第16話 過去の私がリオラへ託したもの
「今日、全部話す」
リオラはそう言って、保護館の机に分厚い封筒を置いた。
夕方だった。
窓の外には灰色の雲。
遠くで雪が降り始めている。
「全部?」
私は封筒を見る。
「三年前のあなたから受けた依頼」
胸の奥が少しだけ強く鳴った。
九一七番で見つけた手紙。
違法市場の仲介人ネラ。
マルセル判事との接点。
ここまで来ても、過去の私はまだ何かを残している。
「今まで黙っていた理由は?」
「あなた自身から条件を付けられていたから」
「また?」
「また」
リオラは少し疲れたように笑った。
「三年前のあなた、未来の自分まで信用してなかったのよ」
「それは慎重なのか、面倒なのか」
「両方」
私は椅子へ座った。
「条件は?」
リオラが小さな紙を出す。
私の筆跡。
《以下の三条件がそろうまでは、依頼の全容を本人にも開示しないこと》
一。
《私自身が、白鐘広場を調査していた痕跡へ自力で到達する》
二。
《王立記憶院保管の記憶晶に不正の疑いが生じる》
三。
《白鐘広場と現在進行中の事件が接続したと確認できる》
私は読み終えた。
「全部そろった」
「ええ」
「三つ目はマルセル?」
「それと殺害命令記憶のB区分」
私は息を吐いた。
過去の私。
どこまで予想していたのだろう。
でも。
そこを神秘化したくはない。
「これを書いた時点で、今みたいな事件が起きると分かっていた?」
「そこまでは」
リオラが首を振った。
「むしろ逆」
「逆?」
「あなたは、自分の推測が間違っている可能性をかなり気にしてた」
私は少し驚いた。
「そうなの?」
「ええ」
リオラは封筒を指で押した。
「だから未来の自分に、答えじゃなくて材料だけ残した」
私は封を開けた。
中には書類が十数枚。
一番上に、正式な委任契約。
依頼者。
エステル・ヴァルデン。
受任者。
リオラ・ハート。
依頼内容。
《王立記憶院における証言記憶の保管・閲覧・再封緘制度についての法的調査》
そこまでは、すでに聞いている。
次。
《離縁時の記憶譲渡契約における本人同意の有効性》
私は手を止めた。
「離縁?」
「三年前の時点で調べていた」
「私は離婚するつもりだった?」
リオラはすぐには答えなかった。
「そこは、依頼書だけでは分からない」
「あなたは聞いた?」
「聞いた」
「何て答えた?」
リオラは視線を落とした。
「『まだ決めていない』」
胸が重くなる。
三年前。
まだ私はギデオンを愛していたはずだ。
第15話で見た幸福な記憶も、結婚初年度。
三年後。
私は離縁制度を調べていた。
「理由は?」
「それも今から話す」
私は次の書類へ進む。
《相談記録》
リオラの筆跡。
日付。
三年前の十二月。
《依頼者は、婚姻関係の継続を希望している一方、夫が国家機密を理由として重要情報を共有せず、危険の判断も単独で行う点に強い不安を示す》
私は読み止まった。
第1話。
三年後の私が、まったく同じことで離縁した。
「変わってない」
自分でも驚くほど静かな声だった。
リオラが何も言わない。
私は続けて読む。
《依頼者発言――「秘密があることを怒っているのではない。秘密があるから私には決められないと、彼が決めることが嫌」》
胸が痛んだ。
あまりにも今の私と同じだったから。
「私、三年前から言ってたのね」
「ええ」
「ギデオンには?」
「言ったと思う」
「思う?」
「夫婦間の会話までは知らない」
当然だ。
私は紙を置いた。
「続けて」
リオラが別の記録を出す。
「この依頼の始まりは、白鐘広場じゃなかった」
「違うの?」
「最初は縁切り売却制度」
私は眉を寄せる。
「どうして?」
「あなたが公爵夫人として、離婚希望者の相談会に出席したから」
思い出せない。
「そこで何が?」
「高位機密職の夫と離婚した女性がいた」
「記憶を売った?」
「ええ」
リオラの顔が硬くなる。
「本人は離婚後、自分が何を失ったのかすら把握できなくなっていた」
私は黙った。
「抽出対象が広すぎた?」
「そう」
「違法?」
「形式上は適法」
嫌な言葉だ。
形式上。
「その女性が訴えたの?」
「できなかった」
「なぜ?」
「訴えるために必要な出来事そのものが、抽出されていたから」
背筋が冷えた。
「……そんな」
「家族が記録を残していた。でも本人は、自分が本当にそう考えていたかを証明できなかった」
「それで過去の私は調べ始めた?」
「最初は制度のほうを」
リオラは頷いた。
「記憶を売る契約で、本人の同意はどこまで有効なのか。重要情報を隠した状態での署名は有効か。抽出範囲を本人が理解できない場合、どこまで説明義務があるのか」
まさに。
私自身が経験したことだ。
三年前の私は、他人の事例を見て。
自分にも起こり得ると考えた。
「それが白鐘広場につながったの?」
「少し後」
リオラが別の紙を出す。
王都慈善会の記録。
