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宿屋を出て、ナリアはサフィと共に馬車に乗り込んだ。ルマリナと延々と話し込んだせいか、街はすでに暗くなり始めている。
ルマリナは御者に目的地への安全な行き方を教えた後、馬車の中を覗き込んだ。
「ナリー、今さっきうちの者が帰ってきて、リブが王宮を出たそうよ。だから今から行けば会えると思う。でもさっきも言ったけれど、部屋の灯りを確認できない間は馬車から絶対に出ちゃだめよ。御者様も、十分気を付けて下さいね。」
「ありがとうございます、ルマリナさん。あの…またお話ししに来てもよろしいですか?」
ナリアが屈託のない笑顔を向ける。ルマリナは面食らったようにパチパチと瞬きをして噴き出した。
「フフフ、もちろんよ!いつでもいらっしゃい。さっきみたいに、アイツの愚痴でも何でも聞いてあげるわ。」
「フフ、ありがとうございます。それじゃあ。」
「えぇ、またね。あ、ちょっと待って、忘れてた。」
「?」
ルマリナが手招きしてから口元に手を添える。ナリアは吸い込まれるように形の良い耳を近付けると、ルマリナは小さな声で囁いた。
「あの時一緒にいたアセロって男だけど、実はね…。…で、……。…して、……。」
「え?えぇ!?そ、それって!でも、そんな風にはとても…。」
「本当よ。彼の相手をした娼婦仲間から聞いたもの。それに彼、…。…を…するのが、……なのよ!」
「ひゃあぁぁぁ!!も、もういいです!」
ナリアは顔を真っ赤にして身体を起こした。何の前置きもなく、まさか顔見知りの赤裸々な性癖を聞くことになろうとは。しかもここまで詳細に聞いてしまっては、次にどんな顔で本人と会えば良いのかわからない。知らぬ顔で接せられる程、ナリアの対人スキルレベルは高くはなかった。
ナリアは勢いよく身体を起こしたはずみで、車体に思いきり頭をぶつけて悶絶した。
「ナリー、大丈夫!?」
「い、痛い…、いえ大丈夫です…。」
「ま、リブはアセロに相当腹を立ててたようだから、これぐらい教えてあげなさい。」
「私に今の話をしろと言うのですかっ!?」
「いいじゃないの。『ナリーも知ってる』っていうのがスカッとするポイントなんだから。じゃ、頼んだわよ。」
「えぇー…。」
扉が閉まり、馬車がゆっくりと走り出す。まだ羞恥で火照る頬をパタパタと仰いでいると、サフィが訝し気に覗き込んだ。
「お嬢様、何をお聞きになったのです?」
「な、何でもないわ!」
*
カタカタと音を鳴らしながら隙間風が入り込む平屋の一室で、リベリオはテーブルに寄りかかり、げんなりとした面持ちで腕を組んでいた。疲れてヘトヘトだった上に、帰宅したばかりで気が緩んでいたせいだろう。扉を叩く音への警戒心を忘れ、勢いよく開けてしまった。
その結果、今目の前には女が立っている。以前、服を脱ぎだしたところを追い出した女だ。
「はぁ…お前、何しに来たんだよ。さっさと帰れ。」
「帰らないわよ。もし無理矢理追い出そうとしたら、アンタに暴力振るわれたって大声出すから!」
リベリオはジロリと睨み付けるが、女は臆することなく目を吊り上げて睨み返してくる。リベリオにしてみれば女の要求など手に取るようにわかるが、それを素直に飲み込むつもりは無い。ましてやこの類の女と関わったら、後で面倒な目に遭う事は火を見るよりも明らかだった。
しばらく睨み合い、リベリオは疲れと空腹と苛立ちで大きく息を吐いた。飯を食べる為にも、できるだけ早く追い出しにかかる。
「あのなぁ、また私を抱けとか言うんじゃないだろうな。いいか、俺には婚約者がいるんだ。俺はそいつを愛しているし、そいつ以外の女に興味は無いんだよ!」
「嘘吐かないで。あなたには全然女の気配が無いじゃない。そんな見え透いた嘘で女が騙せると思ってるの?」
「嘘じゃねぇよ。つーか、そんな事お前に関係無ぇだろうが。いいからさっさと帰れ!」
「帰らないわ!アンタが私を抱くまではね!!」
女が外套を脱ぎ捨て、服に手をかける。リベリオが止めようと咄嗟に手首を掴んだところで、再び扉を叩く音がした。
----ったく、今度は誰だよ!!
