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第21話 記憶は、絶対の証拠ではない

「被告人、エステル・ローヴェン。前へ」


名前を呼ばれた瞬間、法廷中の視線が私へ集まった。


思っていたより、音がない。


咳払いも。


衣擦れも。


傍聴席から聞こえるはずの囁きも。


全部が一度止まったように感じた。


私はリオラの隣から立ち上がり、指定された席へ移動する。


正面。


高い位置に三人の審理官。


右側に検察。


左側に私とリオラ。


その少し後ろ。


事件関係者としてギデオンが座っている。


振り返らなかった。


見れば、たぶん余計なことを考える。


今日は私たちの結婚について話す日ではない。


私が人を殺させたかどうかを争う日だ。


「予備審理を開始します」


中央の審理官が告げた。


年齢は六十前後。


白髪の女性。


名はクラウディア・ベルン。


記憶法院でも、記憶証拠に慎重な判断をすることで知られているらしい。


それを事前に聞いて、私は少しだけ安心していた。


そして同時に、安心してはいけないとも思っていた。


慎重な裁判官なら、私に有利になる。


そんな単純な話ではない。


「本件の目的を確認します」


クラウディア審理官は手元の書類を見た。


「マルセル・フェイン判事殺害事件について、エステル・ローヴェンを正式起訴し、公判へ移行するに足る証拠が存在するか」


予備審理。


ここで無罪が決まるわけではない。


有罪も。


ただ。


私を本格的に裁くに値するだけの証拠があるかを見る。


「検察側」


「はい」


立ち上がったのは、痩せた男だった。


四十代くらい。


黒い法衣。


名はベルク検事。


彼は私を見なかった。


「検察は、被疑者本人から正規に抽出され、王立記憶院にて封緘された記憶晶を主要証拠として提出します」


主要証拠。


あれだ。


私が。


『殺して』


と命じる記憶。


指先が冷える。


リオラが紙の上で小さく丸を描いた。


見る。


《呼吸》


事前に決めていた合図。


私はゆっくり息を吐いた。


「弁護側」


リオラが立つ。


「証拠提出そのものには異議ありません。ただし、その記憶晶が『被告人の一続きの真正な記憶』であるという検察の前提について争います」


傍聴席がざわついた。


審理官が木槌を一度鳴らす。


「静粛に」


ベルク検事が初めてこちらを見る。


「弁護側は、記憶晶そのものの偽造を主張するのですか」


「現段階では限定しません」


リオラが答える。


「銀縁の偽造。晶石の交換。内容の接続。保管手続きの不正。複数の可能性があります」


「可能性」


検事が繰り返す。


「つまり、具体的な偽造方法はまだ証明できない」


「予備審理開始時点ですので」


リオラは平然としている。


「こちらには捜査機関ほどの権限がありませんから」


少し嫌味だった。


でも審理官は止めなかった。


クラウディア審理官が言う。


「まず、記憶証拠そのものを確認します」


来る。


法廷中央へ。


銀色の箱が運ばれた。


記憶法院の保管官が二人。


立会人。


封印を一つずつ確認する。


私は目を逸らさなかった。


封緘番号。


立会人名。


保管記録。


ここまで調べて。


嫌というほど見た。


なのに箱が開くと、身体は反応した。


小さな銀色の結晶。


これ一つで。


私は人殺しになるかもしれない。


「銀縁情報を読み上げます」


保管官の声。


抽出日時。


私が七年間の記憶を売った日。


術者。


立会人。


保管番号。


すべて正式。


「弁護側、外形情報について異議は」


「あります」


リオラが言った。


検事がわずかに眉を動かす。


「どの点に?」


「被告人の売却記憶群では、既に三つの正規封緘晶が空晶へ交換されていた事実が確認されています」


審理官の一人が資料をめくる。


「記録済みです」


「さらに、当該保管箱は売却翌朝、総裁権限で開封され、実行者署名が欠落しています」


傍聴席が再びざわつく。


「ただし」


ベルク検事が口を挟んだ。


「それは別の三晶についての異常です。この殺害命令記憶晶が交換された証拠ではない」


「その通りです」


リオラが即答した。


私は彼女を見る。


認めるんだ。


「ですから弁護側は、『三晶が交換されていたから本件も偽物だ』とは主張していません」


クラウディア審理官が小さく頷く。


「続けて」


「主張するのは一つです。この保管系統では既に重大な不正が発生している。したがって『銀縁が正規であるから内容も真正』という推定を、そのまま適用すべきではない」


分かりやすい。


私でも分かる。


