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第3話 青いドレスの裾

七年間暮らした家を、私は知らなかった。


馬車の窓からヴァルデン公爵邸を見上げたとき、最初に浮かんだ感想はそれだった。


王都北部の貴族街でも、ひときわ古い屋敷だ。


灰色の石壁。雪をかぶった尖塔。正門から玄関まで続く冬枯れの並木。


見覚えはない。


それなのに馬車が正門をくぐった瞬間、私は無意識に右側を見た。


そこには小さな温室があった。


「……どうして」


自分でも分からない。


御者台の向こうで馬が速度を落とす。


次の曲がり角で身体がわずかに左へ傾いた。


曲がる前から、曲がることを知っていたように。


記憶はない。


けれど身体は、この道を知っている。


気味が悪いというより、腹立たしかった。


私の中に私の知らない私がいる。


玄関前には使用人たちが並んでいた。


馬車を降りると、年配の女性が一歩前へ出る。


「お帰りなさいませ、奥様」


その瞬間、背後の誰かが息を呑んだ。


女性自身もすぐに気づいたらしい。


「……申し訳ございません」


深々と頭を下げる。


「エステル様」


「大丈夫です」


そう答えながら、胸の奥が少し痛んだ。


彼女を知らない。


けれど彼女は私を知っている。


それはギデオンだけではないのだ。


この屋敷にいる人たち全員が、私の知らない七年間を持っている。


「あなたのお名前を聞いても?」


女性は一瞬だけ目を伏せた。


「家政婦長のマーサでございます」


「マーサ」


声に出してみる。


何も戻らない。


それでも彼女の顔を見ると、なぜか安心した。


「以前の私は、あなたを信頼していましたか?」


マーサは驚いた。


それから、泣きそうな顔で笑った。


「その質問に私が『はい』と答えるのは、少々ずるい気がいたします」


私は瞬きをした。


「なぜ?」


「信頼されていたと自称する人間を、信頼なさる必要はございませんから」


思わず笑った。


「では、少なくとも今の私は、あなたを少し好きです」


マーサも笑った。


「光栄でございます」


そのやり取りの間、ギデオンは少し離れた場所にいた。


昨日と同じだ。


近づいてこない。


私が視線を向けると、ようやく口を開いた。


「荷物は以前の部屋にまとめてある」


「以前の?」


「君の私室だ」


「寝室とは別?」


「別だ」


「そうですか」


私はマーサを見る。


「案内をお願いできますか?」


「もちろんでございます」


歩き出そうとすると、ギデオンが言った。


「私は書斎にいる」


「分かりました」


「必要があれば――」


そこで彼は止まった。


少し考えてから言い直す。


「呼んでくれれば行く」


昨日の「何でも」に続いて、また一つ。


私は小さく頷いた。


「そのときはお願いします」



屋敷の中は、もっと奇妙だった。


知らない。


なのに、身体が知っている。


階段の三段目だけ少し軋むこと。


二階の廊下は午後になると西日が眩しいこと。


角に置かれた花台を避けるため、私は考えるより先に半歩だけ右へ寄った。


「この花台、昔からここに?」


「五年ほど前からでございます」


マーサが答える。


やはり。


私は立ち止まって花台を見る。


「身体の習慣というのは、本当に残るのね」


「記憶院から説明が?」


「ええ」


「……残酷なものですね」


私はマーサを見る。


「そう?」


「覚えていないのに、身体だけが帰宅したように振る舞うのでしょう?」


言われて初めて、それが残酷なのだと気づいた。


私は花台から目を逸らした。


「でも、少し便利です。暗くても厠くらいには行けそう」


マーサが目を丸くし、それから吹き出した。


「以前も似たようなことを仰いました」


「私が?」


「はい。初めてこちらへ嫁いでいらした日に、屋敷が広すぎて夜中に厠へ行ける自信がない、と」


「公爵夫人としては、あまり優雅ではないわね」


「旦那様は笑っておられました」


胸がちくりとする。


また一つ、私の知らない幸福らしきものが置かれた。


マーサも気づいたのだろう。


「申し訳――」


「謝らないで」


私は首を振った。


「昔の話を全部避けてもらうほうが、不自然です」


「ですが」


「聞きたくないときは、私が言います」


マーサは少し考えてから頷いた。


「承知いたしました」


私室の扉が開く。


思っていたより簡素な部屋だった。


淡い灰青色の壁。


窓辺の机。


本棚。


小さな長椅子。


豪華ではあるけれど、いかにも公爵夫人という派手さはない。


「……好きかも」


思わず呟いた。


マーサが微笑む。


「エステル様がお選びになった内装です」


窓辺へ歩く。


机の位置も、椅子の高さも妙にしっくりくる。


私は椅子を引いて座った。


「ここでよく手紙を書いていた?」


「はい」


机の右側を見る。


引き出しが三つ。


なぜか一番下を開けようとして――止めた。


「今、何も考えずここを開けようとした」


「そこには便箋を入れておられました」


開ける。


空だった。


「荷造りの際に移しております」


「なるほど」


こういう小さな残滓は、役に立つのかもしれない。


同時に、信用しすぎてはいけないとも思う。


身体が覚えているからといって、その意味まで正しいとは限らない。


「衣装は?」


「隣の更衣室でございます」


目的を思い出す。


青い夜会服。


私は立ち上がった。


更衣室には衣装箱が六つ並んでいた。


すでに多くの服が実家へ送られており、ここに残っているのは確認が必要なものだけらしい。


「青い夜会服を探しています」


マーサの手が止まった。


「青、でございますか」


「心当たりが?」


「何着かございます」


当然か。


私は内心で過去の自分へ文句を言った。


せめて濃紺とか、刺繍入りとか書いておいてほしかった。


「全部見せてください」


一着目。


水色に近い絹。


違う気がする。


二着目。


群青色で銀糸の刺繍。


三着目。


深い青。裾に小さな冬薔薇。


「これ」


口から出た。


マーサが私を見る。


私自身も驚いていた。


「……たぶん」


手紙には特徴が書かれていない。


根拠はない。


だから断定してはいけない。


「他の服も確認しましょう」


残りも見た。


青系統は全部で四着。


私は床へ布を敷いてもらい、一着ずつ裾を調べる。


一着目、何もない。


二着目も。


三着目。


冬薔薇のドレス。


表から見ても異常はない。


裏返す。


縫い目に沿って指を滑らせた。


途中で、わずかな硬さを感じる。


「マーサ」


「はい」


「裁縫用の小鋏を」


マーサの表情が変わった。


「何か?」


「まだ分かりません」


鋏を受け取る。


縫い目を傷つけないよう、糸を一本だけ切った。


そこから慎重にほどく。


小さな隙間。


指を入れる。


冷たい金属に触れた。


「……あった」


出てきたのは、鍵だった。


親指ほどの小さな銀色の鍵。


持ち手に番号が刻まれている。


《九一七》


マーサが息を呑む。


「ご存じですか?」


「いいえ」


私は鍵を光へかざした。


装飾はない。


公爵家の紋章もない。


「屋敷の鍵では?」


マーサは首を振る。


「少なくとも、私が管理しているものではございません」


では、何の鍵?


