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背中に悪い大人の仮面を隠して美しい笑顔を浮かべ、ルマリナはナリアに話の続きを促した。
「リブの家には泊まらなかったの?」
「いえ、泊まりました。でもその…今夜、リブの妻にして下さいと言ったのですが…。」
「あら!結構ハッキリ伝えているじゃない。愛する女がそこまで言ってるのだもの、リブはもちろん貴女を抱いたのよね?」
「いえ、それが…。」
ナリアはポツポツと話し始めた。見つめ合った後、熱く荒々しいキスをしながら身体中を撫でられ、抱き上げられ、寝室へと向かったところまでは良かった。苦しそうな表情で息を荒げながら首筋に口付けを落とされ、今まで知らなかったリベリオの男の表情に頭の奥が痺れ出したところで、突然リベリオの身体がピタリと止まった。
「で、どうしたの?」
「そのまま降ろされて、居間に連れ戻されて、椅子に座らされて、一人で寝室に入って掃除を始めました。」
「は?何やってんのアイツ。その後は?」
「『俺は椅子で寝るから、お前はベッドで寝ろ』と言われました。」
ナリアの言葉にルマリナは目を点にしたまま絶句した。娼館では部屋に入るなり、こちらを見向きもせずにいきなり押し倒された事が何度あったかわからない。女を労わるという事を知らないのではないか、と考えた事もあるぐらい、『その時』のリベリオの荒々しさは尋常ではなかった。翌朝、身体中が軋んで起き上がれなくても、優しい言葉の一つもなく『じゃあな』の一言でさっさと部屋を出て行く背中を何度見送ったことだろう。
ルマリナがナリアの顔をまじまじと眺めていると、ナリアが萎んでいる事に気が付いた。小さくなって肩を落とし、ポツリと呟く。
「私、魅力が無いのでしょうか…。」
「え?」
「だって、何もせずに別々で寝ようだなんて。物凄く勇気を振り絞ったのに…。」
枯れた葉っぱのような声で話すナリアに、ルマリナは咄嗟に声を上げた。
「何言ってるのよ!貴女はとても魅力的よ。たぶん彼は…少し緊張?…をしていたと思うのよ。」
自分でも苦しい言い訳に冷や汗が出る。『その時』のリベリオに緊張どころか本能以外の感情など皆無であることは誰よりも知っている自信があった。動揺を隠すためにカップに口を付ける。お茶が喉を通る瞬間、「そんなはずはありません!!」と言うナリアの声に思わずむせ返った。
「ゴホッ、ゴホッ、ビックリした…。」
「女性の身体を知り尽くしたリブが、緊張なんてするはずありません!」
「まさかここでハッキリ否定するとは思わなかったわ。しかも当たってるし。」
「きっと不慣れで不格好な私を見て一気にその気が無くなったのです。だって、ずっとルマリナさんのような綺麗な人を相手にされてたのでしょう?ルマリナさんと私とじゃあ、比べられて当然ですもの…。」
「何言ってるのよ!」
ルマリナが身を乗り出して言葉を被せると、ナリアは眉尻を下げて視線を上げた。その表情があまりに幼く頼りなげで、ルマリナは少しリベリオの気持ちが分かる気がした。
「さっきも言ったけど、貴女は本当に魅力的よ。私が男だったら放ってはおかないぐらいにね。リブが貴女を抱かなかったのは、それだけ貴女が大事だからじゃないかしら。」
「でも…。」
「あのね、その気になった男が途中で止めるのって物凄く大変な事なのよ。」
「大変、ですか?」
「そうよ。何日も…いいえ、何か月も餌を食べていない獣の前に「どうぞ」って肉を置いたら、どうなるかしら?」
「それは…すぐにでも飛びついて食べてしまうのではないでしょうか。」
「普通はそうよね。それを食べずに止めるのよ。肉に牙まで刺したのに。あの男にそんな真似をさせるなんて、ナリーじゃなきゃできない事よ?だからもっと自信を持ちなさい。」
ナリアはキョトンとした顔でルマリナを見た。リベリオと自分にあった出来事に、獣と肉が何の関係があるのか分からない。
----獣が肉に牙を刺した?肉に…牙…食べずに止める…?