すでに九一七番で見たものとは別。
《記憶障害支援対象者》
名前が複数。
そのうち三人に印。
マリア・セルド。
ハンナ・ヴェル。
エーダ・ノール。
白鐘広場生存者。
「この三人?」
「あなたが最初に相談を受けた人たち」
「本人から?」
「慈善会経由」
「何を相談された?」
リオラは記録を読む。
「『自分の記憶と、王立記憶院で閲覧した自分の証言記憶が違う気がする』」
私は息を止めた。
「違う?」
「ただし、本人たちは自信がなかった」
「なぜ?」
「事件から十二年」
リオラは言う。
「通常の記憶も薄れる。しかも白鐘広場事件後、彼女たちは抽出を受けている」
「抽出したのは証言だけ?」
「記録上は」
「でも自分自身の記憶には?」
「残っている」
私は混乱する。
「待って。証言記憶を抽出しても、本人の元の記憶は消えないの?」
「通常の複製抽出なら消えない」
「あ」
そうだった。
売却や治療目的で記憶を抜き取る処置とは別。
裁判証言では、本人の記憶を残したまま複製できる。
「じゃあ、彼女たちは自分の頭の中の記憶と、保存された証言記憶を比べた?」
「一部だけ」
「一部?」
「本人たちは完全な閲覧権を持っていなかった」
まただ。
「自分の証言なのに?」
「B区分に指定されたから」
私は黙る。
特別封緘証言記憶。
国家秩序。
王家機密。
「三人は何が違うと言った?」
リオラが紙を見る。
「一人は鐘の回数」
私は指を止めた。
「三回?」
「保存記憶では三回」
「本人は?」
「二回だった気がする、と」
「気がする」
「だから証拠にはならない」
私は頷く。
「次」
「一人は兵士の位置」
「保存記憶では?」
「北側から反乱者が襲った直後、兵士が前進」
「本人は?」
「自分が見たときには、すでに兵士が列を作っていた気がする」
また曖昧。
「三人目は?」
リオラが少し黙った。
「音」
「何の?」
「悲鳴の前に、軍用笛を聞いたと」
私は紙へ書く。
鐘。
兵士の位置。
軍用笛。
全部、本人の曖昧な記憶。
単独では弱い。
「過去の私はどう考えた?」
「最初は、十二年経って記憶が変わった可能性のほうを強く見てた」
安心した。
過去の私は、最初から陰謀を信じていたわけではない。
「だから複数人の証言を探した?」
「ええ」
「同じ違和感があるか確認するために」
「そう」
私は九一七番にあった十六人の名簿を思い出す。
だから十六。
「そこで同じ言い回し?」
「それは私も後から聞いた」
「ネラの話と一致する」
「ええ」
少しずつ。
過去の私の行動が、推理ではなく順序を持ち始める。
一人の相談。
制度への疑問。
三人。
十六人。
保存された証言。
違法市場。
マルセル。
「マルセル判事に接触した理由は?」
リオラが次の書類を出した。
封筒。
今度は封が切られている。
「これは?」
「私宛て」
中には過去の私の手紙。
《リオラへ。
私はマルセル判事へ相談する。
あなたを巻き込みすぎたくないので、ここから先は別に動く。》
「勝手」
思わず言った。
リオラが鼻で笑う。
「本当にね」
《判事は以前から記憶証拠の絶対視に反対している。
私の疑問が単なる思い込みなら、そう言ってもらいたい。
もし違うなら、正式な記録へ入る方法を知っているはず。》
過去の私は。
真実を確信していたわけではない。
間違っているなら止めてほしい。
そう考えていた。
「マルセルとは実際に会った?」
「ここから先は、私も直接は知らなかった」
「でも今は?」
リオラが一枚の紙を出す。
法院の面会簿。
正式記録の写し。
「昨日、照会が返ってきた」
私は受け取る。
三年前。
十二月十四日。
面会者。
《E・ローヴェン》
私は眉を寄せた。
「ローヴェン?」
「旧姓を使ってる」
「なぜ?」
「公爵夫人名義では記録が目立つからでしょうね」
「合法?」
「面会簿は本人確認さえ通れば、私的面会名を旧姓にすること自体は違法ではない」
私は下を見る。
面会先。
《マルセル・フェイン判事》
時間。
午後四時十二分から五時三十八分。
「会ってた」
確定した。
第三者証言だけではない。
正式記録。
「これ」
私は紙を指す。
「殺害容疑としては私に不利よね」
「かなり」
リオラは即答した。
「隠す?」
「まさか」
「だよね」
胸が重い。
でも出す。
自分に不利な証拠でも。
真実に必要なら。
「検察も見つける?」
「もう見つけてる可能性が高い」
「なら先に防御方針を」
「そのために今日話してる」
私は頷いた。
「マルセルと何を話したかは?」
「記録なし」
「手紙も?」
「一つある」
リオラが最後の封筒を出した。
今度はマルセル判事の筆跡。
宛名は。
《エステル・ヴァルデン公爵夫人へ》
開封済み。
本文は短い。
《ご提示いただいた封緘番号について、通常の付番規則では説明できない点を確認しました。
ただし現段階では、不正を示すには足りません。
