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第37話 十一秒の嘘

「弁護側は、本件記憶が一続きの記憶ではないと主張します」


リオラの声が法廷に響いた。


予備審理。


傍聴席は、これまでで一番埋まっている。


前回。


婚姻誓約が将来のすべての記憶処置への永続的同意にはならない、と法院が判断した。


今日は。


もっと直接的な問題。


私がマルセル判事へ、


『殺して』


と命じた。


あの記憶そのものを争う。


私は法廷中央に置かれた銀色の記憶晶を見た。


何度見ても。


小さい。


人一人を殺人犯にできるものには見えない。


「弁護側」


クラウディア審理官が言う。


「これまで、音響上の不連続のみでは編集を立証できないという見解でしたね」


「はい」


「主張を変更する?」


「いいえ」


リオラは首を振った。


「雨音だけでは足りない、という点は現在も同じです」


ベルク検事が資料へ目を落とす。


リオラは続けた。


「本日は、雨音が消失する約十一秒間に、複数の独立した物理情報が同時に変化していることを示します」


私は。


膝の上で両手を組んだ。


十一秒。


あれだけ。


短い時間。


でも。


そこに。


何かがある。


*


最初に呼ばれたのは、サイラスだった。


以前。


殺害命令記憶の詳細検証を担当した法院記憶術者。


宣誓。


リオラが尋ねる。


「本件記憶に音響上の異常はありますか」


「あります」


「内容を」


法廷中央。


記憶が再生される。


薄暗い部屋。


男。


私。


雨。


『マルセル判事は、もう止まらない』


雨。


『どうします』


雨。


『殺して』


雨。


『今夜中に』


――静寂。


紙の擦れる音。


袖。


呼吸。


封筒を渡す。


『書類も持ち出して』


『白鐘に関するものは全部』


ざあああ。


雨が戻る。


映像停止。


サイラスが言う。


「『今夜中に』の直後から約十一秒間、連続していた強雨の環境音が記憶上から消失します」


リオラが聞く。


「それだけで編集と判断できますか」


「いいえ」


即答。


傍聴席が少しざわつく。


リオラは気にしない。


「理由は?」


「人間の注意は均等ではありません。会話や行動へ集中し、背景音への意識が薄れた可能性があります」


「雨音が完全に消えても?」


「あり得ます」


ベルク検事が小さく頷いた。


ここまでは。


前と同じ。


「では」


リオラが言う。


「その十一秒間に、音以外の不連続があった場合は?」


サイラスの目が少し変わった。


「評価は変わります」


「どの程度?」


「不連続同士に合理的な関係がなければ、偶然の記憶欠落という説明は弱くなります」


「例えば」


「指輪の状態が変わる」


胸が。


少し鳴った。


来る。


*


次の証人。


王室宝飾管理官。


高齢の女性だった。


机へ。


二枚の静止画が置かれる。


一枚目。


『殺して』


と言う前の私。


右手。


青石の婚姻指輪。


二枚目。


封筒を渡す私。


同じ右手。


同じ指輪。


「この指輪について説明を」


リオラが言う。


「ヴァルデン公爵家より婚姻時に贈られた指輪です」


管理官が答える。


「青玉石一石。石座の左右に小さな銀葉装飾」


「特徴は?」


「内側に固定突起があります」


「何のため?」


「着用時に石座が回転しにくくするためです」


法廷用の模型が出される。


指輪の内側。


小さな出っ張り。


「絶対に回らない?」


ベルク検事がすぐ聞く。


「いいえ」


管理官は答える。


「指が細くなれば回ります。意図的に動かすことも可能です」


私は。


少し肩の力を抜いた。


そこを隠さない。


「では、この二枚」


リオラ。


前半。


青石横の小さな傷が。


手の甲側。


後半。


ほぼ反対。


掌側。


「約百八十度移動している?」


「そのように見えます」


「十一秒間で起こり得る?」


「起こり得ます」


また。


傍聴席がざわつく。


「どのように?」


「反対の手で指輪を回す。あるいは、何かへ強く引っかかる」


「映像内で?」


「指輪を操作する動作は確認できません」


「何かへ引っかけた?」


「それも見えません」


「つまり」


「可能ではあります」


管理官が慎重に言う。


「ただし、映像内にその原因は確認できない」


まだ。


証明ではない。


でも。


一個。


重なった。


雨が消える。


同じ時間で。


指輪が回る。


*


「次に、場所です」


リオラが言った。