「あっ」という声を出し、ナリアは言葉を詰まらせた。言い換えれば『愛する女を腕に抱いて、熱いキスまでしたのに止めた』という事だと思い至り、みるみる顔が赤くなる。ルマリナが「ヤレヤレ」と安堵の息を漏らすのを横目に、バツの悪い声でポツリと呟いた。
「あの…もしそれが本当なら、私、リブに申し訳ない事をしたかもしれません…。」
「何?何をしたの?」
ルマリナが身体を起こして目を輝かせる。ルマリナにしてみれば、リベリオが寸前で肉を我慢しただけでも驚嘆ものだった。それなのに、目の前の小動物のような小娘に更に何をされたというのか。
「その…あの夜はとても寒かったので、リブを一人で椅子で寝かせるのは申し訳ないと思って…。」
「まさか…。ねぇ、嘘でしょう?もしかして…」
「私も寒かったので、『一緒に寝ましょう』と半ば強引にベッドに引っ張ったのです。」
ルマリナはあまりの衝撃に開いた口が塞がらなかった。お預けだけでも瀕死寸前だっただろうに、その上ベッドを共にしようとは。無知と無垢の合わせ技の恐ろしさに、ルマリナはゴクリと唾を飲み込んだ。
「そ、それで朝まで何事も無く二人で寝たの?」
「はい。私は朝から動き通しで疲れていましたし、その…リブにそのつもりが無いと思って緊張の糸が切れたのかすぐに寝入ってしまいました。」
「ク…ククク…。で、リブは?翌朝、リブはどうだった?」
「いえ、特に何も。とても普通でしたよ。普通に『おはよう』と言って、抱き締めてくれました。でも…」
「フククク…、でも?」
「その時、何か固いものがお腹に当たったのです。夕食の時に使ったグラスだと思って、割れると危ないので咄嗟に取ろうと手を伸ばして掴んだら、物凄い勢いで腕を掴まれました。」
ルマリナが盛大に噴き出し、テーブルを叩いて笑いだした。あまりの振動に、大きなお腹が上下左右に揺れている。呆気に取られるナリアを置いて行くように、お腹に手を置いて身を捩った。
「アハハハハ!グ、グラスだって!アーハハハハハッ!!」
「ルマリナさん!?」
「だ、だって、貴女それをつ、掴んだんでしょう?」
「え?はい。でもほんの一瞬でしたよ。リブに離されてしまいましたから。『グラスがあるから』と言ってもう一度取ろうとしたら、『このまま置いといても大丈夫だ!』って。どうしたのでしょうね。」
「ヒーッ!ヒーッ!ちょっと、もうやめて!貴女、実は凄い女ね。感服したわ!」
大笑いしながら両手で顔を覆うルマリナに、ナリアはふと同じような光景を見たことがあるような気がした。
----なんだか、前にもこんな事があったわね。確か、アセロ様の性癖をリブに話した時だったかしら。
本当に似てるな、と溜息を吐きつつ、残りのお茶を飲み干した。
*
ルマリナと話し終え、宿屋を出る頃には陽が落ちようとしていた。扉の前で手土産にと店で売り出している焼き菓子を受け取った後、ナリアはルマリナを優しく抱き締めた。
「ルマリナさん、ありがとうございました。…無事に産まれますように。」
少し足を伸ばして頬にキスをする。ナリアがニコリと微笑むと、ルマリナも目を細めた。
「ありがとう。産まれたら、赤ちゃんを抱きに来てくれるかしら。」
「もちろんです!楽しみにしていますね。」
挨拶を済ませて扉を開け、待機していたシオンとピンスに声をかけた。
「シオンさん、お待たせしました。」
「お嬢様。先ほど得た情報ですが、スラム区域にある廃屋で次々と火事が起こり、現在もまだ燃え続けているそうです。規模が大きく自警団が総出で消火に向かっているようですが、火事が起こる日は何かと危険ですので馬車の速度を速めようと思います。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
シオンが胸に手を当て一礼する。見送りに出ていたルマリナとターニオに手を振りつつ、来た時と同様に前後を挟まれて馬車へと向かった。ふと見上げれば空を薄い雲が覆っている。吹く風には、雨の匂いはしなかった。
馬車に向かう途中、宿屋との中間地点に待機していた兵を拾うにつれて、厳めしい顔の男たちをゾロゾロと連れて歩くナリアの姿にまたしても注目が集まった。大分暗くなってきたからか、人通りが少なくなっているのがせめてもの救いのように感じる。
----今日だけ。今日だけよ。大丈夫、明日には皆忘れてくれるわ。
できるだけ顔を見られないよう俯きながら歩き続け、馬車まであと少しという所で突然怒声が響き渡った。
「何だ貴様ら!!全員戦闘態勢に入れ!お嬢様をお守りするんだ!」
怒声と同時に四方から金属音が鳴り響く。ナリアは咄嗟に後ろを振り向くと、前を歩いていたはずのシオンの背中が目の前にあった。
「賊です!お嬢様、侍女殿、馬車までお連れしますから走って下さい!!」
「え!?は、はい!」
「逃がすか!その女を捕らえろ!!」
布で顔の半分を隠した賊の一人が剣を振り上げナリアに向ける。剣先をピタリと据えられ、ナリアの背中がゾクリと冷えた。
----わ、私!?私を狙ってるの!?どうして!?
