第1話 君との七年を忘れてくれ
夫が私の前に置いたのは、離縁届と記憶譲渡書だった。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
その小さな音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……これは?」
分かっている。
一枚目には私と夫――ギデオン・ヴァルデンの名前がある。二枚目の上部には、王立記憶院の銀印。
けれど私は、夫の口から聞きたかった。
向かいに座るギデオンは、しばらく私を見つめたあと、低い声で言った。
「離縁してほしい」
そして、一度だけ息を止めた。
「君との七年を、すべて忘れてくれ」
結婚七年目の冬だった。
窓の外では朝から雪が降っている。
私は膝の上で組んでいた指をほどき、記憶譲渡書を手に取った。
紙は厚い。
王立記憶院が扱う契約書には、改竄を防ぐため銀糸が漉き込まれている。傾けると、細い光が紙面を走った。
《譲渡対象――婚姻期間中に形成された、ギデオン・ヴァルデンおよび同人を介して取得した機密情報に連なる記憶群》
「ずいぶん広いのね」
「……ああ」
「あなたの仕事について知ったことだけではない」
「切り分けるのが難しい」
「難しい?」
私は書類から顔を上げた。
ギデオンは背筋を伸ばして座っている。
いつもと同じだった。
黒い髪は乱れていない。濃紺の上着も、袖口まで隙なく整っている。
王国機密監察局長官。
国王の耳と目とも呼ばれる男。
そして、私の夫。
少なくとも今日までは。
「私たちが食事をした記憶は?」
「対象になる」
「旅行は?」
「なる」
「あなたが熱を出して、薬が苦いと子供みたいに文句を言った夜も?」
彼の眉がわずかに動いた。
「……おそらく」
「私の誕生日は?」
「私が関係している部分は」
「初めて会った日」
返事が遅れた。
それだけで十分だった。
私は紙へ視線を戻す。
「結婚式も?」
「エステル」
「質問に答えて」
彼の喉が動いた。
「対象になる」
「そう」
不思議なくらい、涙は出なかった。
むしろ頭は冴えていた。
七年間を失うとはどういうことなのか。
私はようやく理解し始めていた。
夫に関する秘密だけを、小箱から取り出すように消すわけではない。
彼と歩いた庭も。
彼と踊った夜会も。
喧嘩も。
仲直りも。
同じ寝台で迎えた朝も。
七年間かけて私たちの間に張り巡らされたものを、根ごと引き抜く。
「理由を聞いても?」
「私の職務上の問題だ」
「それは理由ではなく分類ね」
ギデオンが黙る。
私は彼のこういう沈黙を知っている。
昔は頼もしさだと思っていた。
軽々しく口にしない人。
責任の重さを知っている人。
けれど結婚生活が長くなるにつれて、その沈黙の外側に立たされているのが私なのだと気づいた。
「私に危険があるの?」
一瞬だった。
本当に一瞬。
けれど彼の右手が強く握られた。
「ない」
嘘だ。
少なくとも、すべてではない。
「では、あなたに危険が?」
「答えられない」
「誰かに命じられたの?」
「違う」
「あなたが決めた?」
今度の沈黙は長かった。
「……ああ」
胸の奥で、何かが静かに落ちた。
怒鳴られたわけでもない。
裏切られた証拠を突きつけられたわけでもない。
ただ、その「ああ」で、七年間ずっと感じていた息苦しさの正体が分かった気がした。
「私に相談するつもりはなかったのね」
「相談できることではない」
「なぜ?」
「君を巻き込む」
「もう巻き込まれているでしょう」
ギデオンの顔が歪んだ。
私は続けた。
「離婚して、結婚生活の記憶を国に渡すのは私よ」
「分かっている」
「いいえ」
声が少しだけ強くなった。
「分かっていたら、結論だけを持ってこない」
ギデオンが何か言おうとした。
私は手を上げた。
「まだ質問があるわ」
彼は口を閉じた。
「この記憶を売らなければ、離縁できない?」
「私の機密指定は最上位だ。高位機密職の配偶者が婚姻関係を解消する場合、機密に接続する記憶は――」
「制度の説明ではなく、私の場合を聞いているの」
「……できない」
「拒否したら?」
「婚姻関係は継続する」
「あなたは?」
彼が私を見る。
「私が記憶売却を拒んだら、あなたは私の夫を続けるの?」
答えはなかった。
私は思わず笑った。
乾いた、短い笑いだった。
「それは結婚ではないわね」
「エステル」
「では、もう一つ。売った記憶はどうなるの?」
「王立記憶院の保管庫に封緘される」
「誰が見られる?」
「原則として誰も。閲覧には王令か、記憶法院の許可が必要になる」
「あなたは?」
「見ない」
「見られない、ではなく?」
彼の目がわずかに伏せられる。
「見ない」
まただ。
私は書類へ目を落とした。
質問をしなければ出てこない。
質問しても、必要最低限しか出てこない。
私が知らないことを、私は質問できない。
「最後に聞くわ」
私は記憶譲渡書を机へ戻した。
「あなたは私を愛している?」
ギデオンの表情が初めて大きく崩れた。
「愛している」
即答だった。
「今も?」
「今もだ」
「それでも、私に何も話さない?」
「話せない」
「話せないのか、話さないと決めたのか」
彼は答えなかった。
その沈黙こそが答えだった。
私はペンを取った。
ギデオンが椅子を鳴らして立ち上がる。
「待ってくれ」
「何を?」
