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第39話 裏切りには、理由がある

令状が下りたのは、翌朝六時四十分だった。


王立記憶院地下零庫に対する緊急証拠保全命令。対象はR-04-102から118までの十七件で、白鐘広場の原資料と考えられる十六件に加え、私の殺害命令記憶へつながる謎の一件も含まれている。


七時十五分、私はリオラとともに保護館を出た。


「ユリウスは?」


馬車へ乗り込んで尋ねると、リオラは膝の上の書類を確認しながら答えた。


「記憶院で合流する予定よ。法院の執行官二名も現地集合」


「本人から何か連絡は?」


「昨夜、令状が出た場合は封緘担当として立ち会う、と。それだけ」


私は窓の外へ目を向けた。


朝の王都はまだ半分眠っている。パン屋が戸を開け、通りでは清掃人が水を撒いている。そんな普通の朝に、十二年間隠されていた記憶を取りに行くというのが妙だった。


「エステル」


「何?」


「昨日からユリウスを気にしてるでしょう」


やっぱり気づかれていた。


「手が震えてたから」


「それだけ?」


「子どもの絵も持ってた。たぶん甥の」


リオラが顔を上げる。


「疑ってる?」


私は少し考えた。


水損した原簿。予定外の棚卸し。怯えていたユリウス。母と妹、それに七歳の甥。


並べれば、いくらでも嫌な物語を作れる。


でも私は、これまで何度もそれをやった。空白があると、自分が一番恐れている答えを入れてしまう。


「分からない。だから今は何もしない」


「本人にも聞かない?」


「証拠もないのに『家族を人質に取られてませんか』なんて聞かれたら、私なら嫌」


「慎重になったわね」


「最初の私、そんなにひどかった?」


「ギデオンが絡むと特に」


「それは今も完全には信用してないから」


「そこは否定しないのね」


少しだけ笑えた。


やがて、王立記憶院の白い尖塔が曇り空の向こうに見えてきた。


*


正面玄関で待っていたのは、ユリウスではなかった。


記憶院の副総裁と法務官三名、それに法院執行官二名が並んでいる。


「王立記憶院は命令に従います」


副総裁はそう言って一礼した。


「ただし、地下零庫という名称の正式保管区画は当院の施設台帳には存在しません」


リオラが令状の写しを差し出す。


「存在するかどうかを確認することも、今回の保全命令に含まれています」


「承知しております」


穏やかな受け答えだったが、歓迎されていないことだけは分かる。


私は周囲を見回した。


「ユリウス・フェイン封緘官は?」


副総裁の眉がわずかに動く。


「まだ出勤していません」


「今日の立会担当のはずですが」


「そのように聞いております。ただ、現在は連絡が取れません」


私は時計を見る。七時五十二分。


集合予定から、まだ七分しか経っていない。それだけなら遅刻の範囲だ。


「待ちますか?」


私が尋ねると、リオラは首を振った。


「令状の執行を優先するわ」


そうだ。私たちはユリウスに会いに来たわけではない。


原本を守りに来た。


*


地下第二保管庫までは以前にも来たことがある。


その先の職員用通路を抜け、さらに狭い階段を下りると、銀灯の数が少なくなった。冷たい空気の中で、靴音だけが石壁へ硬く返る。


副総裁が一枚目の鉄扉の前で立ち止まった。


「この先は旧設備区画です」


「施設台帳には載っている?」


執行官が尋ねる。


「はい。ただし保管庫としてではありません」


二本の鍵を別々の職員が同時に回すと、扉が低い音を立てて開いた。


その向こうには、細い廊下と棚番号、温度計、防湿術式が並んでいる。


私は思わず口を開いた。


「これで保管庫ではないんですか?」


副総裁は答えなかった。


廊下の最奥には、番号すら付いていない銀色の扉があった。


「開錠してください」


執行官が命じる。


ところが、副総裁も施設管理官も鍵を持っていなかった。


「総裁権限で管理されています」


「オルレナ総裁は?」


「本日は王宮で会議と聞いております」


リオラと視線が合う。


執行官が総裁室へ開錠鍵の提出を命じ、私たちはその場で待った。


十五分ほどして、職員が小さな黒箱を持って降りてくる。中に入っていた銀鍵を使う前に、施設管理官が扉の封印状態を確認した。


「封印破損なし」


「最終開錠記録は?」


帳簿を開いた管理官の手が止まる。


「どうしました?」


「昨夜、開いています」


空気が変わった。


「時刻は?」


「二十三時十八分」


リオラの声が低くなる。


「開錠者は?」


「オルレナ・ヴェイス総裁」


胸の奥が冷える。


管理官は、もう一つの名前を読み上げる前に一度息を飲んだ。


「立会封緘官は、ユリウス・フェインです」


*


