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葡萄酒を流し込むリベリオの喉の膨らみが上下に揺れている。ナリアはその緩慢な動きを目で追いながら、臍の奥が熱くなるのを感じた。
いつも自信に満ち溢れ、見る者の心を奪う華やかな男の姿はどこにもない。代わりに、少し弾けば崩れてしまいそうな男が自分に全てを晒している。己の弱さを受け入れて欲しいと縋る男の姿に異様な興奮を覚えている自分に、ナリアは思わず眩暈がした。
リベリオはグラスを置くと再び両手でナリアの手を包みこみ、握り締めた手を見つめた。
「だが、お前と踊ったあの夜だけは違った。生まれて初めて心の底から笑えたんだ。偽りの笑顔と嘘にまみれた俺が、内気でお転婆な一人の少女に笑わされたんだ。本当に…自分でも驚いたよ…。」
「もう二度と会うことは無いと思っていたのに、お前は再び俺の前に現れた。美しい大人の女になって。俺は思わず見惚れたよ。たった二年でこんなにも変わるものなのか、と。だがそれと同時に、自分に呆れもした。俺は何か変わっただろうか。」
「俺は何も変わっちゃいなかった。相変わらず平騎士のままで、フラフラ酒と女の元を渡り歩き、ルマリナを相手に愚痴を言う。前にも言ったよな…お前がキュリオと婚約すると言った時、『俺がお前を引き止められたら良かったんだ、でもそんな甲斐性は無かったんだ』と。」
「はい、覚えています。初恋だったのにすぐに失恋したと仰っていましたね。」
「ハハハ、そう、それだ。今でも苦い思い出だよ。」
握り締めたナリアの手を口元に寄せ、唇を当てる。手の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「お前との再会は、俺に命をくれた。」
「え?」
「あの日の夜会の前には、すでに戦の話が出ていたんだ。俺が戦地に向かうことも決まっていた。でも俺は、そのまま死んでもいいと思ってたんだ。生きてたって何も面白くなかったからな。だったら、せめて最期ぐらい騎士らしく逝ってもいいかって思ってた。」
「そんな…。」
「でも、お前と再会した。そしたらどうだ、今度は戦地になんか行きたくないと思うようになったんだ。死にたくないと…お前にもう一度会いたいと願うようになった。」
「リブ…。」
「戦地にいる二年間、ずっとお前の事を考えてた。もう結婚していて、子供がいて、良き妻、良き母親になってるかもしれない。その側にいるのが俺だったらって、何度望んだかわからない。」
「だから、部下からキュリオの妻はお前じゃないという事を知った時は心底動揺した。あの腹の立つ噂も、その時に知ったんだ。俺は持っていき場のない苛立ちをぶつける為に、ルマリナの元へ行った。そこで全部ぶちまけたんだ。そしたら、お前はこんなところで何をしてるんだ、誰を抱いてるんだって怒られた。そこでやっと、俺はお前にずっと恋をしていたんだって自覚したんだ。いや、自覚できた。」
「今思えば、ただ自分に自信が無かったんだよ。どっぷり惚れているくせに、自覚しようとしない事で、自分が傷付かないようにしていたんだ。もう、誰かに振り回されるのなんて真っ平だったから…。」
「俺はお前と婚約してから、人生で初めて男としての幸せを感じる事ができた。愛する女の側にいられる事が、人生をこれほど豊かにしてくれるなんて知らなかったんだ。だから俺は、お前だけは絶対に離さないと誓った。」
ナリアは胸が締め付けられた。これ程まで自分を愛してくれる男に、自分は何をしてしまったのか。何も告げずに背を向けてしまった自分の非情さが、今になって重くのしかかる。
唇が震えるのも構わず、ナリアは声をかけようとした。が、リベリオは首を横に振ってそれを遮った。
「お前がルマリナの事を気にしているのは薄々感じていた。お前が俺を避ける時は、いつもルマリナが関係していたから。だが俺は、お前への気持ちを自覚してからはアイツとは何も無いから、話す必要なんか無いと思い込んでたんだ。…それが結果的にお前を苦しめることになるなんて、思いも寄らなかった。」
「部下にな、お前がどれ程我慢していたのかを気付かされた。逆の立場だったら、お前ならどう思うんだって怒鳴られた。そんなもん、許すわけねぇだろって即答したよ。情けないよな…俺はそうやって言われないと、人の気持ちにも自分の気持ちにも気付けないんだ。だから、ルマリナの事をきちんとお前に話そうと決心した。」
