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第22話 幸福だったことまで、証拠にされる

「次回審理では、婚姻記憶の一部を提出します」


ベルク検事がそう告げたとき、私は意味を理解するまで数秒かかった。


予備審理二日目。


昨日と同じ法廷。


同じ三人の審理官。


同じ傍聴席。


ただし、今日は中央の銀環の横に、昨日より大きな記憶投影器が置かれている。


「婚姻記憶?」


私は隣のリオラを見る。


彼女の顔が険しい。


「どの範囲ですか」


リオラが立つ。


ベルク検事は書類を確認した。


「被告人とヴァルデン公爵の婚姻関係、被告人が公爵の職務情報へ接触できた環境、およびマルセル判事殺害の動機形成に関係する範囲です」


「広すぎます」


「では具体的に申し上げます」


嫌な予感がした。


「夫婦間の会話、被告人による公爵の職務への関心、白鐘広場への言及、夫婦関係の悪化」


そこで終わればよかった。


ベルク検事は続けた。


「ならびに、被告人がヴァルデン公爵へ強い情愛を抱いていたことを示す記憶です」


私は瞬きをした。


「……愛していたことが、殺人と何の関係が?」


思わず口に出た。


中央のクラウディア審理官が私を見る。


「被告人。発言は弁護人を通してください」


「申し訳ありません」


リオラが立ったまま言う。


「同じ質問を弁護側から行います。夫への情愛とマルセル判事殺害との関連性を説明してください」


ベルク検事は淡々と答えた。


「検察側の主張する動機は、被告人自身の保身だけではありません」


「では?」


「夫の地位と名誉を守るためです」


法廷が静かになる。


私は。


ようやく検察の作ろうとしている筋書きを理解した。


「被告人は白鐘広場事件を調査する過程で、夫であるヴァルデン公爵の職務上の不作為、あるいは監察局に不利益となる事実を知った」


ベルク検事が続ける。


「マルセル判事も同じ事実へ到達した」


リオラがすぐに言う。


「その『事実』とは?」


「現時点では特定できていません」


「存在するかどうかも分からない?」


「だから調べています」


昨日、こちらが使った言葉を返された。


リオラの眉がわずかに動いた。


「検察の仮説では」


ベルク検事は私を見る。


「被告人は夫を守るため、マルセル判事を殺害した」


胸の中に。


冷たいものが落ちた。


夫を。


守るため。


あの記憶。


『マルセル判事は、もう止まらない』


『殺して』


『書類も持ち出して。白鐘に関するものは全部』


確かに。


筋は通る。


私がギデオンを愛していたなら。


彼を守るために。


邪魔な判事を――。


「異議」


リオラの声。


「仮説を提示すること自体には異議ありません。しかしその立証のため、夫婦の私的記憶を無制限に公開する必要はありません」


「無制限ではありません」


「提出予定の範囲を」


ベルク検事が書類を読み上げる。


「婚姻一年目、王都冬至祭。婚姻二年目、ヴァルデン公爵負傷時。婚姻四年目――」


「待って」


また声が出た。


クラウディア審理官がこちらを見る。


私は唇を噛む。


「……発言の許可をいただけますか」


「許可します」


「婚姻二年目の、負傷時というのは」


私はベルク検事を見る。


「どんな記憶ですか」


「公爵が襲撃捜査中に負傷し、帰邸した夜のものです」


知らない。


当然。


でも。


嫌な感じがした。


「私と彼しかいなかった場面ですか」


ベルク検事は一瞬止まった。


「記録上は」


「それを」


喉が乾く。


「ここで?」


私は傍聴席を見る。


人がいる。


記者も。


貴族も。


知らない人たち。


「必要性は審理官が判断します」


正しい答え。


だからこそ。


腹が立つ場所がない。


クラウディア審理官が口を開いた。


「検察側。各記憶について立証趣旨を明示してください」


「はい」


ベルク検事が一つずつ説明する。


冬至祭。


夫婦が親密な関係だった証明。


負傷した夜。


エステルが夫の職務上の危険を強く恐れていた証明。


婚姻四年目。


ギデオンが機密監察局長官へ就任した際、その職務について夫婦で会話していた証明。


婚姻六年目。


夫婦関係の悪化。


「検察は」


クラウディア審理官が確認する。


「被告人が夫を深く愛していたため、その地位を脅かすマルセル判事を排除する動機があったと主張する?」


「はい」


「弁護側」


リオラが私を見る。


小さく。


確認するように。


私は頷いた。


「婚姻四年目および六年目については、関連性を認めます」


リオラが言う。


「ただし一年目、二年目については争います。夫婦が愛情関係にあったことは弁護側も否定していません。被告人が夫を愛していたという一般的事実を証明するためだけに、私生活を公開する必要性は低い」