検事が返す。


「しかし王国の記憶証拠制度は、正規封緘の信頼性を前提に成り立っています」


「前提が壊れた可能性を示す事実があるから争っているのです」


「可能性だけで制度全体を否定するのですか」


「制度全体を否定していません」


リオラの声が少し強くなる。


「この一件について、検証を求めています」


その言葉。


私は好きだった。


制度が嫌いだから、全部嘘。


そんな話ではない。


記憶証拠で救われた人もいる。


犯罪を証明できたことも。


だからこそ。


今回も同じように確かめる。


「映像を再生します」


審理官が告げる。


簡易閲覧ではない。


法廷用の投影術式。


銀環から薄い光が立ち上がる。


記憶を本人だけでなく、審理官と両当事者が同時に見る。


私は両手を膝に置いた。


始まる。


薄暗い部屋。


机。


男。


自分。


『マルセル判事は、もう止まらない』


分かっていても。


自分の声が怖い。


『どうします』


『殺して』


傍聴席で誰かが息を呑んだ。


身体が固くなる。


『今夜中に』


封筒。


『書類も持ち出して。白鐘に関するものは全部』


『承知しました』


終了。


静寂。


今。


法廷にいる何十人もの人間が。


私が殺人を命じる姿を見た。


たとえ無罪になっても。


あの映像は彼らの頭に残るのだろう。


嫌だった。


とても。


でも。


逃げない。


「被告人」


クラウディア審理官が私を見る。


「この記憶に覚えは?」


「ありません」


「記憶売却によって失ったため?」


「その可能性はあります」


「自分がこの発言をした可能性を否定しますか」


リオラがこちらを見る。


答えは決めてある。


「現時点では、完全には否定できません」


傍聴席が揺れた。


ベルク検事がこちらを見る。


たぶん。


否定すると思っていたのだ。


私だって。


できるなら否定したい。


でも。


「理由を」


審理官が聞く。


「私は七年間の記憶を持っていません」


声を震わせないように。


ゆっくり話す。


「ですから、この言葉を絶対に口にしていない、と私自身の記憶だけで証明することはできません」


「では、記憶晶を真正と認める?」


「いいえ」


私は正面を見る。


「私が過去に『殺して』という言葉を口にしたことと、マルセル判事を殺すよう命じたことは同じではありません」


法廷が少し静かになった。


昨日まで調べてきた。


本物の台詞。


本物の動作。


本物の景色。


それをつなげる。


「私は、この記憶が一続きの出来事だったのかを確認してほしいです」


クラウディア審理官がしばらく私を見る。


「弁護側の主張と同じですね」


「はい」


「あなた自身も、偽造だと確信してはいない?」


「確信ではなく、証明が必要だと思っています」


今度は。


傍聴席が静かなままだった。


「検察」


審理官が言う。


ベルク検事が立つ。


「被告人へ質問を」


「許可します」


彼はこちらへ歩み出る。


「エステル・ローヴェン。あなたは三年前から、白鐘広場事件を秘密裏に調査していた」


「はい」


「夫であったヴァルデン公爵にも隠して?」


「はい」


「違法記憶市場にも出入りしていた」


「少なくとも過去の私が出入りした証言があります」


「マルセル判事とも接触した」


「正式な面会記録があります」


「つまりあなたは、白鐘広場に関する秘密をマルセル判事と共有していた可能性がある」


「可能性はあります」


ベルク検事が一枚の書類を上げる。


「そして判事は、殺害直前に白鐘広場の封緘記録を調べていた」


「はい」


「あなたも同じものを調べていた」


「はい」


積み上がる。


嫌な方向へ。


でも全部事実。


「では」


検事が私を見る。


「マルセル判事が、あなたにとって都合の悪い情報を知った可能性もありますね」


一瞬。


言葉が詰まりそうになる。


「可能性だけなら」


「否定できない?」


「何を知ったのか分からないので」


「そしてあなたの記憶には『マルセル判事はもう止まらない』とある」


「あります」


「『殺して』とも」


「あります」


「これでも、単なる偶然ですか」


リオラが立った。


「異議。弁護側は偶然だと主張していません」


「認めます」


クラウディア審理官。


ベルク検事が言い直す。


「では、被告人自身はどう説明する?」


私は少し考えた。


「まだ説明できません」


正直に。


「でも」


私は法廷中央の記憶晶を見る。


「説明できないことと、この映像が正しいことは同じではありません」


ベルク検事の目が細くなる。


「あなたに不利な記憶だから疑うのでは?」


