第24話 三年前の正式な調査依頼
濃紺のドレスは、王立記憶院から消えていた。
「消えた、という表現は正確ではないわ」
リオラが言う。
保護館の面談室。
机の上には、王立記憶院から返された回答書がある。
《対象衣装について、現在の保管を確認できず》
「なくした?」
「それなら、まだ単純」
リオラが紙を裏返した。
《搬入後、抽出補助資料として処理。返却記録なし。廃棄記録なし。移送記録なし》
私は眉を寄せる。
「何もないじゃない」
「だから困ってる」
昨日。
殺害命令記憶の中で私が着ていた濃紺のドレス。
衣装台帳では、記憶売却当日に王立記憶院へ搬入されていた。
その後。
記録から消えた。
「記憶抽出に服が必要なの?」
「場合による」
「どういう場合?」
「特定の記憶を探す補助に使うことはあるらしいわ」
「匂いとか、触感?」
「そう。本人が身につけていた物を使って、関連記憶を引き出しやすくする」
筋は通る。
私も抽出時。
関係の網をまとめて抜かれた。
夫。
公爵邸。
国家機密。
人物。
場所。
七年分。
補助資料が使われても不思議ではない。
「でも、何で返さなかった?」
「それを照会中」
私は机に肘をついた。
「一個見つけたら、一個なくなるわね」
「捜査ってそういうものよ」
「もっと気持ちよく、はい偽物でした、ってならない?」
「ならない」
即答だった。
「知ってた」
私はため息をつく。
リオラが別の封筒を取り出した。
「でも今日は、もう一つある」
「嫌な予感」
「珍しく良いほう」
「あなたの『良い』は法的に使えるって意味でしょう」
「正解」
封蝋。
記憶法院。
私は受け取る。
「何?」
「マルセル判事の旧保管文書」
胸が少し強く鳴った。
第16話で見つかった。
三年前。
過去の私はマルセルと正式に面会している。
そして彼は手紙に書いていた。
《通常の付番規則では説明できない点を確認しました》
でも。
何を正式に調べていたのか。
そこまでは分かっていなかった。
「法院が遺品整理中に見つけた」
「今?」
「殺害事件で執務室と私物保管庫を再確認してるから」
封筒を開ける。
書類が五枚。
一番上。
《調査申立書》
私は息を止めた。
申立人。
エステル・ヴァルデン。
「私」
「ええ」
日付。
三年前の十二月十六日。
マルセルとの面会の二日後。
宛先。
記憶法院・記憶証拠監査部。
件名。
《白鐘広場事件に関する証言記憶の封緘手続きについて》
私は文章を追う。
《申立人は、白鐘広場事件生存者複数名から、現在本人が保持する記憶と王立記憶院に保存された証言記憶との間に相違があるとの相談を受けた。》
《当該相違が通常の記憶変容によるものか、抽出・封緘・再封緘手続きに起因するものかを判断するため、以下の事項について正式な調査を求める。》
一。
十六件のB区分証言記憶について、初回抽出日時の確認。
二。
再封緘日時および再封緘理由の確認。
三。
再封緘時に立ち会った術者と法院職員の確認。
四。
原記憶晶と現保管晶が同一であることの確認。
五。
証言者本人への限定的な再閲覧許可。
読み終えて。
私はしばらく何も言えなかった。
「ちゃんとしてる」
「何が?」
「過去の私」
思わず出た。
「違法市場に潜ってたから、もっと無茶してるのかと思ってた」
「無茶はしてたわよ」
「でも正式手続きも使ってた」
そこが大きい。
私が勝手に王家の過去を掘り返していた。
そうではない。
少なくとも。
正式に問題提起し。
調査を求めていた。
「これ、殺害動機に影響する?」
私が聞く。
リオラは頷く。
「かなり」
「どういう意味で?」
「両方」
やっぱり。
「検察から見れば」
彼女が一枚目を指す。
「あなたはマルセルと組んで白鐘広場を正式に調べようとしていた」
「うん」
「その調査中に対立が生じた可能性も作れる」
「例えば?」
「マルセルがあなたに不利な事実を見つけた」
昨日までの検察仮説。
「一方、弁護側から見れば」
「私は彼を止めたいんじゃなくて、調査を進めたい側だった」
「そう」
私はもう一度書類を見る。
確かに。
マルセルが邪魔なら。
正式な調査申立てを一緒に作る必要はない。
「これだけで殺害動機を崩せる?」
「無理」
「ですよね」
最近。
答えが予想できるようになった。
「でも検察が主張する『マルセルが調査を進めたから口封じした』という線には、明確な反論材料になる」
