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闇夜の終わりを告げる淡い光が帯び始めた頃。グラナード侯爵家の一室では、ルミゴンが毛皮の外套を羽織り、椅子に座って書類に目を通していた。途中、温めた葡萄酒に手を伸ばしては冷笑を浮かべる。書類の向こう側にいる見えざる者を射殺すような眼差しで読み終えれば、表情を崩さぬままテーブルにパサリと放り投げた。
「なるほど、奴隷売買か…。」
ルミゴンが肘をついて口元に手を当てながら息を吐くと、テーブルを睨んだまま側に立っている男に声をかけた。
「ルミオ、よくやった。奴隷売買は重罪だ。証拠さえ掴めれば極刑は免れん。」
「はい。ですが調査期間が短かった為に肝心の奴隷商人を特定できておりません。報告によれば奴隷は皆喉を潰され、喋れなくしてから連れて来られているようです。自分たちの事を一切漏らさない為でしょうが、中には…。」
「フン、どうせやるなら徹底的にやらねば自分の首が飛ぶからな。奴の立場じゃ当然の処置だ。で、これはリベリオにも話したのだろう?」
「はい。団長から我々が前線送りにされるかもしれないというお話を伺ったその日の夜に。私の個人的な調査だと申し上げましたら、快く協力すると仰って下さいました。」
「快く、な。」
----大方ナリアを引き合いに出したんだろう。我が甥ながら食えない奴だ。
満面の笑みでシレッと言ってのける甥の姿を半目で眺めながら、誰に似たのかと溜息を吐いた。テーブルに腕を伸ばし、放り投げた書類の中から一枚の紙を手に取る。もう一度確認するように指を滑らせると、最後の方に書いてある一文で止めた。
「これもリベリオに話したのか?」
「どれですか?あぁ、それは話していません。副団長にはその部分が入っていない方を見せましたから。」
「まぁ、賢明だろうな。暴走するような愚かな真似はしないだろうが、すぐに顔に出て終わりだ。」
紙をテーブルに放り投げ、ついでに葡萄酒に手を伸ばす。リベリオについてある程度は知っているとはいえ、やはり深くは知らせない方がやりやすい。
ルミゴンが黙ったまま葡萄酒を流し込むのを見ながら、ルミオは小さく頷いた。
「そうなんですよね。協力すると仰って下さいましたけれど、元々こういう陰の事には向いていない方なんですよ。我々のような者からすれば、どんなに隠してもすぐに見抜けてしまうぐらいにはお人好しですからね。あの時は副団長のお心を確かめる為の、単なるお遊戯のようなものでしたから。」
「…ほぅ、相当気に入ってるじゃないか。お前にそこまで言わせるとはな。」
「それに、そもそもこれらの件に関しては私たちのような若輩者の力ではどうにもできませんし、初めから伯父上にお願いするつもりでした。」
「ふむ。まぁ、いいだろう。奴隷売買の件だけでも十分だが、どうせなら奴の流儀に倣って徹底的にやればいい。もしかしたら、もっと深いところに足を突っ込んでいるかもしれんしな。」
書類を見つめるルミゴンの凍てつくような眼光を目の当たりにして、ルミオは咄嗟に視線を逸らせた。このまま見続けていれば、自分まで冷たくされてしまうかもしれない。父親には「ルミオは義兄さん似だな」とよく言われるが、とんでもない誤解だと首を振りたくなった。
「よろしくお願い致します。おや、いつの間にか外も明るくなってきていますね。私は一旦家に戻ってから王宮に向かいますので、ここで失礼致します。」
「ご苦労だった。」
*
ルミオは馬を繋いでいる厩舎に向かいながら、ふと、光に照らされた青紺色の空を眺めた。いつの間にか屋敷の使用人たちが起きていて、手を擦りながら各自の仕事を始めている。つい先ほどまで静寂に包まれていた敷地内は、瞬く間に人の気配で溢れていた。
----ふぅ、後は伯父上に任せておけば大丈夫だろう。後は…
ルミオがブツブツと独り言を呟きながら歩いていると、向かっている先の方から騒がしい音が聞こえてきた。が、夜明け頃に仕入れの荷馬車がやってくることは珍しい事ではない。ルミオは別段気にも留めずに考え込んでいると、不意に「お嬢様」という声が聞こえて足を止めた。
慎重に足音を消して、ゆっくりと近付いて行く。怪しまれないよう周りを警戒しながら様子を窺うと、一台の馬車が停まっていた。
----お嬢様?こんな時間にどこの令嬢が…って、ナリア嬢!?…え?あれ?あの後ろ姿って…副団長じゃないか!!
