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第23話 雨音が消えた場所

「先に、一つ訂正します」


殺害命令記憶の詳細検証を始める直前、記憶術者のサイラスが言った。


白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた、痩せた男だ。


昨日までの法廷では見なかった。


今日は法院の記憶鑑定室。


窓のない白い部屋の中央に、銀環と記憶投影器が置かれている。


私。


リオラ。


ベルク検事。


法院書記官。


そして、サイラス。


ギデオンはいない。


呼ばなかった。


これは私の記憶を調べる作業だ。


必要になれば証人として呼べばいい。


「訂正?」


リオラが聞く。


「詳細分解閲覧という呼び方です」


サイラスは投影器を調整しながら答えた。


「記憶そのものを細かく分解できる、と誤解されやすい」


「違うんですか」


私が聞く。


「我々が分けられるのは閲覧条件です。視覚へ集中する。音へ集中する。時間感覚を低速化して確認する。そういうものです」


「記憶の中から音だけ取り出すわけではない?」


「できません」


サイラスは即答した。


「記憶は人間の経験です。棚に入った書類ではない」


少し安心した。


都合のいい新しい技術が、突然出てきたわけではない。


「それと」


彼は私を見る。


「これから見つける異常についても、先に言っておきます」


「何です?」


「異常があることと、偽造されていることは同じではありません」


ベルク検事が腕を組む。


「例えば?」


「人間は、すべての音を記憶していません」


サイラスが指を一本立てる。


「会話へ集中して雨音を意識しなくなる。時計の音が途中から記憶にない。部屋を出たあと、壁紙の色を思い出せない」


二本目。


「恐怖や怒りで注意が狭まることもある」


三本目。


「抽出時の欠落も、ごく小規模なら起こり得ます」


「では」


私は聞いた。


「何を見つければ、継ぎ接ぎだと証明できるんです?」


「一つでは足りないでしょう」


サイラスは淡々と答えた。


「同じ場所で、互いに独立した複数の不連続が見つかれば話は変わる」


「音と映像とか?」


「そうです。さらに外部記録と矛盾すれば強い」


なるほど。


雨が消えただけでは駄目。


時計。


家具。


衣服。


天候。


外の記録。


一つずつ。


「始めましょう」


私は椅子へ座った。



最初は通常速度。


もう三度目になる。


薄暗い部屋。


壁際の時計。


机。


向かいに立つ男。


私自身。


『マルセル判事は、もう止まらない』


『どうします』


『殺して』


『今夜中に』


封筒。


『書類も持ち出して。白鐘に関するものは全部』


『承知しました』


終了。


「何か気づきましたか」


サイラスが聞く。


「今は」


私は考える。


「時計」


「時刻?」


「針が見えます」


「後で確認しましょう」


「あと男の顔」


「不鮮明ですね」


そう。


これまでにも気になっていた。


顔が見えそうで見えない。


「意図的?」


リオラが聞く。


サイラスが首を振る。


「断定できません。本人が相手の顔へ注意を向けていなければ普通に起こります」


また。


簡単には答えをくれない。


「次は音へ注意してください」


銀環が光る。



雨。


最初に聞こえた。


かなり強い。


窓を叩いている。


ぱらぱら、ではない。


ざああ、と連続した音。


『マルセル判事は、もう止まらない』


雨。


『どうします』


雨。


低い男の声。


『殺して』


――雨。


『今夜中に』


私は。


眉を寄せた。


何か。


「止めて」


映像が止まる。


「どうしました」


「もう一度」


「どこから?」


「『殺して』の少し前から」


戻る。


『どうします』


雨。


『殺して』


雨。


『今夜中に』


――。


「止めて」


今度は確信した。


「消えてる」


ベルク検事が身を乗り出す。


「何が?」


「雨」


私は言った。


「『今夜中に』のあと」


サイラスが記録を見る。


「続けます」


映像。


『今夜中に』


静か。


私が机の封筒へ手を伸ばす。


紙が擦れる。


衣服の音。


呼吸。


でも。


雨がない。


封筒を男へ渡す。


『書類も持ち出して』


まだない。


『白鐘に関するものは全部』


ざああ。


戻った。


「止めて」


リオラが言った。


映像停止。


部屋が静まる。


「何秒?」


「体感時間で約十一秒」


サイラスが答える。


「その間だけ完全に?」


「少なくとも記憶上は」


ベルク検事がすぐ聞く。


「会話へ集中したため、雨音が意識から外れた可能性は?」


「あります」


やっぱり。


「でも」


私は言う。


全員が私を見る。


「雨だけ?」


「どういう意味です」


私はさっきの十一秒を思い返す。


「雨を意識しなくなったなら、他の音は?」


紙。


袖。


呼吸。


全部あった。


サイラスの目が少し変わった。


「良い着眼点です」


「関係ある?」


「可能性はあります。ただし、人間の注意は音量順に消えるものではありません」


「大きな雨だけ聞こえなくなることもある?」


「あります」


まただ。


私は思わず息を吐いた。


「記憶って、証拠にするには面倒ですね」


サイラスが少しだけ笑った。


「だから本来は面倒に扱うべきなのです」


ベルク検事が苦い顔をする。


「法院でそれを言いますか」


「法院だから言っています」


少しだけ空気が緩んだ。


重い展開が続いていたから。


こういう人は助かる。


「雨が消えた位置を記録してください」


リオラが言う。


「もちろん」


「次は?」


私は聞いた。


サイラスが投影器を見る。


「視覚です」



低速。


『今夜中に』


雨が消える位置。


私は自分の手を見る。


封筒へ伸びる。


右手。


指輪。


「あ」


声が出た。


「止めて」


映像停止。


「何です?」


私は自分の手を指す。


「指輪」


薬指。


細い銀の輪。


青い石。


「結婚指輪?」


リオラが聞く。


「たぶん」


私は自分では覚えていない。


「ギデオンに確認する?」


「待って」


今はまだ。


私は画面へ近づく。


「前の部分」


戻す。


『マルセル判事は、もう止まらない』


私の手。


机の端。


右手。


指輪。


銀。


青い石。


同じ。


『どうします』


左手が一瞬映る。


そちらにも?


