第38話 消された十七番目の記憶
「B-31-033は、存在しないことになっています」
ユリウスは、そう言って古い索引簿を開いた。
記憶法院の資料閲覧室。
窓の外は曇っている。
昨夜からほとんど眠れなかった私は、冷めかけた紅茶を横へ押した。
昨日。
法廷は、私がマルセル判事の殺害を命じたとされる記憶を、
《単一の連続した真正記憶とは認めない》
と判断した。
そしてその直後。
ユリウスが見つけた。
白鐘広場の十六件。
初回番号。
B-31-017から032。
その直後に位置する。
B-31-033。
現在、私の殺害命令記憶へ付けられている番号を、十二年前の付番規則まで遡ると。
そこへ行き着く。
「存在しないって」
私は聞く。
「番号だけがない?」
「違います」
ユリウスは首を振った。
今日は昨日より顔色が悪い。
目の下に薄い影。
それでも、手の震えは少しだけ収まっている。
「当時の通常索引では、032の次が034になっています」
「欠番?」
「表面上は」
リオラが横から聞く。
「欠番処理記録は?」
「ありません」
第31話でも聞いた。
正規の欠番には。
理由が必要。
番号発行取消。
晶石破損。
重複発番。
何でも。
記録が残る。
「なら」
私は紙へ書く。
《033 欠番記録なし》
「誰かが消した?」
言ったあと。
自分で首を振った。
「まだ分からない」
「はい」
ユリウスが答える。
少し。
私を見た。
たぶん。
前ならすぐ断定したと思っていたのかもしれない。
「ただ」
彼は別の帳簿を開く。
「番号を完全に消すのは、かなり難しいです」
「なぜ?」
「同じ番号が一つの台帳にしか残らないわけではないから」
机の上へ。
三冊。
「これは初回受理索引」
一冊目。
「これは銀縁刻印機の使用簿」
二冊目。
「これは保管棚の割当簿」
三冊目。
私は。
少し笑った。
「役所って、帳簿多いですね」
ユリウスが初めて少し笑った。
「本当に」
「嫌い?」
「仕事なので」
「好きではないんだ」
「好きな人は、たぶん上級封緘官になります」
リオラが呆れたように言う。
「そこ、笑ってる場合?」
「重い話ばかりだと息が詰まるので」
私が答える。
第26話の自分の言葉を思い出して。
少しだけ。
変な気分になった。
「続けましょう」
*
銀縁刻印機。
正規の記憶晶には。
抽出日時。
術者。
立会人。
保管番号。
それらが銀の縁へ刻まれる。
そして刻印機を使うたび。
どの番号を。
いつ。
誰が。
どの晶石へ刻んだか。
使用簿へ残る。
「十二年前」
ユリウスが指を滑らせる。
「白鐘広場十六件」
017。
018。
019。
続く。
032。
全部ある。
「その次」
私は言う。
ユリウスが頁をめくる。
034。
「033がない」
「はい」
「こっちも?」
「表向きは」
表向き。
嫌な言葉。
「何かある?」
ユリウスは。
一冊の背表紙を見た。
「この帳簿」
「うん」
「頁番号を見てください」
下。
二百十一。
次。
二百十三。
私は。
瞬きをした。
「二百十二は?」
「ありません」
リオラが帳簿を覗く。
「破られてる?」
「綴じ目を」
ユリウスが示す。
古い革装丁。
糸。
一部だけ。
不自然に詰まっている。
「頁そのものが抜かれた?」
「可能性が高いです」
「いつ?」
「分かりません」
「十二年前?」
「それも分からない」
私は。
そこへ線を引く。
《刻印使用簿 1頁欠落》
まだ。
033の頁だったとは。
言えない。
「前後の日付は?」
リオラが聞く。
二百十一。
白鐘広場の再封緘作業前日。
二百十三。
再封緘作業翌日。
私は。
ユリウスを見る。
「ちょうど?」
「はい」
空白の二百十二頁が。
白鐘広場再封緘日を含む可能性。
