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第31話 元夫のいない調査

ギデオンと会わなくなって、三日目。


私は朝食の紅茶を一口飲んで、思った。


「……不便」


向かいに座っていたリオラが、新聞から顔を上げた。


「何が?」


「調査」


「寂しい、じゃなく?」


「違う」


即答した。


たぶん。


少なくとも今は、そういうことにしておく。


「監察局へ確認したいことが出るたび、正式照会が必要でしょう」


「それが普通なの」


「知ってる」


「今まで公爵が便利すぎたのよ」


「それも知ってる」


机の上には、昨日までに届いた資料が並んでいる。


縁切り売却への異議申立て。


白鐘広場十六件の封緘記録。


殺害命令記憶に映っていた旧面談室の備品記録。


そして。


王立記憶院が五日以内に提出することになっている原簿。


まだ来ない。


期限は明後日。


「ギデオンからは?」


思わず聞く。


リオラが新聞を畳んだ。


「捜査上必要な資料は監察局名義で届いてる」


「本人からは?」


「何も」


「そう」


本当に。


何も来ない。


手紙も。


花も。


伝言も。


私的面会申請も。


あの人は。


約束を守っている。


その事実を確認して。


私は紅茶をもう一口飲んだ。


「何、その顔」


「何でもない」


「最近それ多いわよ」


「弁護士は人の顔を読みすぎ」


「依頼人が隠し事するからね」


「しません」


「九一七」


「それはもう謝ったでしょう」


少し笑う。


そのとき。


扉が叩かれた。


「ハート弁護人。王立記憶院から担当官がお見えです」


リオラが私を見る。


「予定あった?」


「ない」


「私も」


嫌な予感。


でも。


「通して」


数分後。


部屋へ入ってきたのは。


若い男だった。


二十代半ば。


薄茶色の髪。


記憶院の灰色の制服。


胸元に、下級封緘官を示す銀の細い徽章。


彼は。


入ってきた瞬間から。


緊張していた。


「ユリウス・フェインと申します」


私は顔を上げた。


「フェイン?」


男の喉が動く。


「はい」


リオラが先に気づいた。


「マルセル判事と同じ姓」


「叔父です」


部屋の空気が変わった。


「マルセル判事の?」


「父の兄です」


私は姿勢を正した。


「今日は何のために?」


ユリウスは手にしていた書類鞄を、膝の上で強く握った。


「原簿提出の補助担当として」


「王立記憶院から?」


「はい」


「原簿は?」


「……まだです」


リオラの目が細くなる。


「では何をしに?」


ユリウスは。


扉を見た。


そして。


廊下。


明らかに。


誰かを気にしている。


「記録官を呼ぶ?」


私は聞いた。


彼が一瞬固まった。


「必要なら」


「何か正式な証言をするつもり?」


「そこまでは」


「じゃあ」


私は椅子を指す。


「まず座ってください」


彼は。


少し戸惑ってから座った。


手が。


震えている。


「お茶は?」


「いりません」


「水は?」


「……いただきます」


リオラが水を渡す。


ユリウスは。


一口だけ飲んだ。


「それで」


私は言う。


「原簿に何か問題が?」


彼の指が止まった。


分かりやすい。


「ありますね」


「……あります」


リオラがすぐ聞く。


「提出不能?」


「違います」


「所在不明?」


「それも違う」


「なら?」


ユリウスは。


何度か口を開き。


閉じた。


私は待った。


急かさない。


やっと。


彼が言う。


「原簿はあります」


「どこに?」


「地下第二原簿庫」


「閲覧できる?」


「できます」


「ではなぜ出ない?」


ユリウスの視線が。


机へ落ちる。


「提出前に」


声が小さい。


「再確認手続きが入ったからです」


「誰の?」


「総裁室」


オルレナ。


でも。


まだ。


それだけでは何も決まらない。


「普通の手続き?」


リオラが聞く。


「法院提出前に原簿状態を確認すること自体は、あります」


「では問題ない」


「ただ」


また。


言葉が止まる。


私は水差しを彼の前へ少し押した。


「ゆっくりでいいです」


ユリウスが。


私を見る。


少し。


驚いたような顔。


「私は」


彼が言う。


「封緘番号を確認する担当です」


「はい」


「白鐘広場の十六件も」


胸が。


動く。


「担当した?」


「今回の再確認で」


「何が分かった?」


ユリウスは。


鞄を開いた。


一枚の紙を出す。


写し。


番号一覧。


B-31-044。


B-31-051。


B-31-057。


他。


十六件。


「これ」


私は九一七番の一覧と照合する。


同じ。


「問題は?」


ユリウスが。


自分の指で。


番号の末尾を示した。


「ここです」


数字。


「通し番号?」


「はい」


「何がおかしい?」


「この年代のB区分は」


彼が別紙を出す。


「通常、年度ごとに連番です」


「つまり?」


「044の次に045」


「うん」


「051の前は050」


「普通ね」


「でも」


彼が。


白鐘広場十六件の一覧を並べる。


044。


051。


057。


063。


071。


