第30話 愛しているから、離れようと思っていた
「見つかりました」
リオラがそう言ったとき、私はすぐに何のことか分からなかった。
保護館の自室。
朝から降っていた雪は昼前には雨へ変わり、窓を細かく叩いている。
机の上には、ここ数日の資料が積み上がっていた。
私の記憶譲渡契約書。
ギデオンが事前に署名していた機密保護確認書。
白鐘広場の封緘記録。
マルセル判事の調査申立書。
どれを開いても、気分の良くなるものはない。
「何が?」
「三年前のあなたが、私へ預けた書類」
「まだあるの?」
思わず嫌な顔をすると、リオラも同じ顔をした。
「私もそう思った。でも正確には、私が預かっていたものじゃない」
彼女は薄い封筒を机へ置く。
「記憶法院の家事調停部に保管されていた」
胸がわずかにざわついた。
「家事調停?」
「離婚相談を扱う部署」
私は封筒を見る。
昨日。
過去の私が、縁切り売却制度の法的扱いを三年前から調べていたと分かった。
でも。
それだけでは、実際に離婚するつもりだったとは言えない。
他人の相談をきっかけに制度を調べただけかもしれない。
第16話でリオラは言った。
離婚するつもりだったのかと聞いたら、
『まだ決めていない』
と。
「いつのもの?」
「二年前」
三年前ではない。
つまり。
調査を始めてから一年後。
離縁を実際にする一年ほど前。
「開けていい?」
「あなたの文書よ」
封を切る。
中には二枚。
一枚目は。
《家事調停事前相談票》
相談者。
エステル・ヴァルデン。
配偶者。
ギデオン・ヴァルデン。
私は。
自分の名前をしばらく見た。
「本当に」
声が小さくなる。
「離婚相談してた」
「ええ」
相談理由の欄。
そこには選択肢が並ぶ。
不貞。
暴力。
金銭問題。
親族問題。
長期別居。
その他。
私が印をつけていたのは。
《その他》
その横に。
自筆。
《配偶者による継続的な意思決定の代行》
私は。
息を止めた。
リオラも何も言わない。
次。
《婚姻関係継続の希望》
選択肢。
強く希望する。
条件付きで希望する。
迷っている。
希望しない。
印は。
《条件付きで希望する》
その下。
《条件》
私の文字。
《夫が、私の安全・生活・交友・行動について、私へ十分な説明なく決定することをやめること》
《国家機密の開示を求めているのではない》
《説明できる範囲を明示し、私自身が選択できる状態を求める》
また。
同じ。
何度も。
何度も。
私は言っていた。
「……ここまで」
思わず笑った。
笑いではない。
息が漏れただけ。
「ここまで書いてたんだ」
リオラが静かに頷く。
「続きがある」
二枚目。
家事調停官による面談記録。
《相談者は配偶者に対し強い愛情を保持していると述べる》
胸が。
痛んだ。
読み進める。
《離婚を希望しているのかとの問いに対し、相談者は以下のとおり回答》
その下。
引用。
《したくありません》
一行。
私は。
手を止めた。
次。
《私は夫を愛しています》
次。
《あの人と別れたいわけではありません》
その次。
《でも、このままの結婚を続けたいわけでもありません》
雨が。
窓を叩く。
私は。
過去の自分の言葉を追った。
《夫は私を大切にしています》
《暴力も不貞もありません》
《生活上困ることもありません》
《むしろ、世間から見れば恵まれた結婚でしょう》
そして。
《だから説明が難しいのです》
胸が。
締めつけられる。
分かる。
今なら。
すごく。
分かる。
《愛されているのに苦しいと言うと、贅沢だと思われる》
《夫が私を守ろうとしていることも分かっている》
《善意であることも》
《でも、善意なら私の人生を決めていいことにはならないと思うのです》
私は。
紙から目を離せなかった。
過去の私。
本当に。
今の私と同じことを考えていた。
違う。
今の私が。
過去の私と同じなのではない。
記憶を失っても。
私は。
同じ場所に戻ってきた。
《相談者は離婚を即時希望せず、配偶者との話し合い継続を希望》
《ただし、状況が改善しない場合には離婚申立てを検討》
そして。
最後。
調停官の質問。
《配偶者を愛していても離婚する意思があるか》
過去の私の回答。
《あります》
私は。
目を閉じた。
そこに。
答えがあった。
「愛してた」
声が出る。
「うん」
リオラ。
「それでも」
喉が詰まる。
「離婚しようとしてた」
「ええ」
「記憶を失ったからじゃない」
「違う」
「ギデオンを知らなくなったからでも」
「違う」
私は。
紙を机へ置いた。
急に。
力が抜けた。
今まで。
どこかで思っていた。
私がギデオンを拒むのは。
