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花の香りを含んだ湯気が立ちこめる浴槽に身を預け、ナリアは天井を見上げていた。アンバルシア城の大広間で譲渡の宣言を受けてから、もうすぐ三月が経とうとしている。
二の月に入る少し前からアンバルシアの現状を把握する為にと、ルミゴンを通して彼の地からの報告書に目を通すようになった。報告書には三月先までの農作物の収穫見込み量から城内の備品の補充費用まで領内で起こった事が全て記され、領主であるルミゴンの元に送られてきている。
いつものように普段の事務仕事と並行して報告書を読み進めていたある日、ナリアは書類に書かれたルミゴンの指摘文を見て唐突に疑問を感じ、首を傾げた。
ナリアは目を閉じ、フゥ、と息を吐いた。その時感じた疑問が消えないまま今に至っているが、クレトンとロンドの話を聞いてからというもの、その根はより深くなった気がする。
----お義父様は本当に、私を領主にと望んでおられるのかしら。それにしては…
現実味がなさすぎる。
ナリアに目を通すようにと渡される報告書は必ずルミゴンを通している。そしてそれらは全てルミゴンによって決裁された後のものであり、『これについてどう思うか』と聞かれたことは無い。父クレトンの手伝いをしていた時は、領地から送られてきた報告書を片手に何度も話し合ってきただけに、その差異にはやはり違和感を感じてしまう。
ナリアにしてみれば、アンバルシアから送られてきた報告書全てを見ているかどうかはわからないのだ。
----私が目を通しているのは、お義父様が一度目を通されたもの。という事は、私に見せても良いと判断されたものだということではないかしら。
両手でお湯をすくい、花の香りを胸いっぱいに吸い込む。もやもやする気持ちを吹き飛ばそうと、そのまま何度も顔を洗った。顎を伝って流れる水が、音を立てて水面に落ちる。途中で手を止め、両手に視線を落とした。
----考えすぎ?でも、だったらこの違和感は何?
考えても仕方がない、と溜息を吐き顔に残った水滴を落とした。顔に触れる指先がほんのりと赤くなり、温かい。久しぶりに実家に帰ったからか、贅沢にもたくさんのお湯を用意してもらっている。湯が冷めるギリギリまで浸かろうと浴槽にもたれれば、蕩けそうな心地良さに自然と口元が緩んだ。
----はぁ、気持ち良い。落ち込んだ日のお風呂って、本当に…
ナリアはハッとして身体を起こした。その反動で水面が大波に揺れる。ゆらゆらと揺れる己の身体が元の形に戻る間に、クレトンの言葉を思い返した。
----落ち込んだ…
ナリアが領主になる事を反対した『理由』。ナリア自身、人を裁かねばならない事をなぜ初耳だと感じたのか。なぜ自分には無理だと震えたのか。なぜそんな自分に落ち込んだのか。
----そうだわ。そういえばあれだけの報告書があったのに、村の中で起こった揉め事のような些細なものはあっても、罪人の処刑や刑罰に関するものは一切見当たらなかった。おかしいわよね。それじゃあまるで、アンバルシアには全く犯罪が無いってことになるじゃない。
戦の有る無しに関わらず犯罪は隣近所で起こるのが世の常ならば、報告が一つも無い事の方が異常ではないか。もし意図的に隠したとして、次期領主にと望んでいる自分に見せない理由は何なのか。
ナリアはふと、大広間でのルミゴンの言葉を思いだした。
----『ナリア、彼は昨夜紹介した騎士団長のレアンだ。ここアンバルシアの軍事活動全般を指揮している。彼からは…まぁ、それは後回しでいい。』
途端に心臓が鼓動を早くする。息が浅いのはのぼせたからか、それとも胸の息苦しさからか。
わからないまま、ナリアは冷めた浴槽から立ち上がった。
*
翌日、ナリアはエドラとメラティスと共に街へと出かけた。女同士で出かけるといえば専ら買い物が中心だが、この日はそれとは別の目的があった。
「お母様、どこまで行かれるのですか?」
馬車の窓からキョロキョロと外を眺めるメラティスが、大きな瞳を瞬かせてエドラの方を向いた。
「フフ、着いてからのお楽しみよ。私もこの前聞いたばかりなのだけど、間に合って良かったわ。」
街の中心地を抜けて大通りを走り続けていると、いつの間にか辺りは順番待ちの馬車で混雑していた。歩いている者も皆同じ方向に向かっている。メラティスが再びキョロキョロと見渡しながら声を上げた。
「まぁ、何なのこの人だかりは!ねぇお母様、この先に何があるのですか?」
「それは…うーん、やっぱり内緒よ。驚く顔が見たいもの。」
「え~!」
「もうっ!」と頬を膨らませるメラティスを、ナリアはクスクスと笑って眺めていた。中身がまだまだ子供な妹は、嫁ぎ先ではさぞたくさんの猫を被っているに違いない。
馬車はゆっくりと進み、ようやく停車所につく頃には陽が高くなりつつあった。馬車から降り、目の前に広がる公園とその光景を見て、二人の娘は大きく口を開けて歓声を上げた。
「まぁぁ!!」
「何これ素敵!!お母様が仰っていたのはこれですか!?」
「フフ、そうよ。さ、行きましょうか。」
公園へと近付くにつれ、焼き菓子の甘い香りやスープの香りが風に乗って漂ってくる。一歩足を踏み入れれば、公園の中央にある大きな噴水をぐるりと囲むように露店が立ち並び、遠方から仕入れた珍しい布や装飾品、色鮮やかな鳥までが店先を彩っていた。
「お姉様、ほら!あちらで何か楽しそうな事をしているわ!見に行きましょうよ!」
「ラティ、ちょっと待って。そんなに早く歩いたら危ないわよ。」
人の合間を縫うようにして歩き進むと、少し開けた一角の前に出た。周りを大きな布で囲い、楽器を持った男たちが音楽を奏でている。その中央で異国の衣装を身に着けた麗人が一人佇んでいた。
曲に合わせて両手足をふわりと大きく動かし始める。腰をくねらせながら円を描くようにゆったりと回し、腕を交互に波打たせた。
----何これ!?こんな踊り見たこと無いわ!
