第5話 幸せだった証拠
「閲覧する記憶を選んでください」
王立記憶院の閲覧官にそう言われて、私は目の前に並んだ六枚の札を見た。
《婚姻初期・日常》
《婚姻初期・社交》
《婚姻中期・日常》
《婚姻中期・公務随伴》
《婚姻後期・日常》
《婚姻後期・社交》
七年間を六つに分けると、ずいぶん簡単に見える。
「この札一枚につき、一つの記憶晶?」
「いいえ」
閲覧官は首を振った。
「大分類です。本日は試験閲覧ですので、そこからさらに一件を指定していただきます」
「全部見ることは?」
「制度上は申請できます。ただし、お勧めしません」
隣に座るリオラが腕を組んだ。
「理由は?」
「短期間に大量の自己記憶を外部閲覧すると、現在の記憶との混同を起こす場合があります」
閲覧官は淡々と説明する。
「自分が現在経験した出来事なのか、記憶晶を通して過去の自分が経験した出来事なのか、区別が曖昧になる症例があります。特に感情の強い記憶では顕著です」
私は六枚の札を見直した。
昨日まで自分の中にあった記憶。
それなのに今は、見るために国へ申請し、閲覧官に選んでもらわなければならない。
第五条。
所有権は国へ帰属する。
契約書の一文が頭をよぎった。
「変な話ですね」
「何が?」
リオラが尋ねる。
「私の思い出なのに、見すぎないほうがいいと言われるなんて」
「だから私は記憶売却制度が嫌いなのよ」
閲覧官がわずかに視線を上げた。
「ハート弁護人」
「あなたを責めているわけではありません」
「存じております」
慣れているらしい。
私は札へ視線を戻した。
今日ここへ来た目的は、契約書の異常を調べることではない。
王立記憶院への正式照会は、リオラが昨日提出した。
回答には数日かかる。
それまで何もしないのも落ち着かなかった。
そして何より。
私は一度、自分が売ったものを見てみたかった。
ギデオン・ヴァルデン。
夫だった男。
彼を知らないまま疑い続けるのも、過去に愛していたからと信用するのも、どちらも違う気がした。
ならば過去を証拠の一つとして見る。
それだけだ。
「婚姻初期の日常を」
私が言うと、リオラがこちらを見た。
「いいの?」
「後期から見る勇気はまだないわ」
「それはそうね」
「それに」
私は札を一枚取った。
「最初から壊れていたのかどうかは、少し気になる」
閲覧官は札を受け取った。
奥の保管室へ入る。
しばらくして、銀色の小箱を持って戻ってきた。
箱には三つの封印がある。
王立記憶院。
記憶法院。
そして私自身の署名印。
閲覧官が番号を読み上げた。
立会人が台帳と照合する。
一つずつ封を確認してから、ようやく蓋が開いた。
中には親指の先ほどの銀色の結晶が並んでいた。
私の七年間の、ごく一部。
「試験閲覧には、感情負荷が比較的低いものを選びます」
「内容は?」
「閲覧官は内容を確認しておりません。抽出時に記録された感情強度と時間情報のみで選定します」
「では、それで」
一つの結晶が取り出される。
銀縁には細かな文字が刻まれていた。
抽出日時。
術者名。
立会人。
保管番号。
私は無意識に身を乗り出した。
「どうしました?」
リオラが聞く。
「いいえ」
何となく見ただけだ。
番号に異常があるわけでもない。
ただ、昨日から契約書ばかり見ていたせいか、こういう刻印まで気になるようになった。
「始めます」
閲覧用の銀環が額の前へ下ろされる。
抽出のときとは違い、肌には触れない。
「注意事項を。これは現在のあなたではなく、過去のあなたが経験した主観記憶です」
「はい」
「映っているものが客観的事実とは限りません」
「はい」
「強い感情を覚えた場合は手を上げてください。即座に中止します」
私は息を吐いた。
「お願いします」
銀環が淡く光った。
世界が揺れる。
*
雨が降っている。
そう思った。
窓を叩く音。
暖炉の火。
私は――いや、過去の私は長椅子に座っていた。
膝の上には本がある。
視界の端に男がいた。
ギデオン。
今より少し若い。
黒い髪も、難しそうな顔も変わらない。
けれど服装が違う。
上着を脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっている。
妙に無防備だった。
『まだ読むのか』
彼が言う。
私の口が勝手に答える。
