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『ちちうえ…。ははうえ…。』
『リベリオ、苦しいのか?』
『うう…ゴホッゴホッ…』
『あなた、…うお休み…ら…いと…。』
『いや、私…夜は…こで一緒に…、……。』
『ゴホッ…ゴホッ…、…』
*
「ちちう…え…、は…はうぇ…。」
ふと、リベリオは目を開けた。見慣れた天井と室内の様子を見て自分のいる場所はすぐに分かったが、身体中がだるくて起き上がれない。焦点が定まらないままぼんやりと天井を眺めていると、視界の端から母カレイラが姿を現した。
「リベリオ、起きたのね。気分はどうかしら?」
「母上…?」
「えぇ。二日前の夜にお父様とここへ帰ってきたのよ。覚えてる?」
「え…父上と…そうだ、あの後一体…痛っ…!」
リベリオはハッとして反射的に起き上がった。途端に身体中の痛みと強烈な吐き気に襲われ、咄嗟に口元を押さえる。顔の前に差し出された桶を掴み、中に胃の内容物を吐き出した。
カレイラは後ろからそっと背を擦るナリアに視線を向けて頷き、飲み物を用意しに部屋から出て行った。
「う…うえぇぇ…。ゲッ、ゲホッ!!」
「リブ、大丈夫ですか?」
「うぅ…え…ナリー…?来ていたのか…?」
ナリアは小さく頷き、リベリオの口元を布で拭いて桶を床に置いた。リベリオの身体を支えながらゆっくりとベッドに寝かせ、頭にのせる布に水を含ませリベリオの顔を冷やした。
「今朝から来ていたのです。ニスカ・ルッソ伯爵の屋敷で倒れ込んで以来、ずっと眠り通しだと聞きました。昨夜、極度の疲労と身体中の傷で熱が出て臥せっておられると聞いて、様子を見に朝からこちらに来させていただいたのです。」
「そうか…悪かったな…。」
「何も悪くありませんよ。私の為にして下さったことですもの。それに、私がリブのお世話をしたいのです。本当は昨日から来たかったのですが…。」
口を噤みリベリオの頬にそっと触れる。少し伸びた髭のショリショリとした感触を確かめるように撫でていると、手首を掴まれ引き寄せられた。
「ひゃあ!!」
ポスッと軽い音を立ててリベリオの胸に倒れ込み、そのまま抱き締められた。熱があるせいかリベリオの身体が熱い。心臓の鼓動が耳に触れ、ナリアは心地良い音のリズムを感じながら瞳を閉じた。
「お前の身体…冷えてて気持ちいいな。布なんかよりこっちの方がいい。」
「フフ、熱のせいでリブのお身体が熱くなっておられるのですよ。でも…温かいですね。気持ち良くてこのまま眠ってしまいそうです。」
「そうか、それじゃあ…」
「え?え?あっ…!」
リベリオはシーツをめくり、ナリアの身体を引き込んで抱き締めた。腕に頭を乗せ、肩と腰に手を回す。ナリアの腕を自分の背中に回させて互いの胸を密着させた。
シーツを肩までかけられ、汗と埃に塗れた男の匂いに包まれる。ここへ運ばれた時に軽く身体を拭いて着替えてはいるものの、何日も身体を清めていない。決して良い香りではないが、頭の奥を刺激するようなリベリオの匂いに、ナリアはクラクラと眩暈がした。
無意識に匂いを胸いっぱいに吸い込んでいる事に気が付き、ナリアはハッとして身を強張らせた。
----ど、どうしよう。私の胸の音、すごい事になってる。これ絶対…
「ハハ、お前胸の音すごいな。」
「ちょ、ちょっと嫌です!離れて下さい!」
「おっと。」
ナリアが咄嗟に胸の隙間に手を入れようとするのを防ぐように、リベリオは腕に力を込めて隙間を無くした。
「…いいから、このままお前の音を感じていたいんだ。」
「リブ…。」
「安心する。お前の胸の音も、匂いも、体温も、全て俺のものだ。」
「またそのような恥ずかしい事を…。」
「ナリー。」
リベリオは身体を起こしてナリアを見下ろした。髪を撫で、額に口付けを落とす。温まり上気した頬と潤んだ瞳で自分を見上げるナリアと目が合い、腰に回した手に力を込めた。
「愛してる。ずっと側にいてくれ。」
リベリオは目を閉じ、返事を待たずにナリアの唇にそっと重ねた。
*
リベリオの部屋から出て、カレイラは厨房へと足を向けた。廊下を歩きながら、ナリアが側にいると分かった時のリベリオの表情を思い出す。
----あんなに穏やかな顔を見たのは、何年…二十年以上振りぐらいかしら。
幼い頃は夫の見ていないところで甘やかしてはいたものの、それでも父親に冷たくされる息子の沈んだ気持ちを救う事はできなかった。そしていつの日からか、自分の元へも来なくなってしまった。
----あの子自らナリアさんに求婚したと聞いた時は正直驚いたけれど…。あの顔を見れば、彼女の事を本当に愛しているのが分かるわね。
フフ、と笑って階段を下りる。母親としては長年見守ってきた息子を取られた嫉妬心が無いわけではないが、それ以上にリベリオに生きる意味を持たせてくれたナリアへの感謝の方が大きかった。
それよりも、と階段の途中で足を止める。手すりに手を置き、二日前の夜を思い返した。
----穏やかな顔と言えば…。一体、何があったのかしら。
*
二日前の夜遅く、カレイラがそろそろ寝室に入ろうと立ち上がったところで、若い侍女が慌てて声をかけてきた。
「奥様!奥様!旦那様がお戻りになられました!リベリオ様もご一緒です!」
「何ですって!?分かりました、すぐに行くわ。」
侍女から状況を聞き、カレイラは足早に玄関へと向かった。
----リベリオが倒れてる!?何てことなの!!
