第34話 私は、制度の加害者だった
ギデオン・ヴァルデンが、王立記憶法院の公開聴聞に出席する。
その通知を見たとき。
私は、七件目の承認記録を読んでいた。
保護館の自室。
午後。
窓の外には薄い冬の日差し。
机の上には、彼が長官時代に承認した縁切り売却七件の資料が、年代順に並んでいる。
説明不足。
抽出範囲の過大。
本人が想像していなかった生活技能の欠落。
それでも。
すべてが違法だったわけではない。
むしろ。
そこが問題だった。
規則に従って。
署名を集め。
承認を取り。
正規の術者が抽出する。
形式だけなら。
ほとんどが整っている。
「公開聴聞?」
私は通知書を持ったまま、リオラを見る。
「明日」
「何について?」
「縁切り売却制度の運用実態」
「ギデオンだけ?」
「記憶院側、法院契約監査部、元配偶者側の参考人も呼ばれる」
私は通知書へ視線を戻した。
《前機密監察局長官ギデオン・ヴァルデンについては、在任中に承認した縁切り売却案件および制度運用への関与について証言を求める》
「行く?」
リオラが聞く。
「私が?」
「傍聴できる」
少し考える。
第30話。
私はギデオンと私的に会わないと決めた。
でも。
これは違う。
彼に会うためではない。
彼が、公の場で何を話すのかを見るため。
「行く」
「そう言うと思った」
「話しかけません」
「それは好きにしたら?」
「会わないって決めてるから」
「私的には、ね」
リオラは七件の資料を指した。
「明日はこっちの話」
私は頷いた。
その線だけは。
混ぜない。
*
翌日。
公開聴聞室は、予備審理の法廷よりも小さかった。
その代わり。
傍聴席はほとんど埋まっている。
新聞記者。
議員。
記憶権に関わる弁護士。
高位機密職の家族。
そして。
縁切り売却を経験したらしい女性たち。
私は後方の席へ座った。
リオラが隣。
正面。
証言台。
ギデオンは、そこにいた。
長官服ではない。
公爵家の礼装でもない。
濃い灰色の上着。
胸章も。
監察局の徽章も。
何もない。
肩書きを外すと。
少し。
知らない人に見えた。
でも。
顔は同じ。
私が覚えていない七年間を。
全部覚えている人。
視線が合った。
一瞬だけ。
彼は。
何もしなかった。
頷きもしない。
近づいてもこない。
すぐに正面へ戻る。
それでいい。
聴聞官が開会を告げる。
「本聴聞では、縁切り記憶売却制度における説明義務、同意形成、機密職側の関与について確認します」
最初に。
記憶院の契約監査官。
次。
法院関係者。
そのあと。
ギデオンの名前が呼ばれた。
彼が証言台へ立つ。
宣誓。
「氏名と、当時の職位を」
「ギデオン・ヴァルデン」
一度。
間。
「前王国機密監察局長官です」
前。
その一文字。
少しだけ。
胸に残った。
「あなたは在任中、何件の縁切り売却について機密保護責任者として承認しましたか」
「二十三件です」
私は顔を上げた。
「二十三?」
隣でリオラが小さく呟く。
私たちが詳しく調べているのは七件。
それは。
説明不足の疑義があるもの。
全体は。
二十三。
「そのうち」
聴聞官が続ける。
「契約説明に不足があった可能性を、現在あなた自身が認めているものは?」
「七件」
やはり。
「七件すべてで、あなたは説明不足を当時認識していましたか」
「いいえ」
「では?」
ギデオンは。
机上の資料を見る。
「三件については、当時の私でも説明記録の曖昧さを認識していました」
傍聴席がざわつく。
私の指が。
膝の上で止まる。
三件。
「しかし手続きを止めなかった?」
「はい」
「なぜ?」
「必要な機密抽出範囲が説明されており、本人の署名もあったため」
「所有権移転の説明が不十分でも?」
「当時の私は」
ギデオンが。
一度。
息を吸う。
「それを、手続きを停止するほど重大な不足とは考えませんでした」
「現在は?」
「考えます」
「何が変わった?」
聴聞室が静かになる。
ギデオンの顔には。
私からは表情がよく見えない。
声だけ。
「私は」
彼は言った。