シオンがナリアの盾になりつつ周りを警戒しながら馬車へと向かう。背中から聞こえる金属音と悲鳴の音に振り返ろうとした時、それを制するようにシオンに腕を引っ張られた。
「お嬢様!振り向いてはなりません!早く走って!!」
「は、はい!サフィ、大丈夫!?」
「大丈夫です!お嬢様、お早く!!」
「逃がすな!!全員で取り囲め!!」
馬車に辿り着いた途端乱暴に押し込められ、サフィがそれに続く。サフィの方に振り向いた瞬間、迫る敵の姿にハッとして思わず叫び声を上げた。
「シオンさん、後ろ!!」
シオンが即座に身を翻して一撃で切り伏せる。弾けた血飛沫に悲鳴を上げるナリアに、シオンが大声で鍵を閉めるように指示を出した。同時に周りを見渡し、顔を顰める。馬車の出入り口の守りをピンスと固めながら、飛びかかる敵を端から切り伏せた。
扉の外の喧騒と時折馬車にぶつかる衝撃に肩を震わせながら、サフィは顔を真っ青にして身を寄せた。
「お、お嬢様、何が起こっているのでしょう…。」
「わからない。でも、私を狙っているようだったわ。」
ナリアはサフィの肩に手を添え、外の音に耳を澄ます。せめて自分だけでも気丈に振る舞わねばと、ナリアはサフィの肩を抱き締めた。
----どうしよう。私を守るために彼らが…!
男たちの吠えるような叫び声がこだまする。ナリアはギュッと目を閉じてサフィと抱き合っていると、突然聞き慣れた男女の叫ぶ声が耳を貫いた。
----この声、まさか…!
ナリアは窓に飛びつき外を見た。視線の先では、ルマリナとターニオが賊に腕と髪を掴まれ引きずられている。ナリアは震える手で口を押さえ、目の前の光景に絶句した。
「ナリア・グラナード!出てこい!出てこなければこの者たちの命は無いぞ!」
男がルマリナの髪を引っ張り地面に引きずり倒した。お腹を庇い苦痛に顔を歪めるルマリナに、ターニオは悲痛な叫び声を上げた。
「やめてくれ!彼女に乱暴しないでくれ!頼む、やるなら私を先に…!」
「やかましい!!」
「ぐああぁぁぁ!!」
「きゃあぁぁ!ターニオ!ターニオ!!やめてぇぇ!!」
ターニオの腕に鮮血が走る。飛び散る血がルマリナの顔にかかり、泣き叫びながらターニオに腕を伸ばしていた。男はそれを制するように髪を引っ張り、後ろに倒して腹を前に突き出させた。
「ナリア・グラナード!出てこないのならば先にこの女の腹を引き裂く!」
剣先をルマリナの大きな腹に押し当てる。ルマリナの喉からヒュッと音が鳴り、ジワリと血が染み出すと同時に、ナリアは馬車から飛び出した。足が震え、唇が戦慄く。キッと睨み据える瞳には、恐怖よりも怒りが込み上げていた。
「待ちなさい!その人に手を出さないで!!」
「ナ、ナリー…」
「お嬢様!なりません!早く馬車にお戻りください!!」
シオンが叫びながらナリアの前に立つ。背中で馬車まで押し戻そうとするシオンを押しのけ、ナリアは前に歩み出た。
「シオンさん、下がって下さい。」
「お止め下さい!あれは平民です!平民を助けるためにお嬢様が危険に身を投じるなど…」
ナリアがピクリと反応する。ゆっくりとシオンに振り向けば、その鋭利な氷刃のような眼差しと物言わせぬ気迫にシオンは思わず息を呑んだ。
「シオン、彼らは私の大切な友人です。その友人を侮辱するような発言は誰であれ許しません。口を慎みなさい。」
「は…あの…。」
「良いですね。二度はありませんよ。」
ナリアはそう言い捨てて前を向き、声を張り上げた。
「貴方達も、全員剣を収めなさい!用があるのは私一人のはず!これ以上、無用な殺傷は止めなさい!」
場に静寂が落ちる。静かに前に進み、男に視線を刺したままルマリナを抱き締めゆっくりと立たせた。
「ルマリナさん、大丈夫ですか?申し訳ありません、私のせいで…。」
「あぁ、ナリー…貴女こんな事をして…」
「ターニオさんも、申し訳ありませんでした。大切な奥様に危険が及んだこと、心からお詫び申し上げます。」
ナリアはハンカチを取り出し、ターニオの腕に巻き付けた。ルマリナをターニオに託し、シオンの元まで行かせてから男に向き直った。
「さぁ、これで良いのでしょう?私を連れて行きなさい。その代わり、ここにいる者にはこれ以上手出しをしないで。」
「ナリー!ダメよ!行ってはダメ!!」
「ルマリナ、待て!お前が行ったら彼女の行動が水の泡になる!」
ナリアが男を睨み据える。グイと腕を掴んでナリアを覗き込む賊の表情に、シオンは奥歯をギリッと噛み締めた。
「お嬢様!」
「良いだろう。だが、手足は縛らせてもらう。いいな?」
ナリアが頷くのを合図に男が指を鳴らした。護衛の者たちが次々と地面に押さえつけられ、縛り上げられていく。シオンが地から睨み上げながら、声を張り上げた。
「お嬢様を離せ!!貴様らぁ!!」
「おい、そいつを黙らせろ。」
賊の一人が後ろから頭を殴りつけ、口に布を噛ませた。
*
暗闇の中、恐る恐る目を開けて窓の外を見る。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、辺り一面が静まり返っていた。周りを警戒しながら震える手で扉を少し開け、その隙間から身を捩ってすり抜ける。何かにつまづき、足元に転がった無残な賊の姿を見て悲鳴を上げそうになったが、咄嗟に口を押さえて飲み込んだ。
----何てことなの、ナリアお嬢様が…!