「偶然で説明できる?」
私は聞く。
ユリウスが困った顔をした。
「帳簿の頁が抜けること自体は」
「ある?」
「古い記録なので」
「でも」
「この位置は、かなり嫌です」
私も。
そう思う。
*
次。
保管棚割当簿。
これは。
番号そのものではなく。
どの棚の。
どの箱に。
どの晶石を置いたか。
記録するもの。
「白鐘広場」
ユリウスが言う。
十六件。
最初。
地下第一保管庫。
第三列。
箱四から十九。
連続。
「十六個」
「はい」
「033は?」
「これです」
私は身を乗り出した。
箱二十。
記載。
ある。
番号欄。
黒いインクで。
横線。
削除。
その上に。
別の番号。
「読める?」
「光を変えます」
ユリウスが机の銀灯を横から当てる。
紙が。
少し透ける。
削られた文字。
完全ではない。
でも。
最後。
三。
三。
「B-31-033?」
私は聞く。
「断定できません」
ユリウス。
「ただ、末尾は33に見えます」
「箱二十には何が?」
その横。
内容欄。
これも。
削られている。
でも。
一部分だけ残っている。
《白鐘――》
そこで。
消えている。
私は。
息を止めた。
「白鐘?」
リオラの声も低い。
「広場?」
「そこまでは読めません」
ユリウス。
「でも、この箱は」
彼が。
箱四から二十まで指す。
「白鐘広場十六件の直後に割り当てられています」
十六件。
箱四から十九。
そして。
箱二十。
033らしき記録。
内容。
白鐘――。
「十七個あった?」
私は言った。
誰も。
すぐには答えなかった。
「少なくとも」
リオラが慎重に言う。
「当時、十六件の直後に別のB区分晶が保管された記録がある」
「それが033の可能性が高い」
「ええ」
「白鐘関連の?」
「その可能性も高い」
でも。
まだ。
何の記憶かは。
分からない。
*
「原本群って」
私は聞いた。
「そもそも何を指すの?」
ユリウスが顔を上げる。
「現在保管されている白鐘広場十六件の記憶晶は」
「再封緘後のものです」
「うん」
「再封緘前の晶石は?」
「通常なら?」
「内容変更を伴わない再封緘なら、同じ晶石を再封することもあります」
「伴う場合は?」
一瞬。
ユリウスが言葉を選ぶ。
「編集、という意味なら」
「はい」
「正規手続きでは、編集前記憶は廃棄せず、原資料として別封緘します」
私は。
ペンを止めた。
「残す?」
「はい」
「絶対?」
「重大証言記憶なら」
ユリウスが答える。
「原記憶を消して編集後だけ残せば、後で検証できなくなる」
「当たり前だね」
「です」
つまり。
もし。
十二年前に。
白鐘広場十六件へ何らかの編集を行ったなら。
正規手続き上は。
編集前が残る。
「でも」
リオラが言う。
「公式には編集したことになってない」
「はい」
「再封緘理由は《記録統合上の整理》」
「そうです」
なら。
原資料保管の記録を。
表へ出す必要もない。
「隠して残す?」
私が聞く。
ユリウスの表情が。
少し硬くなった。
「技術者なら」
「何?」
「捨てないと思います」
「どうして?」
「戻れなくなるから」
その言葉。
胸に引っかかった。
「記憶編集は」
ユリウスが続ける。
「失敗する可能性があります」
「接続位置が悪い」
「必要な感覚まで欠ける」
「後から別の形へ作り直す」
「そのとき」
「元がなければ何もできない」
だから。
不正な編集をした人間でも。
原本を残す合理性がある。
「どこに?」
私は聞く。
「それを探します」
*
手がかりは。
箱二十だった。
保管棚割当簿。
箱二十。
後から別番号へ書き換えられている。
現在番号。
《R-04-118》
「R?」
私は聞く。
「保留原資料区分」
「原資料」
