第43話 戻さずに、見る
三日目の朝、私は第三案へ署名した。
《記憶の身体復元を行わず、外部閲覧および客観資料との照合による鑑定を希望する》
書き終えてから、もう一度読み返した。
迷いがなくなったわけではない。
七年間を戻せば、もっと早く分かることがあるかもしれない。マルセル判事が殺される前に何を話したのか、私は白鐘広場についてどこまで知っていたのか、『殺して』という言葉を誰に向けて口にしたのか。
全部、自分の中に答えがある可能性は高い。
それでも私は、過去の私を証拠保管庫として使う方法を選ばなかった。
リオラが署名を確認する。
「これで提出する?」
「うん」
「あとから変更もできるわ」
「分かってる。でも、今はこれで行く」
私はペンを置いた。
「事件が解けなかったら後悔するかもしれない」
「するかもね」
「そこは否定してくれないんだ」
「後悔しない選択肢なんて、たぶんないもの」
確かにそうだった。
記憶を戻して自分が変われば、戻したことを後悔するかもしれない。戻さずに証明が足りなければ、戻さなかったことを後悔するかもしれない。
どちらにも代償があるなら、その代償を選ぶのも私でありたかった。
リオラが申請書を封筒へ入れようとしたところで、私は一つ思い出した。
「ギデオンの意見書、来てる?」
「来てる」
「内容はまだ聞いてないよね」
「あなたが決めるまで見せないって約束したから」
私は署名した紙を見る。
もう決めた。
「じゃあ、見せて」
リオラは鞄から一枚の写しを出した。
長い意見ではなかった。
復元が捜査上有用であることは認める。
失われた記憶が事件の解明につながる可能性も認める。
そのうえで、復元を優先すべきとは考えない。
《本件において復元が捜査上有利であることは、本人の同意を代替する理由にならない》
その下には、さらに一文。
《拒否は非協力ではない》
私はそこで読むのを止めた。
「どう?」
リオラが聞く。
「先に見なくてよかった」
「そう?」
「これを読んでから第三案を選んだら、あの人に背中を押された気がしたと思う」
今なら違う。
私は先に決めた。
そのあとで、ギデオンが自分とは別の場所から同じ線を引いたことを知った。
それだけだった。
「意見書は記録に入れておいて」
「もちろん」
私は紙を返した。
嬉しくないわけではない。
けれど、その気持ちについて考えるのは今ではなかった。
今日は、十二年前を見る日だった。
*
外部閲覧は、王立記憶法院の大鑑定室で行われた。
原資料十七件はすべて法院管理下に置かれ、オルレナには触れる権限がない。彼女は別室から記録映像を確認することだけを許されていた。
私の前には、サイラスと二人の鑑定術者、記録官、リオラ、ベルク検事がいる。
今回ばかりは検察と弁護の目的がかなり近かった。
偽造された記憶を誰が作ったのか。
白鐘広場の公式記録がどう作られたのか。
どちらにとっても、原資料を確かめる必要がある。
「最初に注意します」
サイラスが言った。
「外部閲覧は記憶保持者の主観を、そのまま事実として認定する手続きではありません。見えた内容は、別の記録や他の記憶と照合します」
「分かっています」
「また、原資料であること自体も現時点では仮定です。封緘年代、抽出形式、晶石構造から可能性は高いですが、内容確認後に最終評価します」
私は頷いた。
一つの記憶が真実を全部教えてくれるわけではない。
それはもう、嫌というほど学んだ。
最初に選ばれたのはR-04-102だった。
白鐘広場十六件に対応すると考えられる、最初の原資料。
銀色の光が広がる。
*
鐘の音がした。
三度ではない。
一度。
少し間があって、二度目。
広場には大勢の人がいる。
視点の持ち主は女性らしい。両手を胸元で組み、前方に並ぶ兵士を見ている。
武器を持つ市民は、少なくとも近くには見えない。
誰かが演説している。
王位継承手続きの再審査を。
拘束された代表者の釈放を。
怒号はある。
でも、戦闘ではない。
兵士側から笛が鳴った。
短く二回。
記憶の持ち主が振り返る。
その瞬間。
前列の兵士が槍を下げた。
誰かが叫ぶ。
人が動く。
石畳に何かが落ちる。
兵士が前へ出た。
市民の側から攻撃した場面は、その前にはない。
「停止」
サイラスの声で映像が消えた。
室内が現実へ戻る。
私は、自分の手が強く握られていることに気づいた。
「現在確認できることだけを」
サイラスが言う。
「この記憶では、兵士の前進開始以前に、記憶保持者の視界内で市民側の武力攻撃は確認できません」
ベルク検事が続ける。
「視界外は?」
「不明です」
当然。
一人の人間の記憶だから。
二件目。
三件目。
視点が変わる。
広場の端。
噴水の近く。
兵士側。
同じ出来事でも、見えるものは違う。
ある記憶では、市民が兵士へ何かを投げている。
私は一瞬、公式記録のほうが正しかったのかと思った。
しかし時系列を確認すると、それは兵士が前進したあとだった。
別の記憶では、兵士の一人が命令に戸惑っている。
また別の記憶では、群衆側の男が棒を持っている。
完全な非武装でもない。
それでも十六件を並べるほど、一つのことだけは明確になっていった。
最初の組織的な前進は王軍側だった。
そして、公式記録にある、
《反王派の武装集団が一斉攻撃を開始したため、王軍が応戦》
という場面を裏付ける記憶は一つもなかった。
「十六件で見えるものが違う」
私は言った。