「拡大できます?」


「映像に存在する以上の情報は作れませんが、投影面は大きくできます」


大きくなる。


左手。


薬指。


何もない。


普通。


「問題ない?」


ベルク検事。


「今のところ」


私は答えた。


次。


『殺して』


右手。


『今夜中に』


雨が消える。


右手が封筒へ。


指輪。


「続けて」


封筒を渡す。


男の手。


左。


いや。


「止めて」


私は画面へ近づいた。


「この人、左手で受け取った」


「それが?」


「分からない」


今は。


分からないものを無理に答えへしない。


「記録だけ」


リオラが頷く。


続ける。


『書類も持ち出して』


私の身体が少し横へ動く。


その瞬間。


壁の時計。


「止めて」


針。


九時十二分。


「最初は?」


サイラスが映像冒頭を出す。


九時十一分。


問題ない。


一分進んだだけ。


「雨が消えていたのは十一秒」


ベルク検事が言う。


「時計との矛盾はない」


「そうですね」


私は認める。


残念。


でも。


探しているのは無実に見えるものではない。


事実だ。


「続けてください」


映像が終わる。


結果。


雨音の十一秒間欠落。


ほかに決定的な不連続なし。


私は椅子へ戻った。


思っていたより少ない。


もっと。


見ればすぐ偽物だと分かると思っていた。


「これだけ?」


口から出た。


サイラスが答える。


「一回目の検証としては、むしろ見つかった方です」


「でも偽造の証明にはならない」


「なりません」


はっきり。


「雨音が途切れただけでは」


「はい」


悔しい。


目の前に継ぎ目らしいものがあるのに。


届かない。


リオラが私を見る。


「焦らない」


「分かってる」


「顔が分かってない」


「そんな顔してる?」


「してる」


「最近みんな顔で分かりすぎじゃない?」


ベルク検事が咳払いした。


サイラスは笑いを堪えている。


「続けます」


私は姿勢を直した。


「今度は何を?」


「この記憶がいつのものかを絞ります」


サイラスが言った。


「映像内の情報から」


「日時は銀縁にない?」


「この晶の抽出日は記録されていますが、記憶された出来事そのものの日付は記録されていません」


「なら時計だけ?」


「ほかにもあります」


窓。


雨。


衣服。


家具。


私の指輪。


「外側の事実」


私は呟いた。


「そうです」



最初に調べたのは天候だった。


殺害命令記憶の内容から。


『今夜中に』


そしてマルセル判事の死亡推定時刻。


検察は、命令が殺害当日の夕方から夜に行われたと主張している。


マルセルが殺害されたのは。


私の記憶売却翌日。


冬月十六日。


「王都気象局の記録です」


書記官が資料を出す。


冬月十六日。


午前。


曇り。


午後二時。


小雨。


午後五時。


雨。


午後八時。


強雨。


午後十一時。


雨。


翌朝。


曇り。


合っている。


九時十二分。


強い雨。


記憶と一致。


「検察側には有利ですね」


私は言った。


ベルク検事が少し驚いた顔をする。


「自分で言いますか」


「違うなら違うって言ってください」


「一致します」


記録。


天候――矛盾なし。


「次」


家具。


部屋の特定。


壁。


机。


時計。


窓。


問題は。


私はこの場所を知らない。


「公爵邸では?」


リオラが聞く。


私は首を振る。


「覚えてない」


「現在の公爵邸の家具台帳と照合できます」


書記官。


「監察局?」


「可能です」


ベルク検事が資料請求に同意する。


数日はかかる。


「服は?」


私は自分を見る。


濃い色のドレス。


襟が高い。


袖口に細い刺繍。


「これ」


何か。


見たことがある。


記憶ではない。


「九一七番」


私は言った。


リオラが顔を上げる。


「貸金庫?」


「写真」


九一七番から回収した資料。


そこに。


過去の私を写した記録写真があった。


リオラがすぐ書記官へ照会する。


資料が運ばれるまで二十分。


その間。


私は殺害命令映像の静止画を見る。


右袖。


黒に近い濃紺。


銀糸。


そして。


届いた写真。