扉を叩き続ける音と女への警戒に苛立ちながら、リベリオは手首を離して扉へと向かった。女がその隙に服を一枚脱ぎ捨てる。その音に気付いて後ろを振り向き、女を睨みつけながら扉を開けた。
「誰だよ!!」
「ナリアです。」
聞き慣れた声に振り向くと、目の前にあるダークブラウンの髪に息を呑んだ。時が止まったかのような静寂が流れる。そのままゆっくりと視線を下げれば、半目で見上げるナリアの視線に心臓が止まった。
「ナリー…か?ナリー、どうしてここに…。」
「リブ、お久しぶりです。お取込み中でしたか?」
ナリアの言葉に、ビシリと固まる。ギギギ…と室内に目をやれば、服をほぼ脱いでいる女がこちらを見つめて立っていた。
「いや…ち、違うんだ!!これは…!!」
「分かっております。扉の外まで聞こえてましたもの。」
「ヘ?ソ、ソウデスカ…。」
固まるリベリオの脇をすり抜け、女の前に立つ。微塵も動揺することなく真っ直ぐに相手を見据えるナリアの態度に、女は思わずたじろいだ。
「な、何よアンタ!邪魔しないでよ!」
「私は彼の婚約者です。貴女こそどちら様でしょうか。」
「婚約者!?嘘吐くんじゃないわよ!」
「嘘か真かなど、貴女には関係の無いことです。それから、私以外の者がこの家に足を踏み入れる事は今後一切許しません。即刻立ち去りなさい。」
「何ですって!?あっ…!」
女はナリアの肩越しに扉の方へと視線を移した。家の騒ぎを聞きつけ、いつの間にか近所の住人が数人集まってきている。彼らの視線が服のはだけた自分に向けられていることに気が付き、女は咄嗟に服を拾い上げて慌てて家を飛び出した。
リベリオが住人たちを帰している間にナリアはサフィから荷物を受け取ると、先に屋敷に戻るように言った。寒い暗闇の中、馬車の中で待機させるわけにはいかない。
ナリアは荷物の中から大きめの灯りを取り出してテーブルの上を明るくしてから、持ってきた食事を並べ始めた。寒い時期だけに、冷めても美味しく食べられるようなものを用意してもらっている。
リベリオは扉の鍵を閉めた途端、大股にナリアの元へと向かい、後ろから抱き締めた。
「ナリー!ナリー…!会いたかった…。あぁ、ナリー…。」
「リブ…。」
ナリアは手を止め、ゆっくりと振り返る。今にも泣き出しそうな表情で自分を見下ろすリベリオの頬にそっと触れて、ニコリと微笑んだ。
「私も、お会いしたかったで…んんっ…」
ナリアが言い終わる前に、唇を塞いだ。ナリアの後頭部と腰に手を回して支え、逃げられないよう固定する。余裕の無い、荒々しい口付けに息が苦しくなっても、リベリオは離そうとはしなかった。
長い時間をかけて口付けを落とした後、リベリオはナリアの首筋に顔を埋めて思いきり匂いを吸い込んだ。何度も、何度も、ナリアの匂いを確認するように吸い続ける。身体の匂いに混ざった甘いボディオイルの香りに頭の奥が痺れだし、真綿でできた細い糸で微かに繋がっている理性が飛び去るのを必死で堪えた。
身体を起こし、もう一度抱き締める。そのまま深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、ゆっくりと身体を離してナリアを見つめた。恍惚とした表情のまま、ナリアの頬を優しく撫でる。
「はぁ、ナリー…。来てくれるとは思わなかった。もう二度と会えないかと…」
「私、貴方に謝らないといけません。」
「何をだ?」
「ここへ来る前、ルマリナさんのところへ行きました。」
「は!?」
頬を撫でる手がピタリと止まる。恍惚とした表情から一変して目を見開くリベリオの腕をすり抜け、ナリアは食事の用意を再開させた。
「とりあえず食事にしましょう。お腹空いたでしょう?私も一緒に頂こうかと思って、たくさん持ってきたのです。明日の朝食の分もありますから、それはこの中に置いておきますね。」