ベルク検事が返す。


「愛情の程度が動機の強さに関係します」


「では結婚している者は、配偶者のために殺人を犯す動機があると?」


「そうは言っていません」


「愛情が強ければ殺す?」


「そうも言っていません」


「では何を証明するのです?」


ベルク検事が少し黙った。


「被告人が、夫を失うことを強く恐れていたことです」


その言葉。


胸に引っかかった。


失うことを。


恐れていた。


ギデオンが私を失うことを恐れて。


私から選択を奪ったように。


過去の私は。


彼を失うのが怖かったのだろうか。


「判断します」


クラウディア審理官が言った。


「婚姻一年目の記憶は却下」


少しだけ息が戻る。


「婚姻二年目の負傷時記憶は、被告人の動機形成に一定の関連性を認めます。ただし公開範囲を制限する」


リオラが立つ。


「傍聴人の退廷を求めます」


「検察側は?」


「異議ありません」


木槌。


「当該記憶の閲覧中、傍聴席を閉鎖します」


助かった。


そう思った。


でも。


全部ではない。


審理官。


検察。


法院職員。


リオラ。


ギデオン。


彼らは見る。


そして。


私自身も。



傍聴人が退廷した。


扉が閉じる。


さっきまで人で埋まっていた席が空になる。


それだけで法廷が広く感じた。


「被告人」


クラウディア審理官が言う。


「閲覧による精神的負担が大きい場合、休廷を申し出ることができます」


「はい」


「記憶の所有権が国へ移転しているとはいえ、司法利用には必要性と相当性が求められます。不要と判断した時点で中止します」


「分かりました」


所有権。


国へ移っている。


私が売ったから。


自分で署名した。


でも。


こんな使われ方を想像していただろうか。


過去の私は。


知らなかった。


少なくとも。


ギデオンは説明しなかった。


投影器へ記憶晶が入れられる。


銀環が光った。


「再生します」



夜。


雨。


公爵邸の寝室。


私は窓辺に立っていた。


いや。


過去の私が。


扉が開く。


『エステル』


ギデオン。


若い。


顔色が悪い。


左腕を吊っている。


外套には血。


過去の私が振り返る。


手から本が落ちた。


『何、その腕』


『大したことじゃない』


『何、その血』


『私のものじゃ――』


過去の私が彼へ歩く。


速い。


『座って』


『医師には診てもらった』


『座って』


ギデオンが黙って椅子へ座る。


私は彼の外套を脱がせる。


指が震えている。


『刺されたの?』


『浅い』


『嘘』


『本当に浅い』


『ならどうしてこんなに血が』


『相手のものも』


『そういう話をしてるんじゃない!』


声が響く。


過去の私は。


泣いていた。


『死ぬかと思った』


ギデオンが動きを止める。


『帰ってこないから』


『すまない』


『毎回それ』


『エステル』


『何をしてるか言えない。どこへ行くかも言えない。帰る時間も分からない。それで血だらけで帰ってきて、大したことじゃないって』


『仕事だ』


『分かってる!』


涙を拭う。


『分かってるから嫌なの』


ギデオンが立とうとする。


『来ないで』


彼が止まる。


過去の私は両手で顔を覆った。


『今、優しくされたら許すから』


その言葉に。


今の私の胸まで痛くなった。


ギデオンは動かなかった。


『じゃあ、ここにいる』


『それもずるい』


『すまない』


『謝らないで』


『……分かった』


沈黙。


雨の音。


過去の私は顔を上げる。


『辞めてって言ったら?』


ギデオンが答えない。


『長官になる話も断ってって言ったら?』


『エステル』


『私と仕事、どっちが大事とか聞いてない』


『分かっている』


『本当に?』


『ああ』


『私は』


声が小さくなる。


『あなたが公爵じゃなくてもいい』


ギデオンの表情が変わる。


『監察局にいなくても』


『……ああ』


『何もなくても』


過去の私が彼を見る。


『生きて帰ってきてくれたら、それでいい』


そこで。


検察が映像を止めた。


「この発言です」


ベルク検事。


私は。


画面を見たまま動けなかった。


『何もなくても』


『生きて帰ってきてくれたら、それでいい』


「被告人は」


ベルク検事が言う。


「夫の地位を愛していたのではありません」


リオラが眉を寄せる。


「それは弁護側に有利な内容では?」


「続きを」


映像が動く。


過去のギデオンが言う。


『私も』


声が低い。


『君がいれば、それでいい』


