第29話 知らされなかった代金
「署名した時点で、所有権は国へ移転しています」
記憶法院の契約監査官は、私の顔を見ずに言った。
机の上には、私が離縁の日に署名した《縁切り記憶譲渡契約書》の原本がある。
第4話で見つけた、不自然な条項。
《譲渡対象記憶について、抽出完了後の保管、閲覧、再分類その他必要な処置は、王立記憶院の管理規程に従う》
あのときは。
「管理規程に従う」という曖昧さが気になった。
けれど。
今日調べているのは、その先だった。
「確認します」
リオラが言う。
「エステル・ローヴェン――契約当時はエステル・ヴァルデンが売却した七年間の記憶は、預託ではない?」
「はい」
「本人の記憶晶を国が預かる制度でもない?」
「違います」
「所有権そのものを譲渡する?」
「そのとおりです」
私は監査官を見る。
「つまり」
声が少し乾いた。
「私の記憶なのに、私のものじゃなくなった?」
監査官は、ようやく私を見た。
「法律上は」
法律上は。
便利な言葉だ。
「それを」
私は契約書を指す。
「私は説明されたんですか?」
「それを確認するため、本日は契約時記録を照合します」
*
昨日。
私は、ギデオンとの結婚を決めた記憶を見た。
幸せだった。
心から。
その記憶を見たからこそ。
昔の愛を今の答えにしないと決めた。
そして今日。
もっと乾いたものを見る。
書類。
署名。
説明義務。
所有権。
恋愛より。
ずっと冷たい。
でも。
たぶん。
今日のほうが。
私とギデオンの結婚が壊れた理由に近い。
「縁切り売却には三段階の説明義務があります」
監査官が資料を並べる。
「第一に、抽出範囲」
一枚。
「第二に、身体的および精神的危険」
二枚。
「第三に、譲渡後の権利関係」
三枚。
私の契約書には。
全部。
署名欄がある。
全部。
私の筆跡。
「形式上は完璧ね」
リオラが言った。
「はい」
監査官。
「問題は?」
「説明記録」
縁切り売却の契約時には、立会人が説明内容を要約して記録する。
それも。
残っていた。
《対象者に対し、婚姻期間中に形成された関係記憶の抽出範囲を説明》
《記憶欠落による心理的負荷および身体習慣残存の可能性を説明》
《譲渡後の記憶晶は王立記憶院の管理下に置かれる旨を説明》
私は最後の行を指した。
「これ」
「はい」
「『管理下に置かれる』」
「はい」
「『所有権が国へ移る』とは書いてない」
監査官が黙った。
リオラが聞く。
「法的に同じ意味?」
「……いいえ」
「では説明不足?」
「記録だけを見るなら、その可能性があります」
可能性。
また。
でも。
今度はかなり大きい。
「実際の説明は?」
私は聞く。
「口頭で所有権移転まで説明されていた可能性はあります」
「記録がない?」
「はい」
「誰が立ち会った?」
監査官が名前を読む。
記憶院契約官。
法院立会官。
そして。
配偶者。
ギデオン・ヴァルデン。
私は。
そこを見る。
「夫も立会人?」
「高位機密職の縁切り売却では、機密範囲の確認者として記載されます」
「説明義務者ではない?」
「法的な主説明義務は記憶院です」
リオラがすぐ補う。
「でも、知っていたかどうかは別問題」
私は頷いた。
そう。
そこ。
「ギデオンは」
私は聞く。
「所有権が移ることを知ってた?」
監査官は資料をめくる。
「確認できる文書があります」
嫌な予感がした。
*
《縁切り記憶売却に伴う機密保護確認書》
申請者。
ギデオン・ヴァルデン。
申請日は。
私へ離縁を告げる十九日前。
私は。
その数字を見た。
「十九日前」
「ええ」
リオラ。
ギデオンは。
離縁届を私へ差し出す三週間ほど前から。
一人で準備していた。
それは。
第20話で聞いている。
問題は。
中身。
《対象配偶者の関係記憶について、抽出後は王国所有の機密記憶として管理されることを確認する》
その下。
ギデオンの署名。
間違いない。
「知ってた」
声が。
思ったより静かだった。
「そうね」
リオラも。
それ以上は言わない。
さらに。
次。
《売却後、本人による任意閲覧、複製、返還請求は原則として認められない》
ギデオン署名。
次。
《機密指定解除後も、所有権は自動的に譲渡者へ復帰しない》
ギデオン署名。
全部。
知っていた。
私は。
知らなかった。
「私に渡された説明書は?」
監査官が出す。
《縁切り売却制度案内》。
そこには。
《抽出記憶は王立記憶院が厳重に保管します》
とある。
保管。
所有ではない。
「これ」
私は言う。
「普通に読んだら」
「預かってくれるように見えますね」
リオラ。
「私だけ?」
