第42話 彼女の記憶は、彼女のものだ
法院から意見照会が届いたのは、長官職を退いて四日目の朝だった。
ギデオンは公爵邸の書斎で封筒を受け取り、差出人を確認してから机に置いた。
以前なら、機密監察局長官宛ての公文書は副官が整理し、重要度に応じて順番まで決めていた。今は違う。机の上にあるのは公爵家の会計書類と、自分自身が調査対象となっている案件について代理人から送られてきた文書だけだった。
静かだった。
こんなにも静かな部屋だったのかと、職を失って初めて気づいた。
封を切る。
《エステル・ローヴェン氏に対する記憶復元の証拠上必要性について》
読み始めてすぐ、ギデオンの手が止まった。
白鐘広場関連の原資料十七件が保全されたことは、代理人を通じて知らされている。そのうち一件がエステルの偽造記憶と関係する可能性があり、切り出された断片の出所を立証するため、失われた七年間を本人へ復元する方法が検討されているらしい。
全面復元。
部分復元。
外部閲覧。
三案。
法院が求めているのは、元配偶者であり、当時の生活を最も長く共有した者としての意見だった。
ギデオンは文書を最初から読み直した。
最後には質問が三つある。
《全面復元を行った場合、対象者の過去の行動・人物関係を確認するうえで有用と考えるか》
有用だ。
《復元によって、白鐘広場調査およびマルセル判事事件に関する本人の記憶が回復する可能性を認めるか》
認める。
そして最後。
《証拠保全上、復元を優先すべきと考えるか》
そこで、答えは止まった。
いや。
答えそのものは、もう分かっていた。
ギデオンは椅子から立ち、窓辺へ歩いた。
庭は冬枯れしている。
七年前、この時期になるとエステルは温室からまだ咲いている花を探してきて、食卓へ一輪だけ置いた。
種類にはこだわらなかった。
豪華な花束より、一輪でいいと言っていた。
そのことを。
彼は覚えている。
だから何だ、と今は思う。
彼女が蜂蜜を好むこと。
寒い日に左手を袖の中へ隠すこと。
本を読むとき、面白くなるほど姿勢が悪くなること。
暗い場所では呼吸が浅くなること。
彼は知っていた。
知っているから。
決められると思っていた。
危険を知らせれば彼女は進む。
だから知らせなかった。
所有権移転を詳しく説明すれば、縁切り売却を拒むかもしれない。
だから黙った。
自分は彼女をよく知っている。
だから、彼女より正しく彼女を守れる。
それが。
七年間かけて犯した間違いだった。
「……有用ではある」
誰もいない部屋で、ギデオンは呟いた。
記憶が戻れば、事件は進むだろう。
彼女が誰と会ったか。
マルセルと何を話したか。
ユージン・レイルが死ぬ前に何を知らせようとしたか。
白鐘広場について、どこまで突き止めていたか。
そして。
殺害命令記憶へ使われた『殺して』という言葉を、実際には誰に、どんな場面で言ったのか。
全てが戻る可能性がある。
捜査する側だった頃の自分なら、迷わなかったかもしれない。
対象者への危険を評価し、医師と術者を付け、最も安全な方法を選び、復元の必要性を説明する。
そして最後には。
「必要だ」と言っただろう。
必要という言葉で。
選択肢を一つに見せながら。
ギデオンは机へ戻った。
意見書の最初の問いに答える。
《有用と考える》
二問目。
《可能性を認める》
嘘は書かない。
事件のために役立つのは事実だ。
三問目。
ペンを止める。
《復元を優先すべきとは考えない》
書いた。
それから、その理由を続けた。
《記憶復元は証拠収集手段である以前に、対象者本人の身体および人格的連続性へ重大な影響を与え得る処置である》
一度、読み返す。
まだ足りない。
《本件において復元が捜査上有利であることは、本人の同意を代替する理由にならない》
ここまで書いて。
ギデオンは手を止めた。
自分がこんな文章を書く資格があるのかと思った。
三か月前なら。
いや。
離婚の日なら。
笑うしかない。
本人の同意を代替する理由にならない。
その最も基本的なことを破った本人が、自分だ。
だからといって。
黙る理由にはならない。
過去に守らなかった原則を、今後も守らない理由にはならない。
さらに書く。
《本人が全面復元、部分復元、外部閲覧のいずれを選択しても、その選択自体を信用性評価、不利益推認、情状判断の材料として扱うべきではない》
ここは重要だった。
戻さない。
なら、何か隠したいのではないか。
無実なら戻せるはずだ。
事件を解決したいなら、なぜ協力しない。
そう言う者は必ず出る。
彼自身。
かつてなら口にしなかったとしても。
同じ論理を使ったかもしれない。
国家の安全に協力するなら。
夫を信じているなら。
危険を理解しているなら。
だから。
こうするべきだ。
いつも。
条件の後ろに。
期待する答えを隠していた。
ギデオンは次の一文を書いた。
《拒否は非協力ではない》
短い。
だが。
消さなかった。
*
昼前。
代理人が来た。
四十代の男性で、ギデオンが正式告発を受けてから雇った人物だ。昔から公爵家に仕える法律顧問ではなく、法院が認定する独立弁護士を選んだ。
「これは」
意見書を読んだ代理人が、眉を寄せる。
「かなり強く書きましたね」
「問題があるか」
「あなたに不利です」
「どこが」
「ここです」
指されたのは。
《本人の同意を代替する理由にならない》
「ローヴェン氏への縁切り売却について、あなたがまさにそれをしたという告発を受けています。この意見は申立人側から引用されるでしょう」
「構わない」
「構わないでは困ります。私はあなたの代理人です」
