第35話 元夫を、正式に告発します
翌朝。
私は、ギデオン・ヴァルデンを告発する書類へ署名した。
思っていたより。
手は震えなかった。
保護館の自室。
窓から入る朝の光。
机の上には、昨夜から置いたままの申立書。
《被申立人 ギデオン・ヴァルデン》
その文字を。
一晩で何度見ただろう。
眠る前。
夜中に目が覚めたとき。
朝。
顔を洗って戻ってきたあと。
それでも。
書いてある内容は変わらない。
一。
私が白鐘広場関連の情報へ接触していると知った後、監察局長官としての機密指定権限を用い、私の照会経路を狭めたこと。
二。
私に危険情報を開示せず、縁切り記憶売却を選ばせるため、判断に重大な影響を与える情報を意図的に伏せたこと。
三。
記憶所有権が国へ移転し、本人による返還請求が原則認められないと事前に知りながら、説明不足を是正しなかったこと。
四。
他の縁切り売却案件でも、説明不足を認識しながら一部の処置を承認した疑い。
五。
職務上必要な機密保護と、私的な保護判断が混在した可能性。
私は最後まで読み直した。
リオラは向かいに座っている。
急かさない。
「これ」
私は一枚目へ戻った。
「調査妨害、って断定していいの?」
「断定してない」
リオラが該当箇所を指す。
《目的外使用の疑いについて調査を求める》
「法院に、判断してほしいって申立て」
「私たちが有罪だって決める書類じゃない」
「そう」
「説明義務違反も?」
「最終的に誰が法的説明義務を負っていたか、ギデオンの立場でどこまで責任が生じるかは争いになる」
「だから」
私は読んだ。
《関与の程度について審査を求める》
それなら。
いい。
私は。
ギデオンを悪人だと認定したいわけではない。
自分がされたことに。
法的な名前がつくのか。
そこを。
私ではない誰かに。
証拠で判断してほしい。
「一つ追加したい」
「何?」
「辞任したこと」
リオラが眉を上げる。
「有利な事情として?」
「うん」
「告発書に?」
「駄目?」
「駄目じゃない」
リオラは少し考える。
「ただし、責任の有無とは分ける」
「もちろん」
私は余白へ文案を書く。
《被申立人は本件審査前に長官職および関連捜査権限を自主的に返上し、自身に関する資料の保全・提出へ協力している。この事実も処分判断に際し併せて考慮されたい》
リオラが読む。
「甘くしたい?」
私はすぐには答えなかった。
「違う」
たぶん。
「したことだけじゃなくて」
「今してることも記録に残したい」
「なぜ?」
「どっちかだけにしたくないから」
昔の愛だけで。
過ちを小さくしない。
過ちだけで。
今の行動を消さない。
同じ。
「いいと思う」
リオラが言った。
私は。
ペンを持つ。
最後。
署名欄。
《申立人 エステル・ローヴェン》
一度。
息を吸う。
書く。
エステル・ローヴェン。
終わり。
「……できた」
「ええ」
何か。
大きな音がすると思っていた。
しない。
紙の上に。
名前が一つ増えただけ。
「これで」
私は聞く。
「ギデオンは?」
「審査対象になる」
「すぐ逮捕?」
「ならない」
「ですよね」
「まず法院が受理。予備調査。監察局から資料提出。本人聴取。必要なら正式審理」
「時間かかる?」
「かかる」
「そう」
裁判。
また。
遅い。
でも。
今は。
その遅さを信じられる。
*
記憶法院へ提出したのは、午前十時十二分。
私自身で行った。
リオラに任せることもできた。
でも。
自分で署名した。
なら。
自分で渡したかった。
申立受付の窓口には。
意外なほど若い女性職員がいた。
「本人確認を」
身分証。
保護拘束証明。
申立書。
添付資料一覧。
一つずつ。
「申立内容について、撤回可能期間は受理後三日です」
「三日?」
「感情的対立を伴う申立てについては、制度上の冷却期間があります」
「配偶者とか?」
「元配偶者も含みます」
なるほど。
「三日後にもう一度意思確認?」