「だが…ルマリナの事を話すには、俺のそんな過去も話すことになるかもしれないと思って、途端に怖くなった。お前に…今度こそ本当に嫌われたらどうしよう、と。失望されて、幻滅されて、二度と顔を見せないでと背中を向けられたら、俺は…。」
「リブ!!」
ナリアが咄嗟に声を上げる。気が付けばナリアの顔が滲み、唇に当てたナリアの両手に涙が零れ落ちていた。
「ナリー…、俺が悪かった。お前がどれ程傷付いていたのか…俺の知らないところで、俺のせいで、どれ程泣いていたのか…俺は分からなかったんだ。」
「やめて、もういいのです。私は…私だって、貴方にとても酷い事をしてしまいました。貴方の心を最後まで信じることができず、傷付くのが怖くて話し合おうともせず、何も言わずにただ我慢するのが一番だと思い込んでいたのです。そして、何も言わずに貴方の元を去ってしまいました。残された貴方の気持ちを考えようともせず…本当に…申し訳ありませんでした…。」
互いに涙を流して見つめ合い、瞳を閉じて唇を重ねた。そっと触れるだけの優しい口づけが、溶けた心に温かく沁みいる。ゆっくりと瞳を開けて頬に触れ、リベリオは優しく抱き締めた。
「ナリー、俺と結婚してくれるか?」
「はい。私でよろしければ…あぁっ!!」
「うわぁっ!!何だ!?」
突然の奇声に、リベリオは口から心臓が飛び出そうになった。同時に洪水の様に溢れていた涙がピタリと止まる。身体を離してナリアを見れば、その表情に思わず吹き出した。
「フハハ!お、お前、何て顔してんだよ!!ホント、相変わらず…」
「笑い事ではありません!リブ、婚約が白紙に戻った時、お父上様に何か言われませんでしたか?」
「何だ急に。」
「その…私との婚約を反対された、とか。」
「何で知ってるんだ。まさか…アイツに何か言われたのか!?」
「アイツ?」
「俺の父親だ!アイツはお前がグラナード侯爵の娘になった途端、俺たちの婚約を反対したんだ。理由を聞いても話しちゃくれなかった。それどころか、俺には知る必要など無いとか言いやがったんだ!」
ナリアは眉間に皺を寄せて小さく溜息を吐いた。リベリオの怒りが、掴まれた肩越しにひしひしと伝わってくる。聞き慣れない言葉遣いの悪さが、どれ程腹に据えかねたのかを物語っていた。
「それで、どうなさったのですか?」
「うん?どうもこうも、だったら俺はこの家を出て行くと言って出たんだ。かつてアイツとグラナード侯爵との間に何があったか知らないが、俺たちには関係無いだろう。俺はお前を愛してる。誰にも邪魔はさせない。」
「では、この家に籠るようになったと仰ったのは、それが理由ですか?」
「そうだ。だから早く身を立ててお前を迎えに行くつもりだった。少しでも金を貯めて、お前が…結婚した後も好きな仕事ができるぐらいには環境を整えようと思った。」
「リブ…!それでは…」
ナリアは目を見開いて目の前の男を見つめた。気恥ずかしそうに頭をガシガシと掻く仕草が愛しくて堪らない。高鳴る胸を押さえきれず、ナリアはリベリオの胸に飛び込んだ。
リベリオはナリアの頭をそっと撫でながら、額にキスを落とした。
「悪かったよ。お前の気持ちを考えずに、俺の劣等感を押し付けてしまった。お前は良い女だから、男だらけの場所で仕事してアセロみたいな野郎が増えたらと思って…。」
「アセロ様、ですか?」
「アイツ、自分がお前の婚約者だって吹聴しまくってただろう?」
「あの噂、やはりアセロ様が流したのですか!?あぁでも…もうよろしいのです。アセロ様からの求婚はきっぱりとお断り致しましたし、姉のマシスタさんからも何か言われたようですので。」
「はぁ!?求婚?姉?何だよ、一体どうなってんだよ。何があったんだ?」
「あの野郎…」とリベリオが片手で顔を覆う。ナリアは息を吐いてグラスに注がれたままの葡萄酒に口を付けた。ふとテーブルに目をやれば、食事が途中で止まっている。ナリアはリベリオに一旦元の場所に戻るように言い、リベリオは渋々椅子を動かした。
「そうですね…では先に、リブのお父上様とグラナード侯爵様の事をお話ししますね。」
*
ナリアは食事を進めながら、リスターとルミゴンの過去について話した。食べながら長々と会話をするのは行儀の悪い事だと分かってはいても、これ以上食事を遅らせるわけにもいかない。