記憶がないからではないか。
昔の愛を持っていないから。
だから。
彼に厳しすぎるのではないか。
七年間を覚えていれば。
違う答えを出していたのではないか。
そういう疑い。
ずっと。
小さく残っていた。
でも。
違った。
昔の私は。
全部持っていた。
春の丘の求婚も。
厨房の失敗した焼き菓子も。
負傷したギデオンを見て泣いた夜も。
抱きしめてもらった温度も。
全部。
覚えたまま。
それでも。
離婚を考えていた。
「……そっか」
涙が。
落ちた。
悲しいのか。
安心したのか。
分からない。
「私」
鼻で息を吸う。
「昔の私に、復縁しろって言われてる気がしてた」
「過去のあなたは一度も言ってないわよ」
「分かってる」
「でも」
幸せな記憶を見るたび。
あんなに愛していたのに。
あんなに幸せだったのに。
今の私が戻らないのは。
何かを間違えているような気がした。
「昔の私も」
私は紙を見る。
「戻ろうとしてなかった」
正確には。
まだ離れたくなかった。
結婚を続けたかった。
でも。
条件付き。
変わらないなら。
離れる。
「これ」
私は聞く。
「ギデオンは知ってる?」
リオラが首を振る。
「家事調停の事前相談は本人同意なしに配偶者へ通知されない」
「つまり知らなかった」
「そう」
私は。
少し考えた。
「見せます」
リオラが私を見る。
「今日?」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないと思う」
正直に。
「でも」
私は書類を揃える。
「これを見ないまま、今までみたいに一緒に調査を続けるほうが嫌」
「どういう意味?」
答えは。
もう出ていた。
「一度、離れたい」
*
午後。
ギデオンとの面会。
私が申請した。
場所はいつもの面談室。
でも。
今日はリオラも記録官もいない。
私的面会として申請した。
もちろん。
扉の外には保護館職員。
いつでも終えられる。
ギデオンが入る。
私を見て。
何か察したらしい。
「何かあった?」
「はい」
私は。
向かいの椅子を示す。
「座ってください」
彼が座る。
私は。
書類を机へ置いた。
「これ」
ギデオンが読む。
最初。
意味が分からない顔。
そして。
相談者名。
自分の名前。
家事調停部。
表情が。
止まった。
「……いつ」
「二年前」
声が。
少し震える。
「私は知らなかった」
「そうです」
「離婚を」
言葉が続かない。
「考えていました」
私は言った。
「あなたを愛してたまま」
ギデオンが。
ゆっくり読み進める。
《したくありません》
《私は夫を愛しています》
《でも、このままの結婚を続けたいわけでもありません》
彼の指が。
紙の端で止まる。
「覚えてないですよね」
「……ああ」
「だって、私が相談してたことを知らないから」
「ああ」
「でも」
私は続ける。
「中に書いてあることは?」
ギデオンが目を閉じた。
「何度も」
「言われた?」
「ああ」
「私から?」
「ああ」
「それでも」
彼は答えない。
私は。
もう責めるために聞いているわけではない。
確認。
それだけ。
「変わらなかった」
「……変われなかった」
「違うと思います」
彼が顔を上げる。
「変わらなかった」
私は言う。
「できなかった、じゃなくて」
「危険になると、あなたは自分のやり方を選んだ」
「……そうだ」
「私は」
一度。
息を整える。
「記憶を失ってから」
彼を見る。
「ずっと迷ってました」
「何を」
「昔の私なら、あなたを許すんじゃないかって」
ギデオンの顔が。
少し歪む。
「昔の私はあなたを愛してた」
「はい」
「今の私より、ずっと」
「たぶん」
「あんなに好きだったなら」
春の丘。
『はい』
即答した。
私。
「全部覚えてたら」
声が揺れる。
「私は違う答えを出すんじゃないかって」
ギデオンは。
何も言わない。
「でも」
私は紙を指す。
「違った」
「昔の私も」
「あなたを愛したまま」
「離婚する覚悟をしてた」
ギデオンの目から。
一つ。
涙が落ちた。
彼は。
拭かなかった。
「……そうか」
それだけ。
私は。
胸が痛んだ。
でも。
ここで。
彼を慰めてはいけない。
違う。
慰めてはいけない、ではない。
慰めたいかどうかを。
自分で選ぶ。
今は。
選ばない。
「ギデオン」
「はい」
「私たち」
少し。
言葉にするのが怖い。
「一度、完全に離れましょう」
彼の顔から。
色が消えた。
「……どういう意味?」
「事件の捜査上必要な連絡以外」
私は言う。
「個人的には会わない」
「一緒に調査もしない」
「でも」
彼が言いかける。
