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第6話 白鐘の夜を渡せ

その夜、私は鐘の音で目を覚ました。


一度。


二度。


三度。


暗闇の中で目を開ける。


胸がひどく速く打っていた。


「……何?」


身体を起こし、耳を澄ます。


四度目。


五度目。


そこでようやく息を吐いた。


王都の時鐘だ。


夜十時を知らせている。


それだけ。


なのに、寝間着の背中には薄く汗をかいていた。


私は額を押さえた。


「鐘……」


理由が分からない。


音が怖かったのか。


それとも夢を見ていたのか。


夢の内容は覚えていない。


窓の外には雪明かり。


実家の庭。


見慣れた景色。


私はここを知っている。


結婚前まで二十三年間暮らしたローヴェン家。


安全な場所だ。


そう自分に言い聞かせ、寝台を降りた。


水差しへ手を伸ばす。


そのとき。


かすかな音がした。


かち。


扉のほう。


私は動きを止めた。


廊下ではない。


もっと近い。


扉そのもの。


鍵穴。


誰かが外から鍵を扱っている。


「……誰?」


返事はない。


私は水差しから手を離した。


寝台脇の呼び鈴へ視線を向ける。


三歩。


そこまで行けば使用人を呼べる。


扉の取っ手がゆっくり下がった。


鍵をかけたはずなのに。


私は呼び鈴へ走った。


紐を強く引く。


同時に扉が開いた。


黒い影が滑り込んでくる。


顔を布で隠している。


「誰――」


叫ぶより早く、男がこちらへ来た。


私は手近にあった燭台を掴み、振り回した。


男が腕で受ける。


火の消えた蝋燭が床へ飛んだ。


「騒ぐな」


低い声。


知らない。


「出ていって!」


もう一度燭台を振る。


今度は避けられた。


手首を掴まれる。


痛い。


「離して!」


「晶石はどこだ」


「何のこと?」


「白鐘の夜の記憶だ」


意味が分からなかった。


白鐘。


その言葉だけが、妙に頭へ引っかかった。


「知らない!」


「売却した記憶だ。どこへ隠した」


「王立記憶院でしょう!」


「嘘をつくな」


男の指に力が入る。


「特別保管の晶石があるはずだ」


「知らないと言ってるでしょう!」


廊下から足音。


「エステル様!」


呼び鈴に気づいた。


男も聞いた。


私の手首を放し、窓へ向かう。


「待て!」


廊下から父の声。


扉が大きく開いた。


その瞬間、男は窓を蹴り開けた。


冷気が吹き込む。


「逃がすな!」


父と二人の使用人が飛び込んでくる。


男は窓枠へ足をかけた。


私は反射的に追おうとして――止まった。


二階だ。


その一瞬の判断の間に、男は外へ消えた。


庭で鈍い音。


すぐに走る音が遠ざかる。


「エステル!」


父が私の肩へ手を伸ばし、途中で止めた。


「怪我は?」


「手首だけ」


赤くなっている。


父の顔が変わった。


「衛兵を呼べ。門を閉じろ!」


使用人が走る。


私は開いた窓を見る。


雪が部屋へ吹き込んでいた。


床には泥。


男の足跡。


そして。


「触らないで」


窓へ向かおうとした父を止める。


「何だ?」


「足跡を残して」


私は燭台を拾う。


手が震えていた。


怖かった。


今になって、膝まで震えている。


でも、見なければ。


男は何をした。


どこへ立った。


何を触った。


窓。


床。


扉。


「鍵を開けて入ってきた」


「合鍵か?」


「分からない。でも扉を壊してはいない」


父が扉を見る。


「この部屋の鍵を持っているのは?」


「私と家政婦長だけのはずだ」


「なら鍵を持っていたか、開けられる人間」


私は床へ目を落とす。


男が立っていた場所に、小さなものが落ちていた。


紙。


いや。


薄い布片。


父が拾おうとする。


「待って」


今度も止めた。


「衛兵が来てから」


父が私を見る。


「お前、こんなときまで」


「こんなときだからよ」


声が震える。


格好よくはなかった。


それでも言った。


「私が怖かったことと、証拠を壊していいことは別でしょう」


父は数秒私を見つめ、


「……そうだな」


と答えた。



王都衛兵隊が来るまで二十分ほどかかった。


その間、私は別室へ移された。


母に手首を冷やされながら、同じ質問を三度された。


怪我は。


顔は見たか。


声に覚えは。


全部同じ答え。


軽傷。


見ていない。


知らない。


そして。


「何を要求された?」


衛兵隊の記録官が尋ねた。


私は答えた。


「『白鐘の夜の記憶』です」


記録官のペンが止まった。


ほんの一瞬。