ナリアにはもう一つ、やるべきことがあった。
「そうか…。あの二人の過去に、そんな事があったのか。」
「はい。私もこのお話を聞いた時は驚きました。ですから、お父上様は私との婚約を反対なさったのです。」
「しかし、それこそ俺たちには関係の無いことだろう。叔母上はグラナード侯爵に振られて、他の男と結婚するのが嫌で自害したんだろう?その後侯爵が違う女と結婚したからといって、難癖付けて恨むなんて、頭おかしいんじゃないのか?」
「リブ!そういう言い方は良くありません!大事な妹君を早くに亡くされて、心穏やかでいられなかったのは当然ではありませんか!」
「うわぁっ!はぁ…わかったよ、俺が悪かった。今のは流石に言い過ぎたよ。」
ナリアの気迫に仰け反り、リベリオは椅子から落ちそうになった。すごすごと椅子に座り直すリベリオを見ながら、もう一つ伝えておかなければならない事を思い出す。無理矢理課せられた難題に顔を赤く染めていると、リベリオが訝し気に覗き込んだ。
「ナリー?どうした?」
「あの…その…。アセロ様のことなのですが…。」
リベリオの片眉がピクリと反応する。愛しい女が頬を染めながら忌々しい名を口にする姿に、心の中で舌打ちをした。
ナリアはルミゴンと養子縁組を結び、グラナード邸に移ってからの事を話した。アセロからの求婚を断り、それでも諦めないと言うアセロに困っていた事。婚約者だと噂されている事を知らなかった事。アセロの異母姉であるマシスタに間に立ってもらって、やっと落ち着いた事を伝えた。
----アンバルシアに行ったことも話した方がいいのかしら…。でも、あんな事になったなんてリブが知ったら…。
チラとリベリオを見る。表情を変えないまま葡萄酒を呷るリベリオの態度に、安心したと同時に少し寂しさを感じた。
----何だろう…怒ってはないようだけれど、もう少し反応してほしいというか…。
「ナリー。」
「は、はいっ!」
グラスを置いて、ナリアを見つめる。急に話しかけられ、ナリアは背筋をピンと伸ばした。
「奴についての話はそれだけか?」
「え?あ、その…。」
「お前、さっき奴の名を口にして顔を赤くしていただろう。他にも話があるんじゃないのか?」
リベリオの低い声が響く。態度は落ち着いていても、声に怒りが込められているのがひしひしと伝わってきた。ナリアが視線を泳がせるのをじっと見つめ、「話せ」と視線で訴えた。
「あの…これはルマリナさんから聞いたのですが…。」
「ルマリナから?アイツの事を知ってるのか?」
「はい。それで…その…。」
ナリアはできるだけリベリオの顔を見ないように注意しながら小声で話し出した。ルマリナと別れてすぐにここにきたせいか、ルマリナから聞いたことはまだ記憶に新しい。途中、うかつにもリベリオの顔を見てしまい、その呆気に取られて口を開けた表情に顔から火が噴きそうになった。
「…を…するのが、……なのだそうです…。」
顔を真っ赤にしながら一言一句違わずに言い切る。薄目を開けてリベリオを見れば、リベリオは机に顔を伏せて身体中を震わせていた。息を切らし、「リブ?」と声をかけた途端、身体を反らせて盛大に噴き出した。
「アーハッハッハッ!!な、何だよそれ!アイツ…フハッ!フハハハハハッ!!」
「笑い過ぎですよ!人様のせ、性癖をそのように笑うのは…」
「せ、性癖!性癖だって!アイツ、あんな澄ました顔して…『真面目』なのに!『品行方正』なのに!ククク、それもナリーに庇われてやんの!」
「リブったら!誰にだって秘め事の一つや二つ…」
「ちょっ、お前はもう何も言うな!これ以上笑ったら腹が切れる…アッハッハッハッ!ヒーッ!」
ナリアが呆れて葡萄酒に口を付ける。笑い転げるリベリオを横目に、ルマリナからの指令を無事に遂行できた事に謎の安堵を得た。
----よく考えたら、守る必要あったのかしら…。
今更考えないようにしよう、と火照った顔をパタパタと仰いでいると、いつの間にか戻ってきていたリベリオに軽く仰け反った。
「落ち着きましたか?」
「あぁ、お陰でスカッとした。俺はもうアイツを許せる。」
「そ、そうですか。それは良かったです。」
ククク…、と思い出し笑いを楽しんでいるリベリオを置いて、ナリアはさっさと食事を進めた。
*