王立記憶院から提出された。


旧記憶再現室の記録。


十二年前から使われていた部屋。


記憶抽出の際。


過去の環境に近い状況を作り。


特定の記憶を引き出す補助をする。


壁。


窓。


机。


燭台。


そして。


時計。


映像が並ぶ。


殺害命令記憶。


旧記憶再現室。


ほぼ同じ。


「検察側」


クラウディア審理官。


ベルク検事が立つ。


「類似していることは認めます。ただし同型家具が複数室で使用されていたとの記録があります」


「その通りです」


リオラが言う。


また認める。


「ですから家具の一致だけで場所を特定するつもりはありません」


「では?」


「時計」


古い写真。


旧記憶再現室。


壁時計。


三。


九。


その数字だけが装飾文字。


殺害命令記憶と同じ。


「この時計は?」


記憶院備品担当者。


「寄贈品です」


「同型品は?」


「院内には一台のみ」


法廷が静かになる。


「設置場所は?」


「旧記憶再現室」


「移動記録は?」


「ありません」


「殺害命令記憶に映る部屋は、旧記憶再現室である可能性が高い?」


担当者は。


慎重に。


「非常に高いと考えます」


初めて。


一つ。


強くなった。


「ここで」


ベルク検事が言う。


「被告人が実際にこの部屋で殺害命令を出した可能性もあります」


当然。


そう来る。


リオラは頷いた。


「あります」


私は。


自分でも。


少し驚かなくなった。


不利な可能性も。


認める。


「ですから」


リオラ。


「次へ進みます」


*


濃紺のドレス。


私が殺害命令記憶の中で着ている。


衣装係の台帳。


《冬月十二日 王立記憶院へ搬入》


私の記憶売却日。


そして。


最近になって。


旧記憶再現室の付属保管庫から発見された。


法廷へ。


現物が持ち込まれた。


透明な保護箱。


濃紺。


袖口に。


銀糸の鳥。


自分の服なのに。


知らない。


「搬入理由」


リオラが読む。


《関係記憶抽出時の補助資料》


「被告人は売却時、このドレスを着用していた?」


「いいえ」


記憶院の抽出立会記録。


灰青色。


私は。


覚えている。


第1話。


あの日。


「つまり」


リオラが言う。


「このドレスは着衣としてではなく、特定記憶を呼び出す補助物として記憶院へ持ち込まれた」


「はい」


「その後、返却記録なし」


「はい」


「廃棄記録なし」


「はい」


「旧記憶再現室の付属保管庫から発見」


「はい」


ベルク検事が立つ。


「これも被告人が以前、その部屋でこのドレスを着ていた記憶が存在した可能性を示すだけです」


リオラが答える。


「その可能性もあります」


まだ。


まだ。


一つでは。


倒れない。


*


「最後に」


リオラが言った。


「時刻を確認します」


壁時計。


九時十一分。


そして。


九時十二分。


前回。


矛盾はなかった。


だから。


私は少し疑問に思った。


時計は。


検察側に有利だったはず。


リオラが別の資料を出す。


旧記憶再現室。


設備管理記録。


「この部屋の時計」


記憶院設備担当者が証言台に座る。


「十二年前から現在まで、機械式ですか」


「はい」


「音は?」


「鳴ります」


「どの程度?」


「振り子と脱進機の音があります」


「聞こえる?」


「静かな室内なら、かなり」


胸が。


鳴った。


殺害命令記憶。


雨。


声。


紙。


呼吸。


でも。


「時計の音」


私は。


初めて気づいた。


聞いた覚えがない。


「記憶を再生します」


サイラス。


音に集中。


雨。


『マルセル判事は、もう止まらない』


男。


『どうします』


雨。


私。


『殺して』


雨。


『今夜中に』


静寂。


紙。


袖。


呼吸。


雨。


時計は。


一度も。


聞こえない。


「これは?」


リオラが聞く。


サイラスが答える。


「時計音が記憶全体で欠落していること自体は、偽造証明にはなりません」


また。


「本人が時計音を意識していなかった可能性?」


「はい」


「では」


リオラが。


二つの記憶を出した。


一つ。


婚姻四年目。


公爵邸。


朝食。


壁時計。


かち。


かち。


小さく。


音がある。


もう一つ。


私が過去に王立記憶院で閲覧を受けた記憶。


廊下。


遠い時計。


音。


「被告人の記憶に時計音が保存されない性質は?」


「確認できません」


「だから何?」


ベルク検事が言う。


