第33話 彼が権限を手放した日
ギデオン・ヴァルデンが機密監察局長官を辞任した。
私は、そのことを新聞で知った。
朝。
保護館の食堂で。
パンを半分ほど食べたところだった。
新聞の一面。
大きな見出し。
《ヴァルデン公爵、機密監察局長官を辞任》
その下。
《白鐘広場関連調査および縁切り記憶売却制度への自身の関与を理由に》
私は。
しばらく。
文字を眺めた。
「……知らなかった」
向かいのリオラが、紅茶を置く。
「私も今朝知った」
「昨日まで何も?」
「辞任の相談は受けてない」
新聞を取る。
もう一度読む。
辞表は昨日夕刻。
国王宛て。
即日受理。
長官職だけではない。
《本件に関する監察局特別捜査権限を返上》
《公爵家に認められる捜査上の特別照会権を、本件について使用しない旨を申告》
《職務上行為について認められる一定の訴追保護について、自身に関係する事案では適用を求めない意向》
私は最後の部分で止まった。
「訴追保護?」
リオラが新聞を覗く。
「監察局長官は、職務上の機密行為について普通の官吏より強い保護があるの」
「免責?」
「完全な免責じゃない。でも、機密保持を理由に証言を拒めたり、職務判断について起訴手続きに追加承認が必要だったりする」
「それを」
私は紙を指す。
「使わない?」
「そういう意味」
「できるの?」
「本人から適用を求めないことはできる。最終的な法的扱いは法院が判断するけど」
私は。
新聞を机へ戻した。
昨日。
私たちは、ギデオンが承認した七件の縁切り売却を調べ始めた。
今日。
本人は。
職を辞めた。
胸の奥に何かが動く。
でも。
すぐに。
私は自分へ言う。
私のため。
そう決めない。
「理由、何て書いてある?」
記事の後半を読む。
短い声明。
《私は現在進行中の捜査において、調査主体であると同時に調査対象となる可能性があります。この状態で長官権限を保持することは、捜査の公正を損ない得ると判断しました》
その次。
《私が過去に行った職務判断についても、他の関係者と同じ手続きで検証されるべきです》
それだけ。
私の名前は。
どこにもない。
「……ちゃんとしてる」
口から出た。
リオラが私を見る。
「何が?」
「『エステルのために辞めます』じゃない」
「言ったら殴るところだった」
「誰を?」
「公爵を」
「弁護士が暴力は駄目でしょう」
「弁護士じゃない時間に」
少し笑った。
でも。
胸のざわつきは消えなかった。
あの人は。
長官であることを。
どう思っていたのだろう。
過去の記憶。
婚姻二年目。
私は言った。
『長官になる話も断ってって言ったら?』
そして。
婚姻四年目。
実際に長官へ就任した。
仕事を。
辞めなかった人。
その肩書きを。
今。
手放した。
*
午後。
新聞ではなく。
正式な通知が届いた。
差出人は王国機密監察局。
署名は副長官。
ギデオンではない。
《本件捜査体制変更について》
私はリオラと一緒に読む。
第一。
ギデオン・ヴァルデンは長官職を辞任。
第二。
白鐘広場関連記憶不正事件、マルセル判事殺害事件、縁切り記憶売却手続きに関する監察局内部調査から完全に離脱。
第三。
当該事件に関してこれまでギデオン個人が管理していた資料は、第三者立会いのもと副長官管理へ移管。
第四。
過去の職務判断については、本人を「調査担当者」ではなく「関係証人・調査対象者」として扱う。
「これ」
私は言う。
「かなり違う?」
「違う」
リオラは即答した。
「昨日までのギデオンなら、自分に関する記録を自分の部下が調べる形になる」
「今は?」
「少なくとも指揮命令系統から外れた」
「資料を隠すことも?」
「絶対できない、とは言わない」
「ですよね」
「でも難しくなる」
重要なのは。
そこ。
善意ではない。
仕組み。
本人が善人だから公平に調べられる。
ではなく。
