53
デガート家に保護されてから一月半が経ち、俺はクソ親父の元に帰る事になった。
リベリオはあれ以来、俺の部屋に頻繁に来るようになっていた。最初はリスターさんの目を盗んで来ていたが、幼い子供にそんな事をさせるのは嫌だったから、俺からリスターさんに許可をもらった。それを告げた時のリベリオの嬉しそうな顔は、今でも瞼に焼き付いている。
「準備はできたか?」
「はい。本当にお世話になりました。あの、リスターさん…一つ聞いても良いでしょうか。」
「どうした?」
「俺のような者に、どうしてここまでして下さったのでしょうか。すみません、今更なのですが…。」
「その事か。それはな、お前の首にかかっているそのペンダントだ。」
「これ、ですか?」
リスターさんは俺の首を指さした。これは俺の亡くなった母親の形見だった。若い頃からずっと大事に持っていたものらしく、クソ親父が母親の物を片っ端から売り払った時にこれだけはと隠し持っていたものだった。
「そのペンダントでわかった。私とお前の母親であるディアは若い頃の友人でな。婚姻前に君の父親から貰った物だと言っていた。わざわざオーダーメイドで用意した物らしく、世界に一つしかないのだと嬉しそうに見せていたのを覚えている。」
「そうだったのですか!そうか、それで…。では、俺は母上にも助けてもらったのですね…。」
服越しにペンダントを握り締めた途端、目の奥が熱くなった。リスターさんが俺を助けてくれたのも本当に偶然だったんだ。たまたま非番で街に出ていた時に、騒ぎを聞きつけて駆けつけたのがリスターさんだった。こんな奇跡ってあるだろうか。
ここへ来てから泣いてばかりだ。今まではどんな酷い目に遭っても滅多に涙なんか出なかったのに、すっかり弱くなってしまった気がする。
その時、扉をノックする音がして視線を向けた。小さな音だったから、誰が来たのかすぐにわかった。チラとリスターさんを見ると、一瞬だけ目元を緩め、すぐに冷たい声を出した。
「入れ。」
いつもなら返事があればすぐに飛んで入ってくるのに、なかなか入って来ようとしない。少し間を空けて、リベリオは遠慮がちに扉を開けた。
「あの、しつれいします…。お兄ちゃんが、今日おうちにかえるときいて…その…ごあいさつにきました…。」
「リベリオ!そうか、ありがとう。わざわざ来てくれたのか。」
「はい、その…おじゃましてもうしわけありません…。」
リベリオが俯きがちに声を萎ませた。チラチラとリスターさんの方を見ては、肩を縮こまらせている。リスターさんは小さく息を吐くと、俺に向き直った。
「ニックス。玄関に馬車を待たせてあるから、用意ができたら御者に声をかけなさい。」
「はい。わかりました。」
「うむ。いいか、何かあったらすぐに私の元を訪ねなさい。必ずだ。分かったな。」
「…はい、ありがとうございます。」
リスターさんは小さく頷くと、リベリオの方を一度も見ること無く部屋を後にした。どうしてあんなに冷たい態度を取るのか全くわからない。でも、時折見せるあの眼差しは決して憎んでいるようには見えなかった。
「リベリオ、おいで。」
「うん!」
走り寄ってきたリベリオを抱き上げ、頬をすり寄せる。愛らしい笑顔とすべすべとした肌にもう癒されないのかと思うと、それだけで心が沈んだ。
「お兄ちゃん、かえっちゃうんだね…。」
「そうだな。お前にはいつも元気をもらっていた。ありがとうな。」
「ううん、ぼくもたのしかった!…ぐすっ…。」
「おいおい、泣くなよ…。俺だって…俺…お前と離れるの、嫌だ…。うっ…。」
