第47話 七年間を、私のものにする
七年間分の記憶が、私のものとして返される日が来た。
王立記憶法院の返還室には、大きな窓も豪華な調度もなかった。机が一つ、椅子が三脚、その向こうに記憶権管理官が座っている。
机の中央には、銀色の箱が置かれていた。
私は、その箱を知っている。
離婚の日、私から切り出された記憶が収められたものと同じ形だ。
ただし、銀縁に刻まれていた管理者名は消されている。その代わり、新しい所有証が箱の横へ添えられていた。
《所有者 エステル・ローヴェン》
たったそれだけの文字なのに、しばらく目を離せなかった。
「内容を確認します」
管理官が書類を読み上げる。
「縁切り売却契約に基づいて王国へ譲渡された記憶晶四十二件、および事件捜査中に回収・再分類された関連晶石を、法院判断に基づき本人所有へ返還します」
私は眉を上げた。
「四十二件だけじゃないんですか?」
「三件は売却箱から空晶への差し替えが確認されていました。その後、真正な記憶晶が証拠保全過程で発見されています」
最初に記憶院で見た、空っぽの三つ。
あれにも元があった。
管理官は続ける。
「さらに、偽造記憶の素材として使用された断片については、元晶石との対応を確認し、所有権をあなたへ戻しています。ただし証拠複製は法院が保管します」
「私の記憶そのものは?」
「あなたのものです」
その答えを聞いて、胸の奥で何かが静かにほどけた。
戻す。
見る。
売る。
保管する。
その前に、もっと単純なことがあった。
誰のものなのか。
それをずっと、私は決められなかった。
「返還後の選択肢を説明します」
管理官が別の紙を出した。
「第一に、身体への復元。第二に、外部閲覧可能な状態で個人保管。第三に、封印保管。第四に、本人意思による再売却または廃棄。ただし国家機密を含む一部記憶については、閲覧や第三者への譲渡に法的制限があります」
リオラが隣で口を挟む。
「所有権が戻っても、機密保持義務までなくなるわけではないのね」
「はい。ただし、以前のように国が所有者となるわけではありません。必要な制限は内容ごとに法院の審査対象になります」
私は少し笑った。
「やっと普通の説明になりましたね」
管理官が困ったような顔をした。
「制度改正案がすでに提出されています」
「私のせい?」
「あなた一人のせいではありません」
「よかった」
リオラが横で笑った。
「そこ、責任感じるところじゃないでしょう」
「制度一個変えるの、重いじゃない」
「殺人容疑から始まってるんだから、今さらよ」
それもそうだった。
私はもう一度、銀色の箱を見る。
「今日は復元しません」
管理官は驚かなかった。
「承知しました。外部閲覧は?」
「それもしません」
「では封印保管?」
「はい」
言ってから、私は自分の声を確かめた。
迷いはなかった。
これまで何度も、記憶を戻さないと言った。
でも、そのたびに状況が違った。
オルレナから条件を付けられたときは、取引を拒んだ。
事件の証拠として復元を提案されたときは、身体への介入を拒んだ。
あのときは、戻さないこと自体が何かへの抵抗だった。
今日は違う。
事件は終わった。
私の殺人容疑も晴れた。
ギデオンの責任についても判断が出た。
誰かに迫られているわけでもない。
戻せば事件が早く解けるという理由も、もうない。
それでも私は、戻さない。
ようやくこれは、何かを拒むためではなく、自分で選ぶための決定になった。
*
封印の前に、晶石一覧だけは確認した。
中身を見る必要はない。
でも、何を所有しているかは知っておきたかった。
婚姻一年目。
公爵邸での生活。
ギデオンの職務に接触した記憶。
王宮。
慈善事業。
旅行。
夫婦の会話。
喧嘩。
仲直り。
白鐘広場調査へつながる記憶。
マルセル判事。
ユージン・レイル。
脅迫。
離婚前の最後の数週間。
一覧を追うほど、七年間が「失った時間」ではなく、確かに生きた時間だったことが分かる。
私は、その人生を否定したくなかった。
春の丘で、自分からギデオンとの結婚を選んだ私も。
別れたくないと泣きながら、それでもこのままの結婚は続けられないと言った私も。
白鐘広場を調べた私も。
夫に腹を立てた私も。
全部、本当にいた。
「見ないのに、取っておくんだ」
リオラが言った。
「うん」
「廃棄もできるわよ」
「知ってる」
「売り直すことも」
「それは絶対しない」
即答すると、彼女が笑った。
「そこだけ早い」
「だって、一回売って散々だったでしょう」
「制度を利用した人みんなが散々だったわけじゃないけどね」
「分かってる」
ミラのことを思い出す。
忘れたことで前へ進めた人。
その選択を後悔していない人。
記憶を手放すこと自体が悪いわけではない。
だから、私は「記憶は絶対に残すべきだ」とも思わない。
ただ、この七年間については残す。
「捨てたくないんだと思う」
私は言った。
「戻したくもない。でも、なかったことにはしたくない」
