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第27話 七年を返してあげる

王立記憶院総裁、オルレナ・ヴェイスから面会申請が届いた。


その知らせを聞いたとき、私は返事をするまで少し時間がかかった。


保護館の自室。


朝。


リオラが持ってきた申請書には、総裁本人の署名と記憶法院の仮許可印がある。


「会う必要は?」


私は聞いた。


「ない」


リオラは即答した。


「断れる?」


「もちろん」


なら断ればいい。


そう思うのに。


私はもう一度、申請書を見た。


王立記憶院総裁。


オルレナ・ヴェイス。


十二年前。


白鐘広場生存者十六人のB区分指定。


再封緘。


総裁室承認。


そして。


私の記憶晶が三つ空晶へ交換された直前にも使われた、総裁権限。


疑う材料はある。


でも。


彼女本人が不正をした証拠は、まだない。


「何のために会いたいって?」


「申請理由は『記憶譲渡契約当事者への救済提案』」


「救済?」


嫌な言葉だった。


「詳しい内容は?」


「面会時に本人へ」


「こういうの、法律的には普通?」


「全然」


リオラが腕を組む。


「だから私は断るのを勧める」


私は窓の外を見る。


雪は降っていない。


鈍い灰色の空。


「もし会ったら?」


「私が同席する」


「記録官も?」


「必須」


「録取は?」


「全部」


「途中で帰れる?」


「あなたが一言言えば終わり」


なら。


私は申請書を置いた。


「会います」


リオラが眉を上げた。


「理由は?」


「彼女が私に何を与えたいのか知りたい」


「罠かもしれない」


「うん」


「誘導されるかもしれない」


「うん」


「七年分の記憶を持ってる相手よ」


その言葉。


胸に刺さる。


オルレナは。


私が知らない私を。


知っているかもしれない。


「だから」


私は言った。


「一人では会わない」


リオラが少し黙る。


「分かった」


*


面会は、その日の午後に許可された。


場所は保護館ではなく、記憶法院の中立面談室。


壁は白い。


机が一つ。


椅子が四つ。


余計なものは何もない。


私とリオラ。


記録官。


そして。


オルレナ。


初めて、近くで彼女を見る。


五十六歳。


銀灰色の髪をきっちり結い上げ、暗い紫のドレスを着ている。


派手ではない。


威圧的でもない。


むしろ。


静かな人だった。


「エステル・ローヴェンさん」


「はい」


「お会いするのは初めて、ということになりますね」


その言い方。


私はすぐ気づく。


「以前の私とは会っている?」


「何度か」


「どんな関係でした?」


「公爵夫人と記憶院総裁」


「それ以上は?」


「少なくとも私は、そう認識しています」


慎重だ。


でも。


嫌いではない。


嘘をつかれるよりいい。


「今日は何のために?」


オルレナは私ではなく、まず記録官を見る。


「記録されている?」


「はい」


「では簡潔に」


彼女は私へ向き直った。


「あなたの七年間を返還する準備があります」


呼吸が止まった。


リオラがすぐ口を開く。


「どういう意味です?」


オルレナは淡々としている。


「エステルさんが縁切り売却によって譲渡した記憶群。その所有権を国から本人へ移す手続きを、私から申請できます」


「そんなことが可能なの?」


私は聞いた。


「例外措置です」


「なぜ?」


「今回、保管不正が発生した」


そこは認める。


「記憶院として、あなたに重大な損害を与えた責任がある」


リオラが冷たく言う。


「それなら記憶返還より先に、空晶三件の経緯を説明してください」


「調査中です」


「総裁権限で開封されています」


「権限印と、私自身が実行したことは別です」


正しい。


今のところは。


「実行者署名がない」


「それも内部調査中」


「ずいぶん都合よく調査中が多いですね」


「ハート弁護人」


オルレナの声は変わらない。


「あなたが記憶権訴訟で何度も記憶院と争ってきたことは知っています」


「なら話が早い」


「ですが今日は制度論争に来たのではありません」


彼女は私を見る。


「一人の女性に、奪われたものを返しに来ました」


奪われた。


その言葉。


少し違う。


「私は売りました」


オルレナの目が動く。


「はい」


「不完全な説明だったとしても、最後に署名したのは私です」


「そうですね」


「だから『奪われた』だけにしないでください」


少し。


沈黙。


それから。


オルレナは初めて小さく頷いた。


「訂正します」


意外だった。


「あなたが手放したものの一部が、その後不正に扱われた。その損害を修復したい」


今度は。


正確だ。


「返還って」


私は聞く。


「所有権だけ?」


「希望すれば、記憶を戻す処置も受けられます」


胸の奥が。


大きく揺れた。


七年間。


ギデオン。


結婚。


幸せだった夜。


壊れていった日々。


全部。


戻る。


「危険は?」


リオラが聞いた。


オルレナは隠さない。


「あります」


「具体的に」


「現在の人格へ大量の過去記憶を流し込むため、混乱、解離、睡眠障害、感情の急激な逆流など」


「最悪は?」


「現在の自己認識が不安定になる」


私は手を握った。


「それでも勧める?」


「一括返還は勧めません」


「では?」


「段階的に」


オルレナは机の上に一枚の資料を置いた。


「まず、幸福度と情緒安定性の高い記憶から」


そこに。


分類がある。


婚姻初期。


旅行。


日常。


家族行事。


私はすぐ分かった。


「ギデオンとの幸せな記憶」


「はい」


「それを先に?」


「現在のあなたへ負担が少ない」


リオラが小さく舌打ちした。


私は彼女を見る。


「何?」


「負担が少ない、ね」


オルレナも彼女を見る。


「問題がありますか」


「あります」


リオラが言う。


「過去の夫への愛情が強く戻る記憶を先に入れる」


「情緒安定性の高い記憶です」


「言い換えでしょう」


空気が冷える。


私は。


分かってしまった。


幸福な記憶。


甘い記憶。


安心。


愛。


それを先に戻せば。


今の私は。


どうなる?