『あと三頁』
『十分前にもそう言った』
『そのときはあと十二頁だったの』
『減ってはいるのか』
『着実に』
ギデオンがため息をつく。
その手には二つのカップ。
片方がこちらへ差し出された。
私は受け取る。
温かい。
味まで分かる。
蜂蜜。
少し多い。
『甘い』
『そうか?』
『また蜂蜜を二杯入れたでしょう』
『一杯だ』
『その匙、大きいのよ』
過去の私が笑う。
その笑い声を聞いて、現在の私は息を止めた。
楽しそうだった。
演技には聞こえない。
ギデオンも笑っている。
大きな笑いではない。
口元が少し緩むだけ。
でも私は――過去の私は、その変化を見てさらに嬉しくなっている。
感情まで流れ込んでくる。
好き。
この人が好き。
ただ同じ部屋にいるだけで安心する。
仕事から帰ってきたことが嬉しい。
雨が強くても。
外へ出られなくても。
この部屋に二人なら、それでいい。
あまりにも素直な幸福だった。
胸が痛い。
現在の私の胸が。
『エステル』
ギデオンが呼ぶ。
その次に続いた音だけが、妙に柔らかかった。
愛称。
聞こえた瞬間。
私は手を上げた。
*
光が消える。
「停止しました」
閲覧官の声。
私は大きく息を吸った。
手が震えている。
「水を」
リオラが言う。
「大丈夫」
「大丈夫な人の手じゃない」
「……それはそうね」
差し出された水を飲む。
冷たい。
今の水だ。
さっきの蜂蜜入りの飲み物ではない。
私は二口飲んでから、ようやく息を整えた。
「愛称が出たから止めた?」
リオラが聞いた。
「ええ」
「聞きたくなかった?」
「分からない」
私は正直に答えた。
嫌だったわけではない。
むしろ逆だった。
聞いた瞬間、身体の奥がその呼び方を知っていた。
嬉しいと感じそうになった。
だから怖かった。
「……幸せだったのね」
言葉にすると、思っていたより重かった。
リオラは何も言わない。
「少なくとも、あの瞬間の私は」
「そうね」
「ギデオンも楽しそうだった」
「記憶の中では」
私は彼女を見る。
リオラは肩をすくめた。
「あなたが今、自分で決めたルールでしょう。記憶は主観。見えたもの以上のことは決めない」
「厳しい先生」
「金貨二千四百枚持ってる依頼人には特にね」
少し笑えた。
ありがたい。
私はもう一度水を飲んだ。
あの記憶を見て、ギデオンに会いたいと思ったか。
少し考える。
会いたい。
――ような気もする。
でも、それは私の気持ちなのか。
あの記憶の余韻なのか。
今は区別できない。
だから動かない。
「もう一度見る?」
閲覧官が尋ねた。
私は銀色の結晶を見る。
「今日はやめます」
「賢明かと」
結晶が箱へ戻される。
封が閉じられる。
私はそれを見届けた。
自分の幸福が箱へしまわれていく。
妙な光景だった。
*
記憶院を出ると、雪はやんでいた。
リオラと並んで正面階段を下りる。
「後悔してる?」
「見たことを?」
「ええ」
私は考えた。
「してない」
「ならよかった」
「でも、少し困った」
「何が?」
「もっと嫌な夫なら簡単だったのに」
リオラが吹き出した。
「それ、本人に言わないほうがいいわよ」
「言わない」
「昔のあなたも、似たようなことを言ってたけど」
私は足を止めた。
リオラも止まる。
「今のは?」
「あ」
彼女が口を押さえた。
「誘導?」
「危ないところだった」
「もう言ったわよ」
「忘れて」
「記憶を売ったばかりの人間に、その冗談はどうなの?」
二人で笑った。
少しだけ気持ちが軽くなる。
階段を降り切ったところで、一台の黒い馬車が目に入った。
ヴァルデン公爵家の紋章。
胸が跳ねる。
さっきの記憶のせいだ。
そう決めつけそうになって、やめた。
馬車のそばにギデオンはいない。
御者だけだ。
「迎え?」
リオラが眉をひそめる。
「頼んでない」
御者が私たちに気づき、帽子を取った。
「エステル様」
「公爵から?」
「はい。雪で路面が悪いため、もしお困りでしたらお使いいただくようにと」
私は馬車を見る。
「私が今日ここへ来ると、どうして知っていたの?」
御者が固まった。
「それは……」
リオラが私を見る。
私はため息をついた。
また先回り。
昨日、ほんの少し変わったと思ったのに。
「公爵は?」
「記憶院の別棟にいらっしゃいます」
「呼んでください」