正しい。


私も思った。


リオラは。


答える。


「時計音ではありません」


静止画。


九時十一分。


次。


九時十二分。


「秒針は?」


私は。


息を止めた。


大きく投影される。


殺害命令記憶の時計。


秒針。


前半。


三十七秒。


後半。


雨音が戻った直後。


「……九秒」


誰かが言った。


私は。


頭の中で計算する。


時刻は。


一分進んでいる。


でも。


秒は。


巻き戻っている。


「記憶上の経過時間は?」


リオラ。


サイラス。


「約四十一秒」


「時計の表示上は?」


設備担当者と確認。


前半。


九時十一分三十七秒。


後半。


九時十二分九秒。


三十二秒。


「九秒」


私は呟いた。


足りない。


約九秒。


そして。


「雨の欠落は?」


「約十一秒」


完全一致ではない。


でも。


近い。


リオラは。


すぐに結論へ飛ばなかった。


「誤差の原因は?」


サイラス。


「人間の記憶上の体感時間には誤差があります」


「時計自体が遅れた可能性」


「機械故障なら」


設備担当者が答える。


「あり得ます」


「停止?」


「はい」


「この十一秒程度だけ止まって、再び動く?」


「異物が噛んで外れれば理論上は」


「記録は?」


「ありません」


「映像上、誰かが時計へ触れる?」


「ありません」


また。


可能。


でも。


理由が。


見えない。


リオラは。


法廷中央に四つの資料を並べた。


雨音。


指輪。


時計。


部屋。


そして。


ドレス。


「弁護側は」


彼女が言う。


「この一つ一つを、単独の偽造証拠とは主張しません」


クラウディア審理官が見ている。


「雨音は注意欠落かもしれない」


一つ。


「指輪は偶然回ったかもしれない」


二つ。


「時計は偶然一時停止したかもしれない」


三つ。


「被告人が実際に旧記憶再現室へ入り、このドレスを着ていた日が存在したかもしれない」


四つ。


「ですが」


リオラの声が。


少しだけ強くなる。


「これらがすべて」


十一秒の前後へ。


集まっている。


「同じ場所で」


「同じ時間帯に」


「独立して」


「偶然起きたと考えるのか」


誰も。


動かなかった。


「それとも」


画面。


私。


『殺して』


次。


十一秒。


雨が消え。


指輪が反転し。


時計の経過が合わない。


そして。


雨が戻る。


「ここで」


リオラが言う。


「別の記憶断片が接続されたと考えるのか」


法廷が。


静まり返った。


*


ベルク検事は。


しばらく資料を見ていた。


そして。


立った。


「反論します」


私は。


身体が固くなる。


「弁護側の指摘は重大です」


最初の言葉が。


予想外だった。


「ただし」


やっぱり。


「編集があったとしても、殺害命令自体が偽造されたとは限らない」


胸が。


少し沈む。


そう。


『殺して』


が。


どこから来たのか。


まだ。


分からない。


「例えば」


ベルク検事。


「被告人が実際にマルセル判事殺害を命じた記憶について、不要部分を編集した可能性もある」


リオラが頷く。


「可能です」


「なら、被告人の無罪は証明されない」


「その通り」


私は。


拳を握った。


ここまで来ても。


まだ。


でも。


リオラは続ける。


「ただし」


「検察がこれまで主要証拠としてきた」


「『被告人が一続きの会話の中でマルセル判事殺害を命じた記憶』」


彼女が。


銀色の記憶晶を見る。


「その証拠価値は」


「失われます」


ベルク検事が。


反論しない。


クラウディア審理官が。


長い時間。


資料を確認する。


三人の審理官。


相談。


静か。


私は。


自分の心臓の音を聞いていた。


やがて。


中央。


クラウディア審理官。


「本法院の現時点判断を示します」


私は。


背筋を伸ばした。


「第一」


「本件記憶晶の外形的封緘は正規形式である」


以前と同じ。


「第二」


「映像内の被告人の姿、声、個々の行動が、実在した記憶断片に由来する可能性は否定されない」


まだ。


『殺して』


は。


私の声かもしれない。


「第三」


「しかし」


息が。


止まる。


「雨音の不連続」


「婚姻指輪の状態変化」


「壁時計の時間的不整合」


「記憶中の場所および衣服が王立記憶院の記憶再現環境と一致すること」


一つずつ。


「以上は」


「それぞれ単独では別の説明が可能であるものの」