「私が」


ゆっくり聞く。


「ギデオンをもう一度愛する可能性が高くなる?」


オルレナは少し黙った。


「過去のあなたは、彼を深く愛していました」


「答えになってない」


私は言う。


「高くなる?」


「感情記憶の返還によって、対象人物への感情が再活性化する例はあります」


「あるんですね」


「はい」


私は椅子へ背を預けた。


怖い。


正直に。


怖かった。


今の私は。


ギデオンに対して。


好意がないわけではない。


安心できる瞬間もある。


手を借りた。


今の彼の行動を見て。


少しずつ。


判断している。


そこへ。


七年間の愛が。


一気に流れ込む。


それは。


私の今の気持ちになるのだろうか。


「それで」


私はオルレナを見る。


「条件は?」


リオラが私を見る。


オルレナは。


少しだけ目を細めた。


「条件、とは?」


「ただ返してくれるだけなら」


私は机の資料を指す。


「あなたがわざわざ会いに来る必要はない」


沈黙。


「何をやめればいいんです?」


オルレナは。


しばらく私を見た。


「白鐘広場の調査から手を引いてください」


やっぱり。


胸の中で。


何かが静かになった。


驚きはない。


「殺人事件も?」


「あなた自身の無罪立証は続けて構いません」


「白鐘広場だけ?」


「はい」


「なぜ?」


「それは、あなたの事件とは別だからです」


リオラが笑った。


冷たい笑い。


「別?」


「少なくとも、まだ法的には」


「マルセル判事は白鐘広場の原簿を追って殺された可能性がある」


「可能性です」


「エステルの殺害命令記憶もB区分」


「それだけで接続は証明されていない」


その通り。


腹が立つほど。


「では」


私は聞く。


「なぜ、私が白鐘広場を調べるのをやめれば記憶を返すんです?」


オルレナの目が。


ほんの少し変わった。


「あなたがこれ以上傷つく必要がないから」


「私のため?」


「はい」


「本気で?」


「本気です」


嘘には見えなかった。


それが。


一番嫌だった。


「十二年前」


オルレナは言う。


「この国は内戦寸前でした」


リオラが動く。


「白鐘広場の話ですか」


「詳細には触れません」


彼女は私を見る。


「人は、真実を知れば正しく選べるとは限りません」


私は黙る。


「耐えられない真実もある」


「だから隠す?」


「場合によっては」


あまりにも。


まっすぐだった。


「それを誰が決めるの?」


私は聞く。


「誰かが決めなければならないときがあります」


「その誰かが、あなた?」


「私はその役目を引き受けてきました」


オルレナの顔には。


誇りだけではない。


疲れがあった。


「あなたは今、夫との七年を失い」


彼女は続ける。


「殺人容疑をかけられ」


「自分の過去を掘り返すたび、傷ついている」


「それで?」


「戻れる場所がある」


机の上の資料。


幸福だった結婚。


「あなたは幸せでした」


「同時に、苦しかった」


「はい」


否定しない。


「それでも」


オルレナの声は穏やかだ。


「愛した人がいる」


「あなたを愛した人もいる」


「それを取り戻すことは、敗北ではありません」


少し。


心が揺れた。


戻れる。


昔の私へ。


ギデオンを知っていて。


愛していて。


七年分の空白がない私へ。


今の私は。


毎日のように。


知らない自分の証拠を見ている。


過去の私が何をした。


何を考えた。


誰を愛した。


それを。


全部。


自分の中へ戻せば。


楽になるのかもしれない。


「もし」


私は聞く。


「記憶を戻して、白鐘広場から手を引いたら」


「どうなる?」


「あなたの殺人容疑については、記憶法院で通常どおり争われます」


「ギデオンは?」


「彼との関係は、あなたが決めればいい」


「本当に?」


「もちろん」


「戻った私が、昔みたいに彼を愛する可能性が高くても?」


「それもあなた自身の感情でしょう」


その言葉で。


私は。


はっきりした。


「違う」


オルレナが少し首を傾げる。


「何が?」


「それも私かもしれない」


私は言う。


「でも」


机へ手を置く。


「今の私だけの感情じゃない」


リオラが黙っている。


「私は」


