第45話 偽造された罪
追加鑑定の対象になった術者の名は、アーノルド・ケインだった。
王立記憶院の上級接続術者。五十四歳。
十二年前、白鐘広場の証言記憶を処理した作業班に所属し、三年前には私の縁切り売却で補助術者を務めている。
そして、マルセル判事が殺された夜だけ、退勤記録が存在しない。
「これだけなら、かなり怪しい人で終わるわ」
翌朝、リオラはそう言って鑑定資料を机へ置いた。
私は保護館の応接室で、その分厚い束を前にしていた。
「でも、封緘処理記録がある」
「ええ。ただし、それも『彼が偽造した』という直接証拠じゃない。同じ技術者が処理に関わった、というだけ」
十二年前と三年前。
同じ術者。
同じ接続技術。
私の殺害命令記憶。
それだけでも十分不気味だが、法廷で必要なのは不気味さではない。
「じゃあ、何が足りない?」
「殺害命令記憶を作った作業記録と、マルセル殺害との接続」
リオラが一枚の紙を抜き出した。
「王室記録の封印解除で、今まで取れなかった記憶院の特別作業命令簿まで法院が照会できるようになった。昨夜、その返答が来た」
紙の上には三年前の日付がある。
私が記憶を売却した翌日。
《特別再処理》
対象番号は伏せられている。
術者。
アーノルド・ケイン。
承認欄。
オルレナ・ヴェイス。
「これ、私の?」
「まだ番号がない」
「でも翌日」
「そう。だから次に、刻印機の使用簿と照合した」
別紙。
同じ時刻に使われた銀縁刻印機。
出力番号。
現在、殺害命令記憶に付けられている番号。
私は何度か読み直した。
「つながった?」
「作業記録上はね」
「内容は?」
「まだそこが残ってる」
リオラは椅子へ深く座った。
「誰のどの記憶を、どう切って、何とつないだか。その工程表が見つかれば決定的だけど、そんなものを律儀に残している保証はない」
私は少し考えた。
十二年前。
オルレナは原本を残した。
間違っていたかもしれないと検証する者が必要だから、と。
なら。
三年前も。
「捨ててないかもしれない」
「何を?」
「作業記録」
リオラの表情が変わった。
*
見つかったのは、王立記憶院ではなかった。
ギデオンが長官職を辞める際、自分の執務室と私邸文書庫を法院へ開放していた。その保全資料の中に、三年前の記憶院監査報告があった。
ギデオン本人が正式な監査へ進める前に止めた案件。
白鐘広場の封緘番号に異常がある。
そこまでは以前から分かっていた。
今回、法院が未整理の添付資料まで再確認したところ、一枚の複写紙が見つかった。
記憶院内部の作業票。
正式提出前の控えらしい。
《接続素材A》
女性の声。
《接続素材B》
旧記憶再現室。
《接続素材C》
指示語句。
その下に、素材採取元の記号が並ぶ。
三つとも、私の縁切り売却で抽出された晶石番号に対応していた。
私は鑑定室で、その紙を見た。
「『殺して』は?」
サイラスが該当箇所を示す。
接続素材C。
採取元は、婚姻六年目の記憶。
外部閲覧が許可された。
映像が始まる。
公爵邸の庭だった。
私は知らない犬を前にしている。
老犬らしく、横たわったまま苦しそうに呼吸していた。
獣医が何か説明している。
もう助からない。
痛みだけが強くなる。
過去の私は、泣いていた。
隣にはギデオンがいる。
『決めるのは君だ』
彼が言った。
過去の私は何度も犬の頭を撫で、しばらくして獣医を見上げた。
『……苦しませたくない』
声が震えている。
『眠らせてください』
獣医が確認する。
『処置を行いますか』
過去の私は目を閉じた。
そして。
『殺して』
言った。
私は息を止めた。
同じ声だった。
殺害命令記憶の。
あの言葉。
でも。
意味が違う。
相手も。
場所も。
全部。
「停止」
映像が消える。
私はしばらく動けなかった。
怖かった言葉。
自分が本当に誰かを殺せと命じたのではないかと、何度も考えた。
実際に私は言っていた。
ただし。
死にかけた犬を、これ以上苦しませないために。
「音声波形、記憶内身体反応、晶石由来情報を照合します」
サイラスが言った。
「現時点では、殺害命令記憶の『殺して』と、この記憶断片は一致する可能性が極めて高い」
私は目元を押さえた。
泣きそうだった。
でも、今度は怖さではなかった。
「エステル」
リオラが小さく呼ぶ。
「大丈夫」
声は少し掠れた。
「やっと、あの言葉がどこにあったか分かった」
*
その後は早かった。
作業票に記載された他の素材も照合された。
『マルセル判事は、もう止まらない』
これは、私がリオラと話した記憶から切り出されていた。
当時の私は、マルセルが正式調査を諦めないという意味で口にしている。
『今夜中に』
別の日。
ギデオンへ、慈善院へ届ける書類を今夜中に出したいと話した場面。
『書類も持ち出して。白鐘に関するものは全部』
これは最も悪質だった。
過去の私は、白鐘広場の調査資料を公爵邸に置いておくことを危険だと考え、リオラへ安全な場所へ移すよう頼んでいた。
全部。
本物の言葉だった。
だから。
偽造記憶は強かった。
存在しない命令を、新しく作ったのではない。
私が実際に話した言葉を切り取り、順序を変え、旧記憶再現室で撮られた別の記憶断片へつなげた。
「これで」
私は聞いた。
「殺害命令記憶は完全に崩れる?」
サイラスが答える。