「いいえ」
監査官が答えた。
「過去にも同様の指摘があります」
「何件?」
「現在確認できる異議申立ては、十一年間で二十七件」
私は顔を上げた。
「二十七?」
「はい」
「改善は?」
監査官が黙る。
それで。
だいたい分かった。
「説明書が改訂されたのは?」
「二年前です」
「私が署名したのは?」
「今年」
私は眉を寄せる。
「じゃあ改訂後?」
「はい」
「なのにこれ?」
「……はい」
リオラの顔が。
完全に弁護士の顔になった。
「改訂後も『所有権移転』という語を使わなかった理由を、記憶院へ正式照会してください」
「承知しました」
「過去二十七件の異議申立てについて、匿名化した処理記録も」
「申請を受理します」
私は。
契約書を見る。
私の署名。
確かに。
自分で書いた。
でも。
知らされていないことがあった。
「同意って」
私は言う。
「署名があれば成立するんですか?」
監査官が少し困った顔をした。
「法律上は――」
「法律じゃなくて」
言いかけて。
止める。
この人に聞いても仕方がない。
法律を確認するためにいる人だ。
「すみません」
「いえ」
リオラが私を見る。
「その質問は、あとで法廷でする?」
「うん」
*
午後。
ギデオンが呼ばれた。
私から頼んだ。
逃げずに。
本人へ聞きたかった。
面談室。
私。
リオラ。
記録官。
ギデオン。
机の上に。
確認書を置く。
彼は。
一目見て。
何の書類か分かった。
「覚えてます?」
「ああ」
「所有権」
「……ああ」
「知ってた?」
間。
ほんの一瞬。
でも。
答えは。
「知っていた」
胸の中で。
何かが冷えた。
昨日。
あんなに幸せな記憶を見た。
春の丘。
鐘。
求婚。
『君と暮らしたい』
『私も』
そして。
七年後。
この人は。
私の七年間が。
私のものではなくなると知って。
黙っていた。
「どうして言わなかったの?」
ギデオンは。
視線を逸らさない。
「言えば」
一度。
息を吸う。
「君は署名しない可能性が高いと思った」
私は。
何も言えなかった。
正直だった。
あまりにも。
「つまり」
リオラが確認する。
「情報を与えれば拒否される可能性が高いと認識していた?」
「はい」
「だから伝えなかった?」
「はい」
「記憶院からの説明不足にも気づいていた?」
ギデオンの表情が硬くなる。
「契約時には」
「いつ気づいた?」
「説明記録を確認したとき」
「署名前?」
「……はい」
私は。
手を握った。
「そのとき」
声が震えそうになる。
「言えたよね」
「ああ」
「私に」
「ああ」
「『エステル、この契約は記憶を預けるんじゃない。国へ売る。返してって言っても返ってこない』って」
「ああ」
「言えた」
「言えた」
「でも言わなかった」
「言わなかった」
怒鳴らない。
今は。
そのほうが。
ずっと。
自分の言葉を保てる。
「私が拒否するから?」
「そうだ」
「拒否したら困るから?」
「そうだ」
「私が危険だから?」
「そうだ」
「だから」
私は彼を見る。
「私が拒否できる情報を、私から隠した」
ギデオンの顔が。
ゆっくり歪んだ。
「……そうだ」
「それ」
私は言う。
「同意じゃないよ」
誰も。
動かなかった。
「私」
胸へ手を置く。
「署名した」
「覚えてる」
「最後は自分で決めた」
「だから」
「全部あなたのせいにはしない」
ギデオンが目を閉じる。
「でも」
私は続ける。
「私が何を決めるのか」
「その材料を」
「あなたが選んだ」
目を開く。
彼の目は。
赤かった。
「私が判断できる範囲を」
「あなたが先に決めた」
「……ああ」
「それで」
声が。
少し震えた。
「私が自分で署名したから」
「あなたは」
「私が選んだって思った?」
ギデオンは。
すぐには答えなかった。
長い。
長い沈黙。
「思おうとした」
私は。
その言葉を。
しばらく理解できなかった。
「何それ」
「君が署名したことで」
彼の声が掠れる。
「最後は君が決めたのだと」
「自分に言い聞かせた」
「でも」
「本当は分かっていた」
「何を?」
「私が」
彼は。
一度。
言葉を失った。
「君が選ぶものを」
「先に狭めた」
胸が。
痛かった。
第26話。
昔の私が言った。
『行っていい場所をあなたが決めて』
『会っていい人をあなたが決めて』
『知っていいことをあなたが決めて』
『それで、私は自由だって?』
同じだった。
最後まで。
「ギデオン」
「はい」
「私」
声を整える。
「あなたを嫌いになりたい」
彼の顔が。
止まる。
「そのほうが簡単だから」
昨日の記憶が。
まだ。
残っている。
春の丘。