ナリアは食事を終え、空いた食器を片付け始める。二人のグラスと葡萄酒だけを残して荷物の中にまとめているナリアの姿を眺めながら、リベリオはふと、扉の方に目を向けた。
「なぁ、ナリー。迎えはいつ来るんだ?もう随分遅いだろう。今夜は遅くなるって言ってきたのか?」
ナリアは片付ける手を止め、無意識に息を潜める。返事の無いナリアに視線を戻したリベリオは、ナリアの表情が固くなっていることに気が付き眉根を寄せた。
「ナリー?どうした?」
「あ…その…。」
ナリアは俯き、両手を組んで視線を彷徨わせた。リベリオの自分を見つめる視線とルミゴンに言われた言葉が、ナリアの羞恥心を容赦なく攻め立てる。ナリアは視線から逃げるように、リベリオに背を向けた。
ナリアの様子にリベリオは立ち上がり、後ろから優しく抱き締めた。
「どうした?迎えが遅いのは何か理由があるのか?何かあったのか?」
「いえ、ですから…。その…。」
「今更何を心配するんだ。俺たちはもう何も隠す事なんか無いだろう?ほら、いいから話してみろ。」
リベリオがナリアの頭に口付けると、ナリアは両手で顔を覆って声をくぐもらせた。
「ふぁい、ふぇふはら、ふぉんやは…」
「またそれか。手を離してハッキリ喋れ。何を言っているのか…ん?お前、顔が真っ赤だぞ。」
リベリオは目を丸くして、首を傾げた。その整った顔で間近に迫られ、ナリアは要望通りハッキリと言い放った。
「で、ですから!今夜は誰も迎えには来ません!」
「は?」
ナリアは真っ赤になった顔を再び両手で覆い、このまま消え去りそうな勢いで小さくなった。
二人の間に沈黙が落ちる。リベリオは何を言われたのか分からないといったように、もう一度確認した。
「ナリー、今…何と言った?」
「あの、ですから、今夜は誰も迎えに来ませんと申し上げました。」
「迎えに来ないって…ここに泊まるってことか?俺の家に?」
ナリアが顔を真っ赤にしたまま頷くと、状況を理解したリベリオは咄嗟に身体を離した。
「お前…泊まるって、意味分かって言ってるのか?」
「分かっています!でないとこんな事言うわけないじゃないですか!」
「ちょ、ちょっと待て、落ち着け。いくら何でも、正式に婚約もしてないのにまずいだろう。そもそもグラナード侯爵が黙ってない…」
「お義父様から申し付けられました。」
「はあぁぁ!?」
リベリオは卒倒しそうになるのを何とか堪えると、ナリアを椅子に座らせ、その隣に自分の椅子を移動させた。冷静になるには一度座った方がいい。
「お義父様って…グラナード侯爵に言われたのか?何て言われたんだよ。」
「お義父様からリブがもうすぐ戦地に向かう事を聞きました。前線に立たされるかもしれないと。」
「それは…そうか、お前知ってたのか。」
「はい。お義父様は、状況が変わったからすぐに会いに行きなさいと。そして、その…リブに身を委ねてきなさいと。二度と会えなくなってからではもう結ばれることはなくなってしまうからと、仰いました。」
ナリアの言葉に、リベリオは胸を詰まらせた。
ニスカ・ルッソについて調べるとはいえ、戦そのものが無くなるとは限らない。良くてせいぜい前線送りが無くなるぐらいだろう。一度戦地へ向かえば、命を持って帰れる保証など誰にも無いのだ。
涙を流すまいとするナリアの震える肩を認め、リベリオは拳を強く握り締めた。
「お前は…どうなんだ。婚姻前の令嬢が男に肌を許すことが、後々どういう事になるのか嫌と言う程わかっているだろう。」
「わかっています。でも、お義父様は何も心配いらないと仰っていました。もし何かあっても、今度こそ誰にも何も言わせない、と。」
「俺が聞いているのは、お前の気持ちだ。お前が今夜俺に抱かれても良いと思っているのかってことだ。俺が戦に向かうからとか、父親に言われたからとかじゃなくて、お前自身が俺に抱かれたいと思わなければ意味が無いだろう。」
外を吹く風が強くなったのか、静寂の中、風の音だけが聞こえている。リベリオは俯くナリアの様子に安堵すると、外套を取りに立ち上がろうとした。が、立ち上がれない。
リベリオは後ろを振り向き、服の裾を摘まんで見上げるナリアの顔に息を呑んだ。
「今夜私を、リブの妻にしていただけますか?」
ガタンと椅子の倒れる音が部屋中に響き渡る。
リベリオはナリアを抱き寄せ、濡れた柔らかい唇に喰らい付いた。




