第40話 幸福な無知
「その記憶晶を置いてください」
法院執行官がもう一度命じた。
地下術式室には、冷たい空気と古い銀薬の匂いが残っている。
オルレナは逃げようとしなかった。
右手に持った記憶晶を見つめたあと、ゆっくりと銀色の保管箱の上へ置く。
「これでよろしいですか」
「箱から離れて」
彼女は二歩下がった。
警備官が間へ入り、別の執行官が保管箱へ近づく。封印状態を確認し、鍵を開けるまで、私は息を詰めたまま見ていた。
蓋が上がる。
中には、銀縁の記憶晶が整然と並んでいた。
一列目に十六個。
その横に一個。
「番号を確認します」
執行官が読み上げる。
R-04-102。
103。
順に。
117。
そして。
「R-04-118」
あった。
十七件すべて。
私はようやく息を吐いた。
消されてはいなかった。
少なくとも、今は。
「保全箱へ移します」
執行官が言う。
オルレナが静かに口を開いた。
「お勧めしません」
全員の動きが止まる。
「理由は?」
リオラが尋ねた。
「古い晶石です。移送中の破損を避けるなら、この部屋で状態確認を先に行うべきでしょう」
「あなたの助言が必要だと思う?」
リオラの声は冷たい。
「必要かどうかは、あなた方がお決めください」
オルレナは肩をすくめるでもなく答えた。
「ただ、十二年前の晶石を壊せば、二度と戻りません」
執行官が同行していた法院術者を見る。
術者は箱の中を確認し、少し考えてから頷いた。
「指摘自体は妥当です。外観確認をここで行います」
私はオルレナを見る。
彼女は勝ち誇った顔をしなかった。
そこが、かえって怖かった。
*
外観検査には時間がかかった。
私はリオラと少し離れた場所に立ち、術者たちが一本ずつ晶石を確認するのを見ていた。
ユリウスは警備官のそばにいる。
オルレナから目を逸らさない。
彼女もまた、ときどきユリウスを見る。
「家族はどこです」
突然、ユリウスが言った。
警備官が制止しかけたが、執行官が手で止めた。
オルレナはしばらく彼を見た。
「無事ですよ」
「場所を聞いています」
「私が今ここで答えれば、あなたは安心しますか」
「答えてください」
「安心して、それから?」
ユリウスの顔が強張る。
「自分がしたことを、家族のためだったから仕方なかったと思える?」
「そんなことは――」
「思っていない?」
オルレナの声は責めるようではなかった。
むしろ、静かすぎた。
「なら、場所を知ることと今のあなたの責任は別でしょう」
私は思わず口を挟んだ。
「それをあなたが言うんですか」
オルレナが私を見る。
「何がです」
「理由があっても、したことは消えないって」
「消えませんよ」
即答だった。
「私は一度も、消えるなどと言っていません」
その答えに、こちらのほうが黙った。
オルレナはユリウスへ視線を戻す。
「あなたの母親と妹さん、お子さんは王都西区の旧療養院にいます。危害は加えられていません」
「甥です」
「失礼しました」
ユリウスの呼吸が乱れる。
執行官がすぐ警備官へ指示を出した。
場所の確認。
救出。
オルレナは止めなかった。
「どうして」
私は聞いた。
「ここまで来て、場所を言うんですか」
「目的を終えたからです」
「原本を移させることが?」
「ええ」
「処分するつもりだったんじゃないんですか」
ユリウスが顔を上げた。
オルレナは彼を見る。
「そう言えば、あなたは従うと思いました」
ユリウスの顔から血の気が引いた。
「嘘だった?」
「原本を破棄するつもりはありませんでした」
私は、銀色の箱を見る。
「なぜ?」
「捨てたら、戻せないからです」
昨日、ユリウスが言ったのと同じだった。
技術者なら、原本を捨てない。
オルレナは総裁である前に、記憶術者なのだ。
「じゃあ、何のためにここへ移したんです」
「あなた方が見つけたから」
「隠すため?」
「守るためでもあります」
リオラが鼻で笑った。
「誰から?」
「誰からでも」
オルレナは平然としている。
「国家から。法院から。王家から。正義を急ぐ人から。復讐したい人から」
「あなた自身からは?」
私が聞く。
ほんの少し。
彼女の目が細くなった。
「それも含めるべきでしょうね」
*
法院術者が一つ目の確認を終えた。
「晶石自体に著しい損傷なし。銀縁も古いですが保持されています」
「内容確認は?」
執行官が聞く。
「ここでは行いません。正式な閲覧手続きが必要です」
よかった。
その場で見る流れにはならなかった。
私はまだ、何が入っているか知らない。