白い布を頭から全身に被り、薄い布で顔の半分を隠している。身体中に金の宝飾品を纏わせ、シャラシャラと軽い音を立てながら踊る様は、見ている者を惑わせる妖艶さを放っていた。
----素敵…でも、女性かしら。なんとなく男性のような気もするのだけれど…。
ナリアは上から下までまじまじと踊り子を見た。腕や腰回りの布はゆったりとしていて、胸元は厚めにさらしが巻かれている。見えているのは目元とお腹、両手足だけだった。
----うーん、これじゃあどっちかわからないわね。
ナリアが感心したように眺めていると、ナリアの視線に気が付いた踊り子が身体をくねらせながら熱い視線を向けてきた。くっきりとした二重瞼に金色の睫毛。相手を透かし見るような視線と左右で異なる瞳の色に、ナリアは思わず息を呑んだ。
----なんて綺麗な人の…。
大きな瞳に囚われ吸い込まれるように見つめていると、横からメラティスが覗き込んできた。
「ひゃあ!!」
「もう!お姉様ったら、踊りの事になるとすぐ夢中になるんだから!もっと他のところも回らないと日が暮れてしまうわよ。」
「ナリーの踊り好きは相変わらずね。」
「さ、次に行きましょう!」
メラティスはナリアの腕に自分の腕を絡めて歩き出した。名残惜し気に振り向くナリアに、踊り子は目を細めてニヤリと微笑んだ。
*
踊り子の一角から離れ、メラティスはナリアを引っ張りながら装飾品の店を見て回った。店先の気になるものを見つけては立ち止まり、次々とネックレスのデザインをチェックしている。見たことがない程真剣な眼差しを向ける妹を横目に、ナリアは陳列棚の端に置かれたブレスレットが目に入った。
----わ、これ素敵。
少し幅のある銀の輪には曲線を基調とした模様が彫られ、所々に小さな石がはめ込まれていた。ふと横を見ると、同じデザインのものが置いてある。幅の細さと輪の小ささから女性用だとわかった。
「お姉様、何を見てるの?あら、それ素敵じゃない。男女ペアのものでしょう?リベリオ様とお揃いで持ったらどう?」
「えぇ!?」
ナリアが一瞬で顔を真っ赤にして動揺する様を、メラティスは半目で見返した。いつまでたっても初心な姉が、羨ましくもあり面倒臭くもある。
「何を驚く事があるの?装飾品を贈るのは男性の領分だとでも思っているのなら大間違いよ。確かに人にもよるでしょうけれど、リベリオ様の場合お姉様からお揃いのものをもらったりなんかしたら、そのまま羽が生えて飛んで行ってしまうぐらい喜ばれると思うわ。」
「そ、そうかしら…。でも、私の好みなんかで選んだりして、もし気に入ってもらえなかったら…。」
「また始まった!そんなの喜ぶに決まってるじゃない。ね、お母様?」
「そうよ、ナリー。あなただってリブ様から頂いたものなら何でも嬉しいでしょう?それはリブ様も同じよ。でも男性は愛する女性に何かを買ってくれなんて絶対に言わないから、プレゼントすると喜んでくれるわ。」
ナリアは以前リベリオの誕生日にペンナイフを贈ったことを思い出した。箱を開け、ペンナイフを手に取った時の嬉しそうな横顔は未だに鮮明に記憶に残っている。ナリアは小さく頷くと、指をさして店主に声をかけた。
「そうね…。それじゃあ、これにしようかしら。すみません、これを包んでいただけますか?」
頬を染めて待っているナリアの後ろでは、エドラとメラティスがニヤニヤと顔を見合わせていた。
*
「ふぅ、結構歩きましたね。お母様もお姉様もお疲れではないですか?」
露店が並ぶ広場から少し離れた場所に置かれたベンチに座り、メラティスはドレスの下でコッソリと靴を脱いだ。ヒールが高くないものを選んだつもりだったが、歩き回るとなるとヒールそのものが仇となる。洗練された光沢のある靴は、華奢なふくらはぎを容赦なく痛めつけた。
「私は大丈夫よ。お母様は?」
「そうね、私は疲れたわ。でも、楽しい方が上ね。」
エドラがニコリと微笑むと、メラティスは大きく息を吐いた。
「それにしても、最初にリベリオ様から求婚があった時はどうなる事かと思ったわ。」
