第17話 あなたは前から知っていた
「王立記憶院について、以前から何を知っていましたか」
面談室へ入ってきたギデオンが椅子へ座るより先に、私は聞いた。
彼の動きが止まる。
今日はリオラもいる。
記録官もいる。
机の上には、昨日までに集めた資料を並べてある。
白鐘広場。
十六件のB区分。
マルセル判事との面会記録。
過去の私がリオラへ依頼していた制度調査。
そして、マルセルから届いていた手紙。
《通常の付番規則では説明できない点を確認しました》
「何を、というのは」
ギデオンが慎重に言う。
「範囲が広い」
「では絞ります」
私は彼の目を見る。
「王立記憶院が、本人や通常の法院手続きを通さずに記憶を抽出することがあると知っていましたか」
沈黙。
ほんの数秒。
でも。
それで十分だった。
「知っていたんですね」
リオラが腕を組む。
ギデオンは私から目を逸らさなかった。
「知っていた」
胸の奥が冷える。
予想していなかったわけではない。
昨日の資料を読んでから、可能性は考えていた。
それでも。
本人の口から聞くと違う。
「いつから?」
「五年前」
「私たちが結婚して二年目」
「ああ」
「何を知ったの?」
ギデオンは一度息を吐いた。
「監察局が追っていた外国人工作員の取り調べで、記憶院による非公開抽出の記録を見つけた」
「非公開って?」
「通常なら、本人の署名、立会人、記憶法院への届出が必要だ」
「それがなかった?」
「形式の一部が省略されていた」
「一部?」
私は言い直させる。
ギデオンの表情がわずかに硬くなる。
「本人の実質的な同意が確認できなかった」
「実質的」
「書類上の署名はあった」
また。
署名。
私自身の記憶譲渡書が頭をよぎる。
「でも?」
「拘束中だった。拒否できる状況だったとは言い難い」
リオラがすぐ口を挟む。
「違法では?」
「当時の記憶院は、王家安全保障例外を適用していた」
「その例外条項は、戦時または差し迫った国家危機に限られる」
「そうだ」
「工作員一人で?」
ギデオンは答えない。
リオラの口元から笑みが消えた。
「監察局は問題にしなかったの?」
今度は私が聞く。
「した」
「どうやって?」
「内部照会を出した」
「結果は?」
「王家機密」
「それで終わり?」
「当時は」
言葉が胸に刺さる。
「当時は」
私は繰り返す。
ギデオンの目が少し伏せられた。
「私は、それ以上踏み込まなかった」
「どうして?」
「対象が外国人工作員だった。実際に王族暗殺計画へ関与していたことも確認されていた」
「つまり犯罪者だから?」
「そう判断した部分はある」
率直だった。
だから余計に重い。
「本人の同意が怪しくても?」
「……ああ」
「必要な情報が取れれば」
「あの時の私は、国家安全保障を優先した」
「今は?」
「誤りだったと思っている」
リオラが資料へ何か書き込む。
私は次の質問へ進んだ。
「それだけ?」
ギデオンが黙る。
「五年前に一件見ただけ?」
「違う」
「何件?」
「確実に把握しているのは七件」
喉が乾いた。
「七」
「すべて国家機密案件?」
「ああ」
「同意は?」
「完全なものもある。不完全なものも」
「不完全でも、あなたは知っていた」
「知っていた」
「誰が許可していた?」
そこでギデオンが止まった。
「答えられない?」
「現時点で、個別案件の許可者名は機密指定されている」
条件四。
答えられないなら、その理由を言う。
約束は守っている。
でも。
私が知りたいことは、そんな手続きではない。
「では聞き方を変えます」
私は机の上の記憶譲渡契約書へ手を置いた。
「私を王立記憶院へ連れていくと決めたとき」
ギデオンの表情が変わった。
「非公開抽出や、不完全な同意による処置が過去にあったことを知っていましたね」
今度の沈黙は長かった。
リオラも何も言わない。
逃げ道を塞ぐ必要はなかった。
答えはもう見えている。
「……知っていた」
胸の奥で。
何かが音を立てて割れた気がした。