「はい」
私は。
少し笑った。
「いい制度ですね」
職員が驚いた顔をする。
「珍しいです。そう言われるのは」
「勢いで出す人、いるでしょうから」
「います」
「撤回する人も?」
「います」
「私は?」
職員が困った。
「それは私には」
「ですよね」
私は書類を渡す。
受付印。
乾いた音。
一つ。
「受理しました」
その瞬間。
胸が。
少し痛んだ。
今。
本当に。
出した。
私は。
元夫を。
公的手続きへ渡した。
*
法院を出ると。
記者がいた。
予想していた。
昨日の公聴会で。
ギデオンが制度運用への責任を認めた。
私がどう動くか。
皆。
待っていたのだろう。
「ローヴェンさん!」
「ヴァルデン前長官を告発したというのは事実ですか!」
早い。
誰から漏れた。
いや。
申立窓口へ入るところを見られただけかもしれない。
リオラが前へ出る。
「まだ受理されたばかりです。詳細は――」
私は。
彼女の腕へ軽く触れた。
「一つだけ話す」
「いいの?」
「うん」
記者たちを見る。
怖い。
少し。
でも。
昨日。
ギデオンは。
自分の言葉で。
公の場に立った。
私も。
隠す必要はない。
「申立てを提出しました」
一気に。
声が飛ぶ。
「元夫を処罰してほしいということですか!」
「復縁の可能性は完全になくなった?」
「公爵への報復ですか?」
最後。
やっぱり。
そこへ行く。
私は。
声を張らなかった。
「違います」
少し。
静かになる。
「私は」
言葉を選ぶ。
「ギデオン・ヴァルデン前長官が、私や他の縁切り売却対象者に関わる職務判断で、どこまで法的責任を負うのか」
「それを」
「私個人の感情ではなく、正式な手続きで調べてほしいと申し立てました」
「では、前長官を許していない?」
「それは私的な話です」
「関係ないと?」
「公的責任には」
私は答える。
「関係ありません」
記者がさらに聞く。
「公爵は昨日、加害する側にいたと認めています。それでも告発が必要ですか」
「本人が責任を認めることと」
一度。
息を吸う。
「責任の範囲を法が判断することは、同じではありません」
書き留める音。
「辞任でも足りない?」
「辞任は、地位を手放した行為です」
「それによって」
「過去の行為が合法にも違法にも変わるわけではありません」
また。
「厳しすぎるとは?」
今度は。
少しだけ。
腹が立った。
でも。
怒鳴らない。
「では」
私は質問を返した。
「元夫婦でなければ?」
記者が黙る。
「一人の長官が」
私は言う。
「説明不足を知りながら複数の記憶売却を承認した疑いがあり」
「自分の妻に対しては、判断を変えさせるため情報を伏せたと本人が証言している」
「それを」
「奥さんがまだ彼を嫌いじゃないから、調べなくていいと思いますか」
誰も。
すぐには答えなかった。
「以上です」
リオラが言う。
今度は。
止めない。
私たちは歩き出した。
背中へ。
いろいろな声。
聞かない。
*
午後。
予想外の文書が届いた。
差出人。
ギデオンの代理人。
「私的な手紙じゃない」
リオラが先に確認して言う。
「法院申立てへの手続き上の回答」
私は。
少し迷ってから受け取った。
一枚。
短い。
《本日付の申立てについて、被申立人ギデオン・ヴァルデンは受理に異議を申し立てません》
次。
《記憶法院および関連調査機関が必要とする資料提出、事情聴取に応じます》
次。
《機密指定を理由とする証言拒否が必要となる事項については、当該機密の解除または第三者審査を先に求め、可能な限り事実確認を妨げない手続きを取ります》
そして。
最後。
《申立人への直接連絡は行いません》
私は。
そこを。
少し長く見た。
「反論しない?」
「違う」
リオラが言う。
「受理に異議を出さないだけ。責任の範囲については審理で争う可能性がある」
「それでいい」
私は言った。
「全部認めます、じゃ困る」
「なぜ?」
「事実を確かめるために出したんだから」
