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第26話 愛していても、息ができない

「閲覧する前に確認します」


リオラの声は、いつもより少し硬かった。


記憶法院の閲覧室。


私の前には、一つの記憶晶が置かれている。


婚姻六年目。


分類は《私的生活・高感情負荷》。


昨日の予備審理で一部だけ公開された、夫婦喧嘩の続きだ。


『誰にとって必要なの?』


『私? それとも、あなた?』


あそこで映像は終わった。


けれど、記憶そのものは続いている。


「本当に見る?」


リオラが聞く。


「見ます」


「事件の立証だけなら、必須ではない」


「分かってる」


「だったら」


「私が知りたいの」


言ってから、自分の声の強さに気づいた。


私は少し息を吐く。


「昨日の記憶を見て、気になった」


「何が?」


「昔の私が、どこまでギデオンに言っていたのか」


私にはもう分かっている。


三年前。


過去の私はギデオンに隠れて白鐘広場を調べていた。


夫を試すような質問もした。


正面から聞かずに動いた。


だから。


私にも間違いはある。


でも。


それとは別に。


私は本当に、何も伝えていなかったのか。


それとも。


伝えていたのに届かなかったのか。


そこを。


今の私が知りたかった。


リオラは数秒黙った。


「ギデオンは?」


「呼んでない」


「意図的に?」


「うん」


「理由は?」


「先に自分で見たい」


彼がいると。


どうしても彼の反応まで見てしまう。


苦しそうか。


後悔しているか。


傷ついているか。


それでは。


過去の私の言葉を、自分のために聞けない。


「分かった」


リオラが頷く。


「途中で止めたくなったら」


「止める」


「それでいい」


閲覧官が銀環を下ろす。


「開始します」


光。


*


書斎。


昨日と同じ。


過去の私は立っている。


ギデオンは机の向こう。


『誰にとって必要なの?』


『私? それとも、あなた?』


ギデオンの顔が硬い。


『何が言いたい』


『分からない?』


『分からないから聞いている』


過去の私は笑った。


乾いた笑い。


『そこがもう嫌なの』


胸が痛んだ。


『エステル』


『私、ずっと言ってる』


声が震える。


『あなたに仕事を辞めろとは言ってない』


『分かっている』


『何もかも話せとも言ってない』


『ああ』


『危険なことを全部なくせとも言ってない』


『なら』


ギデオンが言いかける。


『最後まで聞いて』


過去の私の声が強くなった。


彼は黙る。


『私はただ』


一度。


息を吸う。


『私の人生に関係することまで、あなた一人で決めないでって言ってるの』


静かだった。


怒鳴ってはいない。


だからこそ。


一言ずつが重かった。


ギデオンの眉が寄る。


『君の人生を決めているつもりはない』


『決めてる』


即答。


『今日だってそう』


『何の話だ』


『北門の警備』


ギデオンの顔が変わる。


『なぜ知っている』


『馬車を止められたからよ』


過去の私は腕を組む。


『公爵夫人は今週、北門から出るなって』


『それは』


『監察局からの要請』


『……ああ』


『どうして?』


『説明できない』


『ほら』


『危険がある』


『何の?』


『それは言えない』


『私に関係する?』


沈黙。


『関係するのね』


ギデオンが机から離れる。


『エステル。数日のことだ』


『日数の問題じゃない!』


とうとう声が上がった。


『私が怒ってるのは、北門を使えないことじゃない』


『分かっている』


『分かってない!』


過去の私は胸元を押さえる。


苦しい。


感情が流れ込んでくる。


怒り。


悲しみ。


そして。


疲労。


ずっと。


同じところを回っている疲れ。


『あなたはいつも結果だけ持ってくる』


声が少し弱くなる。


『今日は出るな』


『この人には会うな』


『あそこへは行くな』


『理由は?って聞けば、言えない』


ギデオンが答える。


『言えないものはある』


『知ってる』


『なら』


『でも』


過去の私は彼を見る。


『言えないことがあるのと、私が何も決められないのは別でしょう』


ギデオンが黙る。


『危険があります』


過去の私が自分の手を広げる。


『詳細は話せません』


『でも危険度はこのくらいです』


『選べるのはこれとこれです』


『あなたはどうしたい?』


一つずつ。


『それくらい言えるでしょう』


私は。


現在の閲覧室で息を止めた。


第7話。


今の私がギデオンへ示した条件。


危険を説明する。


選択肢を出す。


決めるのは私。


ほとんど同じだった。


記憶を失う前の私も。


もう。


ずっと前から。


同じことを求めていた。


記憶の中。


ギデオンは言う。


『それで君が危険なほうを選んだら?』


過去の私は目を閉じた。


『……それよ』


『何が』


『あなたが本当に嫌なのは』


目を開く。


『私が知らないことじゃない』


『私が、あなたの望まない選択をすることなんでしょう』


ギデオンの顔が。


止まった。


過去の私は笑う。


今度は。


泣きそうに。


『やっと分かった』


『エステル』


『あなた、私を信用してないんじゃない』