私は自分でも驚くほど静かな声で聞く。
「なのに、私の記憶をそこへ渡した」
「そうだ」
「なぜ?」
「エステル」
「まだ、それは第20話で全部話すつもり?」
言ってから、自分でも苦笑したくなる。
物語の構成なんて彼は知らない。
けれど。
核心だけをまた先送りされる気がした。
「理由のすべては、まだ話せない」
ギデオンが言う。
「捜査上?」
「一部は」
「それ以外は?」
彼の喉が動く。
「私自身が、どう説明しても言い訳になると思っている」
「それはあなたの判断ですよね」
「……そうだ」
「ならやめて」
私は言った。
「言い訳になるかどうかは、私が決めます」
ギデオンが目を閉じた。
「分かった」
「今、答えられる範囲だけ」
少し待つ。
彼はゆっくり口を開いた。
「君の記憶を通常の記憶院手続きへ載せれば、不正な処置をされる可能性がゼロではないと知っていた」
「ゼロではない」
「ただし、私が把握していた不正はすべて国家機密案件だった」
「私は?」
「高位機密職の配偶者」
つまり。
例外に近い場所にいた。
「それでも安全だと思った?」
「……安全だと思いたかった」
初めて。
ギデオンの声が崩れた。
「何それ」
私は笑えなかった。
「安全だと確認したんじゃなくて?」
「確認はした」
「どうやって?」
「通常手順で処理されるよう、監察局法務官を通して手続きを確認した。本人同意。独立立会人。封緘番号。保管先」
「全部そろってた」
「ああ」
「だから大丈夫だと思った」
「そうだ」
「でも結果は?」
「三つの記憶晶が入れ替えられた」
静かな声だった。
責任を認める声。
でも。
「それだけじゃないでしょう」
私は契約書を押す。
「国へ所有権が移ることも知ってた」
「ああ」
「記憶院に広い保全処置権限があることも」
「ああ」
「非公開抽出が過去にあったことも」
「ああ」
「それを全部知っていて」
喉が詰まる。
でも続ける。
「私は知らなかった」
ギデオンは何も言わない。
「私に判断させたら、署名しないと思った?」
彼の手がゆっくり握られる。
「思った」
「怖がると思った?」
「違う」
「では?」
「君なら、危険を知っても記憶を手放さない可能性が高いと思った」
私は動きを止めた。
そこ。
核心に近い。
「なぜ?」
「そこから先は」
ギデオンが止まる。
私は待つ。
「第20話で?」
今度はリオラが吹き出しそうになって咳をした。
私は自分でも少し可笑しくなった。
でも笑えない。
ギデオンだけが困惑している。
「何の話だ」
「気にしないでください」
私は息を整える。
「つまり、私が自分で判断したら、あなたの望む選択をしないと思った」
「そうだ」
「だから判断材料を渡さなかった」
「……そうだ」
これまで何度も聞いた。
でも今日は違う。
今までは。
危険だったから。
国家機密だから。
守るためだったから。
ぼんやりとした輪郭しかなかった。
今日は初めて。
彼が何を知っていて。
何を私から伏せたのか。
具体的になった。
「それって」
私は言葉を探す。
「私を信用してなかったんじゃないですよね」
ギデオンが顔を上げる。
「逆だ」
「そう」
分かってしまった。
「私が危険を選ぶと分かってた」
彼は黙って頷く。
「私が自分で調べる人間だと知っていた」
「ああ」
「だから」
私は苦く笑った。
「私を知っていたから、選ばせなかった」
その言葉で。
ギデオンの顔が歪んだ。
「……ああ」
それが。
この結婚の一番ひどいところだったのかもしれない。
理解されていなかったのではない。
理解した上で。
私の意思を避けられた。
「リオラ」
私は隣を見る。
「これ、法的にはどうなる?」
リオラがすぐ仕事の顔になる。
「記憶譲渡同意の有効性に重大な争点が出る」
「無効?」
「まだそこまでは言えない」
「なぜ?」
「エステル本人が署名している。抽出直前にも撤回機会があった」
「でも重要情報は隠された」
「そう。その情報が、通常人なら契約判断を変えるほど重要だったか」
「変えるでしょう」