飛んでいる。


「間が空いてる」


「はい」


「それ自体は?」


リオラが聞く。


「別のB区分記憶が間に入っていた可能性がある」


「そうです」


ユリウスが頷く。


「だから私も最初は気にしませんでした」


「最初は?」


「原簿側の索引を見たら」


彼の声が。


さらに低くなる。


「間の番号が存在しないんです」


私は。


一瞬。


意味が分からなかった。


「存在しない?」


「例えば」


彼が指す。


「B-31-044の次が、本来なら045。でも原簿索引には、045から050がありません」


「欠番?」


「欠番には欠番記録が必要です」


「ある?」


「ない」


リオラが。


身を乗り出す。


「つまり?」


ユリウスが。


深く息を吸う。


「白鐘広場十六件の番号は」


一度。


言葉を切る。


「最初から今の形で付けられた番号ではない可能性があります」


部屋が。


静かになる。


「後から?」


私は聞く。


「振り直した?」


「それはまだ分かりません」


その答え。


私は少し安心した。


この人も。


断定しない。


「でも通常ではない」


「はい」


「原簿にそれが?」


「索引上は」


「本文は?」


ユリウスの顔が。


強張る。


「そこまでまだ見られていません」


「なぜ?」


「総裁室の再確認命令が入ったから」


また。


オルレナ。


でも。


まだ。


印だけ。


命令だけ。


「それを」


私は聞く。


「あなたが私たちに話していいの?」


ユリウスの手が震えた。


「よくないと思います」


「じゃあ何で?」


長い沈黙。


彼は。


初めて。


マルセル判事の名を口にした。


「叔父が」


声が掠れる。


「死ぬ前に、同じ番号を調べていたからです」


私はリオラを見る。


「知ってた?」


「叔父が記憶証拠を調べていたことは」


ユリウス。


「でも詳しくは」


「直接、聞いた?」


「一度だけ」


「何て?」


ユリウスは。


机の上の番号を見る。


「『番号を信じるな』と」


胸が。


冷える。


「それだけ?」


「はい」


「いつ?」


「亡くなる一週間くらい前」


マルセルが監察局へ原簿照会を出す直前。


「そのとき叔父さんは?」


「怖がってた?」


私は聞く。


ユリウスが首を振る。


「怒っていました」


「何に?」


「分かりません」


少し。


悔しそうに。


「叔父は、私を巻き込みたくなかったんだと思います」


それ。


どこかで。


聞いたような話。


守るため。


知らせない。


私は。


少しだけ胸が痛んだ。


「でも」


ユリウスが続ける。


「死んだあと」


「叔父の机から、私宛ての紙が出ました」


「何て?」


彼は。


小さな封筒を出した。


開封済み。


そこには。


短い一文。


《私に何かあれば、白鐘広場の封緘番号を見ろ。番号そのものが証言している。》


私は。


何度か読んだ。


「これ」


リオラが言う。


「正式証拠として提出した?」


「まだです」


「なぜ?」


ユリウスの顔が。


変わった。


恐怖。


今度は。


はっきり。


「言えません」


「理由は?」


「……言えない」


リオラが追おうとする。


私は。


先に手を上げた。


「分かりました」


彼女が私を見る。


「エステル」


「今は」


ユリウスへ向く。


「言えないなら、言えないでいい」


彼の目が。


揺れる。


「でも」


私は続ける。


「この紙を隠したままにするのは危険です」


「分かっています」


「あなた一人で持ってる?」


「写しだけ」


「原本は?」


「自宅です」


その瞬間。


ユリウスの表情が。


ほんの少し。


固まった。


自宅。


家族。


何か。


そこにある。


でも。


今。


無理に聞かない。


「原本を」


リオラが言う。


「法院の証拠保全へ預けて」


ユリウスが。


迷う。


長い。


「……考えます」


「今日じゃなく?」


「今日は」


彼は立ち上がりかける。


「戻らないと」


「どこへ?」


「記憶院です」


「総裁室の再確認?」


「はい」


私は。


彼を見る。


「ユリウス」


「はい」


「一つだけ」


彼が止まる。


「今」


私は言う。


「あなたが一番怖いのは、自分のこと?」


ユリウスの顔から。


血の気が引いた。


返事はない。


それで。


十分だった。


「ごめんなさい」


私はすぐ言った。


「答えなくていい」


彼は。


少し。


唇を噛んだ。


「……失礼します」


出ていく。


扉が閉じる。


*


しばらく。


誰も話さなかった。


先に口を開いたのは。


リオラ。


「家族ね」


「たぶん」


「何かされてる」


「まだ決めない」


「でも」


「分かってる」


私は。


ユリウスの座っていた椅子を見る。


水の入ったグラス。


半分。


手の震え。


家。


原本。


言えない理由。


「追う?」


リオラが聞く。


一瞬。


迷う。


「……追わない」


「いいの?」


「今、誰かつけたら」


私は言う。


「たぶん二度と話してくれない」


「危険かもしれない」


「うん」


「それでも?」


「それでも」


私は。


第30話で。