馬車の陰に身を潜め、辺りを見渡す。下手に関わらないようにと見て見ぬ振りをして通り過ぎる者たちの影の合間に、手足を縛られた護衛の者たちやターニオ夫妻がいる事に気が付き、体勢を低くして近付いた。
「シオン様!シオン様!大丈夫ですか!?」
口を縛られ転がされた男の元へ行き、布と縄を解いた。
「侍女殿!無事だったのだな!」
「はい。ナリアお嬢様から、もしもの為に身を潜めておくようにと申し付けられておりました。」
「そうか…流石だな。」
「はい?」
「いや、何でもない。とにかく私はすぐに主に知らせに行く。皆を開放するのを手伝ってくれ。」
「はい!」
サフィは順番に縄を解いて回り、ターニオ夫妻の元へと急いだ。何度も冷たくなった身体につまづきながら、無我夢中で縄を解く。血の匂いが鼻を突き、気を抜けば倒れてしまいそうになるのを何とか堪えながらターニオの縄を解いたところでへたり込んだ。
「サフィ、大丈夫?」
「ルマリナさん、ご無事で良かったです…。お、お嬢様が…うぅぅ…。」
「…私たちのせいだわ。あの子ったら…ううん、とにかく早くリブに知らせなきゃ。ターニオ、怪我をしてるところ悪いのだけれど、すぐに王宮まで馬を走らせてほしいの。」
「あぁ、わかっているさ。すぐに行ってくる。サフィさん、申し訳ないがルマリナの側にいてやってくれませんか。今夜は部屋を取っておきますから。」
「はい、分かりました。お気を付けていってらっしゃいませ。」
ターニオがニコリと微笑む。腕に巻かれたハンカチにそっと触れ、ターニオは宿屋へと走った。
*
ターニオが王宮に着く頃には空はすっかり暗くなっていた。息を切らせて門番の元へ行き、馬から降りて身元を証明するものを見せた。
「ふむ。この、ギルド公認の宿屋なら聞いた事がある。お前はそこの主人か?」
「はい!第五騎士団副団長のリベリオ・デガート様にお会いしたいのです!」
門番がチラリとターニオを見る。上から下まで眺め、フンッと鼻を鳴らして証明書を突き返した。
「ダメだ。たとえ身元が分かっても、お前のような者を王宮に入れるわけにはいかん。帰れ。」
「そ、そんな!リベリオ様のご婚約者様の一大事なのです!お願いです!会わせて下さい!!」
ターニオが必死に食い下がる。泥にまみれ、血を流した男の形相に門番は顔を顰めた。
「黙れ!さっさと去らねば牢に入れる事になるぞ!!」
「そ、そんな…。」
ターニオはチラとハンカチを見る。結ばれたハンカチの縁を見て、咄嗟にハンカチを解いた。
「こ、これを!これをご覧ください!」
「まだ何か言うか!!これが何だと…うん?何だこの不細工な刺繍は。」
「そうではありません、ここに書いてある文字です!」
「文字?文字かこれ?マ、マリ…ナリア・グレ…グラ…ナー…ド。ナリア・グラナード、か。え…グラナード…?」
「そうです!これは、あのルミゴン・グラナード侯爵様のご令嬢、ナリア様のものです!そして、ナリア様はリベリオ様のご婚約者様なのです!」
「な、何だとぉ!?」
門番の顔が一変して真っ青になる。近くにいた別の門番を代わりに立たせ、急いで第五騎士団の元へと案内した。




