第36話 結婚したからといって、すべてに同意したわけではない
「結婚式の誓約書を、証拠として提出します」
ベルク検事がそう言った瞬間。
私は、聞き間違えたのかと思った。
記憶法院。
予備審理の法廷。
中央の机に置かれたのは、十二年前の原簿でも。
水損した白鐘広場の記録でもない。
七年前。
私とギデオンが結婚した日に署名した。
婚姻誓約書だった。
「……それを?」
思わず小さく呟く。
隣のリオラが、すぐ資料へ目を落とした。
「来ると思ってた」
「本当に?」
「縁切り売却の適法性を争えば、いずれね」
昨日。
私はギデオンを正式に告発した。
その一方で。
私自身の殺人容疑についての予備審理も続いている。
そして今。
二つの問題が。
ようやく一つの場所へ重なった。
結婚。
国家機密。
記憶。
同意。
「検察側」
クラウディア審理官が言う。
「婚姻誓約書の立証趣旨を」
ベルク検事が立つ。
「被告人はヴァルデン公爵との婚姻に際し、配偶者の職務上知り得た国家機密について守秘義務を負うことを明示的に承諾しています」
「それは争いません」
リオラが答える。
「さらに」
ベルク検事は続ける。
「当該誓約書には、婚姻関係解消時に機密保護上必要な措置へ協力する旨も記載されています」
ざわめき。
私は。
誓約書の写しを見る。
そこに。
確かにある。
《婚姻関係終了時、配偶者は王国法および機密保護規程に基づき、必要な情報保全措置へ協力する》
「これ」
私はリオラへ囁く。
「署名した?」
「してる」
「私が?」
「ええ」
もちろん。
覚えていない。
でも。
署名は私のもの。
「検察は」
ベルク検事が言う。
「被告人が縁切り売却制度そのものを予見できなかったとしても、婚姻開始時点で、将来の機密保全措置へ包括的に同意していたと主張します」
包括的。
嫌な言葉。
リオラが立つ。
「異議」
「理由を」
「《必要な情報保全措置へ協力する》との文言を、《将来、自分の結婚記憶の所有権を国へ移転し、不可逆的に抽出されることへ同意した》と読むのは飛躍です」
「縁切り売却は、当時すでに存在する制度です」
「制度が存在していたことと、具体的処置に同意したことは別です」
ベルク検事が一枚の資料を出す。
「婚姻前説明会の出席記録もあります」
私は。
また止まった。
「説明会?」
リオラも少し眉を寄せる。
「初見?」
「写しは来てた。でも中身までは今日開示」
書類。
七年前。
王宮機密職配偶者向け説明会。
参加者。
エステル・ローヴェン。
署名。
私。
「内容は?」
クラウディア審理官。
ベルク検事が読み上げる。
「機密情報への接触制限。記録物の持ち出し禁止。第三者への口外禁止。婚姻終了時における情報保全措置」
「縁切り売却は?」
リオラが聞く。
「説明項目にあります」
法廷が。
少し。
遠くなる。
私は。
過去の自分を想像する。
結婚前。
ギデオンを好きで。
春の丘で求婚を受けて。
そのあと。
たぶん。
この説明会へ来た。
国家機密。
守秘。
離婚時。
記憶。
私は。
知っていた?
