第4話 七年分の値段
七年間の結婚生活には、値段がつくらしい。
王立記憶院から届いた支払通知書を見ながら、私はしばらく瞬きをした。
「……こんなに?」
ローヴェン家の客間。
実家へ戻って三日目の朝だった。
窓の外では、屋根に積もった雪が朝日を受けて眩しく光っている。
私の前には三通の封書が置かれていた。
離縁成立証明。
記憶譲渡完了証明。
そして、国庫局からの記憶譲渡金支払通知。
最後の一枚に記された金額だけが、妙に現実離れしていた。
金貨二千四百枚。
一般家庭なら何十年も暮らせる額だ。
「感情が鮮明な記憶ほど高値になる、とは聞いていたけれど」
私は数字を指でなぞった。
夫婦生活七年分。
しかも相手は王国機密監察局長官。
日常的な結婚生活に加え、私が知らず知らず接した国家機密まで含まれている。
高額になる理由は分かる。
理屈では。
「妻を七年間やった報酬にしては、後払いが過ぎるわね」
向かいで紅茶を飲んでいたリオラが、危うくむせた。
「朝からそういう言い方をしないで」
「でも事実でしょう?」
「事実を口にすれば上品になるわけじゃないのよ」
赤褐色の短い髪を耳へかけながら、リオラ・ハートは通知書を受け取った。
私の友人。
そして記憶権を専門とする弁護人。
彼女のことを覚えているというだけで、この三日間、ずいぶん救われていた。
昔の自分との接点が、すべて消えたわけではない。
「二千四百……」
リオラの表情が変わった。
「やっぱり多い?」
「多い。でも、高位機密職の配偶者ならあり得ない額ではない」
「なら何?」
「内訳がない」
私は身を乗り出した。
「内訳?」
「通常の記憶売却なら、対象区分ごとの評価額が出るの」
リオラは紙を机へ置き、指先で空白を示した。
「例えば、専門技能。希少体験。感情記憶。機密指定記憶。縁切り売却の場合はもっと細かい。どの範囲をどの法的根拠で抽出したか、少なくとも分類は記載される」
「ここには?」
「総額しかない」
私は通知書を見直した。
確かに。
《記憶譲渡金 金貨二千四百枚》
それだけだ。
「単なる書式違いでは?」
「可能性はある」
リオラは即答した。
そこが彼女の好きなところだった。
怪しいものを見つけても、すぐ陰謀にしない。
「ただ、確認する価値はある」
「どうすれば?」
「契約書の写しを」
私は三通とは別に保管していた封筒を取り出した。
王立記憶院で署名した記憶譲渡書の控え。
あの日は文字を追うだけで精いっぱいだった。
夫から離縁を告げられ。
七年を手放すと決め。
その日のうちに抽出を受けた。
読む時間はあった。
けれど、理解する時間があったかと言われれば自信がない。
リオラは眼鏡をかけた。
「最初から読むわよ」
「お願いします、先生」
「友人料金でも高いわよ」
「金貨二千四百枚もらったばかりなので」
「嫌な金持ちになったわね」
少し笑う。
こういう会話がありがたかった。
自分が誰だったのか。
夫をどれだけ愛していたのか。
何を失ったのか。
そればかり考えていると、頭の中にない七年間のほうが、今ここにある人生より大きくなってしまう。
リオラが書面を読み始める。
私も横から追った。
譲渡人。
対象者。
離縁成立条件。
抽出範囲。
保管。
再閲覧。
返還。
どれも堅苦しい文章だ。
「ここ」
数分後、リオラが止まった。
第五条。
《本譲渡によって抽出された記憶群に係る所有権、複製権、保全処置権その他一切の管理権限は、譲渡完了をもってアーデル王国に帰属する》
私は読み直した。
「所有権」
「ええ」
「昨日まで私の頭にあったものの?」
「法律上はそうなる」
「保存を任せる、ではなく?」
「違う」
リオラの声が低くなる。
「売却だから」
言葉の意味が、今さら胸へ落ちてきた。
私は記憶を預けたのではない。
売った。
だから金が支払われた。
当たり前だ。
それなのに。
「つまり」
私は慎重に言葉を選ぶ。
「国が持ち主になる?」
「この契約上は」
「私が返してと言っても?」
「所有権だけを見るなら、国に返還義務はない」
私は黙った。
暖炉の薪が崩れた。
小さな火の粉が舞う。
「説明を受けた覚えがないわ」
「覚えがないのではなく、説明を受けた記憶まで売った可能性は?」
「それはない」
私は首を振った。
「抽出室へ入る前のことは覚えている。契約書を渡されたときも。ギデオンと話したことも」
愛していた感覚はない。
けれど、署名へ至る出来事は残されている。
離縁そのものの意思確認まで消してしまえば、契約の正当性を後から検証できなくなるためだと、立会人から説明されていた。
「所有権についての説明は?」
「ない」