彼が。
私に謝るために。
何でも自分が悪いと言ったら。
意味がない。
したこと。
していないこと。
法的に責任があること。
ないこと。
分ける。
「エステル」
「何?」
「少し安心した顔してる」
「してる?」
「してる」
私は。
文書を机へ置く。
「たぶん」
「何に?」
「争ってくれるかもしれないから」
リオラが少し笑う。
「普通、告発した相手にそれ言う?」
「だって」
私は言う。
「本当に責任がない部分まで、私のために認められたら嫌でしょう」
「確かに」
そのとき。
扉が叩かれた。
保護館の職員。
「ハート弁護人宛てに、王立記憶院から緊急通知です」
緊急。
空気が変わる。
リオラが受け取る。
読む。
表情が硬くなる。
「何?」
彼女は。
紙を私へ渡した。
《法院提出命令対象である白鐘広場原簿について、本日未明、保存庫内で水損が確認された》
私は。
何度も読んだ。
「水損?」
「配管事故だって」
「見られなくなった?」
続き。
《一部頁に滲みおよび接着あり。全文読解可能性を現在確認中》
期限。
明日。
提出前。
「偶然?」
私は聞く。
リオラは。
すぐには答えない。
私も。
答えを求めない。
「事故記録」
私は言う。
「設備点検」
「当直」
「入退室記録」
リオラが頷く。
「全部請求する」
「それから」
私は。
昨日。
ユリウスの顔を思い出した。
手の震え。
総裁室の再確認。
原簿。
家族。
「ユリウスは?」
「聞く?」
「正式に」
私は答える。
「本人を疑ってるみたいにしないで」
「分かった」
*
夕方。
ユリウスから回答が来た。
書面。
短い。
《水損発見時、私は地下第二原簿庫の当直ではありません》
《午前三時四十分、緊急招集を受け現場へ到着》
《白鐘広場原簿は保護処理前に開かれていた》
私は。
そこを指した。
「開かれてた?」
「通常」
リオラが言う。
「原簿は閉じて保管する」
次。
《水損は棚全体ではなく、白鐘広場原簿を含む下段二冊に集中》
「配管事故で」
私は。
ゆっくり言う。
「二冊だけ?」
「まだ調査が必要」
最後。
《なお、原簿管理責任者として私の過失も調査対象となる見込みです》
ユリウス。
原簿管理責任者。
「本人が?」
「再確認担当だったから、一時的に管理責任も負ってたみたい」
昨日。
彼は。
怯えていた。
今日。
原簿が水損。
「リオラ」
「何?」
「ユリウスに」
言いかけて。
止まる。
大丈夫?
違う。
それは。
今。
本人へ圧になるかもしれない。
「……何でもない」
「家族のこと?」
「うん」
「公的情報の照会、返ってる」
私は顔を上げた。
リオラが一枚出す。
ユリウス。
未婚。
同居。
母。
妹。
妹の息子。
甥。
七歳。
それだけ。
普通の家族。
「何か異常は?」
「公的には」
「そう」
それ以上。
勝手に調べない。
今は。
*
夜。
私は。
今日署名した申立書の写しと。
水損通知を並べた。
片方。
ギデオン。
もう片方。
白鐘広場。
二つ。
別の問題。
今日は。
元夫を告発した日。
それだけでも。
十分重かった。
でも事件は。
私の感情を待ってくれない。
原簿が。
壊されようとしているかもしれない。
事故かもしれない。
まだ。
分からない。
私は。
紙へ書く。
《確認済み》
ギデオンへの申立て受理。
本人は受理異議なし。
責任範囲は今後審査。
白鐘広場原簿に水損。
原因未確定。
ユリウスは発見時不在。
到着時、原簿は開かれていた。
その下。
《推測》
何も書かない。
まだ。
証拠がない。
最後に。
一行。
《明日、原簿を見に行く》
ペンを置いた。
ギデオンとは。
会わない。
頼らない。
自分で。
リオラと。
ユリウスと。
進む。
今日。
私は。
愛していた人の責任を。
法へ渡した。
明日は。
十二年前の記憶が。
誰かの都合で消される前に。
私自身の目で。
残っているものを確かめる。