玄関が見えるところまできて、辺りが騒然としている状況に心臓が早鐘を打つ。息を切らせて馬車に駆け寄ると、リスターの膝の上に頭を乗せるリベリオの姿があった。顔はやつれ、全身がボロボロで血だらけになっている。
カレイラは目を見開き、ガタガタと震えて絶望の声を上げた。
「あ…あ、あなた…リベリオは…リベリオに何が…。」
「落ち着け、カレイラ。リベリオは寝ているだけだ。少々怪我をしているが、大したことは無い。」
「ね、寝ている…本当に、本当ですか…?では、無事なのですね?」
震える手で裂けた服の隙間からリベリオの身体に触れる。その身体の熱さにハッと我に返り、急いで侍女に指示を出した。
「大変、熱を出しているわ!すぐにベッドの用意を。それから身体を拭くからお湯を用意して頂戴。あなたはリベリオの着替えと、頭を冷やす水と布を用意して。突然嘔吐するかもしれないから、桶もね。あなたはすぐに医師を呼んできて頂戴。さぁ皆、急いで!」
カレイラの号令で使用人たちが一斉に動き始める。リベリオを運ぶために体躯の良い兵を呼ぼうとしたところで、後ろからリスターが静かに制した。
「待て。リベリオは私が運ぶ。」
「え…?」
カレイラは咄嗟に振り向き、目の前の光景に目を丸くした。リスターが膝の上にあるリベリオの額を優しく撫でながら穏やかに微笑んでいる。カレイラがその表情に釘付けになったまま固まっていると、リスターは身を捩ってリベリオの腕を肩にかけた。
「あなた、リベリオはもう子供では無いのですよ。いくらあなたでも倒れてしまいますわ。」
「いや、大丈夫だ。カレイラ、すまないが背中に乗せるのを手伝ってくれ。」
「…分かりました。」
カレイラが後ろから支え、リスターの背にリベリオを預ける。すっかり父親の背中を覆い隠すまで大きくなった息子を後ろから支え、寝室へと運んだ。
靴を脱がせ、ベッドに横たわらせる。二人で汚れた服を脱がせ、体中の傷に息を呑んだ。
「一体、何があったのです…。しばらく遠出をするから朝食は要らないと言われていましたが、まさかこんな姿になって帰ってくるなんて…。」
「カレイラ、リベリオは騎士だ。いつどこで戦いに巻き込まれるか分からないんだ。これぐらいの事で泣いてどうする。」
「うぅ…ですが…。」
「とにかく、寝ているだけだから気をしっかり持ちなさい。もうすぐ侍女が来る。さっきの威勢のいいお前でいるんだ。分かったな。」
「後は頼んだぞ」と言い残し、リスターは寝室を後にした。
*
リスターはリベリオと帰った翌日の朝から王宮へと出かけて行った。そして昼前に一度屋敷に戻って昼食を食べた後、しばらくしてから再び王宮へと向かった。屋敷に戻るのは夕方頃だった。
何をしてきたのか、疲れた顔をして帰ってきた割には楽しそうにしている様子にカレイラは首を傾げた。そして今朝も王宮へ行くと言って出かけている。
----もうそろそろお戻りになられる頃かしら。
カレイラが厨房に足を踏み入れようとしたところで、突然後ろから声をかけられた。
「カレイラ、リベリオの様子はどうだ?ナリアさんが来ているのだろう?」
「あら、お帰りなさいませ。えぇ、先ほど目を覚ましましたよ。まだ少し熱がありますが、ナリアさんが側にいてくれてますので飲み物と何か口に入れられそうなものを持って行こうと思いまして。」
「そうか。では少し様子を見てこようか。」
「あ、あなた、少々お待ち下さい。」
「うん?どうした?」
カレイラは咄嗟に呼び止めたものの、何を言えば良いのか言葉を探った。リベリオの状態を見る限り無体な事はしないとは思うが、表情を見る限り何かはしてそうな気がする。母親の感というよりも、女の感がそう告げていた。
「何だ?何も無いなら行くぞ。」
「え、いえ…その、そうです!これから飲み物を運ぶのを手伝っていただけませんか?」
「何を言っている。そんなもの、侍女にやらせれば良いだろう。」