本人が動かせない形へする。
「これなら」
私は言った。
「ギデオンが『全部出しました』って言うのを信じなくていい」
リオラが少し笑った。
「そうね」
「変な意味じゃなくて」
「分かってる」
信頼しなくても。
調べられる。
そのほうが。
健全なのだと思う。
「七件は?」
「引き続き法院から照会中」
「監察局の長官が変わったから止まらない?」
「むしろ通しやすくなる可能性がある」
私は頷く。
「じゃあ続けよう」
ギデオンの辞任そのものを。
恋愛の材料にするつもりはない。
今は。
七件。
彼が制度側として何をしたか。
そこを見る。
*
最初の記録が届いたのは、その日の夕方だった。
七件のうち。
もっとも古い一件。
五年前。
対象者は匿名化されている。
元配偶者A。
夫は監察局所属の機密職員。
離婚に伴う縁切り売却。
契約前説明記録。
《婚姻関係記憶および機密接触記憶の抽出を説明》
《周辺人物記憶の一部欠落可能性を説明》
《売却後は記憶院にて管理》
また。
管理。
所有権ではない。
「ギデオンの承認は?」
リオラが次頁を出す。
ある。
《機密保護上、抽出範囲は妥当》
署名。
ギデオン・ヴァルデン。
「説明内容の確認欄は?」
「ここ」
別の欄。
《契約説明に重大な不足がある場合、機密担当責任者は手続きを停止し、記憶院へ再説明を要求できる》
私は。
そこを二度読む。
「停止できた」
「ええ」
「ギデオンが?」
「責任者として」
「した?」
ページをめくる。
停止記録。
なし。
再説明要求。
なし。
手続き承認。
あり。
私は。
黙った。
第29話。
彼は言った。
制度を使う側だった。
配偶者が何を失うかより。
機密が残らないことを優先した。
本人の言葉。
今。
書類がそれを裏付け始めている。
「本人は」
私は聞く。
「後で異議を?」
「出してる」
リオラが最後のページを示す。
三か月後。
《所有権が国へ移転したとの説明を事前に受けていない》
《返還を求める》
結果。
棄却。
理由。
《契約書への署名をもって同意成立》
胸の奥が。
重くなる。
「ギデオンはこの異議を知ってた?」
「受理通知の送付先に監察局が入ってる」
「本人が読んだ証拠は?」
「まだない」
だから。
決めない。
「次」
二件目。
四年前。
第17話で聞いた。
高位外交官の元妻と思われる事例。
抽出後。
本人が強い記憶欠落を訴えた。
今回。
詳細記録がある。
《対象者は、婚姻中に取得した外国語能力の一部低下を訴える》
私は眉を寄せた。
「知識まで?」
「技能記憶が夫との生活へ強く結びついていたみたい」
「夫が外国人?」
「外交官。赴任地で言語を覚えた」
つまり。
夫婦の生活。
仕事。
外国語。
全部が。
関係の網。
「術前に説明は?」
《生活技能への影響は限定的と予測》
限定的。
結果は。
本人が仕事を辞めるほどの影響。
「これは」
私は言う。
「予想できなかった?」
リオラが資料を見る。
「術者側はそう主張している」
「ギデオンは?」
《機密抽出範囲縮小不可》
署名。
ギデオン。
理由。
《外交案件に接触した生活期間全体が機密範囲と重なるため》
「狭くできなかった?」
「制度上、難しかった可能性はある」
「なら」
私は聞く。
「売却しない選択は?」
「夫が職を辞めれば」
また。
それ。
「夫は?」
「辞めてない」
私は。
紙から手を離した。
夫婦のどちらかだけが。
悪い。
そんな簡単な話ではない。
国家機密も。
実際に守る必要がある。
でも。
その負担。
誰が負うのか。
いつも。
去る側の記憶だった。
「ギデオンは」
私は言う。
「制度が正しいと思ってたんだね」
リオラが私を見る。
「たぶん」
「だから」
私のときも。
使った。
特別扱いではない。
むしろ。
自分が正しいと思って。
他人にも使ってきた制度を。