三人の声が。
ほとんど重なった。
ユリウスが頁をめくる。
R区分。
通常。
編集・再抽出・医療処置などで。
元資料を残す場合に使う。
「R-04-118は?」
現在索引。
記載。
《行政処理済資料》
内容。
非公開。
保管先。
《移管》
「どこへ?」
その欄。
空白。
「また?」
私は思わず言った。
リオラが額へ手を当てる。
「この国、空欄多すぎない?」
ユリウスが申し訳なさそうな顔をする。
「正常な記録はもっと埋まっています」
「でしょうね」
「だから異常なんです」
それもそう。
「移管元記録は?」
「追えます」
今度は。
移送指示簿。
R-04-118。
十二年前。
再封緘から三日後。
《特別保全》
承認。
総裁室。
搬送先。
番号。
文字ではなく。
記号。
《地下零庫》
私は。
初めて聞いた。
「零?」
リオラも。
「そんな保管庫、資料にあった?」
ユリウスが。
答えない。
顔が。
明らかに変わっている。
「知ってる?」
私が聞く。
「……はい」
「どこ?」
彼は。
周囲を見る。
資料閲覧室。
今日は法院職員が入口にいる。
扉は閉じている。
それでも。
声が小さくなった。
「王立記憶院の地下です」
「地下第二より?」
「下」
「何を保管する場所?」
「正式には」
ユリウスが言う。
「存在しません」
私は。
少し笑いそうになって。
笑えなかった。
「また存在しない」
「院内の一部上級職員だけが知る保管区画です」
「あなたは下級封緘官でしょう?」
リオラが聞く。
ユリウスの顔が。
さらに硬くなる。
「叔父に聞きました」
マルセル。
「いつ?」
「死ぬ前」
「番号を信じるな、と言われたとき?」
「その少し前」
ユリウスの指が。
机の下で握られる。
「地下零庫に」
「何があるって?」
「叔父は」
声が。
震える。
「『公式記録に残せない原本を、国は捨てない』と」
部屋が。
静まる。
私は。
背中が冷えるのを感じた。
「白鐘広場?」
「叔父は名前まで言いませんでした」
「でも」
「その後で、白鐘広場の番号を調べていた」
「はい」
*
地下零庫。
存在しない保管庫。
R-04-118。
元は。
B-31-033の可能性。
白鐘関連。
でも。
それだけでは。
十六件の編集前原本群が。
そこにあるとは言えない。
「十六件のR区分を探せない?」
私が聞く。
「元番号から?」
ユリウスが。
今度は少し仕事の顔になる。
「やってみます」
紙。
計算。
変換規則。
再封緘日。
処理番号。
白鐘広場十六件の現番号。
一つずつ。
逆引きする。
時間がかかった。
一時間。
途中で。
私は紅茶を入れ直した。
ユリウスにも。
今度は断られなかった。
「砂糖?」
「一つ」
「リオラは?」
「二つ」
「多い」
「頭使ってるから」
「私も」
「あなたは蜂蜜」
「なぜ?」
「好きでしょう」
手が。
止まった。
理由の分からないところで。
ギデオンを思い出した。
蜂蜜。
厨房。
過去の記憶。
私は。
少しだけ笑った。
「今日は砂糖」
「そう」
今の私が。
選ぶ。
それでいい。
*
午後三時過ぎ。
ユリウスが。
突然。
紙へ顔を近づけた。
「ありました」
私とリオラが。
同時に立つ。
「何?」
「R区分」
一覧。
R-04-102。
103。
104。
続く。
117。
十六件。
「連番」
私は言う。
「はい」
「その次が?」
R-04-118。
箱二十から移された。
謎の一件。
「102から117」
リオラが数える。
「十六」
「そして118」
「十七」
私は。
呼吸を整える。
「保管先は?」
ユリウスが。
一つずつ確認する。
全部。
同じ。
《地下零庫》
私は。
椅子へゆっくり座った。
ようやく。
見えた。
