第7話 協力するなら、条件があります
「協力するなら、条件があります」
翌朝。
ローヴェン家の応接間で、私はギデオンの前に紙を一枚置いた。
彼は紙と私を交互に見る。
「条件?」
「はい」
「読む前に一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「協力してくれるのか?」
その声には、期待より警戒があった。
少し意外だった。
もっと当然のように受け入れると思っていたのかもしれない。
「正確には、あなたの情報と権限を一部借ります」
「……厳密だな」
「元夫だから無条件で組む、では昨日までと何も変わりませんから」
ギデオンは反論しなかった。
私は紙を彼のほうへ押す。
昨夜、ほとんど眠れないまま書いたものだ。
一。
私に命令しない。
二。
許可なく身体に触れない。
三。
私が尋ねたことについて、意図的に事実を省略しない。
四。
答えられない場合は「答えられない」と明言し、その理由を可能な範囲で説明する。
五。
私の知らないところで、私に関する決定をしない。
ギデオンは最後まで黙って読んだ。
「六つ目は?」
「ありません」
「五つでいいのか?」
私は眉を上げた。
「増やしたいんですか?」
「いや」
ほんの少し間を置いて、
「もっとあると思った」
と言った。
「今後増えるかもしれません」
「承知した」
「まだ読んだだけでしょう」
「全部受け入れる」
即答だった。
私は腕を組む。
「内容を理解しています?」
「している」
「三番はかなり厳しいですよ」
「分かっている」
「国家機密を全部話せと言っているわけではありません」
「ああ」
「でも、答えられないことを、私に都合のいい形で半分だけ答えるのは禁止です」
ギデオンの顔に痛みが走った。
離縁の日のことを思い出したのだろう。
私も覚えている。
売った記憶の所有権が国へ移ると知りながら、彼は言わなかった。
「分かった」
「例えば?」
「君が尋ねた内容に機密が含まれるなら、『そこから先は答えられない』と言う」
「理由は?」
「機密指定だからなのか、捜査上の秘匿なのか、私個人の判断なのかを可能な範囲で明示する」
私は少しだけ驚いた。
「ちゃんと考えているのね」
「三日間、同じ失敗をしている」
「七年では?」
ギデオンの口が閉じた。
言ってから、少し刺しすぎたと思った。
でも撤回はしない。
「……そうだな」
彼は受け止めた。
それだけだった。
「では、私からも条件を一つ出していいか」
「内容によります」
「危険が迫っていると合理的に判断できる場合、警告はさせてほしい」
「命令ではなく?」
「警告だ」
「私が無視したら?」
ギデオンの指がわずかに動いた。
「……それでも最終的には君が決める」
言うのに苦労している。
私はそこを見逃さなかった。
「最終的には、ではなく、最初からです」
彼は私を見る。
「危険を教える。根拠を説明する。選択肢を出す。そこまでがあなた」
私は自分の胸を指した。
「選ぶのは私」
「分かった」
「では追加しましょう」
紙の余白に書く。
六。
ギデオンは危険を把握した場合、根拠と選択肢を提示できる。ただし最終決定はエステル本人が行う。
書き終える。
「これで」
「署名するか?」
「そこまで大げさなものでは」
「私には必要だ」
私は顔を上げた。
ギデオンは真面目だった。
「口約束にしたくない」
しばらく考え、私はペンを渡した。
彼が署名する。
ギデオン・ヴァルデン。
その下に私も書く。
エステル・ローヴェン。
二人の名前が並ぶ。
離縁届とは逆だった。
夫婦を終わらせるためではなく、他人として協力するための署名。
「奇妙ですね」
「何が?」
「夫婦だったときより、今のほうが決まり事が多い」
ギデオンが自嘲気味に笑った。
「夫婦だったときにも必要だったんだろう」
私は返事をしなかった。
たぶんそうだ。
愛していれば伝わる。
夫婦なら分かる。
そんなものに任せすぎた結果が、今なのだろう。
「では本題です」
私は机へ、昨夜作った記録を広げた。
襲撃者の言葉。
布片。
記憶譲渡契約。
支払通知。
九一七の鍵だけは出さない。
まだだ。
ギデオンが紙を見る。
「よく整理したな」
「褒めても何も出ません」
「褒めたかっただけだ」
「そういうのも慣れていません」
「……分かった」
引くのが早い。
少し可笑しい。
「昨日の犯人は、『白鐘の夜の記憶』を要求した」
「そうだ」
「あなたは白鐘広場について、公的記録以上に知っている」
ギデオンの目がわずかに細くなる。
「答えられる範囲で説明する」
早速、条件を使った。
「白鐘広場事件は十二年前。公式記録では、王位継承に反対する集会の一部が武装蜂起し、王国軍が鎮圧した」
「そこまでは知っています」
「機密監察局には、当時の軍記録や逮捕記録の一部が残っている」
「公式記録と違う?」
「その問いには、現時点では答えられない」
私はじっと彼を見る。
「理由は?」
「記録の一部が現在も王家機密に指定されている」
「あなた自身は見た?」
「見た」
「内容を信じています?」
今度は、すぐに答えなかった。
「……すべては信じていない」
私は背筋を伸ばした。
