第19話 夫婦の会話に残った番号
「これ、あなたの字よね」
リオラが机に置いたのは、買い物の覚え書きだった。
私はしばらく黙って紙を見た。
《紅茶》
《便箋》
《白い糸》
《ギデオンの手袋》
《B-31-044》
「……最後だけ買えないと思う」
「私もそう思う」
保護館の面談室。
朝から私たちは、昨日持ち帰った旧記録庫の資料と、九一七番から法院へ移された私物の写しを照合していた。
その中から出てきたのが、この紙だ。
「どこにあったの?」
「あなたの古い家計帳」
「公爵夫人が家計帳を?」
「あなた、細かい支出は自分で付けてたわよ」
「意外」
「使用人任せにすると、自分が一杯いくらの紅茶を飲んでるか分からなくなるのが嫌だって」
「過去の私、妙なところで庶民的ね」
「ローヴェン家は大貴族じゃないもの」
私は紙を持ち上げた。
B-31-044。
違法市場でネラへ見せた番号と同じ。
白鐘広場生存者の記憶晶。
「どうして買い物メモに?」
「隠した?」
「だとしたら雑すぎない?」
紅茶の下に国家機密。
秘密の保管庫を用意する人間の隠し方ではない。
「何かを書き留めるものが、そのときこれしかなかったとか」
「あり得る」
私は紙を光へ透かす。
裏には何もない。
「日付は?」
「家計帳では三年前の十一月二十七日のページに挟まってた」
「慈善晩餐会の四日後」
過去の私が白鐘広場の生存者たちへ本格的な疑問を持ち始めた時期。
「この番号を、どこで知ったんだろう」
「慈善会?」
「九一七番にあった番号一覧はもっと後に作った可能性が高い」
「なら最初の一本」
私は番号を見つめる。
最初に気づいた記憶晶。
その可能性がある。
「誰の番号?」
リオラが別紙を確認する。
「マリア・セルド」
三人の相談者の一人。
保存された記憶では鐘が三回。
本人は二回だった気がすると訴えていた女性。
「マリア本人から聞いた?」
「B区分の保管番号を本人が知っていたかは不明」
「記憶院?」
「可能性はあるけど」
リオラが言葉を切る。
私は顔を上げた。
「何?」
「この日」
「十一月二十七日?」
「あなた、公爵邸から一度も外出してない」
「分かるの?」
「警備記録がある」
私は紙を見る。
では。
公爵邸の中で、この番号を知った。
「使用人が持ってきた?」
「その可能性もある」
「郵便?」
「調べる」
私は番号の数字を指でなぞった。
何か。
引っかかる。
番号そのものではない。
この紙。
買い物。
ギデオンの手袋。
「このころ、ギデオンは?」
「そこまで私に聞かれても」
「ですよね」
思わず笑う。
でも。
夫婦の生活の中で見たのなら。
過去の結婚記憶に残っている可能性がある。
「リオラ」
「嫌な予感」
「閲覧申請したい」
「また?」
「今回は事件のため」
「どの記憶を?」
「十一月二十七日」
リオラが眉を上げる。
「日付指定?」
「できる?」
「売却記憶の索引が残っていれば」
「調べて」
「簡単に言うわね」
「弁護士なので」
リオラが睨んだ。
「それ、私の台詞」
*
許可はその日の午後に下りた。
思ったより早かった。
理由は単純。
私の売却記憶群そのものが、すでに殺害事件と記憶晶交換事件の重要証拠になっている。
日付を限定し。
法院立会い。
複製禁止。
閲覧内容を記録。
その条件で認められた。
問題は。
「ギデオンを呼びますか?」
法院職員に聞かれたことだった。
「どうして?」
「当該記憶にはヴァルデン公爵が含まれる可能性があります。本人立会いを求めることもできます」
私は少し考えた。
第15話では呼ばなかった。
あれは私的な幸福の記憶だった。
今回は違う。
事件の手がかりを探す。
「呼んでください」
自分で言った。
*
ギデオンは三十分後に来た。
「私がいていいのか」
第一声がそれだった。
「私が呼びました」
「そうか」
それ以上聞かない。
閲覧室にはリオラ。
法院職員。
記憶術者。
ギデオン。
私。
銀環の前に座る。
「十一月二十七日の全記憶ではありません」
術者が説明する。
「保存されているのは午後七時十四分から七時三十二分まで」
「十八分?」
「はい」
「なぜそこだけ?」
「縁切り売却では、関係する記憶を網状に抽出します。日常のすべてが連続映像として残っているわけではありません」
私は頷く。
「始めてください」
銀環が下りる。
光。
*
暖炉。
最初に見えた。
公爵邸の居間。
私は長椅子に座っている。
膝には刺繍。