「ご存じですか?」


私が聞く。


「いいえ」


「今、止まりましたね」


「白鐘という言葉から、白鐘広場を連想しただけです」


白鐘広場。


知っている。


十二年前の騒乱。


武装した反乱者が王国軍を襲撃し、多数の死者が出た事件。


それ以上でも以下でもない。


「犯人は『白鐘広場』とは言っていません」


「承知しております」


記録官は淡々と書く。


私はそれ以上追及しなかった。


今は同じ言葉を聞いて、同じものを連想しただけかもしれない。


「もう一つ」


「はい」


「『特別保管の晶石があるはずだ』と言いました」


「特別保管?」


「ええ」


記録官が書き留める。


「エステル様は、そのような記憶晶をご存じですか?」


「知りません」


「記憶売却前には?」


「それを覚えていないから困っているんです」


少し刺々しくなった。


記録官は気を悪くした様子もなく頷いた。


「失礼しました」


「いえ。私もすみません」


疲れている。


怖い。


そして腹が立っている。


誰かが、私の失った記憶について私より詳しい。


それが何より不快だった。


扉の外が騒がしくなる。


男の声。


父の声。


聞き覚えは――ない。


けれど身体が先に緊張した。


「まさか」


扉が開いた。


ギデオンだった。


外套に雪をつけたまま立っている。


いつもの整った姿ではない。


髪も少し乱れていた。


私を見つけた瞬間、顔から血の気が引く。


「エステル」


彼がこちらへ来る。


二歩。


三歩。


そして私の手首の布を見た。


足が止まった。


「触れても?」


私は一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。


彼の視線で気づく。


手首。


「駄目です」


「分かった」


即座に手が下がった。


「怪我は?」


「軽いものです」


「医師は?」


「診てもらいました」


「ほかには?」


「ありません」


ギデオンが目を閉じる。


大きく息を吐いた。


安心したのだろう。


その姿を見て、昨日の記憶が勝手に浮かんだ。


雨。


暖炉。


甘い飲み物。


私はそれを頭から追い出した。


今は今だ。


「どうして知ったんです?」


「衛兵隊から監察局へ連絡が入った」


「なぜ監察局に?」


「侵入者が記憶晶を要求したと報告されたからだ」


筋は通る。


少なくとも今のところ。


ギデオンが記録官を見る。


「犯人の言葉を正確に」


命令する声だった。


昨日まで私へ向けていた声とは違う。


記録官が姿勢を正す。


「『晶石はどこだ』『白鐘の夜の記憶だ』『特別保管の晶石があるはずだ』と」


ギデオンの表情が変わった。


わずかだった。


でも見えた。


「知っているんですね」


私は言った。


彼は私を見る。


「何を?」


「白鐘の夜」


沈黙。


胸の奥が冷える。


「知らないとは言わないんですね」


「言葉そのものには心当たりがない」


「その言い方」


私は立ち上がった。


「またです」


「エステル」


「質問された範囲だけ答える」


部屋の空気が張り詰める。


父が口を挟もうとしたが、母が腕を掴んで止めた。


「あなたは白鐘広場について何か知っている?」


「公的記録以上には知っている」


「私と関係がある?」


「分からない」


「本当に?」


「本当に分からない」


彼はまっすぐ私を見る。


「少なくとも、君が『白鐘の夜』という名の記憶を持っていたことは知らなかった」


「では、何に反応したの?」


ギデオンは少し黙った。


「特別保管だ」


「なぜ?」


「通常の縁切り売却で、譲渡人が特定の記憶晶を別に保管することはない」


昨日見つけた契約条項が頭をよぎる。


抽出された記憶は国の所有。


王立記憶院が管理する。


「つまり犯人は、通常ではない保管方法を知っている?」


「その可能性がある」


初めて。


ギデオンが私と同じ場所に立って、同じ疑問を口にした気がした。


けれど次の言葉で、それは消えた。


「今夜から君をヴァルデン邸へ移す」


私は彼を見た。


「嫌です」


「ここは侵入された」


「だから?」


「公爵邸の警備なら――」


「嫌です」


二度目は、はっきり言った。


ギデオンが黙る。


「私はもうあなたの妻ではありません」


「分かっている」


「では、私の住む場所を決めないで」


「命を狙われた可能性がある」


「それでもです」


「エステル」


「それでも」


私は彼を見る。


怖くないわけではない。


さっきまで震えていた。


今夜また誰かが来るかもしれないと思えば、眠れる自信もない。


公爵邸のほうが安全なのだろう。


たぶん。


それでも。