「三年前から一緒に進めてた」
「ええ」
「殺害直前に急に敵になった証拠が必要になる」
「その通り」
一つ。
検察に証明させるものが増えた。
それだけでも大きい。
「二枚目は?」
私は次をめくる。
《受理通知》。
正式受理。
担当。
マルセル・フェイン判事。
そして三枚目。
《一次調査報告》。
そこには赤い線が引かれていた。
《B-31-044》
《B-31-051》
《B-31-057》
見覚えがある。
第19話。
ギデオンが公爵邸へ持ち帰った書類にあった三つの番号。
「同じ」
「そう」
リオラも気づいている。
報告内容。
《上記三件につき、王立記憶院提出の封緘台帳と記憶法院保管の受理台帳を照合。番号自体は一致。》
次。
《ただし再封緘日時について不一致あり。》
私は顔を上げた。
「不一致?」
「続き」
読む。
王立記憶院台帳。
事件八日後。
記憶法院受理台帳。
事件十日後。
二日ずれている。
「どっちが正しい?」
「分からない」
「二日って大きい?」
「再封緘処置なら大きい」
リオラが答える。
「晶石を開けた日と、法院が再受理した日が違うこと自体はあり得る」
「運搬とか?」
「そう。ただし通常なら、その二日間どこにあったのか移送記録が必要」
私は報告書を探す。
「あった?」
「ない」
やっぱり。
また空白。
「この三件だけ?」
「一次調査では」
「残り十三件は?」
「調べる前に止まった可能性が高い」
「なぜ?」
次の書類。
四枚目。
《調査保留通知》。
理由。
《国家機密指定範囲との抵触が確認されたため》
承認欄。
王立記憶院。
記憶法院。
そして。
王室文書局。
「止められた」
私は言った。
「正式に」
「ええ」
「マルセルは?」
最後の一枚。
彼の手書き。
正式文書ではない。
覚え書き。
《申立人への説明前に、機密指定根拠の確認が必要。》
《三件の日時不一致は手続上の遅延として説明可能だが、移送記録欠落を説明できない。》
そして。
その下。
《原簿を見る必要あり。》
私は息を吐いた。
「原簿」
「死ぬ三日前にも監察局へそれを照会しようとしてた」
「三年間、追ってた?」
リオラは首を振る。
「そこまでは分からない。途中で調査が止まっていた時期もあるでしょう」
「でも、完全には捨ててなかった」
「そう見える」
私は椅子へ深く座る。
過去の私。
マルセル。
三年前。
正式調査。
保留。
そして現在。
マルセルは殺された。
私には殺害命令記憶。
「この書類」
私は言う。
「予備審理に出す?」
「出す」
「検察にも?」
「当然」
隠さない。
自分に不利にも使える証拠でも。
もう迷わない。
*
午後。
追加の予備審理が開かれた。
傍聴席は昨日より多かった。
新聞で。
私の夫婦生活が公開されたからだろう。
嫌な注目。
でも。
今日はそこを見ない。
ベルク検事にも、調査申立書の写しが渡っている。
クラウディア審理官が一通り確認した。
「検察側」
「はい」
「本書面の真正について争う?」
「争いません」
意外に早い。
「三年前、被告人とマルセル判事が共同して白鐘広場証言記憶の正式調査を開始したことも?」
「現時点では争いません」
法廷にざわめき。
私はリオラを見る。
彼女は無表情。
ここで喜ばない。
「では」
クラウディア審理官が続ける。
「検察が前回主張した、白鐘広場調査そのものがマルセル判事殺害の直接動機だった可能性については?」
ベルク検事が立つ。
「修正します」
明確だった。
「被告人と被害者が共同調査者だったことは認めます。したがって、被害者が白鐘広場を調査したという事実だけをもって、被告人に殺害動機が生じたとは主張しません」
一つ。
崩れた。
完全ではない。
でも。
法廷で。
検察の仮説が一つ後退した。
「ただし」
来る。
「共同調査の過程で、両者の利害が対立した可能性は残ります」
そう。
まだ。
「その根拠は?」
リオラが聞く。
「現在調査中です」
「では現段階では?」
「証拠はありません」
ベルク検事ははっきり言った。
私は少し驚いた。
この人は。
本当に。
ないものをあるとは言わない。
それは敵として。
ありがたい。
「弁護側」
クラウディア審理官。
リオラが立つ。
「本書面から、もう一点確認を求めます」
「何を?」
