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第15話 私が彼を愛していた証拠

「過去の私は、マルセル判事と接触していた可能性があります」


保護館の面談室でそう告げると、ギデオンは黙った。


驚いていない。


そのことに私は気づいた。


「知っていました?」


「いや」


「では、なぜ驚かないの?」


「可能性は考えていた」


「いつから?」


「マルセルが白鐘広場の封緘記録を調べていたと分かった時点で」


私は机の上で指を組んだ。


隣にはリオラ。


記録官もいる。


今日の会話はすべて公式記録になる。


「私とマルセルの正式な面会記録はないと言いましたよね」


「ああ」


「それでも?」


「君が白鐘広場を秘密裏に調べていたなら、接触していても不自然ではない」


「なぜ言わなかったの?」


問いかけてから。


私は自分で答えに気づいた。


「……推測だから?」


「そうだ」


ギデオンが頷く。


「確認できていない推測を、君の殺人容疑に関わる場で事実のように言いたくなかった」


筋は通っている。


以前の私なら、隠された、と感じただろうか。


いや。


今も疑う必要はある。


ただ、何でも隠蔽と結びつけるのは違う。


「分かりました」


私は昨日の記録を差し出した。


ネラの証言。


過去の私が違法市場を訪れていたこと。


白鐘広場生存者の記憶を探していたこと。


同じ言い回しへの疑問。


マルセルの紹介先を探していたこと。


ギデオンは最後まで読んだ。


「このネラという仲介人は?」


「本名不明」


リオラが答える。


「証言の信用性はまだ評価できない。ただ、九一七番に残っていた情報と複数箇所で一致する」


「監察局から接触しても?」


「今はやめて」


私が言った。


ギデオンが顔を上げる。


「理由を聞いても?」


「監察局が動いたら逃げるかもしれない」


「その可能性はある」


「それに、彼女は私たちだから話した。監察局が行けば口を閉ざすかもしれない」


ギデオンは少し考え、


「分かった」


と答えた。


それだけ。


「反対しないの?」


思わず聞いた。


「する理由がない」


「昔ならした?」


口にしてから。


余計だったと思った。


ギデオンの目がわずかに揺れる。


「したかもしれない」


「そう」


そこで終える。


今の彼を見る。


そう決めたのは私自身だ。


過去の彼を何度も法廷へ呼び出すような真似はしたくない。


本当の法廷は、これから嫌というほど待っている。



面談の終わり際。


リオラが一通の通知書を取り出した。


「それと、記憶法院から」


私は嫌な予感がした。


「何?」


「あなたが申請していた記憶閲覧」


「殺害命令の?」


「そっちはまだ」


「じゃあ?」


「売却記憶の通常閲覧」


私は少し考えて思い出す。


第5話で、私は七年間の記憶の一部を試験閲覧した。


その後。


自分の過去を知るため、もう一件だけ申請していた。


事件が起きる前に。


「今さら許可が?」


「今さら」


リオラが紙を渡す。


《記憶晶第七晶・部分閲覧許可》


内容欄。


《婚姻初年度・私的生活》


私は通知書を見つめた。


「断ることもできる?」


「もちろん」


「事件と関係は?」


「現時点では確認されてない」


なら。


見る必要はない。


そう思った。


今は事件を追うべきだ。


白鐘広場。


マルセル。


偽造記憶。


過去の恋愛を眺めている場合ではない。


それでも。


「見ます」


自分の口から出た。


リオラが少し眉を上げる。


「いいの?」


「申請したのは私だから」


「事件が起きる前よ」


「今の私です」


そう。


申請したのは、記憶を失ったあとの私。


過去のエステルではない。


なら、これは私自身が選んだことだ。


ギデオンが黙っている。


私は彼を見る。


「何か?」


「いや」


「見てほしくない?」


彼は一瞬迷った。


「私が決めることではない」


正しい。


でも。


「感想を聞いてるの」


ギデオンが困った顔をした。


少しだけ可笑しい。


「……怖い」


意外な答えだった。


「何が?」


「君が何を見るのか、私には分からない」


「あなたは覚えてるんでしょう?」


「ああ」


「なら内容も」