胸に刺さる。


それは。


自分でも何度も考えた。


「その可能性はあります」


今度はリオラまで私を見る。


でも続ける。


「だから、私の感覚ではなく外側の事実を調べています」


「外側?」


「保管記録。封緘番号。日時。天候。部屋。家具。音。相手の人物」


私は一つずつ言う。


「私が無実だと思いたい気持ちも、検察が有罪だと思う理由も、どちらも記憶の中身を変えません」


自分で言いながら。


少しだけ手の震えが止まった。


「だから、確かめたいんです」


ベルク検事は数秒黙った。


「以上です」


戻る。


クラウディア審理官が書類を見る。


「本日の時点で確認できた事項を整理します」


私は背筋を伸ばした。


ここ。


重要だ。


何が決まり。


何がまだなのか。


「第一。本件記憶晶の銀縁は、現時点の検査では正規形式と一致する」


検察側に一つ。


「第二。映像内の人物は、外見、声、身体的特徴からエステル・ローヴェン本人である可能性が高い」


二つ。


胸が重くなる。


「第三。ただし、被告人の売却記憶群では既に複数の保管異常が確認されており、本件晶の保管経路についても追加確認が必要」


こちらに一つ。


「第四。本日の証拠のみでは、映像が単一の連続した記憶であるか、編集・接続されたものかについて判断できない」


私は息を吐いた。


まだ。


終わっていない。


「第五。被告人とマルセル判事には、白鐘広場事件を通じた接触および共通調査の可能性があり、これは殺害動機を否定する材料にも、逆に動機を補強する材料にもなり得る」


両方。


証拠は。


都合よくこちらだけを向いてくれない。


「よって」


審理官が顔を上げる。


「本日、被告人を釈放するに足る根拠はない。一方、記憶晶を決定的証拠として即時に公判移行することも認めない」


法廷がざわつく。


「予備審理を継続します」


木槌。


一度。


「次回までに、記憶晶内容の連続性検証、保管履歴の追加提出、被告人と被害者の関係記録を双方提出すること」


終わった。


いや。


始まった。



法廷を出る廊下。


私は壁際で一度立ち止まった。


足に力が入らない。


「座る?」


リオラが聞く。


「少しだけ」


長椅子へ座る。


「どうだった?」


「何が?」


「初法廷」


「最悪」


「でしょうね」


「自分が殺せって言う映像を大勢で見る趣味はないもの」


「普通はない」


少し笑った。


本当に少しだけ。


「でも」


私は続ける。


「思ってたよりちゃんとしてた」


「法院が?」


「うん」


「全員が私を犯人だと決めてると思ってた」


「新聞はそうでも、法院は別」


リオラが言う。


「だから逃げなかった意味がある」


私は頷いた。


そのとき。


少し離れたところに、ギデオンがいるのが見えた。


こちらへ来ない。


視線が合う。


彼は止まったまま。


私は少し迷ってから。


手を上げた。


呼ぶ。


ギデオンが近づいてくる。


二歩手前で止まる。


「大丈夫か」


「大丈夫ではないです」


「……そうか」


「でも、思ったよりは」


私は彼を見る。


「あなた、法廷で何か言いたそうでしたね」


ギデオンが少し目を逸らす。


「何度か」


「何を?」


「君はそんなことをしない、と」


私は思わず笑った。


「言わなくてよかった」


「ああ」


「証拠じゃないですから」


「分かっている」


以前なら。


たぶん言った。


今は黙った。


それだけ。


「次は」


私は法廷の扉を見る。


「この記憶の中身を壊します」


ギデオンの表情が変わる。


「壊す?」


「違う」


私は言い直す。


「確かめます」


最初から偽物だと決めて見るのではない。


どこがつながっていて。


どこがつながっていないのか。


「もし本物なら?」


ギデオンが聞く。


胸が少し痛む。


でも答えた。


「そのときは、本物だと認めます」


彼は何も言わない。


私は立ち上がった。


「だから手伝ってください」


「何を」


「私の無実を証明することじゃない」


私はまっすぐ彼を見る。


「この記憶が何なのかを証明すること」


ギデオンはゆっくり頷いた。


「ああ」


予備審理の初日。


私は無罪にならなかった。


記憶も崩せなかった。


でも。


一つだけ。


法廷で認めさせた。


私の記憶だからといって。


それだけで、そこに映るすべてが絶対の真実になるわけではない。


ここから。


映像の中の一つ一つを。


現実の証拠と照らし合わせていく。

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