リスターがジロリとカレイラを見据えるが、今この時のカレイラには効かなかった。背を向けようとするリスターの外套をガシッと掴み、見た事の無い気迫でリスターに食い下がる。
「何があったのかは存じませんが、リベリオと仲直りなさったのでしょう?でしたら、目が覚めた時にあなたの見せるさり気ない優しさが、今のあの子には一番心に沁みると思うのです!私ならそう思います!」
カレイラの真剣な眼差しと近くまで迫る顔に軽く仰け反り、リスターは溜息を吐いた。カレイラに向き直り、優しく微笑む。その表情を見てホッと胸をなでおろすカレイラを残し、リスターは踵を返した。
「分かったから、今は侍女に持ってこさせなさい。私はリベリオの様子を見てくる。」
「え!?え、あ、あぁー…。」
カレイラの弱々しい声が後ろを追う。スタスタと歩いて行くリスターの背中を見つめながら、カレイラは心の中で手を合わせた。
*
リスターはリベリオの寝室の扉の前で立ち止まり、扉をノックした。
「リベリオ、ナリアさん、私だ。リスターだ。」
声をかけたと同時に、部屋の中からガタガタと音が聞こえてきた。途中で何かを蹴り飛ばしたような音まで聞こえてくる。リスターは慌てて扉を開けて中に入ると、鳩尾を押さえて背を丸めるリベリオの姿が目に入った。
「どうした!?まだどこか…うん?」
サッと床に目を移す。嘔吐物の入った桶が、なぜか部屋の真ん中という不自然な場所に置かれている。そのままチラとナリアに視線を移せば、髪がほつれてドレスの裾がよれていた。
つかつかとベッドの側まで歩み寄り、呻くリベリオを半目で見下ろす。ベッドにナリアの毛を見つけ、思いきり頬をつねり上げた。
「何をやってるんだお前は!怪我人の分際で!!」
「イダダダダ!!何も!何もしてません!!」
「お、お父上様、本当です!ちょっと口付けをされただけで何も…」
「口付けだと!?ベッドに引っ張り込んでか!!お前という奴は少しの間ぐらい大人しくできんのか馬鹿者!!」
「イデデデデ!!」
更に力を込めて頬をつねり上げる。フンッと鼻を鳴らして手を離し、リスターは椅子にドサリと座った。
「すまなかったな、ナリアさん。わざわざ看病しに来てもらったのに、この有様では申し訳が立たん。」
「いえ、そんな。私も時と場所を考えず彼に甘え切ってしまいましたから…。」
リスターがジロリとリベリオに視線を移す。頬を擦り、すっかり萎れ込んだ息子の様子に呆れた溜息を吐いた。
「扉が開いたままですが、何か…あら。」
侍女と共に部屋に入ってきたカレイラは、三人を見た瞬間口を噤んだ。明らかに何かをしていて、リスターに悟られた空気になっている。不自然な位置の桶がそれを物語っていた。
「リベリオ、起きられるのなら少しお茶を飲みなさい。スープに浸したパンもあるの。食べられるかしら。」
「はい。頂きます。」
カレイラは侍女にお茶と食事の用意をさせ、ナリアはリベリオの身体を起こしてクッションを背にあててベッドにもたれさせた。侍女に桶を洗うよう指示を出して下がらせ、ナリアに食事の介助を任せた。
少しずつお茶を口に含み、喉を潤す。まだ身体に熱さを感じるが、ここ数日碌に食べていなかったせいか、猛烈な空腹感に襲われた。
「腹が減った…。」
「良かった、食べられそうですね。トレイを支えておきますから、ゆっくり召し上がって下さい。」
ナリアがホッとした顔で微笑むのを横目に、リベリオはボソリと呟いた。
「…食べさせてくれないのか?」
「え?」
部屋がシンと静まり返る。呆気にとられて目を丸くする両親などお構いなしに、リベリオは甘い声で続けた。
「え?えぇ!?」
「俺、まだ手が震えるんだよ。ほらな。落とすかもしれない。だからナリーが食べさせてくれ。」
「ダメです!ご自分で召し上がって下さい!」
「何も今そんな風に断る事無いだろう。自分で食べるのが辛いと言っているのに。俺の事愛してないのか?」
「それは今関係ありません!ご両親の前で何て事を仰るのですか!」
