第18話 暗闇で借りた手
暗闇の中で、最初に聞こえたのは扉が閉まる音だった。
重い鉄扉が。
ごうん、と腹の底へ響くような音を立てた。
その直後。
すべての灯りが消えた。
「……ギデオン?」
返事はすぐにあった。
「ここにいる」
近い。
でも、どこにいるか分からない。
私はその場から動かなかった。
今日は、マルセル判事が死ぬ三日前に照会しようとしていた封緘記録を確認するため、監察局の旧記録庫へ来ていた。
記憶法院から正式な現場確認許可を取り。
リオラは別室で閲覧手続きを確認中。
私はギデオンと記録官一人、それから保管庫の管理官と一緒に地下へ降りた。
その途中。
突然、灯りが落ちた。
「何が起きたの?」
「分からない」
ギデオンの声。
「管理官?」
返事がない。
「記録官?」
こちらも。
胸の奥がざわつく。
「二人とも?」
「さっきまでは後ろにいた」
ギデオンの声が少し低くなった。
私は壁へ手を伸ばす。
冷たい石。
どちらが入口かも、すぐには分からない。
「エステル」
「動いてません」
「そのままで」
反射的に命令されて。
私は眉を寄せた。
暗闇でも分かるくらい、彼自身が気づいたらしい。
「……そのままでいてくれるか」
言い直した。
こんな状況でも。
「はい」
私は答えた。
「まず何をする?」
「灯りの復旧を試す」
「できます?」
「非常灯があるはずだ」
足音。
一歩。
二歩。
遠ざかる。
「待って」
自分でも驚くほど早く声が出た。
足音が止まる。
「何だ」
「どこへ行くか言ってから動いて」
数秒の沈黙。
「すまない。右側の壁沿いに非常灯の操作盤がある」
「どれくらい?」
「五歩ほど」
「分かった」
また足音。
今度は数えられる。
一。
二。
三。
四。
五。
金属に触れる音。
「見つけた」
私は少し息を吐く。
かち。
かち。
何度か操作する音。
でも。
灯りは戻らない。
「駄目だ」
「故障?」
「電源ではなく、記憶院式の銀導灯だ。主導線が落ちている可能性がある」
「誰かが切った?」
「まだ分からない」
その言い方。
決めつけない。
私は壁へ背を預けた。
地下は冷える。
それ以上に。
暗い。
完全な闇だ。
目を開けても閉じても変わらない。
その感覚に。
身体が勝手に緊張し始める。
喉が狭い。
息が浅くなる。
「エステル?」
「大丈夫」
即答した。
その直後。
自分で嘘だと思った。
胸が苦しい。
暗い。
狭い。
どこか。
以前にも。
こういう場所に――
分からない。
記憶はない。
でも身体だけが嫌がっている。
「……大丈夫じゃないかも」
言い直した。
ギデオンの声がすぐ近くから返る。
「分かった」
いつ移動したのか。
いや。
彼が近づいたのではない。
たぶん私が、音の距離をうまく測れていないだけ。
「何がつらい?」
「暗いのが」
自分で言って、少し恥ずかしくなる。
三十歳にもなって。
でも。
怖いものは怖い。
「理由は?」
「分からない」
「記憶抽出後から?」
「それも分からない」
私は壁を強く押した。
「身体だけが怖がってる」
術者の説明。
理由の分からない安心や恐怖が残ることがある。
これもそうなのかもしれない。
「声を聞いても?」
ギデオンが言った。
「何?」
「ここにいると分かるように、話していたほうがいいか」
「……お願いします」
「何を話す」
こんなときに聞かれても困る。
「何でも」
言ってから。
ギデオンが少し黙った。
「何でも、は禁止されていた気がする」
思わず笑った。
小さくだけ。
「それは約束するときでしょう」
「そうだった」
呼吸が少し戻る。
「では」
彼が言う。
「今朝、セドリックが私の机に紅茶をこぼした」
「副官の方?」
「ああ」
「怒った?」
「いや」
「偉いですね」
「私の肘が当たった」
「あなたが犯人じゃない」
「そうとも言う」
少し笑う。
馬鹿みたいな話。
でも助かった。
「それで?」
「機密文書が一枚犠牲になった」
「大丈夫なの?」
「写しだった」
「原本なら?」
「セドリックが三日は口を利いてくれない」
「怒らないの?」
「怒られるのは私だ」
「長官なのに」
「長官でも紅茶はこぼす」
また笑った。
胸の締めつけが少し弱くなる。
そのとき。
遠くで金属音がした。
ギデオンの声が止まる。
私も息を止めた。
かしゃ。
何かが落ちたような音。
「誰かいる?」
返事なし。
ギデオンが低く言う。