過去の私は泣きながら笑った。


『だったら危ない仕事やめて』


『それは難しい』


『ほら』


『すまない』


『嫌い』


『知っている』


『今だけ』


『それも知っている』


そして。


過去の私が。


彼へ近づいた。


そこで映像が止まる。


「ここまでです」


クラウディア審理官。


それ以上。


何があったのかは。


公開されなかった。


私は。


自分の手を見ていた。


知らない女みたいだった。


でも。


私だ。


ギデオンを。


こんなふうに愛していた。


彼が何者でもいい。


地位も。


仕事も。


いらない。


生きていてほしい。


「検察側」


クラウディア審理官が言う。


「これがどのように殺害動機を補強する?」


ベルク検事が答える。


「被告人にとって、ヴァルデン公爵を失うことは強い恐怖だった」


「しかし映像では、地位を失うことは構わないと明言している」


「二年前の記憶です。その後、事情が変化した可能性があります」


「それを示す証拠は?」


「後続記憶で示します」


リオラが立った。


「現時点では、むしろ検察の主張と逆です」


「それも承知しています」


ベルク検事は意外なほどあっさり認めた。


「記憶は検察に都合のいい部分だけを証拠にするものではありません」


私は顔を上げた。


少し。


意外だった。


この人も。


最初から私を有罪にしたいだけではない。


それが仕事なのだ。


疑うことも。


確かめることも。



次の記憶は、婚姻四年目。


傍聴席はまだ閉鎖されたまま。


場所は公爵邸の食堂。


朝。


過去の私はパンへジャムを塗っている。


ギデオンが新聞を読んでいる。


『長官就任、おめでとうございます』


『その言い方は嫌味か』


『半分』


『残り半分は』


『おめでとう』


『ありがとう』


過去の私は紅茶を飲む。


『忙しくなる?』


『おそらく』


『今より?』


『……おそらく』


『辞退しなさい』


『無理だ』


『でしょうね』


乾いた会話。


でも。


嫌いではない。


こういう夫婦だったんだ。


『何を見る仕事なの?』


『言えない』


『外国?』


『言えない』


『王宮?』


『言えない』


『記憶院?』


ギデオンの手が。


止まった。


ほんの少し。


過去の私も気づいている。


『今の間は何?』


『何でもない』


『ギデオン』


『エステル』


『私、別に機密を聞きたいわけじゃない』


『なら聞かないでくれ』


空気が変わる。


『……分かった』


過去の私はパンを置く。


『じゃあ一つだけ』


『何だ』


『あなたの仕事で、私が危険になることはある?』


ギデオンが答える。


『ない』


即答だった。


私は現在の法廷で。


思わず彼を見る。


ギデオンは。


こちらを見ていなかった。


顔を伏せている。


『本当に?』


『ああ』


『ならいい』


過去の私は笑った。


信じた。


その一言を。


映像が終わる。


誰もすぐに喋らなかった。


リオラが立つ。


「この記憶について」


声が冷たい。


「弁護側から確認を求めます」


「何を?」


「当時、ヴァルデン公爵の職務によって配偶者が記憶院関連の情報へ接触する可能性は存在したか」


ギデオンが証人席へ呼ばれた。


彼は立つ。


宣誓。


そして。


リオラが聞く。


「公爵。当時のあなたは、妻へ危険はないと答えました」


「はい」


「真実でしたか」


ギデオンが一度目を閉じる。


「いいえ」


法廷が静まる。


「なぜ?」


「危険が発生する可能性は低いと考えていました。しかし、ゼロではなかった」


「つまり?」


「私は彼女を安心させるために、断言した」


「嘘を?」


「はい」


私は。


彼を見ていた。


第20話で聞いた話より。


もっと前。


ずっと前から。


小さな形で。


始まっていた。


守るために。


安心させるために。


必要ないと思ったから。


話さない。


「その判断は」


リオラが聞く。


「後の縁切り売却時の判断と同質だと思いますか」


ベルク検事が立つ。


「異議。証人の心理評価を求めています」


「質問を変更します」


リオラはすぐ引いた。


「当時、妻本人へ危険性を説明し、どう受け止めるか判断させる選択肢は考えましたか」


「考えませんでした」


「なぜ?」


「私が処理すべき問題だと思ったからです」


「以上です」


ギデオンが席へ戻る。


私たちは。


目を合わせなかった。



午後。


傍聴席が再び開放された。


そして。


婚姻六年目の記憶。