「記憶を、機密情報の容器として扱っていました」
私は。
動かなかった。
「どういう意味です」
「私の職務は、国家機密が外部へ残らないようにすることでした」
「はい」
「そのため」
「抽出対象者が失うものを」
言葉が少し止まる。
「情報量として見ていた」
胸が。
重くなる。
「夫との会話」
「外交先で身につけた言語」
「亡くなった家族との時間」
「生活の習慣」
「それらが一つの人間の人生であることを」
彼は。
静かに言う。
「制度運用の中で、私は十分に考えていませんでした」
誰かが。
傍聴席で息を呑んだ。
聴聞官が尋ねる。
「つまり、制度の被害を理解していなかった?」
「違います」
即答だった。
私は少し驚く。
「では?」
「理解する機会はありました」
ギデオンが言う。
「異議申立てもあった」
「抽出後の障害報告も」
「説明不足への苦情も」
一つずつ。
「私は知ることができた」
「それでも」
彼は続ける。
「国家機密を守るという職務上の目的を優先し」
「本人側の損失を、制度上やむを得ないものとして処理した」
聴聞官が。
少し身を乗り出す。
「知らなかったのではなく?」
「見なかった」
言葉が。
落ちた。
私は。
第25話を思い出した。
覚えていたのに。
理解していなかった。
今度は。
もっと広い。
記録はあった。
声もあった。
でも。
見なかった。
「それを」
聴聞官が確認する。
「あなた自身の責任だと?」
「ああ」
一瞬。
昔の話し方に戻った。
ギデオン自身も気づいたのか。
「……はい」
と言い直す。
「責任だと考えています」
*
二件目の記録。
高位外交官の元妻。
抽出後。
外国語能力の低下。
仕事を失った女性。
聴聞官が資料を読み上げる。
「あなたは《機密抽出範囲縮小不可》と判断した」
「はい」
「技術的に本当に縮小不可能だった?」
「不可能ではありません」
傍聴席がざわめく。
私は。
リオラを見る。
彼女も初耳らしい。
「どういうことです」
「さらに複数回の予備抽出と、本人への詳細な聞き取りを行えば」
ギデオンは答える。
「外交機密と生活技能の境界を、ある程度まで狭められた可能性があります」
「なぜしなかった?」
「時間と費用」
ひどく。
乾いた答え。
「それだけ?」
「加えて」
彼は続ける。
「機密漏洩の危険を増やすと判断した」
「本人は仕事を失った」
「はい」
「あなたはそれを当時知った?」
「後日報告を受けました」
「何をした?」
長い沈黙。
「何もしませんでした」
私は。
息を吐いた。
これは。
謝罪では済まない。
本当に。
「理由は?」
「処置自体は適法だったからです」
適法。
また。
その言葉。
「今も適法だったと思う?」
「当時法に反していたとは考えていません」
ギデオンの声は落ち着いている。
「しかし」
「適法であることと」
一度。
止まる。
「本人へ十分な選択肢を与えたことは」
「同じではありません」
私は。
知らず。
手を握っていた。
彼が。
私たちの会話で得た言葉を。
自分のためではなく。
制度の話として使っている。
でも。
そこで感傷にしない。
これは。
彼が当然認めるべきことだ。
*
次に。
元配偶者側の参考人。
証言台へ立った女性を見て。
私は気づいた。
ノーラ。
昨日。
私たちに話してくれた女性。
彼女もこちらへ気づいた。
でも。
何も言わない。
証言が始まる。
「売却時、どのように感じましたか」
「離婚するために払うものだと思いました」
「譲渡金を受け取っている」
「はい」
「金銭的利益を得た?」
ノーラが。
冷たい目で聴聞官を見る。
「自分の人生の一部に値段をつけられて、それを利益って呼びます?」
聴聞室が静まる。
「失礼」
聴聞官が少し姿勢を直す。
「選択肢について聞きます」
「結婚を続ける」
「夫に機密職を辞めてもらう」
「記憶を売る」
ノーラが指を折る。
「三つ」
「夫は?」
「辞めなかった」
「あなたは?」
「離婚したかった」
「だから売った」
「そうです」
「本人の意思では?」
ノーラは。