妻にも使った。
それは。
ある意味。
もっと悪い。
そして。
もっと理解できる。
「全部見よう」
私は言った。
「七件」
「今日中は無理よ」
「分かってる」
「それから」
リオラが私を見る。
「これは、ギデオンが辞任したこととは別だからね」
私は少し笑った。
「私が言おうと思った」
「なら合格」
「何の?」
「知らない」
*
翌朝。
予備審理の冒頭。
予想していなかったことが起きた。
ベルク検事が立ち上がり。
ギデオンの辞任に伴う証拠保全措置について報告した。
「前機密監察局長官ギデオン・ヴァルデン本人より」
法廷が静まる。
「自身の執務室、私邸内職務保管庫、公爵家が管理する機密文書庫について、本件に関係する捜索・押収への異議を申し立てない旨の書面が提出されています」
傍聴席がざわつく。
私は。
動かなかった。
リオラが小さく息を吐く。
「そこまで」
私は囁く。
「普通?」
「公爵家の私邸文書庫まで異議を放棄するのは珍しい」
クラウディア審理官が検事へ聞く。
「本人は立会いを求めている?」
「求めていません」
「代理人は?」
「必要な守秘確認のため法院選任者のみ」
自分の人間を。
置かない。
「また」
私は呟いた。
「何?」
リオラ。
「自分で調べないようにしてる」
「そうね」
ギデオンは。
昨日まで。
誰より多くの権限を持っていた。
調べることも。
止めることも。
守ることも。
できた。
そして。
その力で。
私の人生を決めた。
だから今。
彼は。
力を使って償おうとしていない。
力を。
手放している。
その違いを。
私は。
ちゃんと見た。
*
審理後。
記者が廊下で騒いでいた。
「ヴァルデン公爵は失脚したのですか!」
「ローヴェン夫人の告発を恐れて辞任したのですか!」
「復縁のための示談では!」
最後の言葉に。
私は足を止めそうになった。
リオラが腕で制する。
「答えなくていい」
「うん」
そのまま歩く。
でも。
後ろから。
別の記者の声。
「公爵本人から声明が出ています!」
私は。
振り返らなかった。
保護館へ戻ってから。
正式な写しだけを読んだ。
《本件について、私の辞任を元妻との私的関係に結びつける報道があるため、一点のみ否定します》
次。
《辞任は、エステル・ローヴェン氏から求められたものではありません》
その次。
《また、私的関係の修復を目的として行ったものでもありません》
私は。
そこを。
長く見た。
《私が職務上行った判断を、私自身の権限下で調査させないための措置です》
終わり。
愛している。
許してほしい。
戻ってきてほしい。
何も。
ない。
「……徹底してる」
リオラが言う。
「うん」
「寂しい?」
「聞く?」
「一応」
私は。
少し考えた。
「ちょっと」
正直に。
「でも」
声明を畳む。
「これでいい」
今。
会いに来られたら。
困る。
辞任したから許してほしい。
そんな顔をされたら。
もっと困る。
何も求めない。
ただ。
自分の責任を。
自分が持っていた権力から切り離す。
それだけ。
「次は」
私は七件の資料を見る。
「残り五件」
「容赦ないわね」
「本人が出したんでしょう」
「そうだけど」
「なら見る」
私は。
新聞の一面を裏返した。
長官辞任。
大きな見出し。
それを。
恋愛の告白として読むことはしない。
これは。
公的な行動。
なら。
公的な意味で評価する。
ギデオン・ヴァルデンは。
長官職を手放した。
捜査権限を手放した。
自分を守るために使える制度上の壁を。
一つずつ外し始めた。
それで。
過去の行為が消えるわけではない。
私の七年間も。
戻らない。
でも。
少なくとも今日。
彼は。
私を守るために権力を使わなかった。
自分を守るためにも。
使わなかった。
私は。
その事実だけを。
今の彼についての新しい記録として。
静かに残した。




