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第28話 あの日、私はあなたを選んだ

「これが、最後です」


王立記憶院から届いた封筒を、リオラはすぐには私へ渡さなかった。


保護館の自室。


朝。


窓の外では雪が降っている。


昨日、オルレナから七年分の記憶を返すと提案されたばかりだった。


条件は。


白鐘広場の調査から手を引くこと。


私は断った。


それで話は終わったと思っていた。


「何が最後?」


「昨日の面会前に、オルレナ側から提出されていた閲覧許可」


「私の記憶?」


「ええ」


リオラは封筒を机へ置く。


「婚姻前」


胸が少しざわついた。


「ギデオンと?」


「そう」


「内容は?」


「二人が結婚を決めた日」


私は封筒を見た。


昨日。


オルレナは言った。


あなたは幸せだった。


愛した人がいる。


戻れる場所がある。


その言葉を証明するような記憶。


「これも」


私は聞く。


「見せて、考えを変えさせるため?」


「私はそう疑ってる」


「オルレナは?」


「『返還を判断するための参考』だそうよ」


上手い。


嘘ではない。


たぶん。


本当に、私に幸せだった自分を見せたいのだ。


そして。


その結果。


私が白鐘広場から手を引くなら。


それでいいと思っている。


「断ってもいい?」


「もちろん」


私はしばらく考えた。


昨日なら。


断ったかもしれない。


でも。


今は少し違った。


「見る」


リオラが私を見る。


「理由は?」


「怖いから」


「怖いものを?」


「うん」


私は封筒へ手を置く。


「見ないままだと、この記憶がすごく大きなものになる気がする」


二人が結婚を決めた日。


たぶん。


私の人生の中でも。


とても幸せな日だった。


それを。


知らないまま避け続ければ。


いつか私は。


その記憶の中に答えがあるように思ってしまうかもしれない。


「だったら」


私は言う。


「見て」


「そのあと決める」


リオラが頷いた。


「ギデオンは?」


「呼ばない」


迷わなかった。


これは。


まず私一人で受け取る。


*


記憶法院の閲覧室。


銀環。


立会人。


リオラ。


私。


記憶晶は小さかった。


婚姻前の一日。


七年間の結婚記憶とは別系統だが、ギデオンとの関係記憶として縁切り売却に巻き込まれていたらしい。


「開始します」


私は目を閉じた。


光。


*


春だった。


最初に。


風を感じた。


暖かい。


花の匂い。


視界が開く。


丘。


王都の外れ。


遠くに城壁。


足元には小さな白い花。


私は。


過去の私は。


歩いている。


隣に。


ギデオン。


若い。


まだ監察局長官ではない。


公爵位は継いでいる。


でも。


今の彼より。


ずっと軽い顔をしている。


『遠い』


過去の私が言った。


『あと少しだ』


『さっきも聞いた』


『あれから少し進んだ』


『嫌い』


『知っている』


私は。


現在の閲覧室で少し笑った。


昔から。


こういう会話をしていたらしい。


『どこまで連れていく気?』


『着けば分かる』


『誘拐?』


『公爵本人が?』


『身代金が高そう』


『誰に要求する』


『王様』


『迷惑をかけるな』


二人で笑う。


本当に。


普通だった。


丘の上。


一本の大きな木。


その下に。


小さな石造りの鐘塔があった。


『ここ?』


『ああ』


『何の場所?』


『昔、母に連れてきてもらった』


ギデオンの声が少し変わる。


過去の私はそれに気づく。


『お母様?』


『私が十歳くらいのころ』


『珍しい』


『何が』


『あなた、家族の話あまりしないから』


『そうか』


『そうよ』


二人で鐘塔の横へ座る。


そこから。


王都が全部見えた。


屋根。


教会。


王宮。


遠く。


小さく。


『綺麗』


過去の私が言う。


『君なら好きだと思った』


その言葉に。


胸が温かくなる。


過去の私の感情。


嬉しい。


この人が。


自分の好きそうな景色を覚えて。


連れてきた。


それだけで。


幸せ。


『ギデオン』


『何だ』


『私をここへ連れてきた理由、本当に景色?』


彼が黙る。


過去の私は笑った。


『怪しい』


『……そうだな』


ギデオンが立つ。


深く息を吐く。