「被告人」
クラウディア審理官が私を見る。
「この説明会に出席した記憶は?」
「ありません」
「婚姻関係記憶の抽出範囲に含まれた?」
「おそらく」
リオラが補足する。
「婚姻成立準備としてヴァルデン公爵の職務と直接関係するため、抽出された可能性が高いです」
「分かりました」
ベルク検事が言う。
「つまり被告人は」
嫌な言い方。
でも。
聞く。
「縁切り売却制度を、婚姻前から知っていた可能性が高い」
「可能性は認めます」
リオラ。
「それでも説明不足を主張する?」
「当然です」
即答だった。
「なぜ?」
今度は。
クラウディア審理官が聞いた。
リオラは。
私を見る。
一瞬。
発言するか。
そう聞いている。
私は頷いた。
「被告人本人から答えます」
「許可します」
私は立った。
緊張。
でも。
言いたいことは。
かなり単純だった。
「私は」
まず。
誓約書を見る。
「結婚したとき、ギデオンの仕事に機密があることを知っていたと思います」
「はい」
「秘密を外へ漏らさない義務があることも」
「はい」
「離婚するとき、何かしらの処置が必要になる可能性も」
少し。
息を吸う。
「説明されていたかもしれません」
ベルク検事が聞く。
「ならば」
「でも」
私は。
先に続けた。
「それで、七年後に何をされてもいいことにはならないと思います」
法廷が静かになる。
「例えば」
私は言う。
「結婚するときに、夫が危険な仕事をしていると知っていた」
二年目の記憶。
血まみれで帰ったギデオン。
「だからといって」
「夫が怪我をしたときに、私は何も言う権利がない?」
ベルク検事は答えない。
「公爵邸に住むことへ同意した」
「だからといって、私の部屋へいつでも誰でも入っていい?」
「国家機密を守ることへ同意した」
私は。
誓約書を指す。
「だからといって、将来の私が」
「どの記憶を」
「どれだけ」
「どんな条件で」
「誰の所有物にするかまで」
一度。
「七年前の私が全部決めたことになるんですか」
誰も。
すぐには話さなかった。
ベルク検事が。
ゆっくり言う。
「婚姻誓約は、継続的な義務を生じさせます」
「はい」
私は認める。
「守秘義務は」
「今でも、過去の私が負ったものとして尊重します」
「では」
「でも」
私は続ける。
「義務が続くことと」
「同意が永遠に更新不要なことは、違うと思います」
その言葉。
言いながら。
自分の中で。
はっきりした。
「私が二十三歳で」
「好きな人と結婚した日に」
「必要なら記憶保全へ協力しますと書いた」
「それを」
「三十歳の私が、自分の人生の七年間を国へ売る具体的な契約へ署名するときの」
「説明の代わりにはできない」
クラウディア審理官の視線が。
少し鋭くなる。
「理由は?」
「状況が違うからです」
「具体的に」
「失うものを」
私は言う。
「結婚前の私は知りませんでした」
「母の葬儀を失う人がいることも」
「姪との九年間を失う人がいることも」
「外国語能力を失って仕事を辞める人がいることも」
昨日までに聞いた。
女性たち。
「自分の記憶の所有権が」
「国へ移ったら、返してほしいと言っても返してもらえないことも」
私は。
一度。
ギデオンのいない証言席を見る。
今日は。
来ていない。
会わないと決めているからではなく。
今日の審理に呼ばれていない。
「それを」
「具体的に知るのは」
「署名する直前であるべきだったと思います」
ベルク検事が尋ねる。
「婚姻時に全制度説明を詳細に行うことは現実的ではない、と?」
「はい」
少し驚いた顔。
「だから」
私は言う。
「その時々で聞けばいいんじゃないですか」
「結婚するときは、結婚に必要な説明」
「記憶を売るときは、記憶を売るために必要な説明」
「記憶を戻すときは、戻す危険の説明」
オルレナとの面会。
「一回」
私は誓約書を見る。
「はい、と言ったから」
「それ以降の全部も、はい」
「そんなふうには」
首を振る。
「私は思えません」
*
リオラが立つ。
「弁護側から、証人を一名申請します」
呼ばれたのは。
昨日会った女性ではない。
記憶権法の研究者。
エヴァン・ローデル教授。
六十代。
法院の制度改正委員も務めたことがあるらしい。
宣誓。
リオラが聞く。
「ローデル教授。婚姻誓約における《必要な情報保全措置へ協力する》という条項は、記憶売却への事前同意と解釈されていますか」