秘密の調査と関係があるのか。


「このドレスを最後に着たのはいつ?」


「確認いたします。衣装記録がございますので」


「衣装にも記録が?」


「公爵夫人ともなれば貸出や補修も多うございます」


便利だ。


記憶より帳簿のほうが嘘をつかないこともある。


もっとも、帳簿を書くのも人間だけれど。


マーサが更衣室の棚から台帳を持ってくる。


ページをめくる。


「ああ、ございました。三年前の十一月二十三日。王立記憶院主催の慈善晩餐会」


私は顔を上げた。


「王立記憶院?」


「はい」


過去の私の手紙。


《きっかけは王都の慈善会だった》


つながった。


ただし、まだ一本だけ。


「その日の同行者は?」


「旦那様です」


「ギデオンと?」


「はい」


私は鍵を握った。


三年前。


王立記憶院の慈善晩餐会。


白鐘広場の生存者三人。


そして秘密の鍵。


「マーサ。この鍵を見たことは?」


「ございません」


「このドレスを荷造りしたのは?」


「私と侍女二名です。ただし裾を解いてまでは確認しておりません」


「その二人の名前を教えて」


マーサが答えようとしたとき。


廊下で足音がした。


私は反射的に鍵を掌へ隠した。


扉が叩かれる。


「エステル」


ギデオンの声だった。


「入っても?」


昨日までなら、彼はどうしていたのだろう。


自分の妻の更衣室だ。


ノックすらしなかったかもしれない。


「少し待ってください」


私は鍵をハンカチに包み、ポケットへ入れた。


「どうぞ」


扉が開く。


ギデオンは敷居を越えたところで止まった。


「ローヴェン家から使いが来た。迎えの馬車が一時間ほど遅れるそうだ」


「分かりました」


彼の視線が床のドレスへ落ちる。


ほんの一瞬。


表情が変わった。


私は見逃さなかった。


「この服を覚えていますか?」


「……ああ」


「どこで着たかも?」


「三年前、記憶院の慈善晩餐会だ」


マーサの記録と一致する。


「その夜、何かありました?」


ギデオンの眉が寄る。


「何か、とは?」


「普段と違うこと」


彼は考えた。


「君が途中で席を外した」


「どれくらい?」


「二十分ほど」


「どこへ?」


「女性の休憩室へ行くと言っていた」


「あなたは確認した?」


「していない」


私は少し意外だった。


「監察局長官なのに?」


「妻が化粧直しへ行くたび尾行していたら、七年も結婚していられない」


あまりに真顔で言うので、私は吹き出した。


ギデオンも一瞬だけ目を見開く。


そして。


とても柔らかい顔をした。


その表情を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


身体が知っている。


この顔を。


たぶん、何度も見た。


私は笑うのをやめた。


ギデオンもすぐに表情を戻す。


「すまない」


「なぜ謝るんです?」


「昔のように話した」


「……今の会話は、今したものです」


彼が私を見る。


「私が笑ったのも今です。そこまで謝られると、何を話していいか分からなくなる」


「そうか」


「ただし、昔の私ならこうした、と誘導するのはやめてください」


「しない」


迷いのない返事だった。


私は彼を観察する。


この人を信じてはいけない。


正確には、夫だったという理由だけで信じてはいけない。


なら、証言の一つとして扱えばいい。


「その晩、戻った私は何か変わっていました?」


ギデオンは少し考えた。


「口数が減っていた」


「理由を聞いた?」


「疲れたと言った」


「あなたは信じた?」


そこで彼は黙った。


「当時は」


「今なら?」


「嘘だったと思う」


「なぜ?」


「君は疲れているときほど喋る」


私は思わず眉を寄せた。


「そうなの?」


「……以前は」


妙なところを知っている。


これが七年間ということなのだろう。


「ほかには?」


「馬車の中で、鐘について聞かれた」


背筋が伸びる。


「鐘?」


「ああ」


「何と?」


ギデオンは記憶を探るように目を細めた。


「十二年前の白鐘広場では、本当に鐘が三度鳴ったのか、と」


