第48話 はじめましてから、もう一度
春になった。
白鐘広場の再調査が始まってから四か月。王都の街路樹には新しい葉がつき、冬のあいだ閉じていた露店も戻ってきた。
私の生活も、ようやく事件を中心に回らなくなっている。
王立記憶法院へ行くのは月に一度ほどになった。白鐘広場の証言者への補償や、縁切り売却制度の改正についてリオラから話を聞くことはあるけれど、それも私が毎日関わる仕事ではない。
オルレナとアーノルド・ケインの審理は続いている。
ユリウスは記録持ち出しへの関与を認め、自分の署名で証言した。家族を脅されていたことは情状として扱われたが、無罪にはならなかった。それで本人も納得しているらしい。
アルベルト王は白鐘広場の犠牲者名簿を公表し、再審手続きを始めた。
ギデオンについても、法院の判断以降、新しい話はほとんど聞いていない。
聞こうとしなかった、というほうが正しい。
彼が何をしているかを確かめる必要がなくなったからだ。
「それで?」
リオラが目の前の封筒を指した。
昼下がり。
私は王都の小さな喫茶店で、届いたばかりの手紙を前にしていた。
「まだ開けてない」
「見れば分かるわ」
封筒の表には私の名前。
差出人は、ギデオン・ヴァルデン。
四か月ぶりの連絡だった。
「私に持ってくる必要あった?」
「一応」
「もう保護拘束中じゃないし、彼からの手紙を私が検閲する権限もないわよ」
「知ってる。でも、急に来たから」
「怖い?」
私は封筒を指でなぞった。
怖い、とは少し違う。
「緊張する」
「なら、そのまま持って帰る?」
「いや。読む」
封を切った。
便箋は一枚だけだった。
長くない。
《エステル・ローヴェン様》
そこから始まっている。
愛称ではない。
元妻とも。
妻とも書いていない。
《事件に関する手続きが一区切りした後も、あなたが求めた距離を私の判断で終わらせるべきではないと考え、連絡を控えていました》
私はそこで一度、読むのを止めた。
リオラは何も聞かない。
続きを読む。
《そのうえで、私的なお願いがあります》
《もし現在のあなたが望まないのであれば、この手紙への返事は不要です。以後も私から私的な連絡は行いません》
逃げ道が先に書いてある。
以前なら、たぶん逆だった。
会ってから。
理由を説明して。
断りにくいところまで持っていく。
今は、断る方法を最初に置いている。
《許されるなら、一度だけ、あなたと食事をしたい》
その次の一文で。
私は思わず笑った。
《復縁の相談ではありません》
「何?」
リオラが聞く。
「予防線張ってる」
「学習したのね」
「たぶん」
さらに読む。
《あなたが過去の私を夫として判断するためではなく、現在の私を一人の男として知る機会をもらいたい》
《七年間を覚えていないあなたに、過去の親密さを前提として接するつもりはありません》
最後。
《もし会ってもよいと思うなら、場所と日時はあなたが決めてください》
署名。
ギデオン・ヴァルデン。
それだけだった。
「どうするの?」
リオラが聞いた。
私は便箋を机へ置く。
以前なら。
この手紙が来ること自体を、ずっと考えていたかもしれない。
でも実際には、事件が終わってからの数か月。
私は普通に暮らした。
買い物をして。
本を読んで。
以前の友人に会って。
一人で食事をして。
時々、自分が七年間結婚していたことを忘れそうになる日さえあった。
その生活の中で。
ギデオンがいなくて困ったことはなかった。
だからこそ。
「会ってみようかな」
自然にそう思えた。
リオラが少し笑う。
「思ったより軽い」
「もっと重大な顔で言ったほうがいい?」
「別に」
「食事一回だし」
私は手紙を見る。
「結婚するわけじゃない」
それが今は大事だった。
一度会う。
それ以上の意味を、先に決めない。
*
場所は私が選んだ。
