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『…おい、生きてるか?』
----誰だ?…頭が痛い。いや、そこら中痛くて感覚が無ぇな…。
『…意識はあるようだな。うん?これは…!おい、運ぶのを手伝ってくれ!早くしろ!!』
『はっ!』
*
----ここはどこだ…。
深い暗闇の中、自分の手足だけが朧げに見える。地も空も無い場所に立ち、『歩く』という動きの記憶のみが俺の背中を押しているようだった。
----何だここは。これじゃあ進んでるのかどうかも分かんねぇじゃねーか。
チッ、と舌打ちをしてさらに足を進める。どこまで行っても何も変わらない暗闇にウンザリして立ち止まった時だった。俺の背後から聞き慣れた、二度と耳にするのも嫌な声が、罵声となってこだました。
『おいニックス!てめぇはまだそんなところにいたのか!!さっさと金稼いで来いこのグズ!!』
また飲んだくれてやがる…。こんな暗闇でも酒のある場所だけは嗅ぎ分けるから質が悪い。俺は声を無視して歩き続けたが、その間もあの忌々しいしゃがれ声は俺の後をついてまわった。
いい加減、あの首を捻り潰してやろうか。だが、ガタイだけはデカいクソ親父を相手にするには、俺にはまだ力が足りない。耳鳴りのような声に怒鳴り上げそうになった時、どこからか子供の声が聞こえてきた。
『…ちゃん!』
----何だ?誰だ?
『兄ちゃーん!』
----兄ちゃん…?まさか、セリオスか!?お前、無事だったんだな!良かった!あぁ、本当に良かった!!
目を凝らせば、弟のセリオスが手を振って走ってくる姿が見えた。クソ親父から売り払ったと聞いた時は鳩尾を抉られる思いがしたが、場所を聞き出して殴り込みに行って良かった。俺にはお前だけが唯一の生きがいなのだから。
セリオスを抱き止めようと両手を広げて待っているのに、なかなかここまで辿り着かない。もう9歳だというのに、ここまで足が遅いのは誰に似たんだと苦笑した。
----仕方が無い、迎えに行ってやるか。
俺は広げた両腕をしまい、溜息を吐いてセリオスの元まで走った。耳元では相変わらず忌々しい声が絡みついていたが、今はそんな事はどうでも良かった。アイツは俺が喧嘩している間に川に落ちてしまったんだ。きっと身体中ずぶ濡れで冷え切っているに違いない。早く拭いて乾かしてやらないと風邪をひいてしまう。
『兄ちゃん、兄ちゃーん』
----ちょっと待ってろ、すぐにそっちに行くから。
『兄ちゃん、こっちに来ちゃだめだよ!』
----は?何言ってんだよ。お前がこっちに来ないから俺が迎えに行ってやるんじゃないか。
『いいから、戻って!あっちから声が聞こえるでしょう?ほら、あっちだよ!』
----あっち?あっちからはクソ親父の声しか…うん?何だ?誰か…呼んでいる?
セリオスが指さす方に目を向けてみるが、暗闇の中では何も見えない。それでも、しゃがれ声の合間に薄っすらと声が聞こえるような気がして、セリオスに振り返った。
『お兄…ん、…兄ち…ん…』
----なぁ、セリオス。あれは一体誰…セリオス?どこだ!セリオス!セリ…
「セリオス!!」
「ひゃあ!!」
「痛っ…!」
勢いよく上体を起こした瞬間、身体中に激痛が走る。天井が歪な形に捻じ曲がる程の眩暈に、強烈な吐き気が込み上げた。
「うっ…うえぇ…」
「お兄ちゃん、だいじょうぶ!?これ、さっきじじょがおいていったおけがあるから…」
「…貸せ!!…う…おえぇぇぇl…ゲッ、ゲホッ…」
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
ぐらつく意識と割れそうな頭の痛みで、そのまま身体を倒した。涙と鼻水と汚物で汚れた顔はどれ程酷いものか想像つくが、吐いた時に無理に身体を強張らせたせいか、指一本動かすこともできなかった。
----もう目を開けるのも面倒だ。このまま死んでしまおうか…。
俺は目を閉じ、吐いたばかりの唇が冷たくなっているのを感じた。もともとそんなに食べてねぇってのに何を吐くんだと自嘲するが、笑う気力すら無い。
確かにあれは弟だったんだろう。こっちに来るなと言っていた。だったらお前は今何処にいるんだよ。俺はお前の側にいたいんだよ…。
このまま目を閉じれば弟の元へ行けるだろうか。次に吐くものが血であったなら、それも叶うかもしれない。そう願いながら俺は全身の力を抜き、意識を手放そうとした。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん…だいじょうぶ?」
俺の顔に、小さな何かが当たった。俺の顔を遠慮がちにゆっくりと撫でている。薄っすらと目を開ければ、小さな男の子が俺の汚れた顔を布で拭いている姿が映った。
さっさと意識を離したいのに、何でわざわざ起こすんだよ。払いのける事も身体を捩る事もできない俺は、その男の子にされるがままになった。
しばらくして目を開けると、部屋の中は小さな灯りがあるだけで大分薄暗くなっていた。少し眠っていたのかさっきまでの吐き気が治まっている。相変わらず頭も身体も痛いが、見覚えのない天井が目の前にある事だけは分かった。
----ここは…何処だ。俺の家じゃない…。うん?
右の肩が温かい。かろうじて動かせる首をゆっくりと右に回せば、先ほど俺の顔を拭いていた男の子が俺の肩に手を置いて眠っていた。
----この子はさっきの子か…。ずっとここにいたのか…。
俺はその男の子をじっと見つめた。セリオスよりももっと幼いように見える。セリオスも小柄な方だったが、俺の肩に乗せる小さな手がセリオスの手よりも小さい。でも、とても温かかった。
薄目を開けて男の子を見ていると、その肩越しに扉が開くのが見えた。誰かがこちらをじっと見ている。俺が眠っているのかを確認しに来たのか、しばらく様子を見た後静かに扉を閉めた。
翌朝、目が覚めると男の子はいなくなっていた。温もりを失った右肩に寂しさを感じたのには自分でも驚いた。ついさっきまで死んでも良いと思ってたやつが何言ってんだ。
どうせ身体は動かせないのならと、起きてからずっとぼんやりと天井を眺めていた。
「起きられたのですね。ちょっと、失礼致します。」
急に視界に現れた侍女が、真顔のままシーツの中に瓶のようなものを入れて俺のアレを突っ込んだのには驚いた。何してんだとも言えず、俺の視界に入らないところから腹を擦り、淡々とした声で言ってのけた。
「はい、出して下さい。」
その声を合図に汚水が出る。そうか、こんな体たらくでも生きてるんなら出るもんは出るだろう。だが、まだ17の俺には大事なものを失ったような気がした。
侍女が出て行った後、しばらくすると一人の男が入ってきた。この屋敷の主人だろうか。それにしては随分若いような気がする。ただ、眉間に刻まれた深い皺がこの男の気難しさを表しているな、というのが第一印象だった。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
ややぶっきらぼうだが、低く透き通った声だった。答えようと口をパクパクと動かすが声が出ない。そんな俺を見下ろして、男は俺の額に手を当てて静かに口を開いた。
「無理に喋らなくても構わん。今は身体を休めて回復に専念しろ。」
俺を覗き込む顔は無表情のままだったが、深い碧い色の瞳を細め、穏やかな声で囁いた。こんな風に優しく声をかけてもらえたのはいつ振りだろうか。目の奥がジンと熱くなるのを感じた時、扉がそっと開く音がした。顔を向けると、昨夜までいた男の子が不安げに顔を覗かせてこちらを見ていた。
----あぁ、良かった。また来てくれたんだな。
いつの間にか、俺は男の子の存在に安堵するようになっていた。こっちに来てくれないだろうかと視線を送ると、男はパッと手を離し、男の子に向かって声を冷たくして言い放った。
「リベリオ、そんなところで何をしている。」
「あ、あの…お兄ちゃんが…おきたのかなと…しんぱいで…。」
俺は驚いた。さっきまで他人の俺に穏やかだった男が、あの男の子には冷たい声を出して睨んでいる。視線を上げて男の横顔を見れば、ゾッとするほど冷ややかな表情で見据えていた。チラと男の子に視線を戻せば、扉に隠れ顔を青くして縮こまっていた。
「お前が心配?他人の心配をしている場合か。そんな暇があるなら剣を振る時間に充てろ。さっさと行け!」
「は、はい…。もうしわけありません、ちちうえ…。」
男の子は涙を堪える様に声を振り絞り、扉を閉めた。途端に静まり返った空気の中、男は小さく息を吐いた。俺は恐る恐る視線を上げると、ハッとして息を呑んだ。
----何だ?何でそんな辛い顔してるんだよ。傷付いたのはアンタじゃなくて、あの子の方だろう?
俺は訳が分からなくて、気が付けば男の顔をじっと見ていた。俺の視線に気付いた男は苦笑し、再び穏やかな顔に戻して声を落とした。
「変なところを見せて悪かったな。私は今から仕事に行く。また様子を見に来るからゆっくり休め。」
*
半月程が経ち、俺は身体を起こせるようにまで回復していた。後から聞けば身体の骨が何か所かやられていたらしく、折れていないのが不思議なくらいだったらしい。身体の頑丈さはあの男譲りだったという事か。
あの日以来、男の子は俺の元には来なくなっていた。度々ここへ訪れる父親に遠慮しているのか、単に怖がっているからなのか、とにかく俺に会いに来なくなった。ただ一度だけ、夜中にふと肩に温もりを感じて薄目を開けた時、男の子の小さな手を感じたのは覚えている。
ある日の朝、朝食を終えた頃に男が部屋に入ってきた。男の名はリスター・デガートといった。俺はこの男を『リスターさん』と呼ぶようになっていた。リスターさんはいつも通り俺の体調を聞き、軽い会話のやり取りを始めたのだが、この日はなぜか椅子に座って長居をするような構えを見せた。
「ニックス、そろそろ話をさせてもらってもいいだろうか。」
「はい。」
「君について、いろいろと調べさせてもらった。名はニックス・ドラルナー。17歳。父親は元男爵位のオロン・ドラルナー。母親はテソロン子爵家の令嬢ディア、彼女は数年前に病死している。そしてセリオスという9歳の弟がいた。間違いないな?」
「…はい。」
俺はまだ現実を受け止めきれずにいた。クソ親父に売り飛ばされたセリオスを取り戻そうとゴロツキのアジトに向かった時、ちょうど荷台に乗せられ運ばれているところに出くわした。俺は数人の男を相手に持っていた棒で喧嘩を始めたが、車輪のすぐ横が足場の悪い斜面だったのが災いして荷台のバランスが崩れ、弟もろとも川に落ちてしまった。
話せるようになって最初に弟の安否を聞いた時、リスターさんは暗い顔をして首を横に振った。身体を縛られたセリオスは川に流され、見つからなかったという。あの時暗闇で俺に来るなと言ったのは、やはりセリオスだったんだ。そして、暗闇から俺を救ってくれたのは…。
「大丈夫か?」というリスターさんの声に、ハッと我に返った。視線を上げると、心配そうに覗き込むリスターさんの瞳と目が合った。リスターさんは俺の手にそっと触れた。無意識にシーツをきつく握り締めていたのだろう。手の平に爪が食い込み、赤くなっていた。
「すみません…。続けて下さい。」
「うむ。君は、ずっと犯罪に手を染めていた。そうだな?」
「…はい。人を殺す事と、女子供に手を出す以外の事は何でもやりました。盗み、恐喝、売春、危ない事でも何でも…。」
「そうだな。ざっと調べただけでも相当だ。こんな事が公になれば極刑は免れん。なぜここまでやった?君の父親が関係しているのか?」
俺は喉を詰まらせた。俺だって好きでこんな事をしてたわけじゃない。クソ汚ぇ野郎共に身体を触られた時なんざ、腫れあがる尻を抱えて何度死にたいと思ったか分からない。それでも、俺が歯を食いしばってきたのはセリオスがいたからなんだ。
「親父が…。俺がそうやって金を稼いでこなけりゃ、親父が弟を売り飛ばすって言ってました。没落貴族の息子とはいえ、貴族の子には間違いないからと。それだけで高値で買おうとする奴はいくらでもいるんだと。だから俺が守らなきゃって…。弟はまだ十にも満たないんだ。なのに…あの野郎ォ…!!」
沸き上がる憎悪に身体を震わせ、涙が止まらなくなっていた。俺がずっと大切に守り続けていた弟を、クソ親父はいとも簡単に売り飛ばしやがった。それも耳を疑いたくなるような安い金で。そんなはした金なら、俺がいくらでも身体を売ってやるのに。それで弟が助かるなら…。
リスターさんは泣き続ける俺の隣に座り、優しく抱き締めてくれた。何でそこまでしてくれるのかは分からなかったが、この時はただただ憎くて、悔しくて、肩を震わせた。
ふと、リスターさんの肩越しに扉が開いている事に気が付いた。リスターさんは気が付いていないようだった。扉の隙間から、あの男の子が俺たちを見ていた。最初は俺に会いに来てくれたのだと喜んだが、あの子のどこか傷付いたような表情にハッとした。
「リスターさん、もう大丈夫です。取り乱してすみません。」
「いや、私こそ済まなかった。」
リスターさんは椅子に戻り、こちらに向き直った。後ろの扉はもう締められていた。胸に刺さるような痛みを感じながら、話の続きを促した。
「では、君は弟を守る為だけに犯罪に手を染めていたという事だな?」
「はい。だからと言って、許される事では無いと分かっています。もう守っていた弟はいません。どんな罰でも受けるつもりです。」
「そうか…。わかった。とにかく、今後の事は私に任せて君は早く身体を治しなさい。君はまだ未成年だから一度家に戻さねばならない。わかるね?」
「はい…。ここまでしていただいて感謝しています。」
「うむ。それじゃあ今日はここまでにしようか。ゆっくり休みなさい。」
「はい。ありがとうございます。」
リスターさんはそう言って、静かに部屋を後にした。
リスターさんが部屋から出てすぐに、男の子が静かに部屋に入ってきた。ノックをしなかったのは、音で周りにバレるのを避ける為だろう。小さな子供らしい小細工に、俺は思わず頬が緩んだ。
「お兄ちゃん、もうおはなしできるようになったの?」
「あぁ、お陰様でな。ほら、そんなところに立ってないでこっちに来いよ。俺の話し相手になってくれないか?」
「いいの!?うん、わかった!」
男の子はパッと顔を明るくして俺の元へ走ってきた。その姿がセリオスと被り、胸の奥が熱くなる。折角泣き止んだのに、これ以上泣くわけにはいかない。特にこの子の前では。
「俺はニックスだ。お前は?いくつだ?」
「ぼくはリベリオといいます。5さいです。」
「そうか。リベリオというのか。良い名だな。お前、兄弟はいるのか?」
「はい。あにうえがひとりいます。とてもつよくてカッコイイのです。」
「そうか、兄がいるのか…。…ぐ…うう…。」
「どうしたの、お兄ちゃん?どこかいたいの?」
「う…悪い…少し抱き締めてもいいか…?」
「え?はい、いいですよ。こうですか?」
リベリオはベッドによじ登り、腕を伸ばして俺の首に回した。頬に当たる小さな胸の鼓動が温かくて、胸が押し潰されそうになった。
俺はリベリオの身体にそっと腕を回して泣き続け、いつの間にか意識を手放していた。