「それが普通なんでしょうね」
サイラスが頷く。
「同じ出来事でも、立ち位置と注意によって記憶は変わります」
「今保存されている十六件は?」
記録官が比較表を出した。
再封緘後の記憶。
そこでは。
十六人全員が、ほとんど同じ順序で出来事を認識している。
鐘が三度。
武装した反王派。
最初の攻撃。
王軍の応戦。
私は背筋が冷たくなった。
昔の私が気づいた違和感。
複数の女性が、同じ言葉で白鐘広場を語った。
記憶が揃っていることが、真実の証拠ではなかった。
むしろ。
人間の記憶としては、揃いすぎていた。
*
十六件の閲覧が終わったのは、午後だった。
最後に残ったのはR-04-118。
白鐘広場十六件の直後に付番され、通常索引から消されていた十七番目。
「この晶石だけ、抽出形式が違います」
サイラスが言った。
「どう違う?」
「十六件は証言採取形式ですが、118は業務記録形式です」
リオラが身を乗り出す。
「記憶院職員の?」
「可能性があります」
「誰の記憶?」
「銀縁に保持者名がありません」
本来なら異常。
でも、それが隠された理由とつながっているのかもしれない。
「閲覧します」
光が広がった。
*
最初に見えたのは、この前まで私たちがいた地下術式室だった。
ただし新しい。
銀線に黒ずみがなく、術式台も使われている。
視点の持ち主は作業者らしい。
机の上に十六個の晶石が並んでいる。
若い頃のオルレナがいた。
今より髪が長い。
顔も若い。
でも、声は同じだった。
『十六件すべて、一次記憶は残します』
誰かが尋ねる。
『残すんですか?』
『当然です』
オルレナは答える。
『原本を破棄すれば検証も修正もできない。R区分へ移しなさい』
私は息を止めた。
R-04-102から117。
その場面。
『編集後の証言は、どこまで合わせますか』
作業者の声。
オルレナが十六件を見る。
『事実を全部同じにしてはいけません。細部には差を残す』
リオラが小さく息を飲んだ。
『ただし、三点は統一します』
オルレナが指を折る。
『鐘は三度』
一つ。
『反王派が先に武器を取った』
二つ。
『王軍は応戦した』
三つ。
誰も動かなかった。
私は、記憶の中のオルレナを見ていた。
彼女は迷っていない。
『総裁』
記憶保持者が呼ぶ。
当時はまだ総裁ではなかったのか、別の者へ呼びかけた声かもしれない。
映像の外から別の男の声がする。
『これは証言の整理ではありません』
オルレナが振り返る。
『分かっています』
『記憶の改変です』
『分かっています』
二度目は。
少しだけ低かった。
『後で問題になります』
『後があるなら』
オルレナはそう答えた。
そして。
『今夜、軍の三部隊が王宮へ向かえば、明日の法院など存在しないかもしれません』
室内が静まる。
『命令です』
彼女が言う。
『十六件を処理してください』
「停止!」
ベルク検事が声を上げた。
映像が消える。
誰も。
すぐには話さなかった。
*
「今の部分」
ベルク検事が最初に口を開いた。
「記録保存」
「保存済みです」
「オルレナ・ヴェイス本人の音声・姿であることは?」
サイラスが答える。
「現時点では一致度が高い。ただし、本人確認記録および当時の職員記録との照合が必要です」
「記憶自体の編集可能性は?」
「これから鑑定します」
まだ。
確定ではない。
それでも。
ここまで来た。
白鐘広場の原資料。
編集前の十六件。
そして。
その編集を命じるオルレナの姿。
私は嬉しくなかった。
勝ったとも思わない。
むしろ、胸の奥が重かった。
あの人は嘘をついていなかった。
王都が崩れると思っていた。
人を救うつもりだった。
そのうえで。
他人の記憶を書き換えると決めた。
そこが。
一番重い。
「続きがあります」
サイラスが言った。
R-04-118はまだ終わっていない。
再び閲覧する。
作業者が十六件の晶石を一つずつ運んでいる。
その途中。
オルレナが呼び止めた。
『待って』
机の端。
一個の空晶。
『作業記憶も残します』
視点が揺れる。
『私の?』
『ええ』
『なぜです』
オルレナは少し考えた。
『いつか、私たちが間違っていたかもしれないと検証する人間が必要になるから』
私は思わず息を止めた。
何を。
言っているのだろう。
自分で隠し。
自分で残した?
記憶保持者が聞く。
『なら、なぜ今やるんです』
オルレナは長い間答えなかった。
やがて。
『今は、正しいと思っているからです』
そこで記憶は終わった。
*
鑑定室を出たのは夕方だった。
すぐに結論は出ない。
R-04-118の真正性。
オルレナの本人確認。
当時の職員配置。
十六件の原資料との物理的対応。
全部、調べる必要がある。
でも。
私は廊下で立ち止まった。
「リオラ」
「何?」
「私、戻さなくても見られたね」
彼女が頷く。
「ええ」
まだ全部ではない。
『殺して』の出所も分かっていない。
私の偽造記憶を誰が実際に組み立てたのかも。
マルセル判事を殺した人間も。
残っている。
それでも。
過去の自分へ戻らなければ、真実へ近づけないわけではなかった。
時間は掛かる。
一つずつ証拠を積む。
面倒で。
遅い。
でも。
その方法で。
ここまで来た。
私は窓の外を見る。
王宮の尖塔が遠くに見えた。
十二年前の王が命じた鎮圧。
それを隠すために作られた公式の記憶。
次に問われるのは。
たぶん。
今の王が。
この原本を見たときに。
何を選ぶかだった。