「え?あ、あぁ、ありがとう…。」
ナリアは食事を並べた後、グラスを取り出し葡萄酒を注いだ。向かい合って座り、グラスを片手に互いの顔を見つめ合う。どこか居心地の悪そうな、何とも表現しがたい顔をするリベリオの表情を間近で見てしまい、ナリアは咄嗟に俯いて肩を震わせた。
「何が可笑しい。」
「フ、フフフ…いえ、何でもありません。」
二人はグラスを軽く鳴らすと、揃ってグラスに口を付けた。
*
「それにしても、お前が来てくれて助かったよ。」
パンに蒸した肉を挟みながら、リベリオは安堵の溜息を吐いた。下から灯りに照らされた美しい顔は濃い陰影を作り、以前より幾分やつれたかのように見える。ナリアは胸にチクリと痛みを感じながら、リベリオがパンに齧りつくのを眺めていた。
「俺がこの家に籠るようになってから近所の人たちがいろいろと差し入れを持ってきてくれてたんだが、中にはさっきみたいな女もいてな。鬱陶しいから年配のご婦人や男以外からは全て断るようにしてたんだ。」
「相変わらずですね。」
「そう言うなよ。いつもなら扉を開けるのにも気を配るんだが、さっきは本当に油断してた。」
リベリオはそう言うと葡萄酒で口の中のものを流し込み、フゥ、と息を吐いた。そしてナリアに視線を向けると、ナリアの瞳を絡めとるように見つめて言った。
「さっきお前は俺の婚約者だと言ってくれた。嬉しかったよ。」
「それは…そう、そのことなのですが、私、リブに謝らないといけません。」
「俺に黙って婚約を白紙に戻したことか?確かにそれを聞いた時、俺は絶望したよ。」
リベリオはフイと視線を外し、グラスの中の葡萄酒を飲み干した。空になったグラスに葡萄酒を注ぎ入れ、ナリアのグラスにも注ぎ足した。目を伏せ、俯くナリアの口元に視線を戻す。
「あ…。そう…ですよね。本当なら、私はここに来るべきではありません。ですがこのまま…貴方を傷付けたままでいるのは良くないと…。」
「それで、ルマリナのところへ行ったのか?」
「はい。自分の中にある醜い感情を断ち切るには、そうしなければいけないと思いました。」
「で、断ち切れたのか?だから、ここへ来る気になったと?」
ナリアは顔を上げ、リベリオに向き直った。同時にずっと見つめられていた事に気付き、不意に心臓が跳ねる。
「いえ、リブに会おうと思ったのが先です。ルマリナさんの元へ行ったのは、自分の為ですから。今更ですが、何があっても二度と目を逸らさず全てを受け入れようと思いました。」
「…アイツが、俺の『心に決めた相手』だったとしても、か?」
「そうです。たとえリブが他の女性を愛していたとしても、ここへ来ていました。どんな理由があれども、貴方を傷付けて良いわけではありませんから。」
ナリアの声が微かに震えていることに、リベリオは気付いていた。涙を流すまいと目に力を入れている事にも、自分を奮い立たせようと手を握り締めている事にも。
----ナリーは、変わろうとしているんだな。強くなろうと。俺の為に…
かつての内気で引っ込み思案だった少女はもういない。真っ直ぐに自分を見つめる愛しい女を、リベリオは静かに見守った。
「リブ、本当に申し訳…」
「待て、もういい。」
リベリオはガタンと音を立てて立ち上がり、椅子を持ってナリアの側に座った。そっとナリアの手を取り、膝を合わせる。案の定、小さな手と膝から、震えているのが伝わってきた。
「元はと言えば、俺がずっと隠していたからいけなかった。」
包んだナリアの手を見つめ、口元に寄せて軽くキスをする。目を閉じて頬にすり寄せ、静かに話し始めた。
「ルマリナの事を黙っていたのは悪かった。もちろん、アイツは『心に決めた相手』ってやつじゃない。そうじゃなくて…アイツの事を話せなかったのは、アイツが元娼婦だからという理由だけじゃ無いんだ。」
「そうなのですか?では、どうしてです?」