少し笑った。
「どこから本人の意思って呼ぶんでしょうね」
その言葉。
私は。
忘れないと思う。
「選択肢が三つあったら自由?」
「そのうち二つが、現実的に選べなくても?」
聴聞官が黙る。
ノーラは。
今度はギデオンを見る。
「あなた」
呼ばれた。
ギデオンが顔を上げる。
「覚えてます?」
「匿名化された案件のため」
「私の名前は今日まで知りませんでした」
正確。
ノーラの口元が歪む。
「じゃあ」
「あなたの署名だけは知ってます」
聴聞室が。
一気に緊張する。
「私の抽出範囲」
「あなたが承認した」
「はい」
「私の元夫は」
ノーラの声が少し震える。
「仕事を辞めたくないって言った」
「私は離婚したいって言った」
「それで」
胸に手を置く。
「私だけが、記憶を失った」
ギデオンは。
何も返さない。
言い訳も。
「国家機密は」
ノーラが言う。
「そんなに重いんですか」
誰も。
すぐには答えられない。
「私の人生より?」
ギデオンが。
ゆっくり口を開く。
「当時の私は」
声が低い。
「そう扱いました」
ノーラの目が。
少し見開かれる。
「今は?」
「比較の仕方が間違っていたと思っています」
「どういう意味?」
「機密を守る必要はあります」
そこは曲げない。
「それを守るために」
「一方の人間へ、当然のように不可逆な損失を負わせてよいとは」
彼は言う。
「今は思いません」
ノーラが。
長く彼を見る。
「謝るんですか」
ギデオンの顔が。
少し変わった。
「謝罪してもよろしいですか」
私は。
思わず息を止めた。
ノーラが。
少しだけ驚いた。
今。
彼は。
謝罪の許可まで。
本人に聞いた。
長い沈黙。
「……今はいいです」
ノーラが答える。
ギデオンは。
すぐ頷いた。
「分かりました」
謝らない。
それだけ。
私は。
そのやり取りを見た。
昔の彼なら。
たぶん。
謝った。
自分が必要だと思えば。
今は。
受け取るかどうかも。
相手へ返す。
それが。
特別な善行ではない。
でも。
変化として。
私は見た。
*
ギデオンの証言に戻る。
聴聞官が尋ねる。
「あなたは今回の辞任声明で、自分が制度の運用へ関与したとしています」
「はい」
「より明確に聞きます」
空気が。
張る。
「あなたは、自分を縁切り売却制度の加害者だと考えますか」
私は。
身体が固くなった。
かなり。
強い言葉。
ギデオンも。
すぐには答えなかった。
「加害者という言葉を」
彼が言う。
「法的責任の確定前に使うことには慎重であるべきだと思います」
聴聞官が頷く。
「では、あなた自身の評価として」
「……はい」
彼は。
まっすぐ前を見る。
「私は」
少し。
声が掠れる。
「制度によって傷ついた人々に対して」
「加害する側にいました」
傍聴席で。
小さなざわめき。
「直接、記憶を抽出していなくても?」
「はい」
「契約書を作っていなくても?」
「はい」
「理由は?」
「私は」
彼は言った。
「止められる立場にいた」
第29話。
停止権限。
再説明要求。
「少なくとも一部の案件では」
「説明が不足していると分かりながら」
「機密保護を優先して承認した」
「抽出後に問題が起きても」
「制度上適法であることを理由に」
「見直しを求めなかった」
一度。
息を吸う。
「権限を持っていた者が」
「その権限を使わなかったことも」
「私の責任です」
私は。
新聞の見出しを思い出した。
長官辞任。
でも。
これで。
もっとはっきりした。
彼は。
職を辞めただけではない。
自分が。
何をした側だったのかを。
公の記録へ残した。
*
聴聞は三時間続いた。
終わるころには。
外はもう薄暗い。
ギデオンが証言台を降りる。
記者が出口へ押し寄せる。
私は。
別の通路から出ることにした。
会わない。
その決定を。
守る。
廊下を歩きながら。
リオラが言った。
「どうだった?」
「何が?」
「聞いて」
私は少し考える。
「思ってたより」
「うん」
「嫌だった」
「どこが?」
「七件」
私は答える。
「私の件だけじゃないって」