王都中央の有名な高級店ではない。
かといって、誰でも聞き耳を立てられるような狭い酒場でもない。
公園近くの小さな料理店。
昼。
個室ではなく、窓際の普通の席。
返事には日時と店名だけを書いた。
余計なことは書かなかった。
当日。
私が五分早く着くと、ギデオンはすでに店の外にいた。
少し腹が立った。
「何分前に来ました?」
最初の言葉がそれになった。
彼が一瞬、驚く。
「二十分ほど」
「早すぎません?」
「遅れるよりはいいかと」
「待たせてるみたいで嫌なんですけど」
「次から気をつける」
次。
その言葉に。
二人とも少し止まった。
ギデオンが先に訂正する。
「次があれば」
「はい」
私は笑った。
「そうしてください」
彼も少し笑った。
それだけで。
思っていたより緊張が抜けた。
服装も簡素だった。
公爵家の紋章はついているが、監察局の徽章はない。
当然なのに。
彼から職務の印が消れていることを、私は改めて実感した。
店へ入る。
向かい合って座る。
ギデオンが椅子を引こうとして。
途中で止めた。
自分の席へ戻る。
「今、何しようとしました?」
「椅子を」
「どうしてやめたの?」
「七年前の癖で」
「別に椅子くらい引いてもいいですよ」
「そうか」
「でも毎回聞かなくていいです」
彼の顔が。
少し困った。
「難しいな」
「何が?」
「どこからが過去の親密さを使っていることになるのか」
私は吹き出した。
「そこまで考えてるんですか」
「考えないと、私は多分間違える」
「重症ですね」
「自覚はある」
笑った。
今度は二人とも。
*
食事が始まってから、しばらく事件の話はしなかった。
むしろ。
何を話せばいいのか分からなかった。
七年間夫婦だった。
でも私には、その大半がない。
彼は知っている。
私は知らない。
普通の初対面より。
ずっと変だ。
「最近は何をしてるんですか」
私が聞いた。
「公爵家の領地管理」
「長官になる前も?」
「一応は」
「一応?」
「ほとんど家令に任せていた」
「今は?」
「自分で見る時間が増えた」
「楽しい?」
ギデオンは少し考えた。
「まだ分からない」
「正直ですね」
「以前なら、楽しい必要があるのかと答えていたと思う」
「今は?」
「楽しくない仕事を一生続ける必要があるのか、と考えるくらいには暇になった」
私は笑った。
「暇って大事かもしれませんね」
「君は?」
君。
そこで。
彼が止まる。
「嫌だったか?」
「何が?」
「呼び方」
私は考えた。
エステル。
ローヴェンさん。
君。
どれも。
呼ばれ方としては大した問題ではない。
「『君』はいいです」
「名前は?」
「エステルも普通にいいですよ」
「愛称は?」
「それはまだ駄目」
「分かった」
すぐ引く。
その様子がおかしくて。
また少し笑った。
「こういうの、全部確認するんですか?」
「最初は」
「大変ですね」
「自分で大変にした」
その言い方には。
少し昔の重さが戻った。
私はフォークを置く。
「今日」
ギデオンを見る。
「謝罪会にするなら帰りますよ」
彼が目を上げた。
「そのつもりはない」
「なら、昔の反省を全部の会話につけなくていいです」
「……分かった」
「責任が消えたって意味じゃないです」
「分かっている」
「ならいいです」
私だって。
いつまでも彼を被告人として見たいわけではない。
法院が判断した。
処分も受けた。
私が何かを忘れる必要はないけれど、毎回そこへ戻る必要もない。
今日知りたいのは。
今のギデオン。
それだけ。
*
食後。
公園を歩いた。
誘ったのは私だった。
「少し歩きません?」
「いいのか?」
「嫌なら言いません」
「行きたい」
春の風が。
木々を揺らす。
並んで歩く。
手は触れない。
距離も。
近すぎない。
昔なら。
どんなふうに歩いたんだろう。
腕を組んだ?
手をつないだ?