掌の中で、鍵が急に重くなった気がした。


「あなたは何と答えた?」


「公式記録ではそうなっている、と」


「それだけ?」


「ああ。君はそれ以上聞かなかった」


私は考える。


三人の生存者がまったく同じ言葉で語った。


《鐘が三度鳴ったあと》


過去の私は、その部分を気にしていた。


「なぜ今まで、そのことを重要だと思わなかったんです?」


ギデオンの顔が硬くなった。


「白鐘広場について尋ねられたのは、その一度だけだったからだ」


「私が何か調べていたとは?」


「知らなかった」


手紙の記述と一致する。


《ギデオンには、この調査のことを話していない》


ただし、手紙もギデオンも、どちらも絶対ではない。


「あなたは昨日、私に危険はないと言いましたね」


ギデオンの目が動いた。


「言った」


「今も同じ答え?」


沈黙。


「質問は一つまで、という約束は昨日だけでしたよ」


「……危険がない、という言い方は正確ではなかった」


「つまり嘘だった」


「そうだ」


あっさり認められて、逆に腹が立つ。


「私が記憶を失えば、その危険はなくなると思っていた?」


彼の顔から表情が消えた。


それが答えに見えた。


「今はまだ話せない?」


「……話せない」


「話さない、でしょう」


ギデオンは反論しなかった。


胸の奥に冷たいものが落ちる。


やはりこの人は変わっていない。


昨日から少しずつ、私の拒否を尊重しようとしている。


でも一番大切なところでは、まだ自分で線を引く。


ここまでは話す。


ここからは話さない。


私が知るべき範囲まで、自分で決める。


「分かりました」


私は言った。


「では、私も話しません」


「何を?」


「あなたが知らなくていいと、私が判断したことを」


ギデオンが私を見る。


その目に痛みが浮かんだ。


「……当然だ」


私はポケットの上から鍵を押さえた。


彼には見せない。


少なくとも今は。


それは復讐ではない。


信頼できるかどうか判断するために、情報を分けるだけだ。


――そう考えたところで、少し嫌な気分になった。


私も彼と同じことをしているのでは?


危険かもしれない情報を、自分だけで抱え込む。


けれど、まだ違いを説明できない。


私はその疑問をいったん胸に置いた。


「迎えが来るまで、この部屋をもう少し見ても?」


「もちろんだ。ここにあるものは君のものだ」


ギデオンはそう言って扉へ向かう。


「ヴァルデン公爵」


彼が振り返る。


「さっきの鐘の話」


「何だ」


「思い出してくれて、ありがとうございました」


ギデオンは少し驚いたあと、頷いた。


「どういたしまして」


扉が閉じる。


私はポケットから鍵を取り出した。


九一七。


三年前の私が、夫にも知らせず隠した鍵。


「マーサ」


「はい」


「王都で、こういう番号だけ刻まれた鍵を使う場所に心当たりはありますか?」


マーサは鍵を受け取り、慎重に見る。


「貸金庫か、私設保管庫の鍵に似ております。ただ、これだけでは場所までは」


「そうよね」


どこかに九一七番の錠前がある。


過去の私は、その場所を知っていた。


しかし、その記憶はもうない。


ならば記憶ではなく、残っているものを追えばいい。


私は机へ戻り、便箋を一枚取り出した。


そして一番上に書く。


《分かっていること》


その下へ、一つずつ並べた。


《三年前、王立記憶院の慈善晩餐会に出席》


《白鐘広場の生存者三人の証言が同じ》


《私は晩餐会で二十分席を外した》


《帰路でギデオンに「鐘が三度鳴ったのか」と質問》


《青い夜会服の裾に九一七番の鍵》


書いてから、最後にもう一行加えた。


《ギデオンは私に危険があったことを隠している》


そこだけ二重線で囲む。


そして別の行に書いた。


《ただし、ギデオンが事件に関与している証拠はない》


疑うことと、決めつけることは違う。


過去の私にも。


ギデオンにも。


そして今の私自身にも。


答えを決めさせない。


私は九一七の鍵を握った。


まず、この鍵が何を開けるのか。


そこからだ。

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