『そんなことは』


『信用してるから怖いのね』


ギデオンが何も言えない。


『私が理由を知ったら、自分で行くと思ってる』


沈黙。


『危ないって分かってても』


また。


沈黙。


それが答えだった。


過去の私は顔を伏せる。


『……悲しい』


怒りより。


その一言のほうが。


ずっと痛かった。


『あなたに分かってもらえてると思ってた』


ギデオンが一歩近づく。


『分かっている』


『違う』


過去の私は後ろへ下がった。


『あなたは私をよく知ってる』


『好きなものも』


『嫌いなものも』


『私が何を選ぶかも』


そして。


顔を上げる。


『だから、選ばせない』


昨日。


ギデオン自身が言っていた。


全部覚えていた。


なのに。


分かっていなかった。


私は今。


その言葉の意味を。


過去の自分の口から聞いている。


『私は君を失いたくない』


ギデオンが言う。


過去の私は、しばらく彼を見た。


『私だってあなたを失いたくない』


声が震える。


『だからって』


『あなたを部屋に閉じ込めようとは思わない』


ギデオンが僅かに顔を歪めた。


『閉じ込めてはいない』


『鍵がないだけ』


その言葉で。


私は胸を掴まれた気がした。


『行っていい場所をあなたが決めて』


『会っていい人をあなたが決めて』


『知っていいことをあなたが決めて』


『それで、私は自由だって?』


『エステル』


『愛されてるのは分かってる』


涙。


落ちる。


『分かってるから、余計につらい』


過去の私は。


泣きながら。


それでもギデオンを見ていた。


『あなたが私を大事にしてないなら』


『とっくに終わってる』


ギデオンの息が止まる。


『でも大事にされてる』


『愛されてる』


『私も愛してる』


一つずつ。


逃げずに言う。


『なのに息ができない』


私は。


目を閉じたくなった。


でも。


見た。


『それが』


過去の私は言う。


『一番つらいの』


長い沈黙。


ギデオンは。


何も言わない。


いや。


言えなかったのだと思う。


やがて。


『どうすればいい』


彼が聞いた。


過去の私の顔が。


少しだけ崩れた。


期待。


たぶん。


最後ではない。


でも。


何度目かの期待。


『聞いて』


『何を』


『私に』


声が小さくなる。


『決める前に』


ギデオンが頷く。


『分かった』


『本当に?』


『ああ』


『次から?』


『約束する』


過去の私は。


それを聞いて。


泣きながら笑った。


『じゃあ』


手を伸ばす。


でも。


途中で止める。


『抱きしめてほしい』


ギデオンが一瞬固まる。


そして。


『いいのか』


『うん』


彼が近づく。


腕が回る。


過去の私は。


その胸へ顔を埋めた。


安心。


好き。


それでも。


疲れている。


全部が。


同時に流れてきた。


映像が暗くなる。


*


「止めます」


閲覧官の声。


現実。


私は。


すぐには動けなかった。


頬が濡れている。


自分が泣いていると気づくまで。


少し時間がかかった。


リオラが何も言わず、水を置く。


「ありがとう」


一口。


喉を通らない。


もう一度。


ゆっくり。


「……私」


声が掠れた。


「ちゃんと言ってた」


リオラが頷く。


「ええ」


「すごく」


もう一度。


「ちゃんと言ってた」


それが。


思っていた以上に大きかった。


私は。


過去の自分にも。


どこか疑いを持っていた。


ギデオンに何も話さず。


勝手に調査し。


一人で抱え込んで。


結婚を壊した側でもあるのではないか。


もちろん。


そういう間違いもあった。


でも。


この問題については。


私は言っていた。


かなり具体的に。


何度も。


たぶん。


「ギデオン、約束した」


「そうね」


「聞くって」


「ええ」


「でも」


結末を。


私は知っている。


離縁の日。


彼は。


三週間一人で考えて。


離縁届と記憶譲渡書を持ってきた。


私に相談せず。


『君との七年を忘れてくれ』


と。


「守れなかった」


声にすると。


怒りより。


悲しかった。


「たぶん」


リオラが言う。


「守れなかったというより」


私は彼女を見る。


「何?」


「危険が大きくなったとき、昔のやり方へ戻ったんだと思う」


私は黙る。


そうかもしれない。


平穏なときは。


聞ける。


待てる。


譲れる。


でも。


本当に怖くなったとき。


彼は。


自分が正しいと思う方法で。


全部決めた。


それが。


彼の一番深いところにある癖だった。


「今日の記憶」


私は聞く。


「事件に使える?」


リオラが少し考える。


「直接の殺人事件には弱い」


「ですよね」


「ただし」


「何?」


「検察が作っている『夫の地位を守るためなら何でもする妻』という人物像には反証になる」


私は顔を上げる。


「どういう意味?」


「あなたは夫を愛していた」


「うん」


「でも同時に、彼の職務を守ることより、自分の選択権を重視していた」


確かに。


記憶の中の私は。


公爵でも。


長官でも。


なくていいと言った。


「つまり」


「ギデオンを愛していたから、彼の地位を守るためにマルセルを殺した」