公園を吹き抜ける風が頬に触れ、三人は目の前の風景を眺めた。まだ賑わいを見せる広場とは打って変わって、静かな時が流れている。リベリオからの手紙を受け取ってからまだ一年程しか経っていないというのに、随分昔の事のように感じた。
「本当ね。ラティからリブ様の話を聞いた時もそうだったけれど、婚約した後もあれよこれよと…。」
「え、何ですかそれ!?教えて下さい!」
メラティスが身を乗り出してエドラに詰め寄る。「それがねぇ…」と話し始めるエドラに、ナリアは慌てて手を振った。
「お母様!もう終わったことですから!それに、昨日もきちんと話したじゃないですか!」
「あら、あれは殆ど掻い摘んだものだったでしょう?」
「ふ~ん。まぁ、いいわ。お母様、お姉様のいないところでコッソリ教えて下さいね。」
「もぅ!ラティったら!…あら?」
拳をキュッと握ってメラティスの方に振り向くと、広い通りを挟んだ向こう側を歩く人影に目が行った。陽の光を受けた髪が金色に輝いている。ゆったりとした衣装に風を孕ませ、身体中に巻いた金の装飾品と相まって、遠目でも先ほどの踊り子だと気が付いた。
「お母様、ラティ、少しの間ここで待っていて下さい。すぐに戻ります!」
「え?お姉様!?」
ナリアは立ち上がり、ドレスの裾を持って広場へと向かう背中を追いかけた。人をかき分け、合間に見える金色の髪を見失わないよう時折背を伸ばす。店と店の隙間に入ったところで、踊り子がナリアを待ち構えるように腕を組んでこちらを睨んでいた。
「何か用か?」
「え?あれ?やっぱり男の人だったの?」
「は?何だお前、さっきの客じゃないか。お前が俺の後をつけて来てたのか?」
ナリアはまじまじと目の前の踊り子を見た。首から上は何も覆っていないせいか、男の人というより少年と言った方が正しいぐらい幼い顔立ちをしている。背丈もナリアと殆ど変わらない。少年の方が少し低いぐらいだろうか。
「ごめんなさい。さっき向こうであなたが歩いているところを見かけたから、つい追いかけてきてしまったの。」
「ふぅん…で?俺に何の用だ。」
「あの、聞いてもいいかしら。あなたの踊りってどこの国のものなの?」
ナリアの唐突な質問に少年は片眉を上げた。その警戒を強めたような反応に、ナリアはハッとして口を噤んだ。各地を回っているであろう踊り子を相手に、最初に聞く質問ではない。平時ならともかく、戦の気配がしているこの時期に『どの辺りの国を回ってきたのか』と暗に尋問しているようなものだ。
ナリアは慌てて両手を振り、狼狽えた声を出した。
「あ、ごめんなさい!急に失礼よね!私、幼い頃からダンスが好きで、見た事のない踊りを見るとつい興奮してしまうの。さっきの…あなたの踊りがとても綺麗だったから、私も練習したら踊れるかなって…。本当にそれだけで…。」
「…。」
少年はじっとナリアの瞳を見つめて黙り込んだ。その探るような眼差しの奥にある美しい瞳と目があった途端、頬が熱くなるのを感じて咄嗟に目を逸らせた。
「ご、ごめんなさい…。あの、それじゃあ私はこれで…。」
ナリアは眉尻を下げ、しおしおと萎れながら一礼して立ち去ろうとした。
「ちょっと待て。」
「え?」
「本当にそれだけか?」
「はい?それだけとは?」
ナリアがキョトンとした顔で返す。少年は長い息を吐きつつ頭を掻くと、ずいっと一歩前に出た。右目は金、左目はスカイブルーに輝いている。左右の瞳は近くで見るとさらに美しく、少年特有の滑らかな頬にナリアの心臓が跳ねた。
少年はナリアの手を取り、自分の胸に当てて伏目がちにナリアを見つめた。
「…俺に相手してほしいのか、ってことだよ。」
「相手?えぇ、そうなのです!よろしいのですか!?」
ナリアの顔がパッと明るくなるのを冷めた目で見上げながら、少年は静かに口角を上げた。
「ふ…、やっぱりな。いいぜ、あんた結構美人だし特別割引で相手してやるよ。」
「まぁ!でしたら少しここで待っていてもらえますか?母と妹が心配しますので…」
「すぐに済ませるから必要無い。ほら、こっちに来な。」
少年はナリアの手を取り、人気の無い公園の奥へと連れ出した。