「学説は割れています」
教授は答える。
「実務上は?」
「長年、広く解釈されてきました」
「つまり?」
「婚姻した時点で、高位機密職配偶者は離婚時の記憶処置をある程度受け入れた、と」
ベルク検事側に。
一つ。
「現在は?」
「批判が強い」
「理由を」
教授が眼鏡を上げる。
「婚姻時点の抽象的同意と、実際の記憶抽出時の具体的同意には、情報量が違いすぎる」
「例を」
「七年間の婚姻中」
教授が言う。
「本人の生活は変わります」
「家族が死ぬ」
「子どもが生まれる」
「技能を身につける」
「病気になる」
「友人が増える」
「つまり」
「結婚前には存在しなかった記憶が、後から抽出対象へ入る」
その通り。
「なら」
リオラが聞く。
「婚姻時に、それらすべてを将来失うことへ有効な同意を与えられる?」
教授は。
少し考える。
「少なくとも、具体的な範囲と危険を後日再説明しなければ」
「十分とは言い難い」
私は。
静かに息を吐いた。
ベルク検事が反対尋問。
「教授。では婚姻誓約は無意味ですか」
「いいえ」
「守秘義務は有効?」
「当然です」
「必要な保全措置への協力義務も?」
「あります」
「なら、本人が拒否すれば国家機密が持ち出される場合は?」
「国家は保護措置を取れるでしょう」
「本人の完全な自由意思に任せられない場合もある?」
「あります」
法廷が少し揺れる。
オルレナの思想。
国。
安全。
全部。
ここにある。
「では」
ベルク検事。
「場合によっては、本人の意思に反する記憶処置も正当化される?」
教授は。
すぐには答えない。
「極端な国家危機なら」
「法がその権限を明確に定め」
「司法審査と必要性・相当性が厳格に確認されることを前提に」
「理論上は」
完全否定ではない。
私は。
そこが。
むしろ信頼できた。
「では本件のような縁切り売却は?」
「通常の離婚です」
教授が言う。
「戦時緊急処置ではありません」
一線。
そこ。
*
審理は。
さらに進む。
今度は。
記憶院側の代理人が立った。
ベルク検事ではない。
王立記憶院として。
制度の適法性を守る立場。
「ヴァルデン公爵夫人は」
代理人が言う。
「婚姻により機密職の配偶者となる利益も享受しています」
私は。
少し眉を寄せた。
「利益?」
「公爵夫人としての地位」
「王宮への参加」
「機密職配偶者としての保護」
「経済的利益」
リオラが立つ。
「だから記憶を失う義務がある?」
「利益には負担が伴うという趣旨です」
気持ち悪い。
でも。
何が気持ち悪いのか。
少し考える。
「発言しても?」
「許可します」
クラウディア審理官。
私は言った。
「私は」
「ギデオンと結婚するとき」
春の丘。
「公爵夫人になるために結婚したわけじゃありません」
「主観的動機の話ではありません」
代理人が言う。
「法的地位として利益を得た」
「はい」
そこは認める。
「でも」
私は聞く。
「利益を受けたら」
「将来、自分の身体や記憶への同意は弱くなるんですか」
代理人が止まる。
「そうは言っていません」
「じゃあ」
「関係ないのでは?」
少し。
傍聴席がざわつく。
私は続ける。
「公爵邸に住んだ」
「高いドレスを着た」
「護衛もいた」
「それは事実だと思います」
「でも」
「それを受け取った代金として」
胸へ手を置く。
「私の記憶を差し出す契約をした覚えはありません」
記憶院代理人が言う。
「婚姻誓約に――」
「だから」
私は。
少しだけ強く言った。
「誓約したのは」
「機密を守ることです」
静かになる。
「自分が何を失うかを知らないまま」
「将来の私の同意まで」
「七年前の私が代わりに済ませることじゃない」
*
クラウディア審理官が。
午後の終わり。
今日の認定事項を読み上げた。
「第一」
「エステル・ローヴェンは婚姻時、ヴァルデン公爵の職務に伴う守秘義務および婚姻終了時の情報保全措置への協力義務を承諾していた」
一つ。
記憶院側。
「第二」
「当該承諾は、将来発生する具体的な記憶内容、抽出範囲、所有権移転、身体・心理的影響のすべてについて個別の同意を代替するものではない」
胸が。
少し。
軽くなる。
「第三」
「婚姻誓約を理由として、離婚時の記憶売却契約における説明義務が免除または軽減されるとは認められない」