第29話でも。
分かっていた。
でも。
本人が。
公の場で。
一つずつ認めるのを聞くと。
重さが違う。
「ギデオンが私にしたこと」
私は言う。
「怖くて間違えた一回じゃなかった」
「ええ」
「考え方だった」
国家機密。
安全。
本人より。
管理する側が決める。
それを。
何年も。
仕事でやっていた。
だから。
妻に対しても。
同じ判断をした。
「それが分かったのは大きい」
リオラが言う。
「うん」
「嫌いになった?」
私は。
少し考えた。
「ならない」
「即答ね」
「だって」
息を吐く。
「今日、嫌いになるために見たんじゃないから」
彼を。
悪者にするためでも。
成長を褒めるためでもない。
「したことを見た」
「それだけ」
「うん」
でも。
それだけで。
十分重い。
*
保護館へ戻ると。
新しい新聞号外が出ていた。
《前監察局長官、公聴会で制度加害を認める》
大きい。
少し。
煽りすぎだと思う。
本文には。
もっと慎重な言葉が書かれている。
私は。
新聞を畳んだ。
「これ」
リオラが言う。
「明日から公爵への批判、かなり増えるわよ」
「でしょうね」
「擁護も」
「ある?」
「国家機密を守っただけだって」
「そっちもあるか」
「あるわよ」
世間も。
一つではない。
当然。
「エステル」
「何?」
「あなたにも聞きに来る」
「何を?」
「公爵の責任をどう考えるか」
私は。
少し黙った。
「まだ答えない」
「理由は?」
「私が決めることじゃないから」
「私的には?」
「私的に許すかどうかと」
私は言う。
「公的に責任があるかは別」
昨日まで。
何度も。
そう考えてきた。
今日。
よりはっきりした。
「ギデオン本人が認めても」
私は続ける。
「それで責任が終わるわけじゃない」
「そうね」
「辞めたから」
「うん」
「十分でもない」
「ええ」
「公に認めたから」
「うん」
「もう罰しなくていい、でもない」
リオラが。
少し笑った。
「明日の準備、できてるじゃない」
「何の?」
彼女が。
鞄から一枚の書類を出した。
記憶法院。
申立書。
「何これ」
「ギデオンの職務権限行使について」
私は。
文字を追う。
《調査妨害》
《説明義務違反への関与》
《機密指定権限の目的外使用》
そして。
私自身の縁切り売却。
「これ」
胸が。
重くなる。
「正式に告発できる段階まで資料が揃った」
リオラが言う。
第20話。
私は。
ギデオンの行為を正式記録に残すと決めた。
でも。
あれから。
彼は辞任した。
権限を手放した。
今日。
加害する側にいたと。
公に認めた。
それでも。
「どうする?」
リオラが聞く。
私は。
申立書を見る。
明日。
これへ署名すれば。
私は。
元夫を。
正式に告発する。
胸が。
痛まないわけではない。
でも。
答えは。
思ったより。
静かに出た。
「出す」
リオラが。
何も言わず。
ペンを置いた。
私は。
すぐには署名しなかった。
今日は。
まだ。
ギデオンの証言を聞いたばかり。
感情で。
書きたくない。
「明日の朝」
私は言う。
「もう一度全部読んで」
「うん」
「それでも同じなら」
ペンを見た。
「署名する」
彼が。
自分から責任を認めたことと。
私が。
責任を問わないことは。
同じではない。
むしろ。
彼が。
本当に自分も制度の対象になると言ったのなら。
私は。
その言葉を。
信じるためにも。
公的な手続きへ渡す。
彼を傷つけるためではない。
許さないことを示すためでもない。
何をしたのかを。
私たち二人の感情ではなく。
法に判断させるために。
机の上。
申立書。
その一番上に。
名前がある。
《被申立人 ギデオン・ヴァルデン》
私は。
その名前を。
長く見た。
昔。
夫だった人。
今。
会わないと決めた人。
そして。
明日。
私が正式に。
責任を問うことになる人。
それでも。
この手続きを選ぶことと。
彼を愛していた過去を否定することは。
何の関係もない。
私は。
そう分かるところまで。
ようやく来ていた。