「本当に?」
リオラが私を見る。
私は少し腹が立った。
だが、その問いは必要だ。
「……待って」
目を閉じる。
あの日の机。
二枚の書類。
ギデオン。
私は質問した。
売った記憶はどうなるのか。
王立記憶院の保管庫に封緘される。
誰が見られるのか。
原則として誰も。
王令か、記憶法院の許可が必要。
そして私は――
目を開けた。
「聞いていない」
「国へ所有権が移ることを?」
「ええ」
「ギデオンにも?」
「私は『売った記憶はどうなるの』と聞いた。彼は『保管庫に封緘される』と答えた」
リオラが眼鏡を外した。
「なるほど」
「何?」
「嘘ではない」
胸の奥が冷える。
「でも、全部でもない」
「そう」
その形を私は知っている。
少なくとも、離縁の日だけで十分に知った。
質問されたことには答える。
けれど、自分が重要ではないと判断したことは言わない。
「彼は知っていたと思う?」
「高位機密職の長官が縁切り売却制度を知らないとは考えにくい」
「それは推測ね」
「ええ」
リオラは書面を指で叩いた。
「だから確認する」
私は少しだけ笑った。
「あなた、昔の私にもそう言っていた?」
リオラの指が止まった。
ほんの一瞬。
「何を?」
「推測と証拠を分けろって」
「……何度も」
「私、そんなに決めつける人だった?」
「気になることがあると、答えが出る前に頭の中で三つくらい筋書きを作る人だった」
「嫌な癖」
「今もあるみたいだけど?」
「記憶を売っても直らないものね」
二人で小さく笑った。
けれど、リオラの一瞬の間が引っかかった。
過去の私。
リオラ。
その間に、私の知らない何かがある。
問い詰めてもいい。
けれど今は、契約だ。
一度に全部を疑えば、何も見えなくなる。
「ほかにもある?」
私は尋ねた。
リオラは再び眼鏡をかけた。
「第八条」
《譲渡記憶の保全上必要と認められる場合、王立記憶院は譲渡人への事前通知なく、記憶晶の移送、分割、接続その他必要な保全処置を行うことができる》
「接続?」
私はその一語を指した。
「どういう意味?」
「通常は、連続する記憶が複数の晶石へ分かれた場合に、閲覧しやすいよう順序を整理する処置」
「中身を変える?」
「建前では変えない」
「建前」
「記憶は主観だから、順序を変えるだけでも受け取る印象が変わることはある」
私は文章をもう一度読む。
分割。
接続。
事前通知なし。
「これも普通?」
「縁切り売却の契約としては、広い」
「違法?」
「そこまでは言えない」
「不自然?」
「かなり」
リオラの答えが短くなった。
「特に『その他必要な保全処置』。範囲が曖昧すぎる」
私は椅子へ深く座り直した。
「署名したのは私よ」
「そうね」
「読めた」
「ええ」
「なら私の責任でもある」
リオラは黙った。
慰めてはくれなかった。
それでよかった。
私は書類を読むことができる。
理解できないところを質問することもできた。
時間がないと言われても、署名しない選択肢は形式上あった。
それでも私は署名した。
ただし。
「情報を与えないで署名させることと、手を押さえて署名させることは同じではない」
リオラが言った。
「でも、どちらも『署名があるから全部問題ない』では済まない」
「不完全な同意?」
「私はそう見る」
私は契約書の署名欄を見た。
自分の筆跡。
確かに私が書いた。
だからこそ厄介だ。
奪われたのなら怒ればいい。
偽造なら否定すればいい。
でも私は自分で選んだ。
足りない材料を渡されたまま。
「ギデオンに聞きたい」
口にすると、リオラが私を見る。
「会う?」
「会いたいわけではない」
「細かい」
「大事よ」
私は書類をまとめた。
「彼がこの条項を知っていたか確認する」
「私も同席する?」
少し考える。
「いいえ」
「大丈夫?」
「何が?」
「以前のあなたなら、あの男と二人になると――」
リオラが止まった。
私も彼女を見る。
「続けて」
「やめる」
「どうして?」
「今のあなたに、昔のあなたの反応を予告することになるから」
私はしばらく彼女を見た。
それから笑った。
「ありがとう」
過去を知る人間は、善意だけでも私を誘導できる。
ギデオンだけではない。
リオラも。
家族も。
使用人も。
だからこそ、今の私は自分で確かめなければならない。
*
ヴァルデン公爵邸へ使いを出す必要はなかった。
昼過ぎ。
ギデオン本人がローヴェン家を訪れた。
「何の用です?」
応接間へ入ってきた彼に尋ねる。
「君の荷物の中に、公爵家の封印文書が一冊混じっていた」
「それを届けに?」
「ああ」
彼は革張りの冊子を机へ置いた。
そして私を見る。