リオラが。
ほんの少し。
息を吐いた。
「第四」
「ただし国家機密保護のため、本人の希望のみで機密記憶を無制限に保持できるとするものでもない」
大事。
私にだけ。
都合のいい判決ではない。
「必要な保全措置と」
クラウディア審理官は続ける。
「本人の記憶・身体・自己決定への介入は」
「その都度」
「必要性」
「範囲」
「代替手段」
「説明」
「同意」
「司法審査」
「これらによって判断されなければならない」
木槌。
一度。
「一度の婚姻誓約を」
最後。
「将来のあらゆる記憶処置への永続的同意とは扱わない」
法廷が。
ざわめいた。
私は。
しばらく。
動けなかった。
勝った。
とは。
思わなかった。
でも。
一つ。
明確になった。
結婚したから。
夫を愛したから。
公爵夫人になったから。
だから。
何をされても。
最初から同意していた。
そんなことには。
ならない。
*
審理後。
廊下で。
リオラが言った。
「今日は大きい」
「うん」
「縁切り売却制度全体に影響する可能性がある」
「そこまで?」
「婚姻誓約の包括同意論が崩れたから」
私は。
少し。
怖くなった。
「私」
「何?」
「そんな大きいことしようとしてない」
「知ってる」
「自分の契約がおかしいって」
「調べただけ?」
「うん」
リオラが笑う。
「制度って、そうやって変わることもあるのよ」
大きな革命。
ではない。
一人の契約。
一つの質問。
それが。
他の人にも。
同じ問題があると分かった。
「それより」
リオラが鞄から別の封筒を出す。
「本筋」
「何?」
「殺害命令記憶の再検証結果」
空気が。
変わる。
第23話。
雨音。
十一秒。
家具。
時計。
ドレス。
まだ。
足りない。
「何か出た?」
「三つ」
胸が。
鳴る。
「一つ目」
リオラが紙を出す。
「濃紺のドレス。王立記憶院の別保管庫で見つかった」
「なくなってたやつ?」
「ええ」
「どこ?」
「旧記憶再現室」
私は眉を寄せる。
「再現?」
「抽出補助のため、過去の環境を再現する部屋」
第23話。
衣服を使って。
特定記憶を引き出す。
「二つ目」
写真。
殺害命令記憶の部屋。
旧面談室に似ていた。
でも。
時計が違った。
新しい写真。
古い記録。
「これ」
私は。
見た瞬間に分かった。
時計。
三と九だけ。
装飾数字。
殺害命令記憶と同じ。
「旧面談室?」
「違う」
リオラが言う。
「旧記憶再現室」
ドレスと。
同じ場所。
胸が。
強くなる。
「三つ目は?」
彼女が。
最後の紙を出す。
殺害命令記憶。
私の右手。
婚姻指輪。
青い石。
「指輪?」
「記憶の前半と後半」
並べた静止記録。
前半。
『マルセル判事は、もう止まらない』
右手。
青い石。
石を留める爪。
一つが。
外側。
後半。
封筒を渡す。
同じ右手。
同じ指輪。
でも。
「向き」
私は言った。
リオラが頷く。
青い石の横。
小さな傷。
前半は。
手の甲側。
後半は。
掌側。
「指輪が回った?」
「可能性はある」
やっぱり。
まだ。
「でも」
リオラが次を出す。
「この指輪」
公爵家宝飾台帳。
《内側固定式》
「何?」
「指に合わせて、石座が回転しにくい形になってる」
「絶対回らない?」
「絶対ではない」
「でも?」
「十一秒で百八十度近く回るには」
リオラが。
少し。
笑った。
「かなり妙」
雨音が消えた。
同じ十一秒。
指輪の向きも。
変わる。
私は。
紙を並べた。
音。
指輪。
そして。
部屋。
ドレス。
全部。
同じ場所へ。
集まり始めている。
「これ」
私は言う。
「法廷で出せる?」
「次回」
「証明できる?」
リオラは。
首を振らなかった。
でも。
頷きもしなかった。
「今度は」
彼女が言う。
「一個じゃない」
私は。
ゆっくり息を吐いた。
ようやく。
ここまで来た。
雨音だけでは。
足りなかった。
ドレスだけでも。
部屋だけでも。
指輪だけでも。
足りない。
でも。
全部が。
同じ十一秒の周りへ集まるなら。
話は違う。
私は。
殺害命令記憶の静止画を見る。
『殺して』
その声。
私のもの。
たぶん。
本物。
だからこそ。
次は。
その言葉が。
本当に。
同じ夜。
同じ部屋。
同じ出来事の中で。
マルセル判事へ向けられたものだったのか。
法廷で。
一つずつ。
確かめる。