扉の向こうにあった地下零庫は、想像していたより狭かった。


六列の棚に銀色の保管箱が並び、新旧さまざまな記憶晶が、存在すら公にされないまま眠っている。


けれど、私たちが探す場所は決まっていた。


第四列。


R区分。


百番台。


執行官が順に確認していく。


R-04-099。


100。


101。


そして、その先には箱の置かれていた四角い跡だけが残っていた。


102がない。


103もない。


私は息を詰めながら棚を追った。


117まで、すべて空。


最後の118も消えている。


十七件。


全部だ。


「移送記録を!」


執行官の声が飛ぶ。


施設管理官が帳簿をめくり、昨夜二十三時四十六分の記録を見つけた。


「R-04-102から118まで、一括搬出」


「移送先は?」


「記載がありません」


「搬出責任者は?」


管理官が苦しそうに答えた。


「ユリウス・フェイン封緘官です」


私は言葉を失った。


*


地上へ戻ると、法院はすぐユリウスの所在確認を始めた。


記憶院への出勤記録はなし。自宅にもいない。


さらに、同居する母親、妹、七歳の甥も全員不在だった。


「逃げたと思う?」


私は小会議室でリオラに尋ねた。


「そう見える材料はある」


「でも家族まで?」


「逃げるなら連れていくでしょう」


「そうなんだけど……」


私は昨夜見た子どもの絵を思い出した。


問題は順番だ。


原本が搬出されたのは深夜。


家族がいつ消えたか。


そこが分からない。


「自宅を調べたい」


「令状はすでに申請してる」


それから一時間後、私たちはユリウスの自宅へ入った。


部屋は荒らされていない。むしろ、突然逃げた家とは思えないほど生活の形が残っていた。


衣類も食器もそのまま。母親の薬だけが三日分なくなっている。


「長期逃亡の準備には見えないわね」


リオラが言う。


「急いで出たなら?」


「それもあり得る」


私はユリウスの机を見た。


記憶院の規則集。


マルセル判事の記事。


児童向けの本。


机の端には、昨日の日付で《十五時 歯医者》と書かれた小さな紙がある。


予約を守るつもりだった人間が、その夜突然一家で逃亡した。


意味があるかは分からないが、私は調査官に渡した。


そのとき、寝室からリオラに呼ばれた。


ゴミ箱の中に、破られた無地の封筒がある。


中身はない。


ただ、何かを強く書いた跡が下の紙へ残っていた。


調査官が黒鉛を薄く滑らせると、断片的な文字が浮かんだ。


《……学校》


《……母上》


そして最後だけ、はっきりしている。


《午前零時まで》


私はリオラを見る。


「脅迫状?」


「可能性は高い。でも、これだけでは断定しない」


「うん」


そう答えながらも、指先が冷たくなっていた。


*


近所の住民から、昨夜九時ごろに黒い馬車が来ていたという証言が取れた。


「ユリウスさんですか?」


調査官が尋ねる。


「いや、知らない男が二人だったよ」


「家族は?」


「お母さんと妹さん、それに坊やが乗っていった」


「自分から?」


老人は首を傾げた。


「そこまでは分からん。ただ、坊やは泣いてたな」


私は時刻を書き留める。


午後九時。


地下零庫が開いたのは二十三時十八分。


家族のほうが先だった。


「順番が逆ね」


リオラが呟く。


一家で逃げたあと、ユリウスが原本を持ち出したのではない。


家族が先に消え、その二時間後に彼はオルレナと地下へ入っている。


その事実が、意味するものは一つに限らない。


それでも、最初に見えた「自分から裏切って家族と逃亡した」という筋書きは、かなり弱くなった。


*


午後二時過ぎ。


ユリウス本人が法院へ出頭した。


家族は一緒ではなかった。


私は事情聴取室の外から彼を見た。


昨日と同じ服。髪は乱れ、顔色は真っ白だった。


「本人があなたとの面会を希望してる」


リオラが言う。


私は少し迷ってから頷いた。


怒っている。


あれほど追った原本を、彼は自分の手で持ち出した。


脅されていたとしても、その事実は消えない。


だからこそ、本人から聞く。


*


「何をしたのか、あなたの言葉で教えてください」


向かいのユリウスは、しばらく私を見られなかった。


やがて、震える声で答える。


「地下零庫から、R-04-102から118までを取り出しました」


「誰に渡したの?」


「オルレナ総裁です」


「命令された?」


「はい」


「どうして断らなかった?」


その質問で、彼の顔が崩れた。


「家族を連れていかれました」


やはり。


私はすぐに慰める言葉を言わず、続きを待った。


「総裁室へ呼ばれて、甥の靴を見せられました。妹の筆跡の手紙も」


「従わなければ?」


ユリウスは答えなかった。