白い糸。
買い物メモと一致する。
扉が開く。
ギデオンが入ってくる。
若い。
今より少しだけ疲れている。
『お帰りなさい』
過去の私が言う。
『ただいま』
彼が外套を使用人へ渡す。
手には革の書類鞄。
『夕食は?』
『監察局で食べた』
『また?』
声に少し不満。
『すまない』
『謝るくらいなら帰ってきて』
『努力する』
『それ、帰らない人の返事』
ギデオンが苦笑する。
今の私は。
そのやり取りを静かに見ている。
幸福なだけではない。
小さな不満。
慣れ。
夫婦の距離。
ギデオンが机へ書類鞄を置く。
『仕事?』
『ああ』
『ここでやるの?』
『少しだけ』
過去の私が刺繍へ戻る。
ギデオンが書類を広げる。
私は意識を集中した。
紙。
机。
彼の手。
文字。
見えない。
距離がある。
『それ』
過去の私が突然言った。
『何?』
『紙が落ちた』
床。
一枚。
私は刺繍を置いて拾う。
その瞬間。
視界に数字。
《B-31-044》
胸が跳ねた。
これ。
『ありがとう』
ギデオンが手を伸ばす。
過去の私は紙を渡さない。
『マリア・セルド?』
ギデオンの顔が変わる。
『エステル』
『知ってる名前』
『どこで?』
『慈善会』
過去の私の声から軽さが消える。
『記憶障害の相談者』
ギデオンが立つ。
『その紙を』
『何の記録?』
『仕事だ』
『それは見れば分かる』
『機密だ』
過去の私の手の中。
紙の上部。
一瞬だけ見える。
《特別証言記憶・封緘照会》
そして番号。
B-31-044。
『彼女の記憶?』
『答えられない』
『記憶院にあるの?』
『エステル』
声が低くなる。
『紙を返してくれ』
過去の私は彼を見る。
数秒。
紙を渡した。
『分かった』
ギデオンが少し安心する。
『すまない』
『謝らなくていいわ』
過去の私は刺繍へ戻る。
でも。
手が止まっている。
ギデオンは気づかない。
机へ戻る。
紙を鞄へしまう。
そのとき。
過去の私の視線が机へ向く。
書類の一番下。
別の番号が見える。
《B-31-051》
《B-31-057》
三つ。
全部。
白鐘広場生存者の一覧にある。
私は現在の意識で息を止めた。
ギデオン。
彼は三年前。
すでに白鐘広場生存者のB区分記憶を仕事として扱っていた。
『ギデオン』
『何だ』
『今度の休み、いつ?』
突然話題が変わる。
『日曜』
『散歩に行かない?』
『寒いぞ』
『冬だからね』
『どこへ』
『白鐘広場』
ギデオンの動きが。
止まった。
ほんの一瞬。
『どうしてそこへ』
『鐘がきれいだから』
嘘。
分かる。
過去の私の感情が流れ込む。
試している。
彼の反応を。
『別の場所にしないか』
『どうして?』
『あそこは人が多い』
『日曜ならどこも人が多いわ』
ギデオンは答えない。
『嫌なの?』
『……いや』
『じゃあ決まり』
過去の私は笑う。
でも。
胸の中では笑っていない。
疑っている。
夫を。
この日。
この瞬間から。
「止めて」
私は現在の閲覧室で言った。
映像が凍る。
「どうされました?」
術者。
私は息を整える。
「少しだけ」
目を閉じる。
つらい。
事件の手がかりを見つけたことではない。
過去の私が。
ギデオンへ何も言わず、試した。
それが痛い。
彼は隠した。
私は探った。
二人とも。
もう相手へ正面から聞けなくなり始めていた。
「続けますか?」
私は目を開く。
「はい」
映像が動く。
*
『そういえば』
過去の私が明るい声で言う。
『手袋、傷んでたでしょう』
『まだ使える』
『穴が開いてる』
『小さい』
『買い替えるわ』
『必要ない』
『私が嫌なの』
『なぜ』
『公爵が穴の開いた手袋で王宮へ行くから』
ギデオンが自分の手を見る。
『見えないだろう』
『私は知ってる』
『なら問題ない』
『私が問題にしてるの』
過去の私が笑う。
ギデオンも。
ほんの少し。
笑った。
それを見て。
胸が苦しくなる。
同じ十八分の中に。
疑いと。
愛情がある。
壊れかけているのに。
まだ大切にしている。
その両方が。
同時に存在していた。
記憶が終わった。
*
銀環が上がる。
誰もすぐには話さなかった。
私はギデオンを見た。
彼の顔は青ざめていた。
「覚えていますか」
「……ああ」
「この夜」
「ああ」
「あなたは何を調べていた?」
ギデオンが答えようとする。
私は先に言った。
「機密だから答えられない、はなしです」
リオラが横から補足する。