「俺は誰の前でも言えるぞ。なぜなら俺はお前の事を心から愛して…」
「分かりました!分かりましたから、もうお止め下さい!さ、早く召し上がって下さい!」
ナリアは顔を真っ赤にしながらリベリオの口にスプーンを運んだ。満足げに口を開けるリベリオの顔に、不覚にも胸がときめいてしまう。ナリアはできるだけ両親の方を見ないようにしながら、黙々とスプーンを口に運んだ。
クスクスと笑うカレイラの横で、リスターは再び呆れた溜息を吐いた。
「全く、お前という奴は…。もういい、そのまま聞け。実は今第五騎士団が大変みたいでな。団長のニックスと副団長のお前が揃って怪我をしているから、今ルミオ君が一人で対応しているんだ。」
「ルミオが?そうか…そうですよね。私たち二人とも…そういえば、団長はどうなさっているのですか?」
「今は王宮の診療室で治療を受けている。命に別状は無いが、血を流し過ぎたようでな。回復にはしばらく時間がかかるそうだ。」
「そうですか…。では、私は明日から仕事に戻ります。ルミオ一人では負担がかかり過ぎますから。」
ナリアのスプーンを持つ手がピタリと止まる。口を開けて待っていたリベリオの間抜けた顔を見ながらピシャリと言い放った。
「リブ、いけません!こんな状態でお仕事なんて無茶です!」
「仕方無いだろう。ルミオ一人で雑用から訓練から部下への指示までする方が無茶だと思わないか?今奴が倒れたらそれこそ誰もいなくなってしまうだろう。」
「それはそうですが…。」
リベリオが再び口を開ける。ナリアは渋々スプーンを運び、小さく息を吐いた。
「その事なのだが、お前が伏せている間は私が代わりに訓練を行う事になった。」
「父上がですか!?」
「そうだ。昨日の朝、少し気になって団長室に向かったら、ルミオ君がもう仕事を始めていてな。お前たちの分も処理できるものはしておくと言っていた。それでも補佐官の自分にはできる事は少ないと肩を落としていたが…。」
「そうですか…。悪い事をしたな…。」
「ただ、訓練までは手が回らないから代理の者に任せると言うので私から申し出たのだ。」
「そうでしたか。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
リベリオが頭を下げるのを見て、リスターはフンッと鼻を鳴らした。
「息子たちが揃って怪我をしたんだ。お前たちの穴埋めぐらいどうという事は無い。それより…」
リベリオが顔を上げて父親の顔を見る。厳めしい顔が一層険しくなっていて、リベリオは軽く仰け反った。
「お前のとこの部下はどうなってるんだ!あの程度の訓練で根を上げるなど、騎士の風上にもおけん!!」
「はい?」
「私はお前やアレニス、ニックスを鍛えた時の半分程度しか奴等に課していないのだ。それを『ぜぇぜぇ、はぁはぁ』と、いちいち鬱陶しい!いつまでもへたり込んでないでさっさと立てというんだ!!」
リスターの怒りが爆発する。苛立たし気にジロリとリベリオを睨みつけ、声を低くした。
「お前たちが普段いかに生温い訓練をしているかがよく分かった。そんな事では国の一大事に何の役にも立たんわ!いいか、お前たちが復帰するまで私が直々に鍛え直しておいてやるから、お前は身体を治すことに専念しろ。分かったな。」
「は、はい…よろしくお願い致します…。」
「用はそれだけだ。もうすぐ午後の訓練があるから、私は食事をしてくる。ナリアさん、君も疲れているだろうからほどほどにな。」
「はい。ありがとうございます。」
リスターは立ち上がり、カレイラと共に部屋を後にした。残された二人に沈黙が落ちる。ナリアはスプーンを差し出してリベリオの口の中にそっと入れた。
「お父上様が指導して下さるのなら安心ですね。」
「いや…。」
モグモグと口を動かし、かつてのリスターの稽古を思い出す。朝から晩まで課せられた、人を人と思わない過酷な訓練を脳内で再生しただけで総毛だった。
「俺…きっと部下たちに恨まれるかもしれない…。」




