならこんな回りくどい聞き方しない」
「それはそうだ」
男が少し笑う。
「何を知りたい?」
「B区分の記憶が市場に流れたことがあるか」
沈黙。
酒場の奥でグラスが鳴る。
男がテーブルを指で二度叩いた。
「ある」
リオラの表情が変わる。
「いつ?」
「昔だ」
「何年前?」
「十二年くらい」
私は息を止めた。
白鐘広場。
同じ十二年前。
でもまだ結びつけない。
「どんな記憶?」
「中身は知らない」
「売った?」
「俺は仲介しただけだ」
「誰から?」
「それを言ったら俺が死ぬ」
「買った側は?」
「そっちも」
リオラが少し身を乗り出す。
「じゃあ、言えることだけ」
男は私を見る。
「Bが付いてる晶石は、普通の市場じゃ扱わない」
「なぜ?」
「封緘が違う」
「どう違う?」
「硬い」
私は眉を寄せた。
「硬い?」
「壊すのが、だ」
男は自分の指を見た。
「正規の銀縁は、外すと痕が残る。B区分はさらに内側に二重封がある。だから中身を抜いて別の晶へ移すのが難しい」
「でもできる?」
「道具と技術があれば」
「誰に?」
「記憶院の上級術者」
私はリオラを見る。
彼女も同じことを考えたはずだ。
私の三つの空晶。
正規の銀縁。
中身だけがない。
「市場の職人では?」
私が聞く。
男が鼻で笑う。
「真似はできる。でも完璧には無理だ」
「なぜ?」
「銀縁の刻印が違う。日時、術者、立会人、保管番号。全部そろえるだけなら彫れる」
「なら?」
「銀に刻まれる圧が違う」
私は首を傾げた。
「圧?」
「正式な刻印機は文字を彫るだけじゃない。術式で銀縁の内側まで痕を入れる。偽物は表だけ」
「見分けられる?」
「専用器具があれば」
「王立記憶院には?」
「当然ある」
リオラがメモを取る。
私は別の疑問を投げた。
「記憶を切ってつなぐことは?」
男の指が止まった。
「何でそれを聞く」
「できるかどうか」
「できる」
初めて明確な答え。
「違法市場でも?」
「やる奴はいる」
「精度は?」
「ひどい」
男は笑った。
「恋人の記憶を切り貼りして、自分が愛されてたみたいに見せる程度なら騙せる奴もいる」
気持ちが悪い。
「完璧に作るのは?」
「無理だな」
「なぜ?」
「音がずれる。光が変わる。身体の位置が合わない。記憶ってのは映像だけじゃない」
男は頭を指した。
「匂い。温度。触った感覚。時間の流れ。別の記憶を無理につなげば、どこかが噛み合わなくなる」
私はマルセル殺害命令の記憶を思い出す。
薄暗い部屋。
男。
封筒。
私の声。
二度見た。
でも。
細部までは見切れていない。
「正規の記憶院なら?」
私が聞く。
男から笑いが消えた。
「何?」
「記憶院の上級術者なら、違法市場より上手くつなげられる?」
男は答えない。
リオラが言う。
「可能性の話」
「……できるだろうな」
「どこまで?」
「俺は見たことない」
そこで男は初めて視線を逸らした。
「見たことはない。だが、昔から噂はある」
「どんな噂?」
「複数の本物をつなげれば、嘘を作っても全部が偽物にはならない」
胸が冷えた。
「どういう意味?」
「例えば」
男が私の前のグラスを指す。
「お前が『殺せ』と言った記憶が本当にあるとする」
私は動きを止めた。
偶然の例だ。
たぶん。
今の事件を知っている可能性もある。
「別の日、別の相手に言った『今夜中に』って記憶もある」
男は指をずらす。
「さらに誰かへ封筒を渡した記憶」
三つの指。
「全部、本物だ」
指が一つになる。
「順番だけ変える」
私は声を失った。
リオラが静かに聞く。
「それで、存在しなかった会話が作れる?」
「理屈ではな」
男はすぐ付け足した。