妙に緊張している。


『何?』


『エステル』


『はい』


『私は』


そこで止まる。


『何?』


『……少し待て』


過去の私が吹き出す。


『自分で呼んでおいて?』


『考えていた言葉が飛んだ』


『珍しい』


『笑うな』


『ごめんなさい』


全然謝っていない声。


ギデオンが。


困った顔をしている。


今の私が知る彼とは。


少し違う。


いや。


同じ人なのだろう。


ただ。


七年間で。


いろいろなものを背負った。


『もういい』


彼が言う。


『格好をつけるのはやめる』


『そうして』


ギデオンが私を見る。


まっすぐ。


『君と暮らしたい』


風が吹く。


白い花が揺れる。


『朝起きて』


『帰ったら君がいて』


『くだらない話をして』


『喧嘩をして』


『たぶん、私は君を怒らせる』


過去の私が笑う。


『もう怒ってる』


『知っている』


彼も。


少し笑う。


『それでも』


声が震える。


『私の人生に、君がいてほしい』


過去の私の胸が。


いっぱいになる。


嬉しい。


好き。


泣きそう。


『……それ、求婚?』


『そのつもりだ』


『指輪は?』


ギデオンの顔が固まる。


過去の私は。


声を上げて笑った。


『忘れたの?』


『いや』


『じゃあ?』


『馬車に』


『置いてきた?』


『……ああ』


『最低』


『取りに戻る』


『いい』


過去の私が。


彼の袖を掴む。


ギデオンが止まる。


『今でいい』


『だが』


『指輪がないと結婚できないわけじゃないでしょう』


彼を見る。


『私も』


過去の私は言う。


『あなたと暮らしたい』


ギデオンの目が。


大きくなる。


『あなたと朝ご飯を食べて』


『帰ってきたら話を聞いて』


『喧嘩して』


『きっと、私もあなたを怒らせる』


『もう怒らされている』


『お互い様ね』


そして。


過去の私は。


笑う。


『だから』


声が少し震える。


『結婚しましょう』


幸せ。


あまりにも。


強い。


胸の奥から。


溢れるように。


この人を選んだ。


自分で。


誰にも命じられず。


政略でもなく。


公爵だからでもない。


ギデオンだから。


私は。


この人と生きたい。


そう思った。


ギデオンが。


ゆっくり手を伸ばす。


でも。


途中で止まる。


『抱きしめても?』


過去の私は笑う。


『求婚を受けた人に毎回聞くの?』


『嫌なら』


『嫌じゃない』


『なら』


『どうぞ』


腕。


温度。


胸。


心臓。


彼も緊張している。


過去の私は。


その胸に額を当てる。


『ギデオン』


『何だ』


『幸せ』


彼の腕が。


少しだけ強くなる。


『私もだ』


記憶は。


そこで終わらなかった。


少し。


場面が続く。


二人で丘を下りる。


途中。


ギデオンが足を止める。


『指輪』


『あ』


二人で顔を見合わせる。


走る。


笑う。


馬車まで。


過去の私は。


途中で息が切れて。


『待って!』


『君が急げと言った』


『そんなに本気で走る人いる!?』


『指輪を取りに』


『逃げないから!』


『分からない』


『何それ!』


また笑う。


馬車。


指輪。


小さな箱。


ギデオンが。


今度はきちんと。


膝をつく。


『エステル・ローヴェン』


過去の私は。


泣いている。


『私と結婚してくれますか』


『はい』


即答。


春。


鐘が。


一度だけ鳴った。


*


映像が消えた。


私は。


しばらく。


声を出せなかった。


涙が落ちている。


止めようとは思わなかった。


「……すごい」


ようやく。


それだけ。


リオラが水を置く。


「大丈夫?」


「うん」


本当に。


大丈夫だった。


苦しい。


でも。


嫌ではない。


「幸せだった」


「そうね」


「今まで見た中で」


言葉が詰まる。


「一番」


たぶん。


そう。


結婚を決めた日。


過去の私は。


何の迷いもなく。


ギデオンを選んだ。


私は。


目を閉じる。


あの感情の余韻。


好き。


愛しい。


一緒にいたい。


強い。


今の私の胸まで。


引っ張られそうになる。


「リオラ」


「何?」


「私」


ゆっくり言う。


「今、ギデオンに会ったら」


「うん」