「現在の殺人事件と直接関連する可能性があります。必要なら正式な開示命令を取る」
ギデオンは目を閉じた。
「白鐘広場の証言記憶について、封緘状態を確認していた」
やはり。
「なぜ?」
「別件捜査でB区分の扱いに疑問が出た」
「非公開抽出?」
第17話で聞いた七件。
「関連していた」
「どこまで?」
「当時は、白鐘広場そのものの偽造を疑っていたわけではない」
「では?」
「B区分の一部で、再封緘手続きが通常規則と違っていた」
マルセルと同じ。
「それを知っていた」
「ああ」
「三年前に」
「ああ」
「私には言わなかった」
「言えなかった」
私は彼を見る。
「本当に?」
ギデオンが言葉を失う。
「機密だから言えなかった。それだけ?」
沈黙。
その沈黙が。
今は答えに見えた。
「私が慈善会でマリアを知ってると分かったから?」
ギデオンの顔が固くなる。
「……そうだ」
「私が興味を持つと思った」
「ああ」
「調べると思った」
「可能性を考えた」
「だから白鐘広場へ行きたくないと言った」
「君を遠ざけたかった」
胸が痛い。
「このころからだったんですね」
私は呟く。
「何が」
「あなたが私に聞かなくなったの」
ギデオンが黙る。
「そして」
私は凍結された記憶映像を思い出す。
白鐘広場へ行こうと誘った私。
「私も、あなたに聞かなくなった」
私は彼の反応を試した。
嘘の理由をつけた。
夫が何を隠しているのか。
正面から聞かずに。
「私も悪かった?」
言葉が出る。
リオラが何か言おうとした。
でもギデオンが先だった。
「それを私に聞かないでくれ」
私は彼を見る。
「なぜ?」
「私が答えれば、自分の責任を軽くする答えを選びかねない」
思っていなかった言葉。
「過去の君が何を間違えたかは、君が決めればいい」
ギデオンは続ける。
「だが、私が情報を隠したことは変わらない」
私はしばらく黙った。
「……分かりました」
それ以上は言わない。
*
閲覧後。
法院職員が記録内容を文書化した。
確認されたもの。
三年前の十一月二十七日。
ギデオンが公爵邸へ持ち帰った監察局文書に、
《B-31-044》
《B-31-051》
《B-31-057》
の三番号が存在。
いずれも現在確認されている白鐘広場生存者記憶晶と一致。
書類上部には、
《特別証言記憶・封緘照会》
の文字。
「これで」
リオラが言う。
「白鐘広場の封緘異常を、監察局が三年前には把握していた可能性が正式に出る」
「ギデオン個人だけじゃなく?」
「彼が職務で持っていた文書だから」
私はギデオンを見る。
「その文書、残ってる?」
「探す」
「破棄されてたら?」
「破棄記録を探す」
「それもなかったら?」
「その事実を報告する」
淡々としている。
でも。
彼にとって不利な証拠だ。
監察局が三年前から問題を把握していた可能性。
隠蔽を疑われる。
それでも。
「お願いします」
「ああ」
*
保護館へ戻って。
私は一人で買い物メモを見た。
《紅茶》
《便箋》
《白い糸》
《ギデオンの手袋》
《B-31-044》
あの夜。
私は最初の三つの番号を覚えた。
たぶん。
ギデオンの書類から。
そのうち一つを。
手元にあった買い物メモへ書いた。
だから。
事件の調査と。
夫婦の日常が。
同じ紙に残った。
私は最後から二つ目を見る。
《ギデオンの手袋》
あのとき。
私は夫を疑っていた。
それでも。
穴の開いた手袋を買い替えようとしていた。
人の気持ちは。
きれいに一つにはならない。
愛している。
疑っている。
腹が立つ。
心配する。
離れたい。
それでも帰ってきてほしい。
全部。
同時に存在できる。
記憶だって同じなのかもしれない。
一つの本物の台詞だけでは。
その人が何を思っていたかは決まらない。
だからこそ。
本物の言葉を切り取って並べれば。
人は簡単に騙される。
私は殺害命令記憶の閲覧申請書を引き寄せた。
もう。
見る準備はできている。
自分の「殺して」という声に怯えるだけではなく。
その前後に何があるかを見る。
時計。
天候。
家具。
衣服。
手。
音。
そして。
その言葉が。
本当に同じ夜に存在したのか。
申請書の最後に署名する。
エステル・ローヴェン。
明日は。
ギデオンから、最後の答えを聞く。
どうして。
王立記憶院の危険を知っていながら。
私の意思を奪ってまで。
七年間を消そうとしたのか。
その答えを聞いてから。
私は初めて。
彼を許さない理由を。
自分の言葉で選べる気がした。