「被告人が白鐘広場調査を隠蔽する目的でマルセル判事を殺害した、という検察の従来仮説との整合性です」
ベルク検事の目が細くなる。
「三年前」
リオラが申立書を掲げる。
「被告人は自分の署名で、正式な調査申立てを行っている」
私の名前。
エステル・ヴァルデン。
「隠したいなら、なぜ公式記録を残した?」
ベルク検事は少し黙る。
「当時と殺害時で事情が変わった可能性があります」
「その証拠は?」
「現時点ではありません」
「なら」
リオラは審理官を見る。
「少なくとも『白鐘広場を隠したかったから殺害した』という単純な動機構成は維持できないはずです」
クラウディア審理官が頷く。
記録官へ。
「記録してください」
筆が動く。
被告人とマルセル判事は三年前、白鐘広場証言記憶について正式な共同調査関係にあった。
白鐘広場調査そのものを隠蔽する目的による殺害動機――現時点で立証なし。
胸の奥が。
少しだけ軽くなった。
無罪ではない。
でも。
「殺した理由」が一つ。
証拠不足になった。
*
審理は続く。
今度は。
三件の再封緘日時の不一致。
記憶院台帳では八日後。
法院台帳では十日後。
「この二日間」
クラウディア審理官が言う。
「晶石がどこにあったか確認できない?」
法院書記官が答える。
「現在の提出資料では」
「移送記録は?」
「発見されていません」
ベルク検事が聞く。
「十二年前の記録です。単純な散逸の可能性は?」
「あります」
また。
決定打ではない。
リオラもそこは追わない。
私は聞いていて。
ようやく分かってきた。
裁判は。
驚くほど遅い。
一つの異常。
でも。
別の説明がある。
なら。
次。
また一つ。
それを積む。
「原簿は?」
審理官が尋ねる。
「王立記憶院地下原簿庫に保存されているとされています」
「とされています?」
「現在、閲覧申請中です」
「提出期限を設定します」
木槌。
「五日以内」
法廷の空気が少し変わった。
原簿。
マルセルが最後まで見ようとしていたもの。
そこへ。
法院が正式に手を伸ばした。
*
審理後。
私はリオラと廊下を歩いていた。
「一個崩れた」
私が言う。
「何が?」
「動機」
「完全じゃない」
「分かってる」
「でも?」
「ちょっと嬉しい」
正直に。
リオラが笑う。
「それくらいはいいわよ」
「裁判って、もっと劇的だと思ってた」
「何を期待してたの」
「証人が突然立ち上がって『異議あり!』とか」
「あなた、法廷でそれやったら追い出されるわよ」
「やらない」
少し笑う。
本当に。
一つずつ。
それでいい。
そのとき。
廊下の先に。
ギデオンがいた。
今日は証人ではない。
傍聴にも入っていなかった。
監察局からの資料提出で来ていたらしい。
視線が合う。
彼は近づいてくる。
「結果は?」
「検察の動機仮説が一つ崩れました」
「そうか」
表情が少し緩む。
「ただし」
私は続ける。
「原簿が五日以内に出ます」
ギデオンの顔が変わる。
「白鐘広場の?」
「はい」
「監察局でも探している写しと一致すれば」
「何か分かる?」
「再封緘前後の番号履歴を比較できる」
私は頷く。
「じゃあ」
言いかけて。
止まる。
以前なら。
調べて。
急いで。
権限で。
そう言ったかもしれない。
「正式手続きでお願いします」
ギデオンが少し笑った。
「分かった」
その笑い方を。
私は初めて見た気がした。
過去の記憶ではなく。
今日の。
「それと」
彼が資料を一枚差し出す。
「何?」
「昨日の殺害命令記憶に映っていた部屋」
胸が動く。
「分かった?」
「候補が一つ」
「どこ?」
「公爵邸ではない」
少し安心。
でも。
「では?」
ギデオンの表情が硬くなる。
「王立記憶院の旧面談室に、家具配置が非常によく似た部屋がある」
私は動きを止めた。
記憶院。
あの濃紺のドレスも。
記憶売却日に。
記憶院へ搬入されている。
「確定?」
「まだ」
ギデオンが言う。
「家具台帳と改装記録を確認する必要がある」
「分かりました」
まだ。
答えにしない。
でも。
雨音。
ドレス。
部屋。
少しずつ。
殺害命令記憶の中に。
王立記憶院の影が増えている。
私はギデオンから資料を受け取る。
明日。
また一つ。
確かめる。
三年前の私とマルセルが。
正式な手続きで追いかけていたもの。
その続きを。
今の私が。
ようやく追えるところまで来ていた。