それでいい。
順番がある。
オルレナが言った。
「正しい判断です」
リオラが振り返る。
「あなた、ずいぶん余裕があるのね」
「余裕ではありません」
「じゃあ何?」
「十二年前にも、同じように皆が急いだので」
室内が静かになった。
白鐘広場。
とうとう。
そこへ行く。
「何があったんですか」
私は聞いた。
オルレナはすぐに答えなかった。
古い抽出台へ手を置く。
「あなたは、公式記録を読みましたね」
「はい」
「武装した反王派が白鐘広場で兵士へ攻撃し、鎮圧された」
「その記録と、生存者の記憶が不自然なくらい似ていた」
「ええ」
「元の記憶には何があるんです」
「それを知るために来たのでしょう」
「あなたの口からも聞きたい」
オルレナは少し考えた。
「兵士が先に動きました」
ユリウスが息を呑んだ。
リオラの表情が変わる。
私は何も言わなかった。
「命令は?」
「当時の国王と、その周囲です」
「反王派が攻撃したという記録は?」
「後から整えられました」
「記憶も?」
オルレナは私を見る。
「はい」
ようやく。
本人の口から出た。
でも。
言葉だけでは証拠にならない。
「あなたが編集した?」
リオラが聞く。
「私一人ではありません」
「あなたは?」
「関与しました」
ユリウスが椅子へ手をついた。
私は胸の鼓動が速くなるのを感じた。
それでも、問いを急がない。
「どうして?」
オルレナは、むしろその質問を待っていたようだった。
「翌日、王都で何が起きていたか知っていますか」
「暴動?」
「それだけではない」
彼女は淡々と話し始めた。
鎮圧直後。
王位継承を巡る対立。
兵舎の一部が命令系統を失い、複数の貴族が私兵を動かした。
白鐘広場で王軍が非武装の市民を先に攻撃したと広まれば、別の部隊が王宮へ向かう可能性が高かった。
「だから記憶を書き換えた?」
「だから、事実の流通を止めました」
「同じでしょう」
「いいえ」
オルレナは首を振った。
「私は、真実だから流通させるべきだという考えを信用していません」
その声には迷いがなかった。
「真実を知った人間が、必ず正しい行動をすると思いますか」
「思いません」
私は答えた。
彼女の目がわずかに動く。
「なら分かるでしょう」
「いいえ」
私は続けた。
「真実を知れば幸せになるとも、正しくなるとも思っていません」
オルレナは黙る。
「でも、それとあなたが他人の記憶を変えていいことは別です」
「数百人が死ぬ可能性があった」
「可能性ですね」
「高い可能性です」
「だから?」
「だから私は選びました」
オルレナの声が初めて少し強くなった。
「十数人の記憶と引き換えに、王都を内戦から遠ざけることを」
「本人たちには?」
「説明していません」
「同意は?」
「取っていません」
「それでも正しかった?」
長い沈黙。
「結果として、多くの人が生きました」
答えになっているようで。
なっていない。
「それで」
私は聞いた。
「記憶を変えられた人たちは?」
オルレナが目を伏せた。
「眠れるようになった人もいます」
「それを本人が望んだ?」
「夜ごと叫んでいた兵士もいた。自分が民間人を斬ったことに耐えられず、自殺を図った者も」
「だから忘れさせた」
「生きたでしょう」
「本人が選んでいなくても?」
オルレナの視線が上がる。
「死ぬ自由まで尊重することが、あなたの言う自己決定ですか」
刺さる。
簡単には答えられない。
私は少し考えた。
「違うと思います」
「では?」
「止めることはあると思う。今まさに死のうとしている人を押さえるとか、危険な場所から連れ出すとか」
「記憶を消すことと何が違う?」
「あとで返せるかどうか」
私は答えた。
「その人が落ち着いたあと、自分で考え直せるかどうか」
オルレナの目が細くなる。
「記憶を変えたら、その判断をする自分まで変わる」
私は胸のあたりへ手を置いた。
「だから怖いんです」
七年間を失った私には。
それが分かる。
「あなたは、救ったあとも選択を返していない」
誰も話さなかった。
「幸福な無知」
オルレナが静かに言った。
「私は、それを悪だとは思いません」
「私も悪だとは言ってません」
今度は彼女が驚いた。
「知らないほうが幸せなことはあると思います。忘れたい人もいる。実際、縁切り売却をしてよかったと言った人にも会いました」
ミラ。
夫を愛していたけれど。
自分の人生を選ぶために。
忘れた人。
「問題は」
私は言葉を選んだ。
「その幸福を、誰が選んだかです」
オルレナの口元から、ほんの少し笑みが消えた。