「エステル。今からそちらへ戻る」
「はい」
「三歩ほど」
足音。
一。
二。
三。
今度は本当に近い。
彼の気配が分かる。
でも触れない。
「ここにいる」
「うん」
敬語が消えた。
気づいたけれど、直さなかった。
「管理官と記録官を探す必要がある」
「私も行く」
「危険かもしれない」
「ここに一人で残るほうが嫌」
ギデオンが黙る。
たぶん。
ここで以前の彼なら。
待っていろ、と言った。
でも。
「分かった」
今は違う。
「壁沿いに進む。足元に段差がある」
「見えるの?」
「見えない。構造を覚えている」
「いつ来たことが?」
「二年前」
「仕事で?」
「ああ」
一歩進む。
足の先で床を探す。
怖い。
本当に。
「右に棚がある」
ギデオンが言う。
私は右手を伸ばす。
何も触れない。
「もう少し?」
「ああ。半歩」
半歩。
指先が木に触れる。
棚。
少し安心する。
「ここから左へ曲がる」
私は手を離す。
その瞬間。
足元に何かが当たった。
「きゃっ」
身体が傾く。
とっさに何かへ手を伸ばした。
布。
腕。
ギデオン。
彼の身体が強張る。
でも。
私を抱き止めなかった。
ただ立っている。
私が彼の腕を掴んでいるだけ。
「大丈夫か」
「……たぶん」
足元を探る。
何か細長いもの。
「棒?」
ギデオンがしゃがむ気配。
「銀導灯の支柱だ」
「落ちてる?」
「ああ」
「最初から?」
「分からない」
「触らないほうがいい?」
「そうしよう」
私はまだ彼の袖を掴んでいた。
気づく。
手を離す。
「ごめんなさい」
「謝る必要はない」
「勝手に触った」
「転びそうだった」
「でも」
暗闇の中。
彼の声が少し柔らかくなる。
「私は嫌ではなかった」
胸がわずかに揺れた。
その言葉を、権利には変えない。
彼は続けなかった。
だから私も。
「進みましょう」
「ああ」
また歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
怖い。
棚から手を離す場所では、特に。
ギデオンはすぐ隣にいる。
私はそれが分かる。
声。
足音。
呼吸。
そして。
考えた。
頼っていいのか。
過去の夫だったからではない。
今ここにいて。
私の拒否を守っていて。
先ほど転びそうになったときも、勝手に抱きしめなかった人。
今の彼なら。
「ギデオン」
「何だ」
「手を」
彼が動きを止めた。
「……何?」
「手を貸してください」
暗闇だから見えない。
でも。
彼が息を止めたのが分かった。
すぐに伸ばしてくると思った。
来なかった。
「どちらの手を」
私は少し驚いた。
「右を」
「分かった」
「私の左手を前に出します」
「私も右手を出す」
互いに。
見えない場所で。
ゆっくり手を伸ばす。
最初に指先が触れた。
ギデオンが止まる。
私がもう少し進めた。
手のひら。
温かい。
大きい。
覚えていない。
でも。
身体の奥だけが。
ひどく安堵した。
その反応が少し怖かった。
だから私は自分に言う。
これは過去ではない。
今。
私が頼んだ。
今の私が。
この人の手を借りると決めた。
「握っていい?」
ギデオンが聞いた。
「はい」
指が閉じる。
強くない。
私が離そうと思えば、すぐ離せる程度。
それで十分だった。
「歩きます」
私が言う。
「ああ」
一歩。
二歩。
暗闇はまだ怖い。
でも。
さっきより歩ける。
「昔も」
私は口を開いた。
ギデオンの手が少し固くなる。
「私、暗いところ苦手だった?」
彼は答えるまで少し時間を置いた。
「答えていいか?」
「今は聞いています」
「苦手だった時期がある」
「時期?」
「ああ」
「いつ?」
「結婚四年目くらいから」
胸がざわつく。
「理由は?」
「君は話さなかった」
「あなたも知らない?」
「完全には」
完全には。
その言い方が気になる。
でも今は。
「何かきっかけは?」
「地下保管庫で一度、閉じ込められたことがある」
私は足を止めた。
「どこ?」
「王立記憶院」
身体が冷えた。
「どうして私が?」
「慈善晩餐会の半年ほど後だった」
三年前。
白鐘広場の調査時期。
「誰と?」
「一人だった」
「どうやって出た?」
「職員に発見された」
「あなたは?」
「あとから知った」
「私から?」
「いや。記憶院から事故報告が来た」
私は彼の手を少し強く握った。
無意識だった。
「私、何て言ってた?」
