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第2話 過去の私からの警告

「私は君の夫だった」


膝をついた男――ギデオン・ヴァルデンは、そう言った。


私は寝台の上から彼を見下ろした。


夫。


正確には、元夫。


言葉の意味は分かる。


けれど目の前の男と「夫」という言葉が、頭の中でどうしても結びつかない。


黒い髪。灰青色の目。三十五歳。


王国機密監察局長官、ヴァルデン公爵。


そこまでは知識として説明されれば理解できる。


しかし、その男と七年間暮らしていたと言われても、他人の経歴を聞いているようだった。


「……立ってください」


私が言うと、ギデオンは目を伏せた。


「すまない」


「謝られる理由も、今の私にはよく分かりません」


彼の顔がわずかに強張った。


冷たすぎただろうか。


そう思った自分に、今度は私が戸惑う。


なぜ、この人を傷つけたかもしれないと思うと胸が重くなるのだろう。


術者が言っていた。


記憶を失っても、理由を伴わない感情反応が残ることがある。


これがそうなのか。


私は無意識に胸元を押さえた。


ギデオンがすぐに気づいた。


「気分が悪いのか?」


一歩。


彼が近づく。


私は反射的に肩を引いた。


ギデオンの足が止まった。


「……失礼した」


伸びかけていた手も下ろされる。


それを見て、私は少しだけ息を吐いた。


「大丈夫です。少し混乱しているだけ」


「医師を呼ぶ」


「必要ありません」


「だが――」


「ヴァルデン公爵」


名前ではなく爵位で呼ぶと、彼は黙った。


効果がありすぎて、こちらが気まずくなるほどだった。


けれど私は、この人との適切な距離を知らない。


ならば、遠いところから始めるしかない。


「私は今、あなたを知りません」


「……ああ」


「だから、私の体調について私より先に判断しないでください」


ギデオンはしばらく私を見つめた。


「分かった」


短い返事だった。


言い訳はなかった。


私は少し意外に思う。


もっと「夫だったのだから」と言われるのかと思っていた。


「それから」


「何だ」


「泣いています」


ギデオンは初めて気づいたように頬へ触れた。


指先を見て、それから妙に真面目な顔で言った。


「そのようだ」


思わず、少し笑ってしまった。


「他人事ですね」


「こういうことには慣れていない」


「泣くことに?」


「君の前で泣くことに」


笑いが消えた。


まただ。


私には存在しない七年間を、この人は何気ない一言でこちらへ差し出してくる。


私は知らない。


彼が以前どんな顔で私を見ていたのか。


私が彼の涙を見たことがあるのか。


何を言えば慰められたのか。


その非対称さが、思っていた以上に息苦しい。


「そういう話は、今はやめてください」


「分かった」


今度も彼はすぐに引いた。


私は寝台から足を下ろした。


床に触れた瞬間、少しふらつく。


ギデオンの肩が動く。


けれど彼は来なかった。


代わりに近くの椅子を私のほうへ押す。


「使うか?」


「……ありがとうございます」


私は椅子の背に手を置いた。


妙な男だ。


私がふらついただけで今にも飛んできそうな顔をするのに、こちらが拒めば本当に来ない。


昔からこうだったのだろうか。


それとも。


失うまで分からなかったのだろうか。


「エステル様」


立会人の女性が戻ってきた。


手には細長い木箱と数枚の書類がある。


「術後確認が終了しました。抽出対象に大きな逸脱はありません」


「大きな、というのは?」


「記憶は完全に区切れるものではありません。ヴァルデン公爵に関連していても、一般知識として定着している情報などは残る場合があります」


私はギデオンを見る。


「例えば、この方が公爵で機密監察局長官だということ?」


「はい。公的知識ですので」


「好物は?」


立会人が一瞬困った顔をした。


「それは通常、失われます」


「好きな色」


「同様です」


「寝るときの癖」


ギデオンが咳払いをした。


私は彼を見る。


「何です?」


「いや」


「今のは何か知っていますね」


「……知っている」


「言わなくて結構です」


「分かった」


立会人が口元をわずかに緩めた。


重苦しかった室内に、ほんの少しだけ空気が戻る。


私は木箱を指した。


「それは?」


「術前にお預かりしていた私物です」


蓋が開けられる。


髪飾り。


小さな財布。


ハンカチ。


そして、封筒。


「これは?」