走る彼。
指輪を忘れた人。
笑う私。
幸せ。
「でも」
涙が。
一つ落ちた。
「昔のあなたを好きだった私も分かる」
彼は何も言わない。
「今のあなたを」
私は続ける。
「少し信用し始めてた私もいる」
「だから」
「余計に腹が立つ」
「……ああ」
「謝らないで」
ギデオンの唇が止まる。
「今日は」
「聞きたくない」
彼は頷いた。
「分かった」
それだけ。
その返事が。
ちゃんと止まったことが。
また。
腹立たしかった。
昔なら。
追いかけて説明したかもしれない。
今は。
私が拒否したから。
止まる。
それが。
正しい。
正しいから。
簡単には嫌いになれない。
「もう一つ」
私は言った。
「聞きます」
「ああ」
「記憶院が説明不足だったこと」
「あなたは当時」
「問題だと思った?」
ギデオンの顔が。
変わった。
「……思わなかった」
「なぜ?」
「縁切り売却は」
彼は言う。
「機密を守るための制度だった」
「うん」
「私は」
言葉を探す。
「制度を使う側だった」
リオラの目が。
鋭くなる。
「つまり?」
「配偶者が何を失うかより」
ギデオンは言った。
「機密が残らないことを優先していた」
「他の人にも?」
「……ああ」
部屋が。
静まった。
「何件?」
リオラが聞く。
「正確には確認が必要だ」
「あなたの承認で縁切り売却になった人がいる?」
「いる」
「説明不足を知りながら?」
「個別にどこまで把握していたかは確認する」
「確認して」
リオラの声が冷たい。
「全部」
ギデオンは頷く。
「提出する」
私は。
彼を見る。
これ。
私たち夫婦だけの話ではない。
ギデオンは。
制度の利用者だった。
権力を持つ側。
「あなた」
私は言う。
「私にだけ謝って終われないね」
「ああ」
迷いなく。
「終わらない」
*
ギデオンが帰ったあと。
私は。
しばらく机に座っていた。
リオラが水をくれる。
「大丈夫?」
「今日はその質問に」
「うん」
「大丈夫って答えたくない」
「分かった」
「腹立ってる」
「見れば分かる」
「泣いてる?」
「それも見れば分かる」
私は。
少し笑った。
泣きながら。
「最悪」
「そうね」
「昨日、あんなの見たのに」
春。
求婚。
幸せ。
「だから今日のこれは」
私は確認書を見る。
「なかったことにしたくなる」
リオラは黙っている。
「昔は幸せだったから」
「本当は愛してたから」
「守りたかったから」
「それで」
私は首を振る。
「今日のこれを小さくしたくなる」
「小さくする必要はない」
「うん」
「逆も」
リオラが言う。
「逆?」
「今日のこれがひどいからって、昨日の幸せを偽物にする必要もない」
私は。
しばらく彼女を見る。
「……難しいね」
「人間だから」
「裁判より?」
「たぶん」
少し。
笑う。
それから。
私は確認書を取った。
ギデオンの署名。
私の知らないところで。
私の記憶の行き先を知っていた人。
でも。
今日。
その事実を。
否定しなかった人。
どちらも。
同じギデオン。
今の私は。
それを。
両方見る。
*
夜。
眠れなかった。
机の上には。
昨日描いた春の丘。
その下。
《あの日の私は、ギデオンを選んだ》
《今日の私は、まだ選んでいない》
私は。
その紙の横へ。
今日の契約書の写しを置いた。
そして。
新しい紙を一枚。
《知らされなかったこと》
書く。
一。
記憶所有権が国へ移る。
二。
本人による任意返還請求はできない。
三。
機密解除後も自動返還されない。
四。
ギデオンは署名前から知っていた。
五。
私が拒否する可能性を理解した上で説明しなかった。
そこまで書いて。
止まる。
そして。
六。
《ギデオンは、他の縁切り売却にも監察局長官として関与していた》
ペンを置く。
これは。
もう。
夫婦喧嘩だけではない。
私が許すか。
許さないか。
それだけで終わらせてはいけない。
ギデオン自身が。
それを分かっている。
なら。
次は。
証拠で確かめる。
彼が。
何をしてきたのか。
どこまで制度を支えたのか。
私は。
昔の夫を。
愛していた。
今の元夫を。
少しずつ知っている。
そして。
そのどちらとも別に。
王国機密監察局長官ギデオン・ヴァルデンがしたことを。
調べなければならない。
春の丘の絵を。
伏せなかった。
契約書も。
隠さなかった。
二つ並べたまま。
私は灯りを消した。
幸せだったことは。
免罪符にはならない。
過ちがあったことも。
幸せだった過去を嘘にはしない。
両方。
私の七年だった。
そして。
その七年をどう見るかは。
もう。
誰にも代わりに決めさせない。