言葉を選ぶ。


「昔の自分を否定したくない」


「幸せだった私も」


「ギデオンを愛していた私も」


「苦しくて離れたかった私も」


「全部、私です」


オルレナは聞いている。


「でも今の私は」


胸へ手を置く。


「その七年を持っていない状態で生きてる」


「それでギデオンを知り直してる」


「白鐘広場も調べてる」


「私が何を信じるかも」


「何を怖いと思うかも」


少しずつ。


「今の私が作ってきた」


私は資料を彼女へ返した。


「それを」


「昔の私で上書きしたくない」


オルレナの目が。


わずかに揺れた。


「上書きではありません」


「あなたはそう考えるんですね」


「統合です」


「私は、まだそう思えない」


沈黙。


「だから」


私は言った。


「記憶は戻しません」


リオラが。


ほんの少し息を吐いた。


オルレナは。


驚かなかった。


「所有権の返還だけなら?」


私は考える。


それは。


別。


自分の記憶を。


国が持っている必要はない。


「条件なしなら受けます」


「白鐘広場から手を引くことは?」


「条件にするなら断ります」


初めて。


オルレナの顔に。


少しだけ悲しそうな色が出た。


「なぜ」


「何が?」


「そこまでして真実が必要ですか」


私は。


すぐには答えなかった。


正義だから。


とは言いたくない。


そんなに立派じゃない。


「分からないからです」


「……分からない?」


「白鐘広場で何があったか」


「私の殺害記憶が何なのか」


「マルセル判事が何を見つけたのか」


「全部」


私は言う。


「分からない」


「だから知りたい」


「知って」


「そのあと、自分で決めたい」


オルレナが目を閉じる。


ほんの一瞬。


「人は」


彼女が言う。


「自分で決めることを、あまりに美しく考えます」


私は黙る。


「選んだ結果に耐えられない人間もいる」


「選ばなかったことを後悔する人も」


「知らなければ救われた人もいる」


その声。


きっと。


何かを見てきた人の声だった。


「あなたは」


私は聞く。


「実際に、誰かを救ったんですね」


オルレナの目が開く。


「はい」


迷わなかった。


「記憶を消して?」


「はい」


「本人が望まなくても?」


少し。


間。


「場合によっては」


リオラの表情が硬くなる。


私は。


オルレナを見る。


この人は。


狂っているわけじゃない。


きっと。


本当に。


自分が必要なことをしてきたと思っている。


そして。


その判断で。


救われた人もいたのだろう。


だから。


余計に。


「私は」


静かに言う。


「救われるかどうかも、自分で決めたいです」


オルレナは。


長い間。


私を見た。


そして。


「そうですか」


とだけ答えた。


*


面会が終わったあと。


廊下へ出た瞬間。


私は壁へ背を預けた。


「……怖かった」


リオラが見る。


「何が?」


「ちょっと戻したいって思った」


正直に言う。


「七年?」


「うん」


「当然でしょう」


「そう?」


「あなたの人生だもの」


私は目を閉じる。


「楽になる気がした」


「うん」


「ギデオンのことも」


「全部分かる」


「うん」


「昔みたいに好きになれるかもしれない」


リオラは。


何も否定しない。


「でも」


私は言う。


「それで好きになったら」


「うん」


「今の私が選んだのか分からない」


そこが。


一番怖かった。


「だから今は戻さない?」


「うん」


「今は?」


私はリオラを見る。


「未来の私がどうするかまで、今決めない」


彼女が笑った。


「それでいい」


少し。


息が楽になる。


そのとき。


廊下の向こうで。


オルレナが護衛と歩いていくのが見えた。


背中。


まっすぐ。


私は。


その人を。


敵だとはまだ決めない。


でも。


一つだけ。


はっきりした。


オルレナ・ヴェイスは。


人間の人生を。


本人より正しく管理できる人間がいると。


本気で信じている。


そして。


それは。


かつてのギデオンと。


どこか。


よく似ていた。

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