「うわぁーん!お兄ちゃん、いっちゃやだぁー!!えっえっ…」
「リベリオ…。」
リベリオを抱き上げたまま泣き続けた。リベリオがいなければ、弟を失った悲しみから立ち直れなかっただろう。この子の存在が、俺をこの世に押し止めてくれていたんだ。
いつの間にか、リベリオは俺の肩に頭を乗せて眠っていた。泣き疲れたのか涙を流したまま寝息を立てている。俺はベッドの上にそっと置いて、リベリオの手に母親の形見のペンダントを握らせた。
「さようなら、リベリオ。また会える日まで、これを預かっておいてくれ。」
リベリオの赤い頬に触れ、額にキスをして、玄関へと向かった。
*
小雨が降る街中を、俺は全速力で走っていた。握り締めている袋には店から盗んだ果物がいくつか入っている。店の店主が大声を張り上げながら追いかけて来るが、この辺りの土地勘がある俺にとって小太りのジジイを撒くのなんか朝飯前だった。
この日も余裕で路地に逃げ込み、戦利品で腹を満たした。
クソ親父のいる屋敷に戻ってすぐ、奴は俺に殴りかかってきやがった。弟が死んだことで金を倍にして返せと脅され、流された荷台の弁償やら怪我を負った男たちの治療費やらで酷い目に遭ったらしい。口汚く罵りながら俺を床に押さえつけ、一方的に殴られ続けた。
「このクソガキがぁっ!!てめぇのせいで俺がどんな目に遭ったと思ってやがる!!てめぇが死ねば良かったのに!この!この!クソがぁっ!!」
俺を散々殴りつけて気が済んだのか、クソ親父はまた酒を飲み始めた。床に寝転がっている俺を見て、唾を吐き捨てながら言い放った。
「お前のせいで俺は奴等に殴られ、金をむしり取られたんだ。だがまだ足りねぇ。足りねぇ分はお前が返すんだ!分かったなぁ!?」
「う…この…クソ野郎…」
「あぁ?何だと?てめぇ今何つった!?…フン、まぁいい。どうせお前とは今日限りなんだ。」
「…?」
朦朧とする意識の中、クソ親父の言っている意味が分からなかった。今日限りって何だよ?俺は軋む身体を起こして、霞んだ眼でクソ親父を睨みつけた。俺を見る下卑た目つきに寒気が走る。
「へへ、奴等がもうすぐお前を引き取りに来る。弟の代わりにな。お前も大事な弟の代わりになれるんだ、幸せだろ?」
「な…俺を売ったのか…!?」
信じられなかった。いや、このクソ親父の事だ。そうなる事も考えない事もなかった。ただ、利用するだけとはいえ俺だけは手元に置いておくんじゃないかとどこかで高を括っていたんだ。それなのに、あっさりと他人に売り払いやがった。
「お前のせいでこうなったんだ…。恨むんならてめぇを恨みな!二度とその面見せんじゃねぇぞ!!」
唾を飛ばすクソ親父の言葉に、頭の中が真っ白になった。俺は一体、今まで何の為に犯罪に手を染めてきたんだ。クソ親父からの愛情を期待した事なんて一度も無いが、それでもここまで尽くしている俺には何かしらの感情ぐらいはあるもんだと思っていた。
俺の中で何かが音を立てて崩れ去り、気が付けば外に飛び出していた。背後から俺を罵倒する声が聞こえてきたが、もう二度と振り返ることは無かった。
*
この日も、俺は盗んだパンを握り締めて街中を走っていた。人をかき分け、追いかけてくる店員から必死で逃げていた。
「待て!このガキがぁ!!」
「へっ!ばーか、捕まるかよ!!」
路地に入り、違う道を走り抜ける。まだしつこく追いかけて来る店員を撒こうと角を曲がった時だった。俺の太もも辺りに何かがぶつかり、前のめりに倒れそうになった。
「うわぁっ!!」
「ひゃああぁ!!」
----まずい!!倒れる!!
何とかバランスをとり、地面への激突は免れた。ぶつかってきた子供に舌打ちをして立ち上がろうとしたところで、後ろから首を掴まれ引きずり倒された。
「この泥棒がぁっ!!てめぇだろ、この辺りで盗みまくってるガキってのは!!」
「うるせぇ、離せっ!!」
店員に殴られ、もみ合っていると、倒れていた子供が起き上がって俺を見上げた。
「お兄ちゃん…?」
「え…?」
「お兄ちゃんだよね!?ぼくだよ、リベリオだよ!!」
「リベリオ…か…?」
「何だ、お前の知り合いか?どう見ても貴族の子じゃねぇか。」
ハッとしてリベリオを見る。リベリオの隣にいる女は、俺に瓶を使ったあの侍女だった。咄嗟に視線を逸らせて店員の方へと顔を向けた。
「知らねぇよ、こんなガキ!俺に貴族の知り合いなんかいるわけねぇだろ!!」
「うそだよ!お兄ちゃん、ぼくにこれくれたでしょう?お兄ちゃんのだいじなものだって、ちちうえがおっしゃっていたもの!!」
「知らねぇって言ってんだろう!」
「おじちゃん、お兄ちゃんをはなして!おかねならはらうから!!」
リベリオが店員の足に体当たりした隙に、俺は身を捩って走り出した。後ろから店員の叫び声とリベリオの泣く声が聞こえてきた。胸を鷲掴みにされたような痛みに息が苦しくなった。それでも無我夢中で走り続けた。
*
それから半年が経った。俺は相変わらず盗んではその日の食い物を確保して、身体を売っては酒を買う金を稼いでいた。
雨漏りが酷いあばら屋の汚ぇシーツの上で寝転がっている俺に、さっきまで乱れまくっていた女が澄ました顔で世間話を始めた。
「ねぇ、ニックス知ってる?街で噂になってる子供の話。」
「あ?知らねぇよ。」
子供と聞いただけで胸の奥が軋む。蓋をした記憶を抉られそうな話題はしてほしくない。そう思ってさっさと女を追い出そうと身体を起こした時だった。
「なんか、良いとこの貴族の子らしいんだけどね。」
心臓が飛び出そうになった。嫌な予感がして耳を塞ぎたかったが、身体が動かなかった。そんな俺に気付くわけもなく、女は淡々と話し続けた。
「毎日同じ時間同じ場所に立って、首にかけたペンダントを握り締めてるんだって。」
「…それで?」
「さぁ?毎日キョロキョロと周りを見渡して帰ってるみたいよ。ただ…」
「うん?」
「ほら、この前アンタが喧嘩した奴等がね、その子供を攫おうかって話してたのよ。」
「何だと!?」
「だってどう見ても良家の子だもの。一緒にいるのは侍女みたいな女一人だっていうし。アイツらが束になってかかっていったら、一瞬でしょう?」
「オイッ!それいつの話だ!?その子供はいつどこで立ってる!?」
「ちょ、ちょっと、急にどうしたのよ!」
「いいから教えろ!!」
女から時間と場所を聞きつけ、俺はあばら屋を飛び出した。外は土砂降りの大雨が降っていて、いつもなら人でごった返す時間なのに殆ど人の気配は無い。視界を遮るような白い世界の中、俺は必死に走り続けた。
----『聞いたのは二、三日ぐらい前だったかしら。』
----俺が奴等なら、今日みたいな日を選ぶはずだ!頼む、間に合ってくれ!!
ぬかるんだ通りを走り抜け、聞き出した場所が見えてきたところで男の罵声と女の悲鳴が聞こえてきた。微かにくぐもった声も聞こえてくる。唾を吐き捨て目を凝らすと、見覚えのある男たちが女を押さえつけ子供を抱えているのが見えた。
「てめぇ等何やってんだ!!その子を離せ!!」
「何だぁ!?あっ、てめぇはニックスじゃねぇか!てめぇ、この間はよくも!!」
「うるせぇ!!さっさと離しやがれ!ウラアァァァ!!」
リベリオを担いでいた男に体当たりして、落ちる寸前で抱き留めた。リベリオを侍女に渡し、すぐに自警団を呼びに行くように言った。
「早く行け!」
「は、はい!」
「逃がすかよ!!」
「てめぇ等の相手は俺だ!!アイツに手を出したらてめぇ等全員八つ裂きにしてやる!!」
それからはもう殆ど記憶にない程に暴れまわった。二人を追いかけようとする奴を捕まえては一発で動かねぇようにするのに必死で、この時ほどクソ親父のガタイの良い身体つきに似て良かったと思ったことは無い。
気が付けば、自警団に身体を取り押さえられ連行されていた。
*
ふと、暗くて臭くて汚ぇ部屋で目が覚めた。椅子に縛られ、布を噛まされた状態だった。ここに来ていろんな尋問を受けた気がする。あれを尋問と言っていいのかわからないが。今回は偶然女子供を助けたとはいえ、大概の悪事を重ねてきた事もバレていたから、ひたすら殴られ続けただけだった。
俺が目覚めた事に気付いた看守の一人が誰かを呼びに行き、しばらくしてから俺を殴りつけた自警官が入ってきた。だが、最後に見た俺を見下すような態度とは違い、妙に焦っているようだった。
「あの、本当に貴方様が来られるような場所では…。」
「うるさい。二度も同じ事を言わせるな。」
「は、はひぃ…!」
----この声…まさか!
格子の前で一人の男が立ち止まった。眉一つ動かさず、碧い瞳で厳しく俺を睨み据えている。
「リス…」
「君は私の息子を助けてくれた男だな?」
俺の言葉を遮るように、リスターさんは声を響かせた。俺と知り合いだなんて思われたく無いのだろう。そりゃあそうだと思いながらも、俺は胸に刃物を突き立てられたような痛みが走った。おれは視線を外し、小さく頷いた。リスターさんの目に今の俺がどう映っているのかなんて考えたくは無かったが、今の俺にはこれが精一杯だった。
「ふむ。やはりそうか。では、この者の釈放を要求する。」
俺は顔を上げてリスターさんを見た。リスターさんは俺の方を見ようともしなかったが、焦って詰め寄る自警官に冷めた視線を送っていた。
「お、お待ち下さい!この者は…」
「何だ?この者の釈放金を払えば良いのだろう。さっさとその手続きをしろ。その間にこの者に身を清めさせ、清潔な服に着替えさせておけ。」
「ですが…」
「二度も言わせるなと言ったはずだ。それともう一つ。なぜこの者はこんなに殴られた跡があるんだ?今回は私の息子を助けただけだろう。誰がやった?」
「そ、その…それは…。」
自警官はみるみる顔を青ざめさせて口籠った。必死で言い訳を考えているのが丸わかりな程目を泳がせ、看守たちに助け船を求めていた。
「誰がやったと聞いているんだっ!!」
「はひいぃぃぃ!私であります!!私がやりましたぁぁぁ!!」
リスターさんの怒鳴り声と自警官の叫び声が牢に響き渡り、自警官は恐怖のあまり失禁していた。いい気味だ。
その後俺はリスターさんの要求通りに釈放され、そのまま馬車に乗ってデガート邸に連れて行かれた。まさかまたあの部屋に戻る事になるとは思いも寄らなかったが、俺は部屋に着くなり服を着替えさせられ、ベッドに寝かされた。前回散々世話になった医師と侍女がやってきて一通りの治療をした後、リスターさんが入ってきた。
厳しい顔のまま俺を睨みつけて椅子に座った。憤怒の炎を纏ったような恐ろしい気迫を前にして、俺は何も言えずに縮こまっていた。もし少しでも喋ろうものなら、視線だけで叩きのめされるんじゃないかと本気で思った。それぐらい、この時のリスターさんは恐ろしかった。
呆れられたかもしれない。嫌われたかもしれない。いや、それならまだいい。所詮はあの没落貴族の息子だと蔑みの目で見られるのが一番怖かった。
俺が黙ったままでいると、リスターさんは苛立ちを隠そうともせず溜息を吐いた。
「なぜ私の元へ来なかった?」
「え?その…それは…。」
「何かあったら必ず私の元を訪ねろと言ったはずだが?」
「…。」
何も言えなかった。こんな俺に手を差し伸べ、避難場所まで作ってくれていたのに、俺はまた犯罪に手を染めて生きていた。今度は自分の為に。
「すみません…。俺はもうリスターさんの世話になるわけにはいかないんです…。」
「今更何を言ってるんだ。それに今回は私の息子が世話になったのだろう?君がいなければリベリオは今頃どうなっていたかわからないんだ。」
「違うんです、俺のせいなんです!俺がリベリオにペンダントを渡したりしなければ…。あの時、ぶつかっていなかったら…。リベリオはあの場所に毎日来ることも無かったんだ。俺が、余計な事をしたばっかりに…。」
リスターさんが小さく息を吐いたところで、扉をノックする音がした。
懐かしくて心地良い、小さな音だった。




