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第32話 忘れて、楽になった人

「最初に言っておきますけど」


目の前の女性は、紅茶にも菓子にも手をつけずに言った。


「私は、記憶を売ってよかったと思っています」


私は、返事をするまで少し間を置いた。


「はい」


「驚かないんですね」


「少しは」


正直に答える。


「でも、そういう人もいると思っていました」


女性は私をじっと見た。


四十二歳。


セシリア・モーン。


十一年前、夫との離婚に伴って五年分の婚姻記憶を縁切り売却した。


夫は王宮暗号局の職員。


現在は再婚して、王都の南で仕立て工房に勤めている。


私たちが今日会う一人目の証言者だった。


「ハート先生からの手紙には」


セシリアは言う。


「制度の被害について話を聞きたい、とは書いてなかった」


「書いてないです」


リオラが答える。


「経験を聞きたい、としか」


「わざと?」


「はい」


セシリアの口元が、ほんの少し上がった。


「あなた、昔から感じ悪いわね」


「お互い様です」


「知り合い?」


私が聞く。


「九年前に一度」


リオラが答える。


「記憶返還請求の相談で」


私はセシリアを見る。


「返してほしかったんですか?」


「そのときはね」


意外だった。


「でも今は?」


「いらない」


迷いがない。


「どうして?」


セシリアはようやく紅茶を一口飲んだ。


「離婚した直後は、怖かったんです」


「怖い?」


「五年もないのよ」


彼女は自分のこめかみを指す。


「二十五から三十まで。夫の顔も、結婚式も、暮らしていた家も、全部ぼんやり穴が開いてる」


「はい」


「友達に昔話をされても、自分の話じゃないみたい」


分かる。


私は黙って聞く。


「だから返してほしかった」


「でも」


「三年くらいしたら」


セシリアは肩をすくめた。


「どうでもよくなった」


「どうでも?」


「今の夫と出会ったから、っていう綺麗な話じゃないわよ」


少し笑う。


「記憶がなくても、私は私だったから」


胸に。


静かに入ってきた。


「料理の好みも」


「仕事も」


「妹との喧嘩も」


「朝が苦手なのも」


「何も変わらなかった」


「元夫への感情は?」


「最初は理由の分からない苛立ちが残った」


私は少し笑った。


「それも分かります」


「でしょうね」


セシリアも笑う。


「でも薄れた」


そして。


「今は、返されても困る」


「なぜ?」


「昔の男との五年間を、今の私の中に急に戻されてもね」


その言葉。


昨日までの私なら。


もっと強く反応したかもしれない。


今は。


静かに頷けた。


「じゃあ制度には賛成?」


私は聞いた。


セシリアは。


そこで初めて顔を曇らせた。


「それとこれは別」


「何が?」


「私は売ることに納得してた」


「全部?」


「いいえ」


即答。


「夫を忘れることは納得してた」


「でも?」


「母を忘れた」


私は顔を上げた。


「お母様?」


「結婚三年目に亡くなったの」


セシリアの指がカップをなぞる。


「夫が葬儀の手配をした」


「ということは」


「母の死の前後が、夫との関係記憶に巻き込まれた」


記憶印術の抽出対象。


関係の網。


夫婦生活。


夫を通じて知ったこと。


一つの出来事に複数の人物が関われば、きれいに夫だけを切り取れるとは限らない。


「説明は?」


リオラが聞く。


「『周辺記憶が一部失われる可能性があります』」


「具体的に母親の葬儀まで失うとは?」


「聞いてない」


「知っていたら?」


セシリアは。


少し考えた。


「それでも売ったと思う」


私は驚いた。


「それでも?」


「元夫と離れたかったから」


彼女は言う。


「でも」


私を見る。


「選ばせてほしかった」


その一言。


私は。


ペンを止めた。


「夫を忘れる」


「母の最後を忘れる」


「両方失うなら」


セシリアは続ける。


「それを知った上で、私が決めたかった」


*


二人目は。


エレナ・バルシュ。


五十一歳。


元夫は王立造幣局の技官。


離婚時に九年間の記憶を売った。


「私は後悔しています」


席につくなり。


そう言った。


「理由を聞いても?」


「娘です」


私は。


一瞬。


身構えた。