「たぶん」


息を吐く。


「すごく優しくしちゃう」


リオラは笑わなかった。


「じゃあ今日は会わない?」


私は考える。


「うん」


それがいい。


この感情が。


今の私のものなのか。


記憶の残響なのか。


まだ分からない。


今すぐ答えを出さない。


「でも」


私は。


少し笑った。


「昔の私」


「うん」


「見る目なかったって思ってたけど」


リオラが吹き出した。


「そこ?」


「だって」


「結婚の最後だけ見たら」


「そうね」


「でも」


私は。


記憶晶を見る。


「好きになるの、分かる」


言った瞬間。


胸が痛くて。


少し。


嬉しかった。


私は。


過去の自分を。


また一つ。


否定せずに済んだ。


*


閲覧を終えたあと。


私たちは法院の小さな待合室へ移った。


そこに。


オルレナからの書面が届いていた。


《閲覧後、返還について再考を希望される場合は面会を受け付けます》


リオラが。


黙って私へ渡す。


「どうする?」


私は紙を見る。


少し。


迷った。


本当に。


少し。


もし。


この記憶が。


全部戻るなら。


私は。


あの春の日の自分に。


もっと近づくのだろう。


ギデオンを。


こんなふうに。


迷いなく。


愛せるかもしれない。


今の。


ぎこちない距離も。


許可を一つずつ確かめる会話も。


全部。


終わるかもしれない。


昔のように。


名前を呼んで。


手を繋いで。


愛称を許して。


また。


妻になれるかもしれない。


幸せだった。


本当に。


あの日は。


「……危ないね」


私が言う。


「何が?」


「これ」


記憶晶を指す。


「すごく欲しくなる」


リオラは何も言わない。


「オルレナがこれを見せたかった理由」


「分かる?」


「うん」


昔へ戻れば。


楽になる。


そう思わせるには。


十分すぎる。


私は書面を机へ置いた。


「でも」


あの記憶の中の私を。


思い出す。


『私と結婚しましょう』


あれは。


過去の私が。


その日のギデオンを見て。


自分で選んだ答えだった。


だったら。


「この記憶を見たから」


私は言う。


「余計に、戻れない」


リオラが私を見る。


「どういうこと?」


「昔の私は」


私は胸へ手を置く。


「自分でギデオンを選んだ」


「うん」


「だったら今の私も」


少し。


涙が出た。


「自分で選ばないと」


記憶を流し込まれて。


昔の愛を取り戻して。


その感情で。


もう一度夫のところへ戻る。


それは。


あの日の私がしたこととは。


違う。


過去の私は。


誰にも答えを渡されず。


自分で。


ギデオンを選んだ。


「この記憶」


私は言う。


「オルレナが思ってるのと逆の意味になった」


リオラが。


ゆっくり笑った。


「そうみたいね」


私は。


オルレナへの回答書を取る。


《返還処置について、現時点で希望しない》


書く。


そして。


もう一行。


《白鐘広場事件の調査を継続する》


署名。


エステル・ローヴェン。


*


保護館へ戻った夜。


机に。


春の丘を簡単に描いた。


絵は下手だった。


木。


鐘塔。


王都。


白い花。


そして。


二人。


「ひどい」


一人で笑う。


でも。


捨てなかった。


あの日を。


嫌いになる必要はない。


間違いだったことにもしない。


私は。


ギデオンを愛した。


自分から。


結婚した。


幸せだった。


それは。


全部。


本当。


そして。


その七年後。


苦しくなった。


それも。


本当。


一つが。


もう一つを消すわけではない。


私は。


紙の下に。


一文だけ書いた。


《あの日の私は、ギデオンを選んだ》


その下。


少し空けて。


《今日の私は、まだ選んでいない》


それでいい。


いつか。


選ぶ日が来るとしても。


昔の私が。


代わりに答えるのではなく。


今の私が。


今日までの彼を見て。


自分で決める。


私は灯りを消した。


眠る前。


春の丘の鐘が。


一度だけ。


耳の奥で鳴った気がした。


でも。


それは過去からの命令ではない。


ただ。


確かに幸せだった一日の。


記憶だった。

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