「エステル」
リオラが小声で言う。
「怒鳴らないわよ」
「そこは心配してない。雪の中で長話しないでね」
数分後。
ギデオンが正面玄関から出てきた。
私を見つけた瞬間、歩調が速くなる。
けれど数歩手前で速度を落とした。
「どうした?」
私は馬車を指した。
「これは?」
「路面が凍っている」
「それは見れば分かります」
「君が記憶院へ来ると聞いたから、念のため――」
「誰から?」
ギデオンが止まる。
「閲覧申請の処理過程で名前を見た」
私は目を細めた。
「職務上?」
「……ああ」
「私が何を閲覧したかも?」
「見ていない」
「見られる?」
沈黙。
答えは分かった。
「権限上は」
「見ないでください」
「分かった」
「それから、迎えも頼んでいません」
「雪が――」
「心配した?」
「ああ」
その答えだけはまっすぐだった。
私は少し言葉に詰まる。
さっき見た男が重なる。
蜂蜜を入れすぎた飲み物を持ってきた人。
同じ男だ。
だからこそ。
「心配することと、私の予定を知る権限があることは別です」
ギデオンの表情が固まった。
「……その通りだ」
「職務で偶然知ったとしても、それを私生活に使わないで」
「分かった」
「馬車は?」
彼は少し迷った。
「使わなくていい」
「違います」
「……?」
「私は馬車そのものを怒っているわけではありません」
ギデオンが黙る。
「乗るかどうか、聞いてください」
彼の目がわずかに見開かれた。
長い沈黙のあと。
「エステル」
「はい」
「路面が悪い。よければ、この馬車を使うか?」
私は馬車を見る。
それからリオラを見る。
「先生?」
「寒いから乗りたい」
即答だった。
私は笑った。
「では、お借りします」
ギデオンの肩から、わずかに力が抜けた。
「分かった」
「ありがとうございます」
私たちは馬車へ向かう。
扉の前で、私は振り返った。
聞くつもりはなかった。
でも口から出た。
「ヴァルデン公爵」
「何だ」
「あなた、蜂蜜は好きですか?」
ギデオンが完全に動きを止めた。
その顔を見て、聞かなければよかったと思った。
「……好きではない」
「え?」
「どちらかといえば苦手だ」
予想外の答えだった。
「では、飲み物には?」
「入れない」
私は眉を寄せる。
記憶の中では。
『また蜂蜜を二杯入れたでしょう』
あれは彼自身の飲み物ではなかった。
私に持ってきたものだ。
「君は」
ギデオンが言いかけて、止まる。
「何です?」
「言っていいか?」
私は少し迷ってから頷いた。
「どうぞ」
「君は甘いものが好きだった」
胸の奥が静かに揺れた。
「そう」
「特に冬は、飲み物に蜂蜜を入れていた」
「一杯?」
彼の口元が、ごくわずかに緩む。
「私が入れると、匙が大きすぎると言われた」
記憶と一致した。
私は思わず笑いそうになった。
けれど、その直後。
別のことに気づく。
「あなたは、どの記憶を見たか聞かないんですね」
「聞かない」
「気にならない?」
「なる」
「なら、なぜ?」
ギデオンは少し考えた。
「君が見たものを、君が私に話すかどうかは、君が決めることだから」
私は答えられなかった。
三日前なら。
この人はきっと、違う答えをしたのだろう。
そう思うのも推測だ。
だから私は何も言わず、馬車へ乗った。
扉が閉まる。
窓の外で、ギデオンが一歩下がる。
追ってこない。
リオラが向かいに座った。
「で?」
「何?」
「どんな記憶だったの?」
「弁護士には守秘義務がある?」
「友人にもあるわよ。たぶん」
私は窓の外を見た。
ギデオンの姿が遠ざかる。
「幸せだった」
それだけ答えた。
「すごく普通に」
雨の日に。
同じ部屋で。
本を読んで。
甘すぎる飲み物に文句を言って。
笑っていた。
劇的な愛ではない。
だからこそ、胸に残った。
私は確かに、あの人を愛していた。
あの人も、少なくともあの瞬間には私を大切にしていたように見えた。
それは否定しない。
否定する必要もない。
でも。
私は自分の手を見た。
あの幸福を経験した手。
今は覚えていない。
過去の私が幸せだったことは、証拠になった。
それだけだ。
幸せだった結婚が、その後も正しい結婚だった証拠にはならない。
まして。
今の私が、もう一度あの人を選ばなければならない理由にはならない。




