41
宿屋の二階の奥にあるルマリナの部屋に通され、ナリアは椅子に座って待っていた。大人しくついてきたは良いものの、すでに後悔の渦のど真ん中で回っている。ルマリナは「少し二人で話し込むから」と、サフィにも部屋とお茶を用意するよう若い娘に指示を出していた。
話し込むという事はしばらくここにいることだと考えただけで、すでに胃がキリキリと痛みだした。
扉をノックする音がして振り向くと、ルマリナとお茶の用意を持ったターニオが揃って入ってきた。ルマリナは大きく膨らんだお腹に手を添えている。ゆっくりとした足取りで椅子に座り、ニコリと微笑んだ。
「待たせてごめんなさいね。」
「いえ、お構いなく。私の方こそ突然訪ねてしまい、申し訳ありません。」
「何を仰るのですか。先ほどルマリナから聞きましたが、お嬢様はリベリオ様の婚約者様だとか。でしたら、我々はいつでも貴女様を歓迎いたしますよ。」
「はい?」
ターニオはニコニコと笑いながら、手際よくお茶と焼き菓子を並べ始めた。以前リベリオにも手土産で渡した、店で評判の焼き菓子だ。南の国から取り寄せたという茶葉から淹れたお茶の香りに、ナリアは思わず鼻を近付けた。
「このお茶、気に入ったかしら?」
「はい。不思議な香りですね。少しスパイシーで、でも柔らかくて。」
「だったら、お土産にあげるわ。他にもたくさん仕入れたから後で用意させるわね。」
「そんな、そこまでしていただくわけには…。」
ナリアが慌てて手を振ると、横からターニオが口を挟んだ。なぜか終始ニコニコと笑っている。
「遠慮なさらないで下さい。私たちがこうして穏やかに商売ができるようになったのも、すべてリベリオ様のお陰なのです。あのお方には感謝してもしきれません。お茶の一つや二つ、十や百、いくらでも持ち帰って下さって構わないのですよ。」
「…ターニオ、多すぎるわ。どうやって持って帰るのよ。」
「フフ、冗談だよ。それじゃあ、後はお二人でごゆっくり。僕は下にいるからね。」
「えぇ、しばらくこの部屋には誰も来ないようにしておいてね。」
ターニオは腰を屈めてルマリナにキスをした後、部屋から出て行った。扉が閉まる音と同時に、沈黙が訪れる。自分をじっと見つめるルマリナの視線に居心地の悪さを感じながら、ナリアは視線をテーブルに落とした。今はそれだけで精一杯だ。
----どうしよう、何から話せばいいのかしら。それより私たちが婚約を白紙に戻したこと、知らないのかし…
「ねぇ。」
「らぁぁぁっ!?」
「ひゃあぁっ!」
突然声をかけられ、ナリアは口から心臓が飛び出そうになった。椅子から少し身体が浮いたかもしれない。ルマリナもつられて声を上げると、固まる二人の間に妙な空気が流れた。
「あぁ驚いた。どうしたのよ。」
「あ…急に声をかけられて驚いてしまって。…すみません。」
「なんだ、そんな事…フフ、だったら私が悪かったわ。で、さっきあの場所にいたって事は、私に用があったんじゃない?違う?」
ナリアが黙ったまま躊躇いがちに頷くのを見て、ルマリナは微笑んだ。
「私も一度貴女と話がしたかったのよ。ナリーと呼んでもいいかしら。もう呼んじゃったけど。私の事はルマリナでいいわ。」
「いえ、私の事はナリアと呼んでください。ルマリナさん。」
「…断る時はハッキリ言うって、本当だったのね。なんだか目の当たりにして嬉しいような悲しいような、複雑な気分だわ。私の事を警戒しているの?それとも気に入らない?」
ナリアはすぐには答えなかった。なぜなら、すでに二人の口から出た言葉が胸に引っかかっている。
----リブがこの人たちに何をしたのか