「だからって何でも作れるわけじゃない。前後が合わなきゃバレる」
「何を見れば?」
私が聞いた。
「時計」
即答だった。
「窓の外。天気。服。家具。相手の利き手。火の減り方。音」
彼は机を指で叩く。
「人間の頭は、見たいものしか見ない。記憶を見せられて『こいつが犯人だ』と思えば、台詞ばかり聞く」
私の背中を冷たいものが走った。
まさに私がしたことだ。
自分が「殺して」と言う声に圧倒された。
机も。
窓も。
燭台も。
男の手も。
ほとんど見ていない。
「もう一度見ないと」
私は呟いた。
リオラが私を見る。
「何を?」
「殺害命令の記憶」
男の目が細くなる。
「面倒なものに首突っ込んでるな」
「もう突っ込まれてるの」
「違いない」
私はB区分の紙を指した。
「もう一つ。十二年前に流れた記憶。誰のものか、本当に知らない?」
「知らない」
「何個?」
男は黙る。
「これなら答えられるでしょう」
「……複数だ」
「二つ?」
「もっと」
「十六?」
男の視線がわずかに動いた。
それだけ。
リオラが私の膝を軽く蹴った。
追うな。
分かった。
「ありがとう」
私は紙をしまう。
男がこちらを見る。
「忠告しておく」
「何?」
「B区分を探るなら、違法市場の連中だけ見てても意味がない」
「どうして?」
「俺たちは盗む側だ」
その声が低くなる。
「最初から鍵を持ってる奴は、こんなところへ来ない」
*
酒場を出ると、雨はさらに強くなっていた。
軒下でリオラが深く息を吐く。
「収穫は大きい」
「証拠になる?」
「男の証言だけでは弱い」
「でしょうね」
「でも確認項目が増えた」
私は指を折った。
「B区分には二重封緘の可能性」
「正規刻印と模造刻印は内側の痕で判別できる」
「複数の本物の記憶を接続できる」
「ただし物理的矛盾が残る」
「時計、天候、服、家具、利き手、音」
リオラが頷く。
「次に殺害命令記憶を見るなら、台詞を見るのは禁止」
「自分の記憶なのに?」
「だからこそ」
私は雨を見る。
「私、最初に見たとき声しか聞いてなかった」
「仕方ないわ」
「『殺して』って自分が言ってるんだものね」
「ええ」
「でも次は違う」
あの記憶が本物なのか。
偽物なのか。
今はまだ分からない。
ただ。
初めて、偽物だった場合の作り方が見えた。
新しい魔法ではない。
特別な能力でもない。
本物の記憶を切り。
順番を変え。
存在しなかった意味を作る。
「嫌な技術ね」
「記憶印術そのものは悪くない」
リオラが言った。
「医療で救われた人もいる。冤罪が晴れた例もある」
「なら、使う人の問題?」
「制度も」
彼女は即答した。
「一部の人間だけが編集できて、一部の人間だけが原本へ触れられるなら、その権限をどう監視するかは技術とは別の問題」
私は王立記憶院の塔がある方向を見る。
建物は雨に隠れて見えない。
「オルレナ総裁?」
「まだ名前を置かない」
リオラが言う。
私は頷いた。
「そうだった」
疑う材料はある。
証拠はない。
そこを間違えない。
護衛が近づいてくる。
保護館へ戻る時間だ。
その前に私は振り返り、青瓶亭の看板を見た。
違法な市場。
他人の記憶を盗み。
売り。
加工する人間たち。
ひどい場所だと思った。
それでも。
今日知った一番恐ろしいことは、違法市場の存在ではない。
あそこの人間ですら、王立記憶院の上級術者ほど精巧には記憶を扱えないということだった。
私が戦っている相手がいるとすれば。
その人間は裏通りで偽物を作る必要がない。
正規の扉を開け。
正規の設備を使い。
正規の銀縁を刻める場所にいる可能性がある。
そして私は。
その場所へ、自分の七年間を自分の手で渡してしまったのだ。