これは公開された。


場所は書斎。


過去の私は立っている。


ギデオンは机の向こう。


『また?』


私が言う。


『何が』


『答えられない』


『機密だからだ』


『違う』


過去の私は笑った。


怒っている。


『あなた、便利よね。その言葉』


『エステル』


『私が何か聞けば機密。あなたが何か決めれば安全のため』


『必要なことだ』


『誰にとって?』


ギデオンが黙る。


『私?』


過去の私が聞く。


『それとも、あなた?』


映像はそこで終わった。


傍聴席から。


今度は違うざわめき。


幸福。


不安。


嘘。


不満。


全部。


私たちの結婚だった。


ベルク検事が立つ。


「検察側の提出は以上です」


クラウディア審理官が眉を寄せる。


「殺害動機について、どこまで立証できたと考えますか」


「現段階では」


ベルク検事が答える。


「被告人が夫を深く愛していたこと。夫の職務と白鐘広場調査が夫婦間の重大な対立要因だったこと。その二点です」


「夫を守るため殺害した、という点は?」


「まだ立証できていません」


明確だった。


審理官が記録させる。


夫への強い情愛――認定可能。


夫の職務を巡る夫婦間対立――認定可能。


夫を守るためマルセル判事を殺害した動機――未立証。


それだけ。


でも。


私には。


もっと大きなものを見せられた気がした。



審理終了後。


私は法廷に少し残った。


傍聴人はもういない。


銀環も消えている。


自分の七年間が。


あそこで切り売りされた。


国に売ったのは私だけれど。


こんなふうに。


幸福だった夜まで。


殺人の理由を探す材料になるとは思わなかった。


「エステル」


リオラ。


「帰れる?」


「うん」


立ち上がる。


そのとき。


出口近くにギデオンがいた。


今日は。


呼ばなかった。


でも彼も。


近づいてこなかった。


私が通るために横へ退く。


その横を。


通り過ぎようとして。


止まった。


「ギデオン」


「何だ」


「二年目の夜」


彼の表情が固くなる。


「私、あなたをすごく愛してましたね」


声にしてみると。


不思議だった。


嫉妬もしない。


懐かしくもない。


ただ。


胸が痛い。


「ああ」


「嬉しい?」


ひどい質問だと思った。


でも聞きたかった。


ギデオンは少し考えた。


「嬉しいと思ってはいけない気がする」


「どうして?」


「今の君が知らない感情だから」


私は彼を見る。


「それでも、あなたの記憶にはある」


「ああ」


「私が泣いて」


「ああ」


「生きて帰ってきてって言った」


「覚えている」


「全部?」


「全部」


彼だけが。


覚えている。


あの夜の続きも。


きっと。


「つらいですね」


思わず言った。


ギデオンが目を伏せる。


「君に言わせることではない」


「別に慰めてません」


「分かっている」


「ただ」


私は少し考える。


「今日、初めて分かった気がする」


「何を」


「幸せだったことと、壊れていたことは両立するんですね」


ギデオンが何も言わない。


二年目。


私は彼の怪我を見て泣いた。


四年目。


彼は私へ嘘をついた。


六年目。


私はその嘘の積み重ねに怒っていた。


どれか一つだけが。


本当の結婚ではない。


全部。


私たちだった。


「昔の私があなたを愛してたこと」


私は言う。


「もう疑いません」


ギデオンの目が揺れた。


「でも」


続ける。


「それで今のあなたを選ぶことにはならない」


「ああ」


返事はすぐだった。


「分かっている」


私は頷く。


それでいい。


歩き出す。


数歩進んだところで。


リオラが後ろから呼んだ。


「エステル」


振り返る。


彼女は法廷書記官から、一枚の紙を受け取っていた。


「明日の検証許可が出た」


「何の?」


「殺害命令記憶」


胸が固くなる。


「詳細分解閲覧。音響記憶も個別に確認できる」


昨日見た。


薄暗い部屋。


男。


封筒。


私の声。


『殺して』


その中から。


今度は。


映像ではなく。


一つ一つの事実を拾う。


「やりましょう」


私は言った。


リオラが頷く。


まだ。


私の声が偽物だとは証明できていない。


私の顔も。


私の言葉も。


本物かもしれない。


でも。


一つの記憶として。


本当に同じ時間を流れていたのか。


明日。


そこを確かめる。

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