「エステル様ご自身からお預かりしました」


私は封筒を手に取った。


表には、見慣れた筆跡で一言。


《私へ》


見慣れている。


当然だ。


私の字なのだから。


「いつ?」


「昨日です。記憶抽出後、ご本人へ必ず渡すよう指定されました」


「昨日……」


つまり、まだ記憶を持っていた私が書いた。


封は赤い蝋で閉じられている。


紋章ではない。


小さな花の印。


「これ、私の印ですか?」


尋ねると、ギデオンが答えかけて止まった。


「……私が答えていいか?」


その確認に、私は少し驚いた。


「どうぞ」


「君が個人的な手紙に使っていた封蝋印だ。公爵家のものではない」


私は花を眺める。


「何の花?」


「冬薔薇」


「好きだった?」


ギデオンは一瞬だけ黙った。


「好きだ」


過去形ではなかった。


私は封筒を裏返した。


「そう」


理由もなく、その花が少し好きな気がした。


これも身体に残った何かなのだろうか。


あるいは、単に今の私も冬薔薇が好きなだけかもしれない。


その区別を誰が決めるのだろう。


「一人で読みたいです」


私が言うと、立会人は頷いた。


ギデオンもすぐに扉へ向かった。


「隣室にいる」


「待たなくて構いません」


彼の背中が止まる。


「今日は実家へ戻るつもりです」


「ローヴェン家には連絡してある」


「あなたが?」


「術後すぐに長距離の移動をする可能性があったから――」


そこで彼は言葉を切った。


「……勝手に手配した。すまない」


私は彼を見た。


どうやらこの人は、本当に私の先回りをする癖があるらしい。


そして今、自分でもそれに気づき始めている。


「連絡しただけですか?」


「ああ。迎えを出すかどうかは、君の家族が決めた」


「分かりました。それなら助かります」


ギデオンがこちらを見る。


ほんの少し、驚いたようだった。


「全部怒るわけではありません」


「……そうか」


「必要なことと、勝手に人生を決めることは違いますから」


彼は何も言わなかった。


ただ、深く頭を下げた。


扉が閉じる。


私はようやく大きく息を吐いた。


立会人も退室し、部屋には私一人になった。


静かだった。


手の中の封筒だけが、妙に重い。


私は蝋を割った。


中には便箋が三枚入っていた。


最初の一行を読む。


《これを読んでいる私へ。


たぶん、今のあなたはひどく混乱している。》


思わず眉を上げた。


「よく分かっているじゃない」


自分なのだから当然か。


《まず、安心してほしい。


あなたは記憶を奪われたのではない。


少なくとも最後の署名は、自分でした。》


私はそこで手を止めた。


最後の署名。


その言い方が引っかかる。


《きっとギデオンは、全部自分のせいだと思っている。


実際、かなりの部分はあの人のせいなので、そこは遠慮なく怒っていい。》


「……私、こんな文章を書くのね」


少しだけ可笑しかった。


過去の自分が急に身近になる。


もっと悲壮な遺書のようなものを想像していた。


《でも、怒ることと疑うことは分けて。


愛していたことと信じることも分けて。


そして、私が書いたことだからという理由で、この手紙を信じすぎないで。》


私は読み返した。


妙だ。


未来の自分へ指示を残しておきながら、その指示すら疑えと言っている。


《記憶を失ったあなたは、私とは同じではない。


だから、私が決めたことに従う義務はない。


あなたの人生はあなたが決めて。》


胸の奥が、わずかに熱くなる。


ギデオンに向けた怒りとは違う。


これはたぶん、安堵だった。


記憶を持っていた私は、記憶を失った私を過去から支配するつもりはなかった。


私は二枚目をめくる。


《ここからが大事。


私は三年前から、あることを調べていた。》


指が止まる。


三年前。


当然、覚えていない。


《きっかけは王都の慈善会だった。


白鐘広場の生存者だった三人の女性から、十二年前の事件について話を聞いた。》


白鐘広場。


その名前には覚えがある。


十二年前、王位継承をめぐる騒乱で市民と王国軍が衝突した場所。


武装した反乱者が兵士を襲い、鎮圧された。


死者多数。


学校で習う程度の知識は残っている。


《三人は別々の地区に住み、事件後ほとんど交流していない。


なのに三人とも、同じ箇所で、まったく同じ言葉を使った。》


その下には一文が引用されていた。


《鐘が三度鳴ったあと、武装した男たちが北側から兵士へ襲いかかった》


私は口に出して読んだ。


「鐘が三度鳴ったあと……」


何がおかしい?


