第8話 空の記憶晶
王立記憶院の外部保管庫は、本院よりもずっと地味だった。
高い塔も、銀色の術式もない。
灰色の石造りの建物に、鉄の扉。
入口の上に小さく《第三外部保管棟》と刻まれているだけだ。
私は九一七の鍵を握り直した。
「ここまでで結構です」
隣にいたギデオンを見る。
彼は約束どおり、保管棟の入口で足を止めた。
「護衛は外へ残す」
「はい」
「何かあれば」
「呼びます」
「……そうか」
ずいぶん言葉を飲み込むようになった。
以前なら、その飲み込まれた言葉が何だったのか知りたくなったかもしれない。
今は、それでいい。
私が一歩進んだところで、ギデオンが呼んだ。
「エステル」
振り返る。
「気をつけて」
命令ではなかった。
ただの言葉だった。
「ありがとうございます」
私は扉をくぐった。
*
受付には、眠そうな顔をした老人がいた。
私が鍵を出すと、片方の眉だけが上がる。
「九一七」
「はい」
「名義を」
「エステル・ローヴェン」
老人が台帳を開く。
指で列を追い、途中で止まった。
「旧姓か?」
「離縁前はエステル・ヴァルデンです」
「なるほど」
別の欄を見る。
「本人確認が必要だ」
「どうぞ」
王立記憶院発行の身分証。
離縁成立証明。
記憶譲渡完了証明。
昨日までなら、書類を何枚持ち歩けば私は私だと認めてもらえるのか、と嫌味の一つでも言いたくなっただろう。
今日は我慢した。
老人は銀印へ光を当て、一枚ずつ確認する。
「九一七は本人名義で間違いない」
胸が少しだけ高鳴った。
過去の私が確かにここを借りた。
「いつから?」
「三年前」
「利用履歴は?」
「本人なら閲覧できる」
差し出された台帳には、日付だけが並んでいた。
最初の利用は三年前の十一月。
青い夜会服を着て王立記憶院の慈善晩餐会へ出席した時期と近い。
それ以降も何度か。
最後は。
私は指を止めた。
「記憶売却の前日?」
「そうなっている」
背筋に冷たいものが走る。
記憶を失う前の私は、最後にここへ来ていた。
「何を預けたか記録は?」
「中身までは記録しない。本人管理だ」
「開けます」
老人は頷き、奥の扉を指した。
「九一七は地下二階」
階段を降りる。
一階。
地下一階。
地下二階。
空気が冷たくなっていく。
壁には等間隔に銀灯が埋め込まれていた。
ずらりと並ぶ小さな扉。
九百十二。
九百十三。
九百十四。
私は番号を追う。
九一七。
鍵を差し込んだ。
一度引っかかる。
少し持ち上げて回す。
かちり。
開いた。
身体が覚えていたのか。
それとも古い鍵の癖を偶然つかんだだけなのか。
もう、何でも過去の記憶の残滓にしたくはなかった。
扉の中には、小さな木箱が一つ。
封筒が一通。
それだけだった。
まず封筒を見る。
表には自分の筆跡。
《ここまで来た私へ》
「また私ね」
思わず呟く。
封はされていない。
開く。
便箋は一枚だけだった。
《鍵を見つけたなら、まだ全部は失敗していない。》
私は眉を寄せる。
全部は。
《この箱は、私が確認したものを一時的に逃がすために使った。中身を見たら、持ち出す前に必ず封緘番号を記録して。》
それだけ。
何を確認したのか。
なぜ逃がしたのか。
答えはない。
過去の私は徹底している。
未来の自分へさえ、必要以上の答えを渡していない。
私は木箱へ目を移した。
小さな留め金を外す。
中には紙束。
そして銀色の小瓶。
紙束の一番上には、番号の一覧。
意味は分からない。
人名ではない。
《B-31-044》
《B-31-051》
《B-31-063》
そのような記号が十数個。
「保管番号……?」
記憶晶のものに似ている。
でも断定できない。
私は手紙に従い、紙へ写した。
一つずつ。
その最中。
上の階から足音がした。
私は動きを止める。
足音は近づかない。
別の利用者かもしれない。
それでも昨夜のことがある。
私は急いで箱を閉じなかった。
焦って何かを壊すほうがまずい。
番号を最後まで書く。
それから銀色の小瓶を見る。
蓋には王立記憶院の封印。
《閲覧補助剤》
中身は薬液らしい。
これは今、触らない。
紙束をめくる。
数枚目。
そこに見覚えのある文字を見つけた。
《記憶晶照会申請書》
申請者。
エステル・ヴァルデン。
申請理由。
《封緘番号の連続性確認》
何の連続性?