リオラは少し考えてから頷いた。
「それなら保管が一番合ってる」
「うん」
私は一覧の一番上へ戻った。
婚姻一年目。
過去の私が幸せだった記憶。
それを見なくても、幸せだった事実はもう知っている。
全部思い出さなくても。
誰かに証明してもらわなくても。
それでいい。
*
封印は、以前の記憶院のものとは違った。
今度の封印には、私の署名が必要だった。
管理官が説明する。
「本人指定封印です。原則として、あなたの申請なしに開封できません」
「法院でも?」
「刑事事件などで令状が出た場合を除きます。それでも、開封記録と理由は本人へ通知されます」
「記憶院総裁の判断だけでは?」
「開けられません」
私はペンを取った。
「いいですね、それ」
「今回の件を受けて暫定運用が変わりました」
また。
少しだけ笑ってしまう。
封印証へ署名する。
エステル・ローヴェン。
管理官が銀色の細い帯を箱へ巻き、私の署名を刻印した。
最後に、小さな鍵を渡される。
物理的な鍵というより、封印解除手続きに必要な本人証明具らしい。
私は掌に乗せた。
重くはない。
でも、三年前にドレスの裾から見つけた917の鍵とは、意味がまるで違う。
あの鍵は、過去の私が未来の私へ残したものだった。
今度の鍵は、現在の私が自分のために持つ。
「保管場所はどうする?」
リオラが聞いた。
「家に置くの、ちょっと怖い」
「法院の個人保管庫も使える」
「所有権は私のまま?」
「もちろん」
「じゃあ、そこ」
私は決めた。
毎日見えるところに置いて、決意を試す必要もない。
封印したことを忘れる必要もない。
必要なら、いつか開けてもいい。
一生開けなくてもいい。
今、その未来まで決める必要はなかった。
*
手続きを終えたあと、法院の中庭へ出た。
冬の空気は冷たかったが、日差しは少しずつ春に近づいている。
ベンチへ座り、私は所有証の写しをもう一度開いた。
《所有者 エステル・ローヴェン》
「そんなに嬉しい?」
リオラが隣に座る。
「うん」
「記憶そのものより?」
「たぶん」
考えてみれば、不思議だった。
七年間の中身を取り戻していないのに、前より失った感じがしない。
「私のところにあるって分かるからかな」
「法院の保管庫だけど」
「細かい」
「弁護士なので」
私は笑った。
少し風が吹き、所有証の端が揺れる。
「ねえ、リオラ」
「何?」
「過去の私が、戻してほしいと思ってたらどうするんだろう」
「あなたが?」
「うん。もし七年前……じゃない、記憶を売る直前の私が、『いつか安全になったら全部戻して』って思ってたら」
リオラはすぐには答えなかった。
「その記録が見つかったら?」
「それでも今のあなたが決めるんじゃない?」
やっぱり。
そうなる。
過去の私の意思を無視したいわけではない。
尊重したい。
でも。
過去の私も、未来の私の人生までは所有していない。
あの手紙にも書いてあった。
過去の私がしたことだから正しい、とは限らない。
あの私は。
最初から。
今の私へ選ばせるつもりだったのかもしれない。
「じゃあ、これでいい」
私は所有証を畳んだ。
「戻さない?」
「戻さない」
今度は、はっきり答えた。
「少なくとも、私が『昔の自分に戻りたい』って思うまでは」
「思うかもしれない?」
「分からない」
「それでいいの?」
「うん」
分からないまま持っていていい。
選択肢を残すことも。
一つの選択だった。
*
帰り道。
私は一人で少し遠回りをした。
保護拘束が解けてから、まだ自分で好きな道を歩けることが新鮮だった。
市場を抜け。
小さな書店の前を通り。
菓子屋の窓を覗く。
蜂蜜を使った焼き菓子が並んでいた。
一瞬。
ギデオンを思い出した。
失敗した菓子。
粉まみれの指。
頬へ触れる前に、許可を聞いた男。
それから。
私の人生を勝手に決めた男。
その両方が。
同じ人だ。
七年間を戻さなくても。
もう、それくらいは知っている。
そして今の彼についても。
長官職を手放した。
公の場で責任を認めた。
私からの告発を受けた。
処分を受けた。
私が距離を置くと言ってから、一度も追ってこなかった。
それも知っている。
過去のギデオンを。
七年間すべて思い出さなければ。
今のギデオンを判断できない。
そうは思わなくなっていた。
私は菓子屋へ入った。
蜂蜜菓子を一つ買う。
誰かのためではない。
自分で食べるために。
店を出て、包みを開く。
甘い。
かなり甘い。
「……これは二個はいらないな」
独り言を言って、少し笑った。
七年間の記憶は、法院の保管庫にある。
封印されたまま。
私のものとして。
それでいい。
過去を捨てない。
過去へ戻りもしない。
私は、覚えていない七年間を抱えたままでも、今の自分として生きていける。
そして、もしこれから誰かを選ぶことがあるなら。
その選択に必要なのは、封印された昔の気持ちではない。
今日の私が。
今日、その人をどう見るか。
たぶん。
それだけだった。