「違う」


一目で分かった。


写真の私は似たドレスを着ている。


でも袖口。


「刺繍が違う」


写真は蔦。


映像は。


「鳥?」


サイラスが言う。


「羽根にも見えます」


別物。


残念。


「このドレス自体を探せる?」


リオラが聞く。


「公爵邸の衣装台帳」


私は答えた。


第3話。


私物を取りに戻ったとき。


大量のドレスがあった。


衣装係なら。


記録を持っているかもしれない。


「照会しましょう」


また一つ。


今すぐ答えは出ない。



検証が終わったのは夕方だった。


今日分かったこと。


雨音が十一秒だけ消える。


その間も紙、衣服、呼吸など別の音は存在。


ただし、それだけで継ぎ接ぎとは証明できない。


時計は自然に進む。


事件当夜の天候と記憶内の強雨は一致。


男は左手で封筒を受け取る。


部屋は未特定。


ドレスも未特定。


つまり。


「ほとんど負けてない?」


廊下へ出てから私は言った。


「勝ち負けにするなって昨日自分で言ってたでしょう」


リオラ。


「分かってるけど」


「雨を見つけた」


「でも説明できる」


「だから次を探す」


私は壁にもたれる。


「もっと簡単だと思ってた」


「何が」


「偽物を証明するの」


リオラが私を見る。


「偽物だと決めてる?」


痛いところ。


私は黙った。


「エステル」


「分かってる」


私は目を閉じる。


「またやってる」


「何を?」


「答えを先に決めて、証拠を探してる」


私は無実だと思いたい。


だから。


雨音が消えた。


偽物だ。


そう飛びついた。


でも。


天候は合った。


時計も。


「私」


ゆっくり言う。


「本当に殺害を命じてたらどうしよう」


初めて。


ちゃんと口にした気がした。


リオラはすぐ否定しなかった。


それがありがたかった。


「その場合は」


彼女が言う。


「なぜそうなったのか調べる」


「私を弁護する?」


「する」


「殺してても?」


「弁護士だから」


「便利」


「でしょう」


少し笑った。


「でも」


リオラが続ける。


「今のところ、あなたが命じたと確定する証拠もない」


「うん」


「雨の欠落もある」


「うん」


「だから調べる」


「うん」


それでいい。



保護館へ戻ると。


一通の封書が届いていた。


差出人。


ヴァルデン公爵家衣装管理室。


早い。


「もう返事?」


リオラが封を確認して開く。


中には。


衣装台帳の写し。


そして。


一枚の図案。


濃紺のドレス。


袖口に。


銀糸の鳥。


「これ」


私は殺害命令記憶の静止画と並べた。


似ている。


いや。


同じだ。


「製作日」


リオラが読む。


婚姻五年目。


「廃棄?」


「されてない」


「なら公爵邸に?」


次の行。


リオラの声が止まる。


「何?」


紙を覗く。


《冬月十二日 ローヴェン夫人本人の指示により王立記憶院へ搬入》


冬月十二日。


私が。


七年間の記憶を売った日。


「記憶院へ?」


「抽出時の衣装?」


「違う」


私は覚えている。


第1話。


記憶を抽出された日。


着ていたのは。


灰青色のドレスだった。


これは。


濃紺。


「どうして別のドレスが記憶院に?」


リオラが紙を裏返す。


搬入理由。


《関係記憶抽出時の補助資料》


「補助資料って?」


「分からない」


でも。


殺害命令記憶の中で。


私は。


そのドレスを着ている。


そしてそのドレスは。


殺害前日の記憶売却時。


王立記憶院へ渡されていた。


私は紙を握る。


まだ。


証明ではない。


私が以前そのドレスを着て。


同じ言葉を口にしていた可能性はある。


でも。


一つ。


外側の事実が増えた。


「リオラ」


「うん」


「このドレス」


私は言った。


「今、どこにある?」


彼女の目が変わる。


「記憶院へ照会する」


雨音だけでは足りない。


なら。


次を探す。


あの記憶の中にあるものが。


本当に同じ夜。


同じ部屋。


同じ私の周りに存在していたのか。


一つずつ。


確かめればいい。

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