「娘さんも忘れた?」


「いいえ」


それなら。


「夫との間に子どもがいたんですか?」


「いません」


エレナは首を振る。


「妹の娘」


姪。


「私たち夫婦には子どもがいなかったから、よく泊まりに来てた」


「それが?」


「あの子が六歳から十五歳になるまで」


九年間。


「思い出のほとんどに夫がいる」


ああ。


分かった。


旅行。


食卓。


誕生日。


遊び。


家族行事。


夫婦生活の記憶を抽出すれば。


そこにいた姪まで。


一緒に消える。


「今も会う?」


「会います」


エレナは笑った。


少し。


寂しそうに。


「もう二十四歳」


「向こうは覚えてる」


「私と遊んだこと」


「一緒に雪だるまを作ったこと」


「初めて劇場へ連れていったこと」


「でも私は」


指が。


膝の上で握られる。


「何も覚えてない」


「契約時に」


私は聞く。


「その可能性は?」


「説明された」


今度は。


された。


「理解してた?」


「してたつもり」


「つもり?」


「『夫との関係に密接した第三者記憶も対象となる』」


エレナは。


乾いた笑いを漏らす。


「その文章を読んだ」


私は。


第4話で見た契約書を思い出す。


文章。


正確。


でも。


生活の形をしていない。


「そのとき」


エレナは言う。


「私は夫のことで頭がいっぱいだった」


「離婚が大変だった?」


「ええ」


「だから」


「第三者記憶なんて言われても」


彼女は首を振る。


「それが姪の九年間だなんて、想像できなかった」


リオラが聞く。


「具体例を示されていたら?」


「止まったと思う」


「契約を?」


「少なくとも」


エレナは言った。


「その日に署名はしなかった」


私は。


そこへ線を引いた。


説明はあった。


でも。


理解できる形だったか。


別の問題。


*


三人目。


ノーラ・セイン。


三十七歳。


離婚時の記憶売却は四年前。


元夫は外交文書局。


彼女は。


怒っていた。


最初から。


「金額を聞いたときは」


彼女は言った。


「馬鹿にしてるのかと思いました」


「譲渡金?」


「ええ」


「いくら?」


金額を聞く。


私のものより。


かなり低い。


感情価値や機密価値によって価格が違う。


「安かったから怒った?」


「違う」


ノーラは私を睨む。


「値段がついたから」


私は。


少し黙った。


「どういう意味?」


「結婚記憶に」


彼女は言う。


「金額が書いてあった」


「はい」


「夫と初めて会った日」


「喧嘩した日」


「父の葬儀」


「二人で犬を飼った日」


「全部まとめて」


指で机を叩く。


「銀貨何枚」


私は。


自分の譲渡金を思い出した。


国から受け取った。


確かに。


価格だった。


「それが嫌だった?」


「嫌だった」


「でも受け取った?」


「受け取ったわよ」


ノーラは吐き捨てるように言う。


「受け取らなきゃ離婚できなかったから」


リオラが顔を上げる。


「そこ」


「何?」


「売却を拒否する選択肢について説明された?」


「された」


「内容は?」


「夫が機密職を辞めるか、婚姻を継続するか」


私は。


眉を寄せた。


「あなたが記憶を保持したまま離婚する選択肢は?」


「ないって」


ノーラは言う。


「制度上」


そう。


高位機密職。


縁切り売却。


機密を持った配偶者は。


記憶を保持したまま去れない。


「つまり」


私は確認する。


「あなたが選べたのは」


「結婚を続ける」


「夫に仕事を辞めてもらう」


「記憶を売る」


「それだけ」


「夫は辞めるって?」


ノーラが笑った。


「言うわけないでしょう」


「話し合った?」


「話した」


「答えは?」


「国家への責任がある」


また。


守るもの。


職務。


国。


「だから」


ノーラは言った。


「私は自由に売ったんじゃない」


「離婚するための入場料みたいなものだった」


その表現を。


私は書いた。


ただし。


横に。


《本人の評価》


と付ける。


事実と。


感情を。


混ぜない。


「今」


私は聞く。


「記憶を返してほしい?」


ノーラは。


意外にも首を振った。


「いらない」