「私はそう主張する」
リオラがギデオンを見る。
「そしてあなたが、判断を変えさせないために意図的に伏せたと証言するなら、かなり強い」
ギデオンは迷わなかった。
「証言する」
私は彼を見る。
「自分に不利でも?」
「事実だから」
「公爵家や監察局にも?」
「ああ」
「処分の可能性があっても?」
「あるだろう」
それでも答えは変わらない。
「証言する」
少しだけ。
胸の中の何かが動いた。
許したわけではない。
むしろ今日。
私は彼の過ちを、今までよりはっきり理解した。
でも。
その過ちを隠すために、また権力を使おうとはしていない。
そこは記録する。
それだけ。
「もう一つ聞きます」
私は言った。
「非公開抽出の七件」
「何だ」
「その中に、離婚した配偶者は?」
ギデオンの表情が変わる。
小さく。
でも明確に。
私は息を止めた。
「いるんですね」
「……一件」
リオラが身を乗り出す。
「いつ?」
「四年前」
「本人は?」
「高位外交官の元妻」
「不完全な同意?」
「そこは私も後から知った」
「どうなった?」
ギデオンが答えるまで、少し時間がかかった。
「抽出後、本人が強い記憶欠落を訴えた」
昨日聞いた。
リオラの依頼の始まり。
離婚後、自分が何を失ったか把握できなくなった女性。
私はリオラを見る。
彼女も気づいている。
「同じ人?」
私が聞く。
ギデオンは知らない。
リオラが答えた。
「可能性が高い」
「名前は?」
リオラが一瞬迷った。
「本人の守秘がある。今は言えない」
私は頷く。
そこはいい。
「ギデオン」
「何だ」
「あなたはその件も知っていて」
「ああ」
「それでも」
その先が言えなかった。
それでも私を記憶院へ。
同じ言葉をもう一度言う必要はない。
彼は分かっている。
私も。
「すまない」
ギデオンが言った。
私はすぐ手を上げた。
「今は謝罪はいりません」
彼が止まる。
「謝られると、話が終わったみたいになる」
「……分かった」
「終わってないです」
「分かっている」
そう。
終わっていない。
彼がなぜそこまでして私の記憶を消したかったのか。
まだ全部聞いていない。
それは第20話。
――ではなく。
彼自身が話せる時ではなく。
私が聞くべき時に、聞く。
「今日はここまでにします」
私は立ち上がった。
ギデオンも立つ。
「エステル」
「何?」
「一つだけ」
私は待つ。
「君が記憶院へ入る前」
彼は机を見た。
「私は、自分が危険を引き受けているつもりだった」
「どういう意味?」
「君に憎まれればいいと思っていた」
私は眉を寄せる。
「それが?」
「君が生きていれば」
言葉が途切れる。
「……それでいいと」
胸が痛んだ。
でも。
同時に。
強い怒りも湧いた。
「それ」
私は静かに言った。
「すごく傲慢ですよ」
ギデオンが目を閉じる。
「ああ」
「私があなたを憎む人生なら、それでもいいって」
「……ああ」
「それを決めたのもあなた」
返事はない。
「私が何を失うかも」
「そうだ」
「どんな人生になるかも」
「ああ」
私は息を吐く。
理解した。
たぶん。
この人の愛は本物だった。
そして。
本物だったからこそ。
ひどい形になった。
私は扉へ向かう。
開ける前。
振り返った。
「次に話すとき」
ギデオンが私を見る。
「どうして私の記憶を消せば守れると思ったのか」
彼の表情が固まる。
「全部聞きます」
逃げ道を与えないためではない。
今度は。
私が自分で判断するために。
「隠さないでください」
長い沈黙のあと。
ギデオンは頷いた。
「分かった」
私は部屋を出た。
廊下は冷えていた。
頭の中には、今日聞いたことが残っている。
非公開抽出。
不完全な同意。
七件。
離婚した配偶者。
それを知っていたギデオン。
そして。
私を記憶院へ渡した夫。
過去の私は。
この事実を知らなかった。
今の私は知った。
だから。
もう同じ場所には戻れない。
何を選ぶにしても。
次は全部知った上で。
私が決める。