対象欄には、さきほどの番号が並んでいる。
だが回答欄は空白だった。
代わりに、赤い印。
《照会却下》
理由。
《申請者に閲覧権限なし》
私は唇を噛んだ。
過去の私は、何かの記憶晶番号を調べようとしていた。
正式に申請し。
拒否され。
それでも番号をここへ残した。
白鐘広場と関係があるのか。
まだ分からない。
決めつけない。
私は書類を順番どおり戻した。
最後に、箱の底へ一枚の小さな紙を見つけた。
たった一行。
《自分の記憶晶も確認すること。》
私はしばらく動かなかった。
「私の?」
何を確認しろというのか。
今の私の記憶晶は、本院にある。
七年間を売ったあと、封緘された。
昨日、試験閲覧もした。
幸せだった結婚初期の記憶。
あれは確かに私の記憶だった。
少なくとも、そう感じた。
なら何を確認する?
私は保管庫を出た。
*
外へ戻ると、ギデオンは同じ場所にいた。
「長かったな」
「待たせました?」
「いや」
たぶん嘘だ。
正確には、待つのが苦手そうな顔をしていた。
「何があった?」
聞かれて、私は少し迷う。
全部話す必要はない。
でも協力すると決めた。
「過去の私から、『自分の記憶晶も確認しろ』と書き残されていました」
ギデオンの表情が変わった。
「それだけ?」
「今はそれだけ話します」
彼は数秒黙り、
「分かった」
と答えた。
「本院へ行きます」
「今から?」
「はい」
「同行しても?」
私は考える。
今回は私自身の売却記憶。
ギデオンがいることで記憶院側の対応が変わる可能性もある。
「受付まで」
「承知した」
*
本院の記憶保管窓口で事情を話すと、昨日と同じ閲覧官が出てきた。
「確認、とは?」
「私の記憶晶そのものを見たいんです」
「閲覧ではなく?」
「はい。外側を」
閲覧官は怪訝そうな顔をした。
「封緘状態の確認であれば、規定上可能です」
「全部?」
「全保管容器の外観確認はできます。ただし晶石を直接手に取ることはできません」
「それで構いません」
申請書を書く。
本人確認。
立会人。
昨日と同じ手順。
違うのは、今日は記憶を見に来たのではないこと。
私は自分の七年間がどんな石として保存されているのか、確認しに来た。
やがて保管箱が運ばれてきた。
大きい。
昨日の試験閲覧で使った箱とは違う。
銀色の縁。
三重封印。
閲覧官が台帳を開く。
「譲渡記憶、全四十二晶」
四十二。
七年間が四十二個。
妙な数字だと思った。
多いのか少ないのか分からない。
封印が外される。
蓋が開く。
銀色の結晶が整然と並んでいた。
一列目。
二列目。
三列目。
「触れずにご確認ください」
私は身を屈める。
一つずつ銀縁を見る。
抽出日時。
術者。
立会人。
保管番号。
昨日見たものと同じ。
何を探せばいい?
過去の私は、何を知っていた?