初めてだった。
公式記録に疑問を持っている人間が、目の前にいる。
「なぜ?」
「記録同士に矛盾がある」
「どんな?」
「それ以上は機密に触れる」
私は息を吐いた。
「ここで止まるのね」
「ああ」
苛立つ。
でも昨日までとは違う。
どこで止まり、なぜ止まるのかが分かる。
それだけで話しやすさがまるで違った。
「では質問を変えます。私が白鐘広場の記録に接触した形跡は?」
ギデオンが黙った。
嫌な沈黙ではない。
答え方を選んでいるように見える。
「私が把握している範囲では、ない」
「把握している範囲」
「監察局の正式な閲覧記録には君の名前がない」
「非公式なら?」
「分からない」
私は紙へ書く。
《監察局正式記録への接触なし》
「犯人の布片は?」
「衛兵隊と監察局で照会中だ」
「銀糸の跡は?」
「徽章を外した可能性はある。ただし制服とは限らない」
「結果はいつ?」
「早ければ明日」
「分かったら私にも?」
「ああ」
ギデオンが答えたあと、わずかに迷う。
「それで」
「何です?」
「昨日の質問をしてもいいか」
「内容によります」
「公爵邸で、何か見つけたか?」
心臓が一度だけ強く鳴った。
九一七の鍵。
私は彼を見る。
「なぜそう思うんです?」
「青い夜会服を探していた」
「それだけ?」
「君は目的なくドレスの裾をほどく人ではなかった」
過去の私を材料にされた。
一瞬、反発が湧く。
「今の私だって目的なく裾はほどきません」
「そうだな。すまない」
またすぐ引く。
私は机の上の紙へ視線を落とした。
ここで鍵を出すべきか。
条件には、私がギデオンへすべて話すとは書いていない。
私が彼を信用するには、まだ早い。
しかし。
自分だけで抱え込む。
その危険性も、私はもう分かり始めている。
昨夜襲われたばかりだ。
鍵の存在が犯人に知られている可能性もある。
黙って持ち歩くことが、本当に賢いのか。
「一つ見つけました」
私は言った。
ギデオンの表情が変わる。
「ただし、今ここであなたには渡しません」
「分かった」
「見せるだけです」
ポケットから小さな布包みを取り出す。
開く。
銀色の鍵。
《九一七》
ギデオンが息を止めた。
私はそこを見る。
「知っている?」
「鍵の形式に見覚えがある」
「どこ?」
「王立記憶院の外部保管庫で使われるものに似ている」
予想外の答えだった。
「記憶院?」
「ああ。ただし断定はできない」
「外部保管庫って?」
「本院に置けない私物、文書、閲覧補助品などを利用者が一時保管する設備だ。貸金庫に近い」
「九一七番があるか調べられる?」
「できる」
私はすぐ首を振った。
「職権では調べないで」
ギデオンが私を見る。
「なら、どうする?」
「正式な方法があります?」
少し考え、
「本人名義なら、本人確認で照会できる」
「明日行きます」
「同行しても?」
私は即答しなかった。
一緒に行けば便利だ。
危険もある。
でも、この鍵を隠した過去の私は、ギデオンに調査を話していなかった可能性がある。
少なくとも今、彼へ全部預ける必要はない。
「記憶院の入口まで」
「中には?」
「来ないでください」
ギデオンの顔に、ほんの一瞬だけ不安が浮かんだ。
「理由を聞いても?」
「自分だけで確認したいから」
「危険が――」
そこで彼は止まる。
条件六。
私は黙って待った。
ギデオンは言い直した。
「昨日襲撃があった。だから一人で行動するのは危険だと思う」
「根拠は理解しました」
「護衛をつける選択肢を勧める」
「それは受けます」
彼の肩から少し力が抜ける。
「ただし、保管庫の中へは私一人で入る」
「分かった」
成立した。
たったそれだけのことに、妙な疲労があった。
けれど。
昨日までなら、彼は「駄目だ」と言ったかもしれない。
私も意地になって、護衛すら断ったかもしれない。
こういうことなのだろう。
話すというのは。
「では明日」
私が鍵を包み直す。
ギデオンが立ち上がった。
「エステル」
「はい」
「一つ、約束してほしい」
「条件次第です」
「危険だと思ったら逃げてくれ」
私は少し考えた。
「それは命令?」
「お願いだ」
「なら努力します」
「努力」
「必ずとは言いません。状況によりますから」
ギデオンは困った顔をした。
「君は昔から――」
そこまで言って止まる。
私は待った。
彼は首を振った。
「いや。今の君に言うことではない」
「何を言おうとしたんです?」
「約束をするとき、逃げ道を残す」
私は思わず笑った。
「それは今の私にも合っていますね」
「そうだな」
ギデオンも少し笑った。
ほんの短い時間だった。
それでも、昨日見た幸福な記憶とは違った。
過去の残り香ではない。
今ここで、私とこの人が交わした会話だった。
それが少しだけ嬉しくて。
私はその感情を、すぐに名前へ変えないことにした。
机の上には署名した一枚の紙。
命令しない。
無断で触れない。
嘘をつかない。
決定を奪わない。
夫婦だったころには存在しなかった約束を、他人になった今の私たちは結んだ。
そして明日。
九一七の鍵が何を開けるのか、確かめる。
その先に何があっても。
今度は誰かに決めてもらうのではなく、私自身が見る。