答える必要もなかった。


「それで原本を渡した」


「はい」


「私たちにも、法院にも言わなかった」


「はい」


「叔父さんが命をかけて追っていたものを、自分で相手へ返した」


ユリウスの目から涙が落ちた。


「……はい」


私は胸の奥の痛みを、そのまま言葉にした。


「家族を選んだことを、安全な場所にいる私が簡単に責めるのは違うと思います。私だって同じ状況なら、何をするか分からない」


彼が顔を上げる。


「でも、私はあなたに裏切られました」


ユリウスの唇が震えた。


「はい」


「理由があることと、したことがなくなることは別です」


以前。


ギデオンにも同じことを考えた。


愛していた。


怖かった。


守りたかった。


理由は、人の行動を理解する助けにはなる。


でも、責任そのものを消してはくれない。


「分かっています」


ユリウスは涙を拭わずに言った。


「処分も受けます。でも、その前に全部話します。自分に不利なことも」


「なら、原本は今どこ?」


リオラが尋ねた。


ユリウスはすぐ答えた。


「総裁は、十七件を別の封緘箱へ移しました。そのあと地下零庫よりさらに下の旧術式室へ運ばせました」


「用途は?」


「十二年前まで、記憶の接続処理に使われていた場所です」


私は息を止めた。


「今は?」


「閉鎖されたことになっています」


「オルレナはそこに?」


「僕が見た時点では」


「原本も?」


「はい」


リオラが立ち上がる。


「令状を拡張する」


「待ってください」


ユリウスが彼女を止めた。


「総裁は、明日の朝までに原本を処分すると言っていました」


*


法院はすぐ動いた。


令状の拡張と同時に、王都警備隊がユリウスの家族の捜索を開始する。


私は廊下の椅子に座り、結果を待った。


ギデオンへ連絡しようとは思わなかった。


以前なら、彼の権限があればもっと早く動けると考えたかもしれない。


けれど今は違う。


彼は自分から権限を手放した。


そして私は、それを再び私のために使わせたくない。


遅くても、正式な手続きで行く。


午後四時十二分。


追加令状が下りた。


対象は、王立記憶院旧地下術式区画。


私たちは法院執行官四名と警備官六名を伴い、再び記憶院の地下へ向かった。拘束下のユリウスも、証拠位置を案内するため同行している。


地下第二保管庫を抜け、旧設備区画から零庫へ進み、その最奥でユリウスが棚の裏を指した。


「ここです」


一見すると石壁だった。


だが銀灯を近づけると、細い扉の継ぎ目が見える。


鍵はオルレナしか持っていない。


そして本人は、王宮の会議にも出席していなかった。


「強制開錠」


執行官が命じた。


古い扉は頑丈で、開くまでにかなり時間がかかった。


その間、私は警備官を挟んで立つユリウスへ声をかけた。


「家族は今、探してもらってる」


「はい」


「見つかるとは約束できない」


「分かっています」


「だからあなたは、知っていることを全部話して」


彼は今度こそ迷わなかった。


「はい」


金属が軋み、扉がゆっくりと開いた。


その先には、冷たい空気の流れる階段が地下へ続いていた。


私たちは執行官を先頭に、一段ずつ降りていく。


壁には黒ずんだ銀の術式痕が残っている。


やがて階段が終わり、広い空間へ出た。


中央には古い記憶抽出台。その周囲には、複数の記憶を接続するための銀線が床を這っている。


そして奥。


銀色の保管箱の前に、一人の女が立っていた。


オルレナ・ヴェイス。


王立記憶院総裁。


彼女は逃げていなかった。


「オルレナ・ヴェイス総裁」


執行官が前へ出る。


「法院の証拠保全命令により、その箱から離れてください」


「聞こえています」


オルレナは静かに答えた。


その手には、小さな銀色の記憶晶がある。


彼女は執行官ではなく、私を見た。


「エステル・ローヴェン」


初めて。


公爵夫人とも。


元夫の姓でもなく。


私自身の名を呼ばれた。


「ずいぶん遠くまで来ましたね」


私は保管箱を見る。


十七件。


ここにあるのか。


「その記憶を置いてください」


私が言うと、オルレナは指先の晶石を光へかざした。


「あなたは本当に」


穏やかな声だった。


「すべてを知りたいのですか」


私は彼女の目を見る。


「それを決めるのは、あなたではありません」


オルレナは少しだけ笑った。


嬉しそうではなかった。


むしろ、ずっと前から答えを知っていた人のような、寂しい笑みだった。


「そうですね」


彼女は言った。


「あなたなら、そう答えると思っていました」


銀色の記憶晶が、彼女の指先で静かに光っていた。

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