「ほかに用はない。帰る」
本当に踵を返したので、私は慌てて呼び止めた。
「待って」
ギデオンが止まる。
「少し話があります」
「いいのか?」
「私から呼び止めています」
「……そうだな」
彼は向かいの椅子へ座った。
以前ならどこに座っていたのだろう。
私の隣か。
もっと近くか。
考えそうになってやめた。
今は関係ない。
私は記憶譲渡書を机へ置いた。
「この第五条を知っていましたか?」
ギデオンは一読しただけだった。
表情は変わらない。
「知っていた」
胸の奥に、冷たい針が刺さる。
「私の記憶の所有権が国へ移ることも?」
「ああ」
「なぜ言わなかったんです?」
沈黙。
私は待った。
「君は、記憶が封緘されるかと聞いた」
「ええ」
「私はそう答えた」
「質問にだけ答えた?」
「……そうだ」
「所有権の話をしたら、私が署名しないかもしれないと思った?」
ギデオンがこちらを見る。
今度の沈黙は長かった。
「思った」
怒りより先に、奇妙な納得が来た。
やっぱり。
私は息を吐く。
「つまり、意図的に言わなかった」
「そうだ」
「私のため?」
彼の眉がわずかに動く。
「その答えなら聞きたくありません」
先に言った。
ギデオンが口を閉じる。
「守りたかった。危険だった。事情があった。たぶん全部、本当なのでしょう」
私は契約書を指した。
「でも、それでこれが消えるわけじゃない」
「分かっている」
「いいえ。これから分かってください」
少し声が震えた。
私は一度だけ息を整える。
「あなたは、私が何を知ればどう選ぶかを予想した。そして、自分が望む選択をさせるために情報を減らした」
ギデオンの顔が青ざめる。
「……ああ」
「それを私は同意とは呼びたくない」
「その通りだ」
反論されなかった。
謝罪もすぐには来なかった。
そのことだけは、少し救いだった。
簡単に「すまなかった」と言われれば、もっと腹が立っていたと思う。
私は第八条を示した。
「これは?」
ギデオンの視線が落ちる。
「記憶院の保全処置権限だ」
「接続まで認めている」
「ああ」
「普通?」
「以前の書式より範囲が広い」
私は顔を上げた。
「以前?」
ギデオンも気づいたらしい。
「職務上、過去の縁切り売却契約を見たことがある」
「この書式はいつから?」
「分からない」
「調べられます?」
彼はすぐ答えなかった。
「できる」
「なら――」
言いかけて止まる。
頼んでいいのか。
機密監察局長官。
その権限を使えば簡単なのかもしれない。
でも私は、彼の権力の中へ戻りたいわけではない。
「いいえ。やめてください」
「なぜ?」
「自分で正式に照会します。リオラを代理人にして」
ギデオンは数秒黙ったあと、
「分かった」
と答えた。
その顔には、失望より安堵に近いものがあった。
私が彼を頼らなかったのに。
妙な人だ。
「もう一つ」
私は支払通知書を差し出した。
「内訳がありません」
ギデオンの表情が変わった。
ほんのわずか。
けれど確かに。
「何です?」
「……いや」
「今、何か気づいたでしょう」
彼は通知書を取った。
目で追う。
「縁切り売却なら、通常は抽出区分が記載される」
リオラと同じ答え。
「なぜない?」
「分からない」
「本当に?」
私は正面から彼を見る。
ギデオンも目を逸らさなかった。
「本当に分からない」
これは信じていいのか。
分からない。
だから記録する。
それだけだ。
「写しを取っても?」
ギデオンが尋ねた。
「何のため?」
「同じ書式の事例がないか――」
私は黙る。
彼は言い直した。
「いや。君が許可するなら確認したい」
初めてだった。
私に決定を返してから、理由を話した。
ほんの小さな違い。
それでも私は気づいた。
「写しだけなら」
「ありがとう」
ギデオンは自分で紙を持って立ち上がろうとして、また止まった。
「使用人に頼む」
「なぜ?」
「原本を私が部屋の外へ持ち出す必要はない」
私は少しだけ目を見開く。
「慎重ですね」
「遅すぎるが」
乾いた声だった。
私は何も返さなかった。
許したわけではない。
でも、変化まで否定する必要もない。
使用人が写しを作りに出ていく。
私はもう一度、二千四百枚という数字を見る。
高すぎるのか。
妥当なのか。
まだ分からない。
ただ、内訳がない。
そして国へ渡った私の記憶には、私が知らされていなかったほど広い管理権限が付いている。
記憶を売ったから、金を受け取った。
単純な取引に見える。
けれど。
私は契約書の端を指で押さえた。
七年間の値段より気になるものができた。
国はいったい、私から何を買ったことにしたのだろう。