止める。
「聞いて」
ギデオンが口を閉じる。
「今まで」
私は続ける。
「あなたが変わろうとしてるのは見てきました」
「命令しなくなった」
「聞いてくれるようになった」
「私に不利な証拠じゃなく、あなたに不利な証拠も出した」
「それは」
胸が。
痛い。
「ちゃんと見てる」
ギデオンの目が揺れる。
「でも」
私は言う。
「近すぎる」
「何が」
「あなたが」
もう。
元夫。
だけではない。
事件の協力者。
私を知る人。
私が少しずつ。
信用し始めている人。
その距離。
「私は今」
自分の胸へ手を置く。
「あなたを昔の夫として見てるのか」
「今のあなたを見てるのか」
「事件で頼れる人だから近くにいるのか」
「分からなくなる」
ギデオンは。
黙って聞いている。
「だから」
「一回」
私は言う。
「あなたがいないところで考えたい」
「事件も」
「自分の人生も」
「あなたのことも」
長い。
長い沈黙。
ギデオンが。
唇を開く。
「嫌だ」
初めて。
即答だった。
胸が。
強く痛む。
「……そう」
「嫌だ」
彼はもう一度言う。
「君と会えなくなるのは」
声が震える。
「嫌だ」
私は。
黙って聞いた。
「でも」
彼の手が。
机の上で強く握られる。
「それで君が決めたのなら」
呼吸。
「受け入れる」
涙が。
また落ちる。
「追いかけない」
「私的な連絡もしない」
「捜査上必要な情報は、リオラ・ハートを通す」
私は。
頷く。
「お願いします」
「期間は?」
「決めません」
彼の顔が。
さらに苦しくなる。
でも。
「分かった」
答えた。
私は。
少しだけ。
救われた。
「ありがとう」
「礼を言われることではない」
「今のあなたには言います」
彼が。
私を見る。
「昔なら」
「そういうのも」
私は首を振る。
「もう比べません」
ギデオンが黙る。
「これから」
私は言う。
「あなたが何をするかを見るのは」
「また私が会いたいと思ったときにします」
「……ああ」
「それまでは」
「はい」
「元夫でも」
「協力者でもなく」
言葉を探す。
「別々の人として」
ギデオンが。
ゆっくり頷く。
「分かった」
これで。
終わり。
私は立ち上がる。
ギデオンも。
でも。
近づかない。
触れない。
「エステル」
「何です?」
「最後に一つだけ聞いても?」
「どうぞ」
「昔の君が」
彼は。
紙を見る。
「私を愛していたことを」
「……はい」
「今の君が」
声が掠れる。
「嫌にならないでほしい」
胸が。
強く揺れた。
予想していなかった。
「なぜ?」
「私が」
一度。
息を飲む。
「あの愛を、ひどい形にしたから」
私は。
彼を見る。
「それは」
少し考える。
「大丈夫です」
ギデオンが顔を上げる。
「春の丘の記憶も」
「焼き菓子も」
「怪我したあなたを見て泣いた夜も」
「全部」
私は言う。
「嫌いにはしません」
彼の目から。
また涙が落ちる。
「幸せだったことは」
私は続ける。
「あなたの過ちとは別だから」
そして。
少しだけ。
笑った。
「昔の私があなたを選んだことも」
「間違いだったことにはしません」
ギデオンは。
何も言えなかった。
私は。
扉へ向かう。
開ける。
そして。
振り返らずに。
外へ出た。
*
その夜。
机の上を片づけた。
ギデオンとの協力条件。
六項目。
命令しない。
無断で触れない。
嘘をつかない。
決定を奪わない。
危険は説明する。
選ぶのは私。
その紙を。
捨てなかった。
でも。
引き出しへ入れた。
今は。
使わない。
代わりに。
家事調停の相談票を置く。
《婚姻関係継続の希望》
《条件付きで希望する》
そして。
過去の私の言葉。
《夫を愛しています》
《でも、このままの結婚を続けたいわけではありません》
私は。
そこへ。
新しい紙を一枚重ねる。
《現在》
少し考える。
そして書く。
《私はまだ、ギデオン・ヴァルデンを選ばない》
その下。
《選ばないことと、嫌いになることは同じではない》
最後。
《次に会うときは、過去の夫ではなく、今の彼を見る》
ペンを置く。
部屋は。
静かだった。
寂しい。
認める。
明日。
何か分からないことが出ても。
ギデオンへ聞けない。
危険なことがあっても。
まずリオラと考える。
たぶん。
不便になる。
それでも。
必要だった。
過去の私は。
ギデオンを愛していたから。
離婚したくなかった。
でも。
それでも。
自分を失うくらいなら。
離れる覚悟をしていた。
私は。
その続きを。
ようやく選んだ。
昔の私に従ったからではない。
今の私も。
同じ答えに。
自分でたどり着いたから。