「扉の故障だろう、と」
「あなたは信じた?」
沈黙。
「当時は半分」
「今は?」
「疑っている」
私は息を吐く。
新しい手がかり。
でも。
今は記録できない。
頭に留めるだけ。
「この件、あとで正式に確認したい」
「ああ」
「事故報告も」
「提出する」
歩き出す。
そのとき。
前方から声がした。
「公爵閣下!」
管理官。
遠い。
「こちらだ!」
ギデオンが答える。
「ご無事ですか!」
「エステルもいる!」
足音が近づく。
そして。
薄い光。
携帯銀灯。
暗闇の向こうに、ぼんやりと人影が見えた。
私は反射的に目を細める。
明るい。
助かった。
管理官と記録官。
二人とも無事。
「申し訳ありません!」
管理官が駆け寄る。
「主導線が突然切断されました。非常灯まで連動して落ちて――」
「切断?」
私が聞く。
「はい」
「故障ではなく?」
管理官の顔が硬くなる。
「確認しないと断定できません」
良い答えだ。
私はようやく自分の手を見る。
まだ。
ギデオンと繋がっている。
光の中で見ると。
妙に現実感があった。
彼も気づいている。
でも。
先に離さなかった。
私の判断を待っている。
私は自分から指をほどいた。
ギデオンの手もすぐ開く。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
それだけ。
誰も何も言わない。
でも。
リオラなら後で絶対に気づく。
そんな気がした。
*
灯りが復旧したあと。
問題の封緘記録は予定どおり確認した。
マルセル判事が照会しようとしていた棚。
そこには白鐘広場関連の原簿写しが二冊。
一冊目。
抽出対象十六件。
B区分。
二冊目。
再封緘履歴。
私はページを追う。
「ここ」
日付がある。
白鐘広場事件から八日後。
十六件すべて。
《再封緘》
「抽出から八日で?」
私が聞く。
管理官が答える。
「異例ではあります」
「理由は?」
欄を見る。
《記録統合上の整理》
曖昧。
「誰の命令?」
承認欄。
王立記憶院。
総裁室。
署名は。
「ない」
私は言った。
印章だけ。
実行者欄には複数の術者名。
そのうち一人。
赤線が引かれている。
「この人は?」
ギデオンが見る。
「死亡している」
「いつ?」
「十一年前」
事件の翌年。
「死因は?」
「病死」
「確認できる?」
「できる」
私はメモする。
再封緘。
八日後。
記録統合上の整理。
総裁室承認。
術者。
これだけでは犯罪ではない。
でも。
過去の私とマルセルが封緘番号へ注目した理由が、少し分かった。
「再封緘したとき、中身を変更できる?」
私は管理官へ聞く。
「正規手続きなら、変更はしません」
「できるか、です」
管理官が黙る。
「技術的には?」
「……上級術者であれば」
昨日までに聞いた話と一致した。
私はギデオンを見る。
彼も私を見る。
答えにはまだ遠い。
でも。
確実に一歩進んだ。
*
保護館へ戻る馬車。
リオラが私の報告を聞き終えたあと。
案の定。
「それで?」
「何?」
「暗闇で?」
「何が?」
「ギデオンと二人?」
「途中から」
「へえ」
嫌な顔。
「何よ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言って」
「手、借りた?」
私は黙った。
「どうして分かるの」
「顔」
「そんな顔してる?」
「してる」
私は窓の外を見る。
「借りた」
「自分から?」
「うん」
リオラが少し黙る。
からかうと思った。
でも。
「そう」
それだけだった。
「何?」
「何も」
「気持ち悪い」
「失礼ね」
私は自分の左手を見る。
もう温度は残っていない。
でも。
覚えている。
これは失った記憶ではない。
誰かから見せられた過去でもない。
今日。
暗い地下保管庫で。
怖かった私が。
自分で頼んだ。
ギデオンは待った。
触れていいか確かめた。
離すときも。
私に任せた。
たったそれだけ。
でも。
過去の七年間より。
今の私には意味があった。
昔の夫だから手を取ったんじゃない。
今日の彼の行動を見て。
今の私が選んだ。
私は掌を閉じる。
すぐにまた開く。
それ以上の意味には、まだしない。
ただ。
一つだけ。
今の私にも。
この人へ自分から手を伸ばせる瞬間があった。
その事実だけを。
今日の記憶として、私の中に残しておくことにした。