リオラが首を振る。


「少なくとも、それほど単純な人物像ではない」


それは。


使える。


でも。


私は少し笑った。


「法廷って、人間を一つの動機にしたがるのね」


「裁判では整理が必要だから」


「人ってそんなに整理されてないのに」


昨日。


ギデオンの手袋を心配しながら。


夫を疑っていた過去の私。


愛して。


怒って。


離れたくて。


抱きしめてほしい。


全部同時。


「そこを」


リオラが言う。


「こちらが説明するのよ」


*


午後。


追加審理。


この記憶は、全面公開しなかった。


リオラが必要箇所だけの閲覧を申請。


認められたのは。


私が。


ギデオンの地位を失っても構わないと考えていた部分。


そして。


自分の選択を奪われることへ明確に抗議していた部分。


傍聴席が静まる。


『あなたが公爵じゃなくてもいい』


以前の記憶。


そして。


今回。


『私が、あなたの望まない選択をすることが嫌なんでしょう』


映像が止まる。


リオラが立つ。


「弁護側から確認します」


クラウディア審理官が頷く。


「続けて」


「検察は、被告人がヴァルデン公爵の地位と職務を守ることを強く望んでいたため、マルセル判事殺害の動機が生じた可能性を主張しています」


ベルク検事。


表情は変わらない。


「しかし」


リオラが映像を指す。


「婚姻二年目。被告人は、公爵位も監察局職も失って構わないと明言した」


次。


「婚姻六年目。被告人は夫の職務上の決定そのものへ抵抗し、自らの選択を優先するよう要求している」


「感情は変化します」


ベルク検事が言う。


「もちろん」


リオラは認めた。


「ですから弁護側も、これだけで殺害動機が存在しないとは主張しません」


また。


そこ。


証拠を都合よく使わない。


「ただし」


リオラは続ける。


「『夫への愛情が強かった』という事実だけから、『夫の地位を守るため殺人を犯す人物だった』と推定するのは不適切です」


クラウディア審理官が資料を見る。


「検察側」


ベルク検事が少し考えた。


「認めます」


傍聴席がざわつく。


「夫への愛情のみをもって、殺害動機を補強する主張は撤回します」


また一つ。


削れた。


完全ではない。


でも。


私の幸福な記憶が。


私を犯人にする材料としてだけ使われるのを。


一つ止めた。


記録官の筆。


夫への強い愛情――認定。


当該愛情のみを根拠とする殺害動機推定――不十分。


被告人は婚姻中、夫の地位・職務より自己決定を重視する意思を明示していた。


私は。


静かに息を吐いた。


過去の私の言葉が。


今の私を少し守った。


*


審理のあと。


ギデオンが廊下にいた。


今日は証人として呼ばれていない。


でも。


公開された部分は聞いていた。


私たちは。


しばらく向かい合った。


「全部見ました」


私が言う。


ギデオンの顔が。


わずかに青くなる。


「六年目の?」


「はい」


「……そうか」


「あなた、約束してた」


彼の目が伏せられる。


「覚えている」


「聞くって」


「ああ」


「私が決める前に」


「覚えている」


「でも」


私は言う。


「最後はやらなかった」


ギデオンは逃げなかった。


「そうだ」


「どうして?」


もう。


理由自体は知っている。


怖かった。


私が死ぬと思った。


それでも。


今。


聞きたかった。


「怖くなったからだ」


彼は答えた。


「君を失うかもしれない状況になって」


声が低い。


「私は、約束より自分の判断を選んだ」


「うん」


「君なら危険を選ぶと分かっていた」


「うん」


「だから」


彼が私を見る。


「君の意思を尊重するという約束を、守れなかった」


言い訳ではない。


正確だった。


私は頷く。


「昔の私」


少し間を置く。


「すごく疲れてました」


ギデオンの顔が歪む。


「……ああ」


「愛してるのに息ができないって」


彼の目が赤くなる。


「覚えている」


「あなたは?」


「忘れたことはない」


「なのに」


私は。


そこで止めた。


責めるために。


同じ言葉を繰り返す必要はない。


彼自身が。


もう分かっている。


「今日は」


私は言う。


「謝らなくていいです」


ギデオンが黙る。


「代わりに」


「何だ」


「覚えておいてください」


彼は私を見る。


「昔の私が言ったことを」


「ああ」


「私が今言ってることだけじゃなく」


「ああ」


「あなたが失敗した結果だけでもなく」


私は一度。


息を吐く。


「ちゃんと伝えようとしてた私がいたことを」


長い沈黙。


「……分かった」


ギデオンは。


それだけ答えた。


私は。


今度は。


それでいいと思った。


過去の私を。


かわいそうな妻にする必要はない。


何も言えなかった人でもない。


彼女は。


愛して。


怒って。


伝えて。


選ぼうとしていた。


それでも。


最後には。


疲れていた。


そして。


私は今。


その続きを生きている。


昔の私へ戻るためではなく。


昔の私が最後まで求めていたものを。


今度こそ。


自分の手から離さないために。

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