「…アイツといた時期ってのは、俺が一番荒れてた時期だったんだよ。そうだな…俺が騎士見習いから騎士になって丁度一年が経った頃ぐらいだろうか。俺は当時20歳かそこらだった。」
ナリアはリベリオの顔を見つめた。こうして近くで見てみると、美しい顔にも年相応の線が増えていることが分かる。ナリアはその線を愛しげに目で追っていき、リベリオの瞳に行き着いた。
「お前と初めて会ったのは俺が22歳の時だった。当時俺は第五騎士団の平騎士だったんだが…覚えているか?」
「はい、覚えています。戦地からお戻りになられてから副団長になられたのですよね。」
リベリオは小さく頷くと、目を伏せてポツリと呟いた。
「そうだ。…俺は、デガート家の落ちこぼれだった。平騎士でいた事がその証拠だ。」
「そんな、どうしてそのような。王宮騎士団に所属されているだけでも十分ご立派ですし、当時のお歳では平騎士でいらしてもおかしくはないではないですか!」
「フフ、そうかもしれないな。だが、デガート家の者はそういうわけにはいかないんだ。」
リベリオは静かに立ち上がると、自分のグラスを持って再びナリアの隣に座り、ナリアの手を取った。己の心の闇を話すには、縋るものがなければ冷静に話すことなどできない。今のリベリオには、ナリアの存在以外考えられなかった。
「俺の実家であるデガート家は、代々騎士の家系として、王族の護衛を務める程の優秀な騎士を多く輩出していた。現当主である父リスターも現役時代は近衛騎士団親衛隊長を務めていたんだ。兄のアレニスも親衛隊に所属していて、王太子殿下の護衛をしている。」
「そう…父は、一族の名に恥じぬよう幼い二人の息子にも徹底的に武芸を叩き込んだ。」
「俺にとって、それは長い苦しみの始まりだった。幼い頃から優秀な兄と比べられ、父からは出来の悪い息子と期待すらされない日々。『デガート』の為に、せめて形だけでも騎士になれと言われた。大人になってからは、近衛騎士になった兄の傍らで平騎士でいる事を一族の恥だと罵られる。顔を合わせればお前など将来女一人養えない、財産など期待するなと侮辱された。」
「母親はそんな父親の影に身を隠し、見て見ぬふりを貫いた。最近知ったことだが、母自身も父から虐げられていたんだ。父を恐れて何も出来なかったのだろうが、それこそ幼い子供にとっては関係の無い事だ。俺は大人になるにつれ、自然と家から遠ざかり、用がある時以外に近寄ることは無かった。」
「では、あの時『デガートで呼ばれるのは好きでは無い』と仰ったのは…」
「あぁ。俺はデガートが大嫌いだった。それで呼ばれるのを忌々しく感じる程に。」
「…だが、当時最も俺を蝕んだのは、それでもそんな実家に頼らざるを得ない自分の不甲斐なさだった。平騎士の給金なんて知れている。この平屋だって、その当時から住んでいる場所なんだ。見て分かるように、こんなボロい部屋でも精一杯だったんだよ。」
「俺はどんどん荒れていった。酒も女も手当たり次第に手を出して、この部屋にはただ寝る為だけに帰っていた。いや、この部屋にすら殆ど帰らなかった。現実を見たくなかったんだ。忘れられるならなんだって良い。外を歩けば女の方から近寄ってくるんだ。彼女たちとはとても人には言えないような事もしてきた。そんな時、ルマリナに出会った。」
「アイツもいろいろと抱えているヤツでな。針子だけじゃ食っていけなくて娼婦になった。俺たちは互いに依存してたんだよ。逃げ道…みたいなもんだな。互いに同情や男女の情なんてものは無くて、だからこそ素の自分でいられた。情が無いってことは、相手のどんな姿にも失望しないってことだ。俺にはそれが楽だった。それからは酒も女も控えるようになった。そうやって水の中に沈むような毎日を送っていたんだ。」
リベリオはナリアの手を握ったままグラスを持ち、静かに口を付けた。