「同一の時間境界付近に複数集中している」


木槌の横。


クラウディア審理官の手。


「よって」


「本法院は」


声が。


はっきり。


「当該記憶を、単一の連続した真正記憶であるとは認めない」


傍聴席が。


一気に揺れた。


私は。


動けなかった。


認めない。


あの記憶を。


法廷が。


一続きの真実だとは。


認めなかった。


「静粛に!」


木槌。


「ただし」


また。


静かになる。


「個々の記憶断片の由来、編集目的、編集主体」


「および被告人がマルセル判事の殺害を実際に指示した事実の有無については」


「未確定である」


無罪ではない。


でも。


あの記憶は。


崩れた。


「検察側は」


クラウディア審理官がベルク検事を見る。


「以後、本件記憶晶を一続きの殺害命令記録として扱ってはならない」


ベルク検事が立つ。


「承知しました」


私は。


ようやく。


息を吐いた。


長かった。


第10話から。


ずっと。


私を追いかけていた。


自分自身の声。


『殺して』


その一言だけで。


私は。


自分すら疑った。


今。


初めて。


その前後が。


誰かによって作られた可能性を。


法が認めた。


*


審理が終わっても。


私は席から立てなかった。


リオラが隣にいる。


「エステル」


「うん」


「大丈夫?」


「……ちょっと待って」


涙が。


出そうだった。


嬉しい。


でも。


泣く理由が。


それだけではない。


「私」


声が小さくなる。


「自分の声が怖かった」


「うん」


「ずっと」


「知ってる」


「本当に殺してたらって」


「うん」


私は。


深く息を吸う。


「まだ、絶対違うって証明できてない」


「そう」


そこは。


変えない。


「でも」


リオラが言う。


「あの映像どおりではなかった」


私は。


頷いた。


それで。


今日は十分だった。


*


廊下へ出る。


記者が待っている。


でも。


今日は話さなかった。


その必要も。


ない。


法廷の判断が。


記録に残る。


歩いていると。


王立記憶院の職員二人が急いでこちらへ来た。


一人は。


ユリウス。


顔色が悪い。


「ローヴェンさん」


「ユリウス?」


彼は。


周囲を見る。


手に。


封筒。


「どうしたの?」


「番号です」


息を切らしている。


「何の?」


「今の記憶晶」


私は。


止まった。


「殺害命令記憶?」


「はい」


ユリウスが。


封緘番号の写しを出す。


そして。


別の古い台帳。


「今日の審理で」


彼が言う。


「継ぎ接ぎの可能性が正式に認められたので」


「もう一度、付番規則を確認しました」


指。


現在番号。


そして。


台帳。


「この番号」


ユリウスの声が。


震える。


「元は白鐘広場の十六件と同じ系列です」


私は。


息を止めた。


「どういう意味?」


「現在の番号だけ見れば」


「別の記憶です」


「でも」


彼は。


古い付番変換表を示す。


「再封緘前の番号へ戻すと」


数字。


B-31-033。


私は。


昨日まで見ていた番号を思い出す。


白鐘広場。


初回受理。


B-31-017から。


B-31-032。


連番。


そして。


殺害命令記憶。


B-31-033。


その次。


「十七番目」


私は呟いた。


ユリウスが。


頷いた。


「白鐘広場十六件の」


「直後に作られた番号です」


偶然。


まだ。


そうかもしれない。


でも。


あまりにも。


近い。


「この033」


リオラが聞く。


「十二年前の台帳では何の記憶?」


ユリウスの顔が。


さらに青くなる。


「それが」


「何?」


「索引から削られています」


また。


消された記録。


「原簿は?」


私が聞く。


ユリウスが。


唇を噛んだ。


「水損した原簿の」


声が。


ほとんど囁きになる。


「次の頁です」


白鐘広場十六件。


その直後。


十七番目。


そして。


現在。


私を殺人犯にする記憶晶。


私は。


法廷の扉を振り返った。


一つの記憶は。


今日。


継ぎ接ぎだと認められた。


その次に。


番号が。


十二年前へつながった。


マルセル判事が言ったという。


言葉。


《番号そのものが証言している》


ようやく。


その意味が。


私たちの目の前で。


形になり始めていた。

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