特に、抽出日時と再封緘日時の原簿確認が必要です。
同様の番号群を独力で追わないでください。
正式手続きへ移す準備をします。》
最後。
《次回面会まで、この件を誰にも話さないことを勧めます。》
誰にも。
私は手紙を置いた。
「ギデオンにも?」
「そう読める」
「マルセルが止めた?」
「少なくとも、この時点では」
これで。
過去の私が夫へ話さなかった理由が、一つ増えた。
ギデオンを信用していなかったから。
それだけではない。
判事から秘匿を求められていた。
ただし。
「それでも、全部の理由にはならない」
私は言った。
「ええ」
リオラも頷く。
「過去のあなたは、その前からギデオンへ話していなかった」
「つまり結婚の問題は別」
「そう」
そこを混ぜない。
事件が秘密だったから、夫婦の破綻は仕方なかった。
そんな単純な話にはしない。
「依頼の全容って、これで全部?」
「もう一つある」
リオラの声が少し変わった。
私は顔を上げる。
「何?」
「あなたが私に預けた指示」
「まだあるの?」
「これが最後」
小さな封筒。
《もし私が記憶を失い、ギデオンと離縁していた場合》
心臓が強く鳴る。
三年前の私が。
そんな未来を想定していた。
私は封を開けた。
《未来の私へ。
ここまで読んでいるなら、少なくとも一つだけ覚えていてほしい。
ギデオンを敵だと決めないで。
でも、味方だとも決めないで。》
私は息を止める。
《私はあの人を愛している。
だから判断を誤るかもしれない。
私はあの人に怒っている。
だから、それでも判断を誤るかもしれない。》
過去の私。
思っていたより冷静だった。
《証拠だけ見て。
あの人が正しいなら認めて。
間違っているなら、愛していても止めて。》
その下。
少しだけ筆圧が強い。
《そして私自身についても同じにして。
昔の私がしたことだから正しい、とは思わないで。》
私は長く息を吐いた。
何だ。
過去の私は。
今の私よりずっと私を分かっているようで。
でも。
答えを一つも押し付けてこない。
「嫌いじゃない」
ぽつりと言った。
「誰を?」
「昔の私」
リオラが笑った。
「やっと?」
「ちょっと面倒だけど」
「そこは変わらない」
「今の私も?」
「かなり」
二人で笑った。
ほんの短い時間。
それから私は手紙を畳んだ。
「リオラ」
「何?」
「ありがとう」
彼女が少し驚く。
「何が?」
「三年間、これを持っていてくれたこと」
「仕事だから」
「友人としても?」
リオラは少し黙った。
「……途中で何度も全部言いたくなった」
「そうなの?」
「記憶を失ったあなたを見たとき」
彼女の目が少し赤くなる。
「昔のあなたが何をしてたか、全部教えたら楽になると思った」
胸が痛む。
「でも?」
「それをしたら、過去のあなたが今のあなたを支配することになる」
私は黙った。
「だから待った」
「条件がそろうまで」
「ええ」
「私が自分でここまで来るまで」
「そう」
私は手を伸ばした。
途中で止める。
「触っても?」
リオラが一瞬目を丸くし。
すぐ笑った。
「そこまでギデオン式にしなくていいわよ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
私は彼女の手を握った。
温かい。
ギデオンとは違う。
これは恋ではない。
でも。
私が失わなかった人生の一部。
七年間の結婚記憶を失っても。
友人との時間は残っていた。
それが今、とてもありがたかった。
*
その夜。
私は一人で資料を並べた。
縁切り売却制度。
三人の生存者。
十六件のB区分。
違法市場。
マルセル判事。
正式面会記録。
通常規則では説明できない封緘番号。
そして。
私の殺害命令記憶。
一本の線にはなり始めた。
でも。
まだ空白がある。
大きな空白。
「マルセルが、何を見つけたのか」
そこが分からない。
彼は原簿確認が必要だと書いた。
抽出日時。
再封緘日時。
封緘番号。
記憶の中身ではなく。
外側の記録。
過去の私はそこまで追っていた。
そして殺されたマルセルは、死ぬ三日前。
監察局へ白鐘広場の封緘記録を照会しようとしていた。
私はペンを取る。
《次に確認すること》
一。
マルセルが監察局へ持ち込もうとしていた封緘番号。
二。
三年前の面会後、私とマルセルが接触した記録。
三。
白鐘広場十六件の抽出日時と再封緘日時。
四。
私の殺害命令記憶の同情報。
書き終える。
そして最後に。
《ギデオンが王立記憶院について、以前から何を知っていたか》
ペンが止まった。
明日の面会で聞く。
今度は。
曖昧にしない。
過去の私が彼を愛していたことは、もう知った。
過去の私が彼に怒っていたことも。
でも。
そのどちらも。
明日の答えを決める材料にはしない。
私が見るのは。
今、彼が何を話すか。
何を隠していたか。
そして。
それを知った私が、どう選ぶかだ。