それを。
聞こうとは思わなかった。
今は。
今日の距離だけでいい。
「エステル」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか」
「内容によります」
「今日のこと」
彼が少し緊張している。
珍しい。
「私は、君をもう一度口説きたいと思っている」
歩みが止まりそうになった。
でも。
止めなかった。
「復縁じゃない?」
「違う」
「何が違うんですか」
「結婚していたことを理由に、戻ってほしいとは言わない」
ギデオンは前を見ながら話す。
「君が私を選ぶ可能性があるなら、それを待ちたい。ただ、そのために過去の記憶を使いたくない」
私は黙って聞いた。
「七年間を知っている私と、ほとんど知らない君では公平ではない。それでも完全な初対面にはなれない」
「それは無理でしょうね」
「だから」
彼が立ち止まった。
私も止まる。
「最初から、という言い方が正しいか分からない」
少し考え。
「今の君との、最初から始めたい」
胸の奥が。
ゆっくり温かくなった。
でも。
それだけで答えない。
「具体的には?」
ギデオンが少し驚く。
「具体的?」
「口説きたいって、何するんです?」
「食事に誘う」
「うん」
「話す」
「うん」
「たまに出かける」
「普通ですね」
「贈り物は?」
「高いのはいらない」
「花は?」
「たまになら」
「毎日は?」
「怖い」
「分かった」
真面目に答えるから。
笑ってしまう。
「それから」
彼が言う。
「嫌になったら、理由を説明せず断っていい」
私は笑うのをやめた。
「そこで、『何が悪かった』って聞かない?」
「聞きたくはなる」
「なるんだ」
「でも、答える義務はない」
「改善したいから教えて、も?」
「一度なら聞くかもしれない」
「二度は?」
「聞かない」
かなり。
具体的。
でも。
そこがいいと思った。
完璧な男になったわけではない。
断られたら傷つく。
理由も知りたい。
それでも。
相手が答えないことを受け入れる。
「私も条件があります」
「聞く」
「まだ復縁するつもりはありません」
「分かっている」
「昔の私が好きだったものを使って、機嫌を取るのもほどほどに」
「蜂蜜も?」
「蜂蜜は私が今も好きだからいい」
「区別が難しいな」
「頑張ってください」
「努力する」
「あと」
私は少し考えた。
「私があなたを好きになる保証もない」
ギデオンの顔が。
ほんの少し。
苦しくなる。
でも。
目を逸らさなかった。
「それも分かっている」
「本当に?」
「分かっているつもりだ」
少し間を置いて。
「ただ、期待はしている」
私は。
その答えが。
好きだった。
期待すらしない。
何も望まない。
そんな綺麗な人になられても困る。
「なら」
私は歩き始めた。
「まず一か月」
ギデオンがついてくる。
「一か月?」
「試用期間」
「求愛に?」
「嫌?」
「いや」
考えて。
「かなり短い気がする」
「延長審査あります」
「誰が審査する?」
「私」
「厳しそうだ」
「当然です」
また。
笑った。
*
公園の出口で別れる。
ギデオンが馬車を呼ぼうとする。
「歩いて帰ります」
「一人で?」
言った瞬間。
彼の顔が固まった。
私も。
見た。
昔なら。
ここから。
危ない。
護衛を。
送る。
選択肢を狭める。
でも。
ギデオンは一度口を閉じた。
「今日は人通りもある」
彼が周囲を見る。
「ただ、日が落ちるまでには少しある。歩いて帰るなら、それでいい」
「心配?」
「する」
「止めない?」
「止めない」
私は頷いた。
「合格」
「何が?」
「一日目」
彼が。
少し呆れたように笑った。
「それはよかった」
「次は?」
聞いてから。
自分で少し驚いた。
ギデオンも同じだった。
でも。
すぐには予定を決めない。
「誘ってもいい?」
彼が聞く。
「はい」
「手紙で?」
「それがいい」
「分かった」
私は一歩離れる。
そこで。
ギデオンが私の名前を呼んだ。
「エステル」
「何?」
「今日はありがとう」
私は少し考えてから答えた。
「こちらこそ」
それだけ。
抱きしめない。
手も握らない。
口づけなんて。
もちろんしない。
私は彼に背を向けて歩き出した。
しばらくして振り返ると。
ギデオンはまだいた。
でも。
追ってこない。
私が振り返ったことに気づいて。
小さく手を上げるだけ。
私は。
同じように返した。
*
その夜。
机へ。
一枚の紙を置いた。
以前なら。
証拠。
疑問。
確認事項。
そんなものを書いていた場所。
今日は。
違う。
《ギデオン・ヴァルデン》
その下。
《今日分かったこと》
仕事がなくなって、少し暇になった。
何が楽しいかはまだ分からない。
断られたら理由を知りたいとは思う。
それでも、答えを要求しないよう努力している。
二十分前行動。
椅子を引く癖。
私は最後に。
一行だけ足した。
《今のところ、もう一度会ってもいい》
そこでペンを置いた。
好き。
とは。
まだ書かない。
戻りたい。
でもない。
七年間を取り戻したから。
でもない。
今日。
一緒に食事をして。
歩いて。
話した。
その結果。
もう一度会いたいと思った。
それで十分だった。
私たちは元夫婦だけれど。
今は。
まだ。
そこから始めればいい。