ギデオンと離れた。


自分で決めるため。


だったら。


今度は。


別の人間の選択も。


少しは待てる人でいたい。


「ただし」


私は紙を取る。


「ユリウスの家族構成は、公的情報だけ確認する」


「それなら」


「本人へ圧をかけない範囲」


「分かった」


リオラがメモする。


「それから」


「何?」


「番号」


机へ。


十六件を並べる。


「こっちが本筋」


私は頷く。


欠番。


欠番記録なし。


原簿索引。


番号そのものが証言している。


「番号を後から振り直したなら」


私は言う。


「元の番号があるはず」


「そうね」


「どこかに」


「原簿か」


「別の台帳」


「法院受理記録」


私は。


マルセルの調査資料を出す。


三年前。


再封緘日時の二日差。


記憶院台帳。


法院台帳。


「この二日」


「何?」


「もし」


私は。


紙を並べる。


「再封緘のときに番号も変わったなら?」


リオラの目が。


鋭くなる。


「だから台帳の日付がずれた?」


「まだ仮説」


「でも確認できる」


「どうやって?」


「法院側の古い受理台帳」


王立記憶院の原簿は。


向こうが持っている。


でも。


法院側にも。


十二年前の受理記録がある。


「今日中に照会する」


リオラが立つ。


「正式に」


私は笑った。


「それ以外、今ないでしょう」


「公爵なら一時間で――」


言いかけて。


彼女が止まる。


私も。


一瞬。


笑いかけた。


でも。


「いない人の便利さを数えるのやめよう」


「そうね」


少し。


寂しかった。


でも。


それでいい。


*


夕方。


法院の古い受理台帳が届いた。


もちろん原本ではなく、管理官立会いでの閲覧。


十二年前。


白鐘広場事件。


B区分。


私は。


指で番号を追う。


「ここ」


最初。


マリア・セルド。


現番号。


B-31-044。


法院の最初の受理番号。


私は。


息を止めた。


違う。


《B-31-017》


「十七」


リオラが言う。


次。


ハンナ・ヴェル。


現番号。


B-31-051。


初回。


《B-31-018》


連番。


エーダ。


《B-31-019》


私は。


ページをめくる。


十六件。


全部。


十七から三十二。


きれいな連番だった。


「これ」


私は言う。


「元の番号」


リオラが頷く。


「少なくとも法院初回受理時は」


事件直後。


十六件は。


連続した番号だった。


そして。


再封緘後。


044。


051。


057。


飛び飛びになった。


番号が。


変わっている。


「再封緘で番号を変えることは?」


法院管理官に聞く。


彼が答える。


「内容区分や機密指定の変更時にはあり得ます」


「記録は?」


「必須です」


「この十六件には?」


管理官が確認する。


数分。


沈黙。


「……ありません」


また。


記録がない。


でも。


今度は。


はっきり。


前と後がある。


十七から三十二。


そして。


飛び飛びの十六番号。


「これで何が証明できる?」


私はリオラへ聞く。


彼女は。


慎重に答えた。


「十二年前」


指を置く。


「白鐘広場の十六件は、初回受理後から現在までの間に、正式な変更記録なしで封緘番号が変更されている」


「偽造?」


「そこまではまだ」


「でも不正?」


「少なくとも、規則違反の可能性は非常に高い」


私は。


ゆっくり息を吐いた。


一つ。


進んだ。


派手ではない。


誰かが自白したわけでも。


原本が出たわけでもない。


数字。


ただの数字。


でも。


マルセルは言った。


番号そのものが証言している。


その意味が。


少し分かった。


*


夜。


保護館へ戻る。


机に。


今日の記録を置く。


《初回番号 B-31-017〜032》


《現番号 飛び番号16件》


《番号変更記録なし》


その下。


《ユリウス・フェイン》


少し迷う。


そして。


《怯えている。理由は未確認。》


それだけ。


家族。


脅迫。


勝手に書かない。


まだ。


分からないから。


最後に。


空いた場所へ。


ペンを置く。


ギデオンなら。


今日。


どうしただろう。


たぶん。


もっと早く。


もっと強く。


進めた。


でも。


私は。


今日。


自分たちで一つ見つけた。


リオラと。


ユリウスと。


正式な台帳で。


それが。


少し嬉しかった。


ギデオンがいなくても。


私は。


止まらない。


彼と離れると決めたことは。


事件を諦めることではない。


むしろ。


今度は。


誰の権限にも。


誰の愛にも。


自分の判断を預けずに。


続きを追う。


私は。


二組の番号を見比べた。


十七から三十二。


そして。


後から付けられたらしい。


不揃いな十六個。


十二年前。


誰かが。


記憶の中身だけではなく。


記憶がどこから来たのかまで。


分からなくしようとした。


そんな可能性が。


初めて。


数字の形で。


目の前に残った。

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