「あなたが正しいと思う幸福を」
私は続ける。
「他人の頭の中へ押し込んだら、それはその人の幸福じゃない」
「では、間違った選択をする自由も守る?」
「たぶん」
「死ぬかもしれなくても?」
ギデオン。
第20話。
彼が最も怖がったこと。
私が危険を知っても進むこと。
私は、すぐには答えられなかった。
「怖いです」
正直に言った。
「自分が誰かを大事に思っていたら、止めたくなると思う」
「それでも?」
「危険を説明して、選択肢を出して、できるだけ助ける。でも最後のところで、その人の人生を私のものにはしたくない」
ギデオンが。
できなかったこと。
オルレナも。
してきたこと。
そして。
私だって。
いつかやるかもしれないこと。
「立派ですね」
オルレナが言った。
皮肉には聞こえなかった。
「実際に何百人の命が掛かったとき、それを言えるかしら」
「分かりません」
私は答えた。
「そのときの私は、間違えるかもしれない」
自分を。
正しい側へ置きたくなかった。
「でも、間違えたあとに『救ったんだから正しかった』で終わらせたくはないです」
オルレナは長く私を見た。
*
法院術者が最後の晶石を確認した。
「十七件すべて、現時点で閲覧可能性あり。ただし内容の連続性と原資料性については、正式鑑定が必要です」
執行官が保全封印を施す。
これで。
オルレナ一人では触れられない。
私はようやく少し肩の力を抜いた。
「総裁」
執行官が言う。
「本日の証言について、任意で記録化に応じますか」
「応じます」
「ユリウス・フェインの家族移送への関与も?」
「質問されれば」
「身柄については、捜査機関と法院の判断を待っていただきます」
「分かりました」
逮捕。
ではない。
少なくとも今は。
彼女が白鐘広場の記憶編集へ関与したという発言も、家族の拘束も、まだ裏付けが必要だ。
私は、それでいいと思った。
急がない。
この人を悪者にして終わらせるために来たわけではない。
原本が何を示すか。
そこを見る。
オルレナが、保全された十七件の晶石へ目を向けた。
「エステル」
「何ですか」
「その中には、あなたが望んでいる答えだけが入っているわけではありませんよ」
「分かっています」
「本当に?」
彼女はR-04-118を見る。
「あなたが失った七年間と、無関係ではないものもある」
胸が跳ねた。
「どういう意味?」
「あなたの殺害命令記憶が、なぜあの形に作れたと思いますか」
私は答えない。
「材料が必要です」
それは知っている。
複数の本物の記憶断片を接続する。
違う場面の言葉を。
一つの出来事に見せる。
「私の七年間から取った?」
「少なくとも一部は」
オルレナが答える。
「では、『殺して』は?」
「今ここで答えても、あなたは信じないでしょう」
「証拠がないから」
「ええ」
そこは。
同意できる。
「だから見ればいい」
オルレナは言った。
「ただし」
また。
その目が。
私を見る。
「外から眺めるだけで、すべてが分かると思わないことです」
「どういう意味ですか」
「記憶は映像ではありません」
それも。
最初から知っている。
主観。
感情。
身体感覚。
関係。
「断片を外から見れば、何が起きたかは追えるでしょう」
オルレナは言う。
「けれど、その記憶を持っていたあなたが、なぜその言葉を口にしたのか」
「誰を恐れ」
「誰を信じ」
「何を選ぼうとしていたのか」
「それを完全に理解するには」
彼女は。
私の胸元を見る。
「あなた自身へ戻すのが、一番確実です」
私は。
何も答えなかった。
七年間。
全部。
戻す。
第27話で。
一度断った。
でも。
今度は。
事件の証拠として。
必要だと言われている。
「それは」
リオラがすぐ口を挟む。
「今この場で決めることではない」
「もちろん」
オルレナはあっさり引いた。
「決めるのは彼女です」
その言葉に。
私は。
かえって警戒した。
この人は。
私の言葉を理解している。
理解した上で。
別の答えへ導こうとしている。
執行官が移送準備を始める。
十七件の原資料。
十二年前の白鐘広場。
私の偽造された殺害命令記憶。
そして。
失った七年間。
全部が。
同じ箱へ集まった。
真実が見つかったわけではない。
ようやく。
真実を確かめられる場所まで来ただけだ。
私は保全箱を見つめた。
オルレナの言ったことが。
頭の中に残っている。
外から見るのか。
自分へ戻すのか。
その選択まで。
誰かに決められるつもりはなかった。