「第七晶にどの場面が収録されているかまでは知らない」


なるほど。


「もし嫌な記憶だったら?」


「それも私たちの結婚だ」


「幸福な記憶だったら?」


ギデオンは少し黙った。


「それも」


答えは同じだった。


私は通知書を畳む。


「分かりました」



午後。


王立記憶院ではなく、記憶法院の閲覧室が使われた。


証拠保全の問題があるためだ。


記憶院職員が一名。


法院職員が二名。


リオラ。


そして私。


ギデオンは来なかった。


来てもいいとは言われていた。


でも私が呼ばなかった。


過去の夫婦生活を、現在の彼と並んで見る勇気はまだない。


「開始します」


銀環が下りる。


私は目を閉じた。


光。



雨が降っていた。


また雨。


でも、第5話で見た記憶とは違う。


場所は公爵邸の厨房だった。


「……厨房?」


過去の私の視界。


夜。


誰もいない。


いや。


一人いる。


ギデオン。


若い。


今より少しだけ顔が柔らかい。


袖をまくり。


なぜか小麦粉まみれだった。


『何をしてるの?』


私の声。


笑っている。


『見れば分かるだろう』


『分からないから聞いてるの』


机の上。


無残な形の焼き菓子。


私は思わず現在の閲覧室で息を漏らした。


何これ。


『君が昼間、食べたいと言った』


『言ったけど』


『料理長はもう休ませた』


『だから公爵本人が厨房に侵入したの?』


『自分の家だ』


『料理長に聞かせたいわ』


過去の私が笑う。


ギデオンが不機嫌そうに焼き菓子を見る。


『失敗した』


『見れば分かる』


『二度言うな』


私は一つ取る。


焦げている。


端が硬い。


『食べるのか?』


『作ったんでしょう?』


『やめたほうがいい』


『毒?』


『そこまでではないと思う』


『思う』


一口。


硬い。


甘すぎる。


過去の私は盛大に顔をしかめた。


『ひどい』


『だから言った』


『蜂蜜をどれだけ入れたの?』


『匙で三杯』


『どの匙?』


ギデオンが示す。


大きい。


料理用。


『それは匙じゃなくて武器よ』


『同じようなものだろう』


『全然違う』


二人で笑った。


その瞬間。


胸の奥に妙な感覚が走る。


懐かしい。


違う。


私はこれを覚えていない。


なのに。


身体だけが、この笑い方を知っているような。


記憶は続く。


ギデオンが私の頬を見る。


『粉がついてる』


手を伸ばす。


その直前。


『取っていいか?』


過去の私は一瞬目を丸くして。


笑った。


『今さら聞くの?』


『嫌ならやめる』


『どうぞ』


彼の指が頬へ触れる。


ほんの一瞬。


私は息を止めた。


現在のギデオンが、触れる前に許可を求めるようになったことを思い出す。


昔も。


できていた。


少なくとも、このころは。


記憶の中の私は、彼の手を捕まえた。


『ギデオン』


『何だ』


『明日も遅い?』


彼の表情が変わる。


仕事。


『たぶん』


『夕食は?』


『間に合わない』


ほんの少し。


私の胸に落胆が広がる。


これは過去の私の感情だ。


私のものではない。


でも流れ込んでくる。


『分かった』


私が手を離す。


ギデオンがそれを見る。


『エステル』


『何?』


『明後日は空ける』


『仕事は?』


『どうにかする』


『無理しなくていいわ』


『私が空けたい』


短い沈黙。


そして。


過去の私は笑った。


嬉しい。


明確に。


嬉しかった。


『じゃあ、待ってる』


その言葉と一緒に。


記憶が終わった。



銀環が上がる。


私はしばらく目を開けられなかった。


「エステル?」


リオラの声。


「大丈夫」


声が少し掠れた。


「水、いる?」


「お願い」


受け取る。


一口。


もう一口。


「何を見た?」


「焼き菓子」


リオラが瞬きをする。


「何?」


「ギデオンが焼き菓子を作ってた」


「……あの人が?」


「ひどい出来だった」


リオラが吹き出した。


「見たかった」


「本人は見られたくないと思う」


私も少し笑った。


でも。


笑いはすぐに消えた。


「幸せだった」


口にすると。


少し怖かった。


リオラは黙って待つ。