同じ事件を見れば、似た証言になることはある。


公式記録の表現を後から覚えた可能性もある。


これだけでは何も証明できない。


過去の私もそう考えたらしい。


《偶然かもしれない。


新聞や公式記録の言葉に記憶が引っ張られただけかもしれない。


だから私はリオラに相談した。


まだ結論は出さないで。》


リオラ。


その名前を見た瞬間、顔が浮かんだ。


赤褐色の髪を短く切った、よく笑う女性。


リオラ・ハート。


友人。


記憶権を専門とする弁護人。


彼女のことは覚えている。


夫との関係から独立していた記憶だからだろう。


少し安心する。


七年間のすべてが空白になったわけではない。


私にはまだ、私の人生がある。


そして三枚目。


そこだけ筆圧が強かった。


《ギデオンには、この調査のことを話していない。》


私は息を止めた。


扉の向こうにいる男を意識する。


《あの人を疑っているからではない。


あの人は危険を知れば、私を守ろうとする。


そして、私を守るためなら、私を危険から遠ざける決定を私より先にしてしまう。


私はもう、それに疲れた。》


文字を追う速度が落ちた。


記憶を失う直前、私は夫へ何と言ったのだろう。


説明しない人の妻であり続けない。


そう記録したと立会人は言った。


三年前の私は、すでに同じ問題を抱えていた。


《それでも私は、あの人を愛している。》


一行だけだった。


胸が痛んだ。


知らない女の告白を読んでいるようなのに、その女は私だ。


《だからこそ、未来の私にお願いする。


愛していた事実を、判断の代わりにしないで。》


そして最後。


数行分の空白のあとに、それは書かれていた。


《私へ。


ギデオン・ヴァルデンを、夫だったという理由だけで信じてはいけない。》


私は長い間、その文章を見つめていた。


信じるな、ではない。


夫だったという理由だけで信じるな。


似ているようで、意味はまるで違う。


私は手紙を机へ置いた。


「……面倒なものを残してくれたわね」


過去の私に文句を言う。


そのとき、便箋の端に小さな文字があることに気づいた。


追伸。


《公爵邸に残した荷物は、自分で取りに行って。


青い夜会服は捨てないこと。


裾を確認して。》


「裾?」


何かを隠した?


秘密の調査。


白鐘広場。


そして公爵邸に残された青いドレス。


私は手紙を畳み直した。


扉を開ける。


ギデオンは本当に隣室にいた。


窓際に立ち、こちらへ背を向けている。


「ヴァルデン公爵」


振り返る速度が早かった。


「読み終わったのか」


「はい」


「何が書いてあった?」


私は彼を見る。


この人は私の七年間を知っている。


私の好みも。


癖も。


きっと、私自身が忘れた私をたくさん知っている。


けれど。


だからといって、私の手の内まで渡す理由にはならない。


「私宛ての手紙です」


ギデオンは数秒黙った。


「ああ」


それ以上は聞かなかった。


「明日、公爵邸へ行きます」


「何か必要なものが?」


「私物を取りに」


「使用人に運ばせることもできる」


「自分で確認したいんです」


彼は私の顔をじっと見た。


何かを探るような視線。


私はあえて逸らさなかった。


「……分かった」


「あなたは?」


「邸にはいる」


「では、一つお願いがあります」


「何でも――」


「何でも、はやめたほうがいいですよ」


ギデオンが口を閉じた。


私は少しだけ笑った。


「私が何を探していても、先回りして答えを教えないでください」


彼の表情から、わずかに色が消えた。


「何か、書いてあったのか」


「質問は一つまでにしましょう」


「……今のが一つ目か?」


「ええ」


少し間があった。


「なら、明日まで待つ」


私は頷いた。


そのまま彼の横を通り過ぎようとして、ふと足を止めた。


理由は分からない。


ほんの一瞬だけ。


この男の隣を通ることが、とても懐かしいような気がした。


胸の奥が、また痛む。


けれど私は振り返らなかった。


過去の感情は、証拠ではない。


過去の私自身が、そう書いている。


明日。


私は七年間暮らしたという、覚えていない家へ戻る。


そして青い夜会服の裾に、過去の私が何を隠したのか確かめる。

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