「……少し、考えてくれ」
「あなたはどれくらい考えたの?」
彼が止まる。
「この書類を私へ渡すまでに」
「三週間だ」
「三週間」
私はその数字を口の中で転がした。
「あなたは三週間考えて、私は今から考えろと言うのね」
「時間がない」
「なら、なおさら残酷な言い方ね」
私は離縁届へ署名した。
エステル・ヴァルデン。
七年間使った名前。
続いて記憶譲渡書。
ペン先が最後の線を引き終えたとき、ギデオンの手が机の端まで伸びた。
けれど私の手には触れなかった。
そのことに、なぜか胸が痛んだ。
「エステル」
「次に会ったとき」
私はペンを置いた。
「愛称で呼ばないでください」
彼の顔から血の気が引いた。
二人きりのとき、彼が私を何と呼んでいたのか。
明日には、それすら分からなくなる。
「見知らぬ方に、その呼び名を使う権利はありません」
*
王立記憶院の抽出室は、想像していたより白かった。
白い壁。
白い寝台。
白衣の術者。
ただし中央の術式だけが銀色に輝いている。
「本人確認を行います」
術者の隣には、記憶法院から派遣された立会人がいた。
彼女は私の署名と顔を交互に確認する。
「エステル・ヴァルデン。記憶譲渡契約への署名はご本人のものですね」
「はい」
「脅迫または身体的強制を受けましたか」
私は少し考えた。
ギデオンは何も言わない。
抽出室の扉のそばに立っている。
「身体的強制はありません」
立会人のペンが止まった。
「その他については?」
「必要な情報をすべて与えられたとは思っていません」
室内が静かになった。
ギデオンが目を閉じる。
「それでも署名を撤回しませんか」
「しません」
「理由を記録しますか」
「してください」
私は寝台へ腰掛けた。
「私は、説明されなかったことを了承したわけではありません。ただ、説明しない人の妻であり続けないことを選びます」
立会人は私を見たあと、一字ずつ書き留めた。
術者が銀色の環を私の額の上へ下ろす。
「抽出後、対象となった人物や出来事を示す名前を見ても、記憶が自然に回復することは通常ありません。身体的な習慣や、理由を伴わない感情反応が残る場合があります」
「例えば?」
「知らない場所を心地よいと感じたり、覚えていない相手の前で緊張したり」
「厄介ね」
術者が少しだけ笑った。
「人間の記憶は、帳簿ほど整っておりませんので」
その言葉は嫌いではなかった。
「抽出記憶は結晶化後、術者名、抽出日時、立会人名、保管番号を銀縁へ刻印します」
透明な受け皿が寝台の横へ置かれる。
私はそこを見た。
「私の七年が、あそこに?」
「一つではありません。関連ごとに複数の記憶晶へ分かれます」
七年が、いくつの石になるのだろう。
幸福は何個。
悲しみは何個。
愛は。
「始めます」
銀の環が光った。
痛みはなかった。
最初に感じたのは、冷たさだった。
額から細い糸を引き出されていくような感覚。
目を閉じているのに、光が見える。
誰かの笑い声。
雨。
大きな手。
白い花。
暖炉の前。
『エステル』
声がした。
胸が締めつけられる。
待って。
急に怖くなった。
私は何を手放そうとしている?
七年だ。
私の七年だ。
どれほど腹を立てていても、あの人が勝手に決めたことを許せなくても、それは確かに私が生きた時間だった。
「中止できます」
遠くで立会人の声がした。
「本人が中止を希望すれば、術式を停止します」
私は唇を噛んだ。
止めれば。
ギデオンの妻でいられる。
覚えていられる。
愛していたことも。
今も愛していることも。
――けれど。
三週間、一人で私の人生を決めた男の隣へ戻るのか。
私は目を開けた。
銀色の光の向こうにギデオンがいた。
ひどい顔をしていた。
今にもこちらへ来そうなのに、一歩も動かない。
私は彼を見て言った。
「続けてください」
光が強くなる。
誰かが私の名を呼んだ。
今度は答えなかった。
白い花が消えた。
雨が消えた。
暖炉が消えた。
大きな手の温度が消えた。
最後に残ったのは、男の声だった。
優しく私を呼ぶ声。
それも、銀色の光へ溶けていった。
*
目を覚ますと、知らない天井があった。
頭が重い。
「……ここは?」
「王立記憶院です」
白衣の女性が答える。
私は身体を起こした。
何かがおかしい。
頭の中に、大きな空白がある。
穴というより、扉の向こう側だけが丸ごと存在しなくなったような感覚。
「お名前は?」
「エステル・ローヴェン」
自然に答えてから、首を傾げる。
「ローヴェン……で、いいのよね?」
「離縁手続きが成立しておりますので」
離縁。
そうだ。
私は結婚していた。
その記憶を売った。
理解はできる。
けれど、実感がない。
「夫だった人は?」
術者が扉のほうを見る。
私もつられて視線を向けた。
男がいた。
背の高い、黒髪の男。
見覚えはない。
それなのに。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
理由が分からない。
男は私を見たまま、動かなかった。
やがて一歩近づき――そこで止まった。
近づいていい距離を測りかねているようだった。
その目から、涙が落ちた。
私は困惑して彼を見る。
「……どなたですか?」
男は唇を震わせた。
それでも私へ触れず、その場に膝をついた。
「ギデオン・ヴァルデン」
掠れた声だった。
「私は君の夫だった」