現在の白鐘広場十六件。
その前。
編集か。
再処理か。
何かを受ける前の。
原資料らしい十六件。
さらに。
その直後。
謎の十七番目。
全部。
存在しないことになっている。
地下零庫へ。
「これで」
私は聞く。
「原本があると証明できる?」
リオラが答える。
「少なくとも」
慎重に。
「十二年前、白鐘広場十六件に対応すると考えられるR区分資料十六件が作成され、地下零庫へ移管された記録がある」
「現在もあるかは?」
「未確認」
「中身も?」
「未確認」
「編集前かどうかも?」
「非常に可能性は高い。でも現物を見るまでは」
私は頷いた。
それでいい。
場所まで。
来た。
*
問題は。
どうやって入るか。
「法院令状」
リオラが言う。
「存在しない保管庫に?」
「今、存在を示す記録が出た」
「王立記憶院は認める?」
「認めなくても法院が判断する」
ユリウスが。
急に口を開く。
「急いだほうがいいです」
私たちは。
彼を見る。
「なぜ?」
「昨日」
声が低い。
「総裁室から」
また。
オルレナ。
「地下保管区画の棚卸し命令が出ました」
「零庫も?」
「命令書には書かれていません」
「でも?」
「対象区画番号が」
ユリウスが言う。
「零庫へ通じる管理区画を含んでいます」
「何のための棚卸し?」
「年度監査前の整理」
普通。
にも聞こえる。
タイミング以外は。
「毎年この時期?」
リオラが聞く。
「通常は一月後です」
空気が。
変わる。
偶然。
まだ。
あり得る。
でも。
「令状」
私は言う。
「今日中に」
「取る」
リオラが立つ。
ユリウスも。
立ち上がりかける。
そのとき。
彼の鞄から。
小さな紙が落ちた。
床。
私は。
反射的に拾おうとして。
止まった。
人のもの。
勝手に見ない。
「落ちました」
指す。
ユリウスの顔が。
一瞬。
凍った。
彼が急いで拾う。
でも。
裏側だけ。
見えた。
子どもの絵。
三人の大人。
小さな子。
家。
文字。
《ユリウスおじちゃんへ》
甥。
七歳。
私は。
何も言わなかった。
ただ。
彼の手が。
また。
震え始めたことだけを。
覚えた。
*
夕方。
法院へ令状申請。
対象。
王立記憶院地下零庫。
保全対象。
R-04-102〜118。
理由。
白鐘広場事件関連記憶の原資料である可能性。
マルセル判事殺害事件。
私の殺害命令記憶偽造疑惑。
全部。
つながる。
「許可は?」
私は聞く。
リオラが。
提出窓口から戻る。
「緊急審査」
「今日中?」
「可能性はある」
「入れるのは?」
「早くて明朝」
明朝。
長い。
でも。
待つしかない。
私は。
保護館へ戻った。
*
夜。
机へ。
今日の記録。
白鐘広場十六件。
初回番号。
B-31-017〜032。
再処理後と考えられる原資料番号。
R-04-102〜117。
謎の十七番目。
B-31-033。
R-04-118。
保管先。
地下零庫。
そして。
その零庫周辺に。
予定外の棚卸し命令。
私は。
紙の一番下へ。
《明朝、保全へ入る予定》
と書いた。
その横。
少し迷って。
《ユリウス》
手が止まる。
怯えている。
家族。
子どもの絵。
でも。
それだけ。
推測は書かない。
私は。
ペンを置いた。
ここまで。
本当に長かった。
白鐘広場で。
十二年前に何が起きたのか。
まだ。
分からない。
でも。
誰かは。
記憶を消しただけではなかった。
番号を変え。
台帳から消し。
存在しない地下へ。
元の記憶を隠した。
捨てなかった。
それが。
私たちにとって。
初めての希望だった。
真実が。
全部消されたわけではない。
どこかに。
元のままの記憶が。
まだ。
残っているかもしれない。
明日。
それを。
取りに行く。