「少なくとも、提示された会話が実際に存在したという主張は維持できません。主要な発言が別々の日時と文脈から採取されたことが確認されています」
「私が別の場所で、本当にマルセル殺害を命じた可能性は?」
ベルク検事が答えた。
「理論上の可能性だけなら残る。しかし、その事実を示す証拠は現在ありません」
その言い方が。
嬉しかった。
信じるから無罪。
ではない。
証拠がないから。
罪を認定できない。
それでいい。
*
アーノルド・ケインの事情聴取は、その日の午後に行われた。
彼は最初、作業票を否定した。
署名は自分のものに似せた偽造。
記憶院の命令記録も後から作れる。
十二年前も三年前も、ただ上司に命じられた技術作業をしただけ。
ところが、法院が彼の私設保管庫から押収したものが決定打になった。
未使用の銀縁。
旧記憶再現室の予備鍵。
そして。
マルセル判事の執務室から失われていた封緘印。
「どうして彼が持ってたの?」
私はリオラへ聞いた。
「本人は拾ったと言ってる」
「どこで?」
「答えてない」
さらに、マルセルの爪の間に残っていた銀薬成分と、ケインが接続術で常用していた定着剤の配合が一致した。
珍しい薬剤ではない。
それだけでは足りない。
しかし、殺害当夜。
記憶院裏門の警備記録に、ケインが使っていた業務馬車の番号が残っていた。
退勤記録は空白。
馬車は外へ出ている。
戻ったのは、マルセルの死亡推定時刻より後。
そして翌朝。
ケインは私の殺害命令記憶を再処理している。
一つずつ。
逃げ道が狭くなった。
夕方。
彼は供述を変えた。
「マルセル判事のところへ行ったことは認める」
ただし。
殺すつもりではなかった。
記録を返すよう求めた。
揉み合いになった。
倒れた。
事故だった。
ベルク検事は、その供述をそのまま受け入れなかった。
現場には、判事が倒れたあとに書類棚を探った痕跡がある。
頭部の傷も一度ではない。
事故では説明しにくい。
「逮捕状を請求する」
ベルク検事が言った。
「マルセル判事殺害、証拠隠滅、記憶偽造への関与」
私は黙って聞いた。
ようやく。
実行した人間へ。
手が届いた。
*
オルレナ・ヴェイスについても、同じ日に状況が変わった。
R-04-118。
十二年前の作業命令。
三年前の特別再処理承認。
ユリウスの家族を拘束させ、原資料を移動させた証言。
それぞれについて裏付けが取れた。
彼女自身が白鐘広場記憶の編集に関与したことは、もう本人の発言だけではない。
三年前の私の記憶偽造についても、作業命令の承認者として記録が残っている。
ただし。
マルセルを殺せと命じた直接記録はない。
そこは分ける。
法院は、白鐘広場記憶改変、証拠隠匿、私の記憶偽造への関与、ユリウス家族への強要について拘束の必要を認めた。
オルレナとケイン。
二人の逮捕状が出た。
*
私自身の審理は、その翌日に開かれた。
クラウディア審理官が、これまでの認定を一つずつ読み上げる。
殺害命令記憶は、複数の真正記憶断片を接続して作られた編集物である。
主要な発言について、採取元となった別場面が確認された。
『殺して』はマルセル判事を対象とした言葉ではない。
マルセルと私は、白鐘広場の正式調査に協力しており、検察が当初主張した殺害動機は立証されていない。
私がマルセル殺害を指示したことを示す独立証拠も存在しない。
そして。
「以上により」
クラウディア審理官は私を見た。
「エステル・ローヴェンに対するマルセル判事殺害教唆の嫌疑について、訴追を維持するに足る証拠はないと判断します」
私は呼吸するのを忘れた。
「保護拘束を解除します」
木槌が鳴った。
それだけだった。
無実の人間には天から光が差すわけでもない。
奪われた時間が戻るわけでも。
七年間が戻るわけでもない。
ただ。
私はもう。
殺人容疑者ではなかった。
「立てる?」
リオラが小声で聞いた。
「たぶん」
立とうとして。
膝に力が入らなかった。
「やっぱりちょっと待って」
「はいはい」
彼女が笑った。
その声を聞いたら。
急に涙が出た。
私は泣きながら笑った。
「格好悪い」
「誰も見てないことにしてあげる」
「法廷いっぱいに人いるけど」
「じゃあ諦めて」
しばらく。
本当にしばらく。
動けなかった。
*
法廷を出る前に、一度だけ振り返った。
この場所で。
自分の幸せだった記憶を見られた。
夫を愛していたことを、殺人の動機にされた。
自分の声を疑った。
過去の自分すら疑った。
その全部を。
証拠で一つずつ解いた。
だから私は、最後まで記憶を戻さなくてよかったと思えた。
過去の私が無実だったことを。
現在の私が証明した。
廊下の向こうでは、オルレナとアーノルド・ケインの身柄移送が始まっていた。
事件はまだ終わっていない。
二人の責任。
王家の責任。
記憶院の制度。
そして。
ギデオンの責任も残っている。
私はもう、それらを一つにまとめて誰かを許したり、憎んだりするつもりはなかった。
一件ずつ。
一人ずつ。
したことに応じて。
判断されればいい。
リオラが出口の扉を開ける。
外から冬の光が入った。
「帰れるよ」
彼女が言った。
私はその言葉を、少しだけ時間をかけて受け取った。
保護館へ戻るのではない。
監視付きの生活へ戻るのでもない。
好きな場所へ行ける。
自分で決めて。
「うん」
私は歩き出した。
「帰ろう」