「安全な選択を提示することと、それを私の代わりに決定することは違います」


ギデオンの顔が強張った。


離縁の日にも。


私は似たようなことを言ったのだろうか。


覚えているのは出来事だけで、彼を愛していた感情はもうない。


「……その通りだ」


彼が言った。


私は少し驚いた。


反論されると思っていた。


ギデオンは一度目を閉じる。


そして、言い直した。


「ここは一度侵入されている。警備方法も破られた。今夜だけでも、より安全な場所へ移ることを勧めたい」


「候補は?」


「ヴァルデン邸。監察局の保護施設。王城内の客室」


「ほかには?」


「この屋敷の警備を増員する」


「それも選べる?」


「ああ」


私は父を見る。


「迷惑?」


「娘が自分の家にいるのを迷惑だと言う父親に見えるか?」


「時々」


「お前は記憶を失っても可愛げがないな」


母が小さく笑った。


私も少し笑う。


張り詰めていたものが緩んだ。


「では、ここに残ります」


ギデオンの顎に力が入った。


反対したいのだろう。


それでも彼は言った。


「分かった」


「監察局の警備を借りても?」


「もちろんだ」


「それはお願いします」


「十二名置く」


「多すぎます」


「では八名」


「市場の値切りみたいに言わないで」


父が吹き出した。


ギデオンまで、ほんの少し口元を緩める。


「六名」


「最初からその人数で考えていたでしょう」


「……否定はしない」


「ずるい人」


口から自然に出た。


その瞬間。


ギデオンの表情が止まった。


私も止まる。


何か。


以前にも。


そう呼んだことがあるのだろうか。


分からない。


聞かないことにした。


今の私は、今そう思っただけだ。


「六名で」


「ああ」


話が終わりかけたとき、衛兵が入ってきた。


「失礼します。侵入者が落としたと思われる布片を確認しました」


小さな証拠袋が机へ置かれる。


黒い布。


端に銀色の糸。


「制服?」


父が聞く。


「現時点では不明です」


私は袋へ顔を近づけた。


布の隅に、小さな穴が二つ並んでいる。


何かを縫いつけていた跡。


徽章?


ボタン?


「持ち帰るの?」


私が尋ねる。


「衛兵隊で保管します」


「記録をください」


「もちろんです」


ギデオンが私を見る。


「何か気づいたか?」


「いいえ」


私は正直に答えた。


「だから記録するんです」


分からないものを、分からないまま残す。


後で意味が出るかもしれない。


出ないかもしれない。


それでいい。



深夜。


警備が配置されたあとも、私は眠れなかった。


机に座り、紙を広げる。


これまでに分かったことを書く。


《記憶譲渡金に内訳がない》


《契約の保全処置権限が広い》


《侵入者は「白鐘の夜の記憶」を要求》


《「特別保管の晶石」が存在すると考えていた》


《黒い布片。銀糸。徽章か何かを外した跡》


そして。


公爵邸で見つけた銀色の鍵を机へ置く。


《九一七》


何を開けるのかは、まだ分からない。


この鍵と今夜の襲撃に関係があるのかも分からない。


無理につなげない。


私は別の紙を取り出した。


過去の自分からの手紙。


何度読んでも、核心は書かれていない。


ただ一つ。


ギデオンを、夫だったという理由だけで信じるな。


「分かってる」


私は呟いた。


でも今夜、別のことも分かった。


夫だったという理由だけで疑うのも、同じくらい危険だ。


ギデオンは何かを隠している。


それは確かだ。


一方で、侵入者については本当に知らないようにも見えた。


見えただけ。


まだ決めない。


窓の外で鐘が鳴った。


一度。


身体が硬くなる。


二度。


私は机の端を握った。


三度。


今度は逃げずに聞いた。


鐘はそのまま続いた。


十二回。


ただの時鐘。


それなのに「白鐘の夜」という言葉を聞いてから、三度目までを数えてしまう。


私は紙の一番下へ書いた。


《なぜ私は鐘を怖がる?》


記憶を失う前からなのか。


抽出の影響なのか。


それとも今夜の襲撃で、ただ神経質になっているだけなのか。


答えはない。


そしてもう一つ。


《白鐘の夜とは、いつの夜?》


侵入者は、私がその記憶を持っていたと信じていた。


だとすれば。


失う前の私は、私自身が思っていた以上に危険な何かを知っていたのかもしれない。


私は九一七の鍵を握った。


過去の私が残した、まだ何も語らない小さな金属片。


今夜、初めて確信したことがある。


私が失った七年間には――誰かが、今も恐れている記憶がある。

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