「私、本当にあの人を愛してたんだと思う」


記憶の中に劇的な告白はなかった。


宝石も。


舞踏会も。


抱擁すらない。


ただ。


厨房で失敗した菓子を食べて。


明後日の夕食を一緒に取れることを喜んだ。


それだけ。


だからこそ。


嘘には見えなかった。


「これは証拠になる?」


私は聞いた。


リオラが少し考える。


「何の?」


「私が彼を愛していたこと」


「法的には?」


「友人として」


リオラは微笑んだ。


「十分じゃない?」


私は頷く。


「私もそう思う」


認めよう。


過去の私は、ギデオンを愛していた。


本当に。


そしてギデオンも。


少なくともあの夜は、私と過ごす時間を欲しがっていた。


「でも」


私は水のグラスを見る。


「だから何、なのよね」


リオラが笑った。


「強いわね」


「強くない」


本当に。


胸は痛い。


知らない自分の幸福を見るのは。


思っていたよりずっと寂しい。


「これを見たら、あの人を好きにならなきゃいけない?」


「誰も言ってない」


「過去の私が言ってる気がする」


「過去のあなたは何も言ってないでしょう」


その通りだった。


記憶はただ存在する。


命令はしない。


意味を決めようとしているのは、今の私だ。


「なら」


私は立ち上がった。


「今日分かったのは一つだけ」


「何?」


「昔の私は、あの人を愛していた」


それ以上でも。


それ以下でもない。



保護館へ戻ると。


机の上に封筒が一通置かれていた。


監察局から。


差出人はギデオンではない。


正式な部署名。


《記録監察課》


私は少しだけ安心した。


開く。


B区分についての追加回答。


《特別封緘証言記憶》


《指定理由は、国家秩序、王家機密、重大事件証人保護等》


その下。


《白鐘広場事件に関連するB区分指定について、十二年前の指定命令原本を確認》


私は息を止める。


指定主体。


《王立記憶院》


承認者。


《総裁 オルレナ・ヴェイス》


やはり。


でも、それだけなら職務上の行為だ。


問題は次。


指定対象数。


《十六件》


九一七番と一致した。


そして。


指定理由。


私はそこを二度読んだ。


《証言者保護および記憶内容相互矛盾による混乱防止》


「相互矛盾?」


声に出す。


昨日、ネラは言った。


過去の私は。


複数の記憶が、同じ言い回しをしていることを疑っていた。


同じ。


なのに。


十二年前の指定理由には。


《相互矛盾》


とある。


私はすぐにリオラを呼んだ。


数分後。


彼女が部屋へ入る。


「どうしたの?」


紙を渡す。


読む。


顔が変わる。


「十六件」


「一致してる」


「指定理由は矛盾」


「でも過去の私は、同じ言い回しを疑っていた」


リオラが椅子へ座る。


「どちらかが間違ってる」


「ううん」


私は首を振った。


「まだ決めない」


記録が間違っている可能性。


ネラの証言が間違っている可能性。


過去の私の判断が間違っている可能性。


全部ある。


「でも確認する価値はある」


「ええ」


私は紙を見る。


十六人。


十二年前。


相互矛盾。


同じ言葉。


二つの説明が、初めて正面からぶつかった。


そして。


私はふと、午後に見た記憶を思い出した。


ギデオンの手。


『取っていいか?』


『どうぞ』


昔の彼は聞けていた。


昔の私は答えていた。


だから。


余計に分からなくなる。


どうして七年後。


彼は私に聞くことをやめたのだろう。


どうして私は。


彼へ話すことをやめたのだろう。


幸福だった結婚が。


幸福だったというだけで、最後まで正しかったことにはならない。


それはきっと。


事件の記憶も同じだ。


一部が本物でも。


全体が真実とは限らない。


私は二枚の紙を机へ並べた。


片方には、過去の愛の証拠。


もう片方には、白鐘広場の矛盾。


どちらも。


記憶されたもの、記録されたものを、そのまま信じるだけでは足りない。


だから私は。


昔の私が愛していた男についても。


十二年前に国が残した事件についても。


今の私の目で、続きを確かめることにした。

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