「どうして?」


「元夫に未練ないもの」


「じゃあ何を望む?」


「制度を変えて」


即答。


「記憶を返せじゃなく?」


「選べるようにして」


「何を?」


「どこまで売るか」


「誰の記憶まで巻き込むか」


「機密だけ切り出せないなら、せめて時間をくれ」


そして。


「離婚したい人間が」


ノーラは言う。


「一番弱ってる日に、一生戻らないものへ署名させないで」


*


四人目。


最後の女性は。


ミラ・オーウェン。


四十五歳。


彼女だけは。


最初から。


穏やかだった。


「私は」


ミラは言った。


「制度に感謝しています」


今日。


二人目。


私はもう驚かなかった。


「聞かせてください」


「元夫とは」


ミラは言う。


「仲が悪かったわけではありません」


「では、なぜ離婚を?」


「彼が北方勤務になった」


「それだけ?」


「二十年」


長い。


「私は王都を離れたくなかった」


「夫は?」


「仕事を辞めたくなかった」


「話し合って?」


「離婚した」


静か。


誰も悪くない。


そういう別れ。


「記憶売却も?」


「納得していました」


「説明は?」


「丁寧だったと思う」


「所有権移転も?」


「はい」


私は。


思わずリオラを見る。


彼女も気づいた。


「いつ?」


「七年前」


「担当官の名前、覚えてます?」


ミラが答える。


記憶院契約官。


私はメモする。


個人差。


担当者差。


制度全体が。


一律に説明を隠していたわけではない。


少なくとも。


今の証言では。


「記憶を失って」


私は聞く。


「つらくなかった?」


「つらかった」


「それでも?」


「私には必要だった」


ミラは。


窓を見る。


「私、別れたあとも」


「夫を愛していたから」


胸が。


少し動く。


「覚えていたら」


彼女は笑う。


「たぶん、北へ追いかけてた」


「それは悪いこと?」


「私にとっては」


「なぜ?」


「私は王都でやりたい仕事があった」


彼女は。


自分の手を見る。


「愛してるからって」


「自分の人生を捨てたくなかった」


私は。


何も言えなかった。


「忘れたら」


ミラは続ける。


「楽になった」


「寂しさも?」


「完全には」


「身体って変よね」


笑う。


「雪を見ると、今でも胸が痛くなる」


理由の分からない感情。


残る。


「でも」


「私はここに残った」


「仕事を続けた」


「それでよかったと思ってる」


私は。


ゆっくり頷いた。


「じゃあ」


聞く。


「制度を変える必要はない?」


ミラは。


少し考えた。


「あります」


また。


「どこが?」


「私が納得したからって」


彼女は言う。


「全員が納得したことにはならないでしょう」


その言葉が。


一番。


静かだった。


「私には必要だった」


「でも」


「必要じゃない人にまで同じことをする理由にはならない」


*


四人。


四つの答え。


午後遅く。


最後の面談を終えたあと。


私は机に突っ伏した。


「疲れた」


「お疲れ」


リオラが書類をまとめる。


「思ってたのと違った」


「何が?」


「もっと」


顔を上げる。


「みんな怒ってると思ってた」


「あなたが今、怒ってるから?」


「……たぶん」


リオラが笑う。


「いい間違いね」


「笑わないで」


「でも気づいた」


「うん」


私は。


四人の記録を見る。


売ってよかった。


後悔している。


記憶はいらない。


制度を変えてほしい。


感謝している。


母の葬儀を失った。


姪の九年間を失った。


値段をつけられたことが嫌だった。


忘れたから自分の人生を選べた。


バラバラ。


「制度そのものが」


私は言う。


「全部悪いわけじゃない」


リオラは頷く。


「記憶を手放したい人もいる」


「うん」


「手放すことで救われる人も」


「いる」


オルレナの言葉を。


思い出した。


人が耐えられない真実はある。


記憶を消すことで。


救われた人もいる。


あの人が。


全部間違っているわけではない。


そこが。


やっぱり。


難しい。


「でも」


私は紙を一枚取る。


四人に共通した質問。


《何を失うか理解していたか》


《拒否できたか》


《選択肢を比較できたか》


《考える時間があったか》


《本人の意思が処置へ反映されたか》


「ここ」


私は言う。


「記憶を残したいか、消したいかじゃない」


「そうね」


「どっちを選んでもいい」


「本人が選べるなら」


「たぶん」


私は。


昨日の番号一覧の横へ。


今日の証言を置く。


事件。


制度。


別々に見えた。


でも。


少しずつ。


同じ場所へ集まっている。


誰が。


記憶を決めるのか。


*


夕方。


リオラが帰る前。


一通の書類が届いた。


監察局から。


私は。


一瞬。


手を止めた。


差出人は。


ギデオン個人ではない。


《王国機密監察局》


約束どおり。


公的な連絡。


「開ける?」


リオラが聞く。


「事件関係?」


「そう書いてある」


「じゃあ」


開封。


中には。


縁切り売却制度に関する監察局の過去十二年分の承認件数。


私たちが照会していた資料。


そして。


追加資料。


《不完全説明の疑義がある事案》


十二件。


私は。


目を止める。


「これ」


「何?」


「頼んでない」


私たちが求めたのは。


承認件数。


不完全説明の抽出までは。


要求していない。


「誰が追加した?」


リオラが最後のページを見る。


「調査責任者」


署名。


ギデオン・ヴァルデン。


胸が。


少し。


動く。


でも。


私宛ての言葉は。


一つもない。


《ご参考まで》


すらない。


資料だけ。


「十二件」


私は言う。


「昨日、ギデオンが確認するって言ってたやつ」


「そうね」


「自分に不利な記録」


「ええ」


承認欄。


十二件のうち。


七件。


ギデオンの署名。


五件。


前任長官。


「七」


声が。


低くなる。


私だけではない。


セシリア。


エレナ。


ノーラ。


ミラ。


今日会った人たちが。


この七件に含まれているかは分からない。


でも。


少なくとも。


七人。


「次」


リオラが言う。


「これを調べる?」


私は。


少し考えた。


「うん」


でも。


一つ。


決める。


「ギデオン本人には聞かない」


「なぜ?」


「記録で確かめる」


私は。


七つの承認番号を書き写す。


彼が。


自分から提出した。


だからこそ。


その説明を。


彼自身の言葉だけで受け取らない。


何を承認したのか。


誰が説明したのか。


どこで不足したのか。


記録で見る。


それが。


今の距離。


「分かった」


リオラが書類を鞄へ入れる。


「明日、法院へ申請する」


「お願い」


*


夜。


一人になって。


今日の証言を読み返した。


セシリア。


《売ってよかった》


《でも、母の最後まで失うとは知らなかった》


エレナ。


《説明はされた》


《でも、それが姪との九年間だとは理解できなかった》


ノーラ。


《記憶はいらない》


《でも、自分で範囲を選びたかった》


ミラ。


《制度に感謝している》


《私に必要だったことは、全員に必要だったことにはならない》


私は。


その下へ。


一文だけ書いた。


《忘れることが悪いのではない》


少し。


考える。


次。


《覚えていることが正しいのでもない》


そして。


最後。


《どちらを選ぶかを、本人以外が決めることが問題なのだ》


ペンを置いた。


オルレナは。


記憶を消して救われた人を知っている。


今日。


私も知った。


だから。


彼女の思想を。


簡単に否定はできない。


でも。


ミラは。


自分で選んだ。


それが。


大きく違う。


机の端。


監察局から届いた資料。


ギデオンの署名。


七件。


彼も。


かつて。


誰かの選択より。


国家機密を優先した。


その事実は。


これから。


もっと具体的になる。


私は。


資料を閉じた。


明日から調べる。


彼が。


何をしたのか。


私の元夫だからではない。


今の彼が変わろうとしているからでもない。


七人分の人生に。


彼の署名があるから。


そして。


その責任をどう扱うかは。


私が彼を好きか嫌いかとは。


何の関係もない。

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