ルミオは目の前の光景にあんぐりと口を開け、呆然と眺めていた。
----どういう事だ?どうしてあの二人がこんな朝早くに。ん?…朝?ま、まさか…!!
リベリオがナリアの肩を抱き寄せ、裏の入り口まで連れて行く。扉の前で立ち止まり、軽く頬にキスをした。たったそれだけで、二人の距離が近くなったような雰囲気を漂わせていた。
ルミオは身を翻してリベリオから見えない位置に隠れると、胸に手を当てて心臓の鼓動が鎮まるのを待った。
少しの間を置いて、リベリオが馬車に乗り込む気配を感じ、ルミオは再び顔を出して様子を窺った。走り去る馬車を、ナリアが侍女と共に見送っている。馬車が見えなくなるまで手を振り続け、侍女に連れられて屋敷の中へと入っていった。
*
王宮の第五騎士団の団長室の前で、ルミオは立ち止まっていた。直立不動のその腕には、ニックスとリベリオに渡す書類をかかえている。
ルミオは大きく深呼吸をしてから、意を決して扉をノックした。部屋の中から、リベリオの返事が聞こえてくる。「ルミオです」と声をかけ、緩んでニヤけそうになる表情筋に鞭打って勢いよく扉を開けた。
「おっはよーうございまぁー…って、うわぁぁっっ!!ふ、副団長!どうなさったのですか!?」
ルミオの視線の先では、リベリオがやつれた顔をしたまま机にのめり込んでいた。入室前の精神統一など吹き飛ばし、浮足立って室内に飛び込んだルミオはまさかの光景に思わず腰を抜かしそうになった。
「…あ?あぁ、ルミオか…。おはよう…。」
「ルミオか、じゃないですよ!先ほどまでの男らしい姿はどこへ行ったのですか!」
「…は?先ほど?」
「はっ!あ、いえ、ゴホンッ!間違えました。いつもの、です。」
「朝から何言ってんだお前…。」
リベリオは再び机に顔を擦りつけると、口から煙が出そうな表情で固まった。ルミオがソロソロと近寄り目の前で手を振るが、何も反応しない。頬を突いてみても、微動だにしない。口を塞ぎ、鼻の穴に指を入れようとしたところで、扉をノックする音がした。
「おや、これはナリア嬢。」
「何っ!?」
ルミオの言葉に、リベリオは跳ねるように飛び起きた。急いで顔を作って扉の方へ目を向ける。同時に、ポカンとした顔でこちらを見ている厳つい髭面の男と目が合った。ルミオは盛大に噴き出したいのを堪える為に、全力で表情筋に力を込めた。
「どうなさいました?副団長。」
「ルミオォォ、お前ぇぇ…!!」
「あ、あの、こちらを届けるように申し付けられたのですが…。」
「あぁ、ご苦労様。私から団長に渡しておくよ。」
ルミオは静かに扉を閉め、ニックスの机に書類を置いた。視界の端では、リベリオの恨めしそうな表情が映っている。それだけで噴き出すには十分だった。
「お前、何か知ってるのか!?」
「フ…フフ…、何かって何をです?」
「とぼけるな!だったら何で今ナリーの名を呼んだんだよ!」
「何もとぼけていませんよ。先ほどから何をしても副団長が反応なさらないから、試してみただけです。朝からそんな風になられるなんて、何かあったのですか?」
リベリオがグッと喉を詰まらせてそっぽを向くと、ルミオは「話すまで動きません」とばかりに机の前を陣取った。
「何でもねぇよ。」
「そんなわけないでしょう。でしたら、どうして襟元に紅が付いているのですか?」
「!!」
「冗談です。」
「お前なぁぁ!!」
咄嗟に襟元を隠してしまった己の愚かさを棚の上に高々と放り投げ、リベリオはルミオの襟元を掴んだ。この状況でも、涼しい顔をしている部下の態度が心の底から憎々しい。
リベリオはギリギリと睨み付けた後、大きく息を吐いてドサリと椅子に座り込んだ。
「何かありましたか?先に申し上げておきますが、副団長のお心が乱れれば、その分部下に影響を及ぼします。お話し下さるまで、執拗に聞き続けますよ。」
「お前、本当にいい性格してるよな。口の端が上がってんだよ!」
「おっと、いけない」と言いつつ口の端を手でおさえるルミオを横目に、リベリオは額を支えるように肘をついた。
「…昨夜、ナリーが俺のところに来たんだ。」
*
----『今夜私を、リブの妻にしていただけますか?』
ナリアは頬を染め潤んだ瞳でそう言うと、恥じらうようにリベリオを見上げた。リベリオの手にそっと指を絡めて頬をすり寄せた瞬間、リベリオの理性を焼き払った。
どうやってナリアの身体を抱き締めたのかも分からない。リベリオは喰らい付くようにナリアの唇を貪り豊かな胸の柔らかさに触れると、そのまま抱きかかえて寝室へと足を踏み入れた。
*
リベリオはナリアと交わした会話については一切触れず、自分に会いに来てくれた事と、正式に婚約はしていないが気持ちを確かめ合った事だけを話した。淡々と話しているようで、その表情は幸せだと言わんばかりに綻んでいる。
そこからどうなったら今朝の陰鬱な顔になるのかと、ルミオは首を傾げた。
「それで、そのままナリア嬢と結ばれたのですね?」
「いや、何もしなかった。」
「はい!?」
リベリオは視線を逸らしたまま深い溜息を吐いた。「何言ってんだコイツ」という目で自分を見下ろす部下の視線が、思ったよりも男のプライドを抉ってくる。
「俺だって最初はヤル気だったんだよ!腕の中に惚れた女がいて、目の前にベッドがあるんだぞ!?」
「知りませんよ、何怒ってるんですか。で、どうして何もなさらなかったのですか?」
「できるわけ無いだろう…。」
ナリアに口付けを落としながら寝室に足を踏み入れたリベリオは、ベッドの位置を確認する為に片目を薄く開けた。その瞬間、極寒の中で頭から冷水を浴びせられたように目を見開いた。
背後のテーブルに置かれた灯りが、暗い寝室へ続く床を薄っすらと照らしている。その奥で待ち構える典型的な『男の部屋』が、リベリオの砕け散った理性を再び集め始めることになった。
「掃除なんてしねぇから部屋は散らかり放題、毛布は床に落ちて汚れたまま。おまけに俺はお前の家で風呂に入って以来適当に身体を拭くだけで済ませていたし、ベッドのシーツなんか一度も洗ったことは無い。火が無いから湯あみもできない。湯あみができないってことは、破瓜の血も清められないってことだ。」
「うわぁ…。」
「そんな場所で大事な初夜を迎えさせるわけにはいかねぇだろうが。俺はナリーを欲望のままに抱きたいんじゃない。幸せにしたいんだ。だからやめた。」
ふぅ、と息を吐くリベリオの横顔をマジマジと眺めながら、ルミオは何故か嬉しさに胸が熱くなった。
「副団長、私は今初めて貴方様に感動しました。よく我慢なさいましたね。」
「お前今サラッと失礼な事言っただろ。」
「いえ、本当に。愛する女性が相手だからこそ、その状況で止めるのが男としてどれ程難しい事か。…あれ?」
「うん?」