「一覧はありますか?」
「こちらに」
台帳を渡される。
私は番号と晶石を照合する。
一番。
二番。
三番。
順番に。
十二番。
十三番。
十四番。
問題ない。
二十一。
二十二。
二十三。
そこで。
「待って」
私は顔を近づけた。
二十三番目の結晶。
銀縁はある。
文字も刻まれている。
けれど。
何か違う。
昨日の晶石は、中心部に薄い揺らぎがあった。
霧のような。
光のような。
こちらにはそれがない。
ただ透明だ。
「これは?」
閲覧官が見る。
「記憶晶です」
「中に何も見えません」
「感情強度の低い記憶では――」
「ほかの低強度晶も同じ?」
閲覧官が止まった。
私は二十二番を見る。
薄い銀色の揺らぎ。
二十四番。
こちらも。
二十三番だけが、完全に透明。
「閲覧できますか?」
「申請が必要です」
「今してください」
閲覧官が少し戸惑う。
「エステル様、本日は外観確認として――」
「申請します」
自分でも声が硬くなっている。
「私の記憶です」
その言葉を口にした瞬間、契約第五条が頭をよぎった。
もう私の所有物ではない。
腹が立った。
「正確には、私から売却された記憶です。だから正式に申請します」
リオラを連れてくるべきだったかもしれない。
でも今さら戻れない。
閲覧官が手続きを始める。
二十三番の記憶晶だけが取り出された。
銀環。
立会人。
注意事項。
私は椅子へ座る。
「始めます」
光。
そして。
何もなかった。
暗闇ですらない。
映像も。
音も。
感情も。
時間の感覚すらない。
次の瞬間には、私は椅子に座ったまま閲覧官を見ていた。
「終わり?」
「……はい」
「何を見ました?」
「何も」
閲覧官の顔色が変わる。
「もう一度」
再開。
同じだった。
何もない。
完全な空白。
「記憶のない記憶晶なんてあるんですか?」
私は尋ねた。
閲覧官は答えない。
「質問しています」
「正規抽出された晶石であれば、通常はありません」
「通常は?」
「抽出失敗で空晶が生じることはあります。しかし、その場合は封緘せず破棄記録へ回されます」
「これは?」
「正式な保管番号がある」
立会人が言った。
部屋の空気が変わった。
私は銀縁を見る。
番号。
抽出日時。
術者。
立会人。
すべて刻まれている。
外側だけは完璧な記憶晶。
中身だけがない。
「ほかも確認してください」
私が言う。
全員で四十二個を調べた。
一つずつ。
外観。
透明度。
揺らぎ。
結果。
空晶は一つではなかった。
三つ。
二十三番。
三十一番。
三十八番。
すべて正式な銀縁。
正式な番号。
中身だけが空。
「抽出時の記録を」
閲覧官の声が震えていた。
職員が台帳を持ってくる。
四十二晶。
抽出完了。
異常なし。
空晶の記録はない。
私はページを見つめた。
「つまり」
声が自分でも驚くほど静かだった。
「抽出したときには中身があった?」
「記録上は」
「そして今はない?」
「……はい」
「記憶だけ抜き取れるんですか?」
「正規手順では、晶石そのものを交換するほうが現実的です」
私は顔を上げた。
「交換?」
閲覧官の喉が動く。
「中身のある正規晶を持ち出し、同じ銀縁情報を刻んだ空晶と入れ替える」
「そんなことができるのは?」
また沈黙。
私は聞き直した。
「誰です?」
「保管庫への上位権限を持ち、銀縁刻印設備へアクセスできる者」
ギデオンの言葉を思い出した。
高位機密職。
王立記憶院。
保全処置。
そして契約第八条。
《移送、分割、接続その他必要な保全処置》
「封緘記録を調べてください」
「すぐに」
閲覧官が職員へ指示する。
数分後。
別の台帳。
私の保管箱が最後に開封された記録。
昨日。
私の試験閲覧。
その前。
私は日付を見る。
記憶を売却した翌日の早朝。
「誰が?」
記録欄には署名があった。
ただし、名前ではない。
上位処理を示す印章。
《総裁権限》
王立記憶院総裁。
オルレナ・ヴェイス。
私はその名前を知識として知っている。
それだけ。
彼女が何者なのか。
なぜ私の記憶へ触れたのか。
何も分からない。
「総裁本人が開けたという意味?」
「いいえ」
閲覧官が答える。
「総裁権限で許可された、という意味です。実行者は別に記録されるはずです」
「その記録は?」
職員がページをめくる。
止まる。
もう一度戻る。
顔色が変わる。
「ありません」
「何が?」
「実行者署名が」
私は立ち上がった。
三つの空の記憶晶。
正規の銀縁。
消えた原本。
総裁権限による開封。
そして、ない実行者署名。
昨夜の侵入者の声が蘇る。
『白鐘の夜の記憶だ』
『特別保管の晶石があるはずだ』
私は机の端を掴んだ。
「誰かが」
ゆっくり言う。
「私の記憶を盗んだ?」
閲覧官は答えなかった。
答える必要もなかった。
私は銀色の空晶を見る。
記憶を失ったこと自体は、私が選んだ。
不十分な説明の中で。
それでも最後に署名したのは私だ。
けれど。
そのあとで、誰かが私の記憶を選び。
持ち出し。
偽物を戻した。
それは私が選んだことではない。
扉の向こうにギデオンがいる。
そして九一七の保管庫には、過去の私が残した番号がある。
私は初めて思った。
あの鍵は、過去の私が未来の私へ残した逃げ道ではない。
もしかすると。
誰かが私の記憶へ手を伸ばすことを、過去の私は最初から予想していたのかもしれない。