「なら、責任がない部分は争ってくれ」
「もちろんです」
「責任がある部分まで、言葉を曲げて守る必要はない」
代理人はしばらく黙っていた。
「公爵閣下」
「今、その呼び方は必要か」
「爵位は失っていませんので」
「そうだったな」
少しだけ。
妙な間ができた。
代理人は咳払いをする。
「ではヴァルデン公爵。この照会には、もっと限定的に答える方法があります。『医術上の判断は専門家に委ねる』『本人の意思を尊重する』程度で十分です」
「本人の意思を尊重する」
ギデオンは繰り返した。
「便利な言葉だな」
「便利?」
「尊重すると言いながら、その選択が気に入らなければ説得を続けることもできる」
代理人が黙る。
「私はそれをやった」
「今回の復元とは別件です」
「同じ構造だ」
危険だから。
愛しているから。
国家のためだから。
証拠になるから。
どれも、理由としては成立する。
問題は、その理由を持った者が最後の決定まで奪ってよいかだった。
「彼女が復元しないと決めた場合」
ギデオンは言った。
「その決定によって捜査が難しくなっても、戻さないことを前提に別の方法を探すべきだ」
「その結果、ローヴェン氏自身の無罪立証が遅れても?」
痛いところだった。
即答できなかった。
エステルはいまだ完全には解放されていない。
殺害命令記憶の一続きの真正性は崩れたが、彼女の言葉がどこから取られたのかは分からない。
七年間が戻れば。
彼女を早く救えるかもしれない。
その誘惑は。
ひどく強い。
「……それでもだ」
ようやく言った。
代理人は何も言わず待っている。
「私が一番受け入れなければならないのは、そこだと思う」
「何を?」
「彼女が、自分に不利な選択をすることもあるということを」
言葉にすると。
胸が軋んだ。
以前の自分なら。
それを放置と呼んだ。
愛していないから。
守らないのだと。
けれど違う。
自分なら選ばないものを、相手が選ぶ。
それを見て。
なお。
相手の人生だと認める。
たぶん。
そこからしか。
何も変わらない。
代理人が意見書を机へ戻した。
「提出しますか」
「してくれ」
「修正なしで?」
「ああ」
「分かりました」
彼は書類を鞄へしまい、立ち上がった。
扉へ向かったところで。
ギデオンは呼び止めた。
「一つ」
「はい」
「この意見書は、エステル本人へ直接送らないように」
代理人が振り返る。
「法院から開示される可能性はあります」
「それは法院の手続きだ。私からは送らない」
「理由は?」
「彼女が私と距離を置くと決めた」
それだけで十分だった。
代理人は頷いた。
「承知しました」
扉が閉まる。
また。
書斎が静かになる。
*
午後。
ギデオンは公爵家の文書庫へ入った。
法院による保全確認が終わったあとで、必要最低限の個人資料だけが返却されている。
その中に。
七年前の婚姻前書類があった。
エステルの署名。
守秘誓約。
機密職配偶者説明会。
彼は自分の署名を見た。
当時。
何も疑っていなかった。
彼女は理解している。
納得している。
署名した。
それで。
終わりだと思っていた。
結婚生活が始まり。
彼女が何度も言った。
説明して。
先に決めないで。
私に選ばせて。
彼は聞いた。
聞きながら。
危険が大きくなれば。
また決めた。
彼女を知らなかったのではない。
知っていたのに。
自分の判断を優先した。
だから。
「記憶が戻れば、昔のエステルになる」
そんな期待を。
一瞬でも。
持つことを。
自分に許したくなかった。
戻れば。
彼女は七年間を思い出す。
春の丘。
失敗した菓子。
喧嘩。
仲直り。
夜。
朝。
彼を愛していたこと。
そして。
彼から離婚を言い渡された日のことも。
全部。
それを思い出した彼女が。
自分をまた愛するかもしれない。
そう考える自分が。
確かにいる。
ギデオンは目を閉じた。
「最低だな」
今度は。
誰もいないからこそ。
声にした。
事件の証拠として必要だという話を聞きながら。
心のどこかでは。
妻だった彼女が帰ってくる可能性を。
考えてしまう。
なら。
なおさら。
自分は決定から離れなければならない。
愛情があるから。
判断してはいけない。
愛情があるからこそ。
利益相反になる。
*
夕方。
法院から確認通知が届いた。
意見書受領。
それだけ。
エステルからの返事はない。
当然だった。
彼女は今。
自分の選択をしている。
ギデオンは通知を畳み、机の引き出しへ入れた。
窓の外では、早い夕暮れが庭を暗くしている。
以前なら。
暗くなる前に帰宅するよう彼女へ言ったかもしれない。
護衛を増やし。
行き先を制限し。
危険の詳細は話さずに。
今は。
何もできない。
そして、それでいい。
彼女が七年間を戻すなら。
彼女が選んだから。
戻さないなら。
それも彼女が選んだから。
その結果。
事件の解決が遅れても。
自分との関係が永遠に戻らなくても。
それは。
受け入れなければならない。
ギデオンは机へ戻り、法院へ提出した意見書の控えをもう一度開いた。
最後に、自分で付け加えた一文がある。
《記憶を所有する者と、その記憶を生きる者は同一であるべきです》
その下に。
署名。
ギデオン・ヴァルデン。
彼はしばらく自分の名前を見たあと、静かに紙を閉じた。
エステルの記憶が事件を救うかもしれない。
王家を揺らす真実を証明するかもしれない。
自分を再び彼女の中へ戻すかもしれない。
それでも。
その七年間は。
証拠でも。
国家の道具でも。
元夫に返されるべき愛情でもない。
彼女のものだった。