「でしたら、どうしてあのような顔をなさっていたのです?」
ルミオはふと、先ほどの表情を思い浮かべる。自分で納得して止めたにしては、やはりダメージが深いような気がした。
「問題はその後なんだよ。ナリーを家まで送ろうにも、深夜に女連れであの辺りを歩くのは危険だ。かと言って迎えを呼びに行く間、一人にするわけにもいかない。」
「そうですねぇ。」
「だからナリーをベッドに寝かせて俺は椅子で寝ることにしたんだ。そしたら…」
「ま、まさか…。」
二人の間に沈黙が落ちる。ルミオの瞳に憐れみの色が帯び始めると、リベリオはガックリと項垂れた。
「そのまさかだよ。ナリーは俺と一緒にベッドで眠りたいと駄々を捏ね始めたんだ。」
「うわぁぁ!冗談でしょう!!まさかそのまま一緒にベッドに入ったのですか!?」
「あぁ、入ったよ!入ってやったよ!!潤んだ瞳で『寒いから、二人で温まりましょう?』なんて可愛い事言われて入らない男がいるか!?否!いるわけない!!」
「それで結局、ご自分の首を絞めてるんじゃないですか!」
「本当に死ぬかと思った…。」
両手で顔を覆いめそめそと萎れていく。朝、グラナード家の屋敷で見かけた精悍な男と同一人物とはとても思えない男の姿に、ルミオはクスリと笑って扉へと向かった。
「副団長、少し席を外させて頂きます。何か目が覚めるようなものをお持ちしますね。」
*
午後の訓練を終え、第五騎士団の団長室ではニックスとリベリオが膝を突き合わせて話し込んでいた。後数か月もすれば戦地に向かわねばならない。ヴァンケットの戦いの後に再編成された騎士団の中には、一度も戦を経験していない年若い者が少なからずいる。第五騎士団も、例外ではない。故に、実践を踏まえた訓練をそろそろ組み込んでいく必要があった。
戦地に足を踏み入れれば、たちまち己が常に死と隣り合わせに在るという強い精神不安に襲われる。そんな中で平静を保ち己を律することは困難を極める。だからこそ、様々な状況でも冷静に判断し、秩序を守り、効果的な攻撃に転じる訓練をひたすら積んでいくしかない。
それでもいざ開戦となれば敵も味方も死に物狂いで剣を交えるようになる事を、二人はよく理解していたが。
「よし、こんなもんか。リベリオ、早速明日から始めてくれ。」
「わかりました。」
ニックスが立ち上がり自分の机に向かうと、リベリオも立ち上がり窓の外を見た。長々と話し込んだせいか、いつの間にか空の半分がすでに暗くなっている。
----昨夜はあまり寝てねぇからな…。腹も減ったし今日は早く上がるか。
リベリオは机に向かい、夕食をどうするか考えながら散らかった書類を揃えていると、扉をノックする音がした。いつもならルミオが応対に出るが、今はニックスの他にはリベリオしかいない。
リベリオは手を止めて扉へと向かった。
「はい…ん?何だルミオじゃないか。何やってんだ、普通に入って来いよ。」
リベリオが踵を返して机に向かうと、後ろからルミオの強張った声が耳朶に触れた。
「副団長、お客様が来られました。」
「客?誰だ?」
リベリオが振り向き、ルミオに視線を戻す。いつもの飄々とした雰囲気にガッチリと蓋をしているのか、精悍な面持ちの男の姿がそこにあった。頭の奥に嫌な予感が走る。
ルミオは扉を大きく開け、胸に手を当てて後ろで控えていた人物を中へ通した。
「私だ。」
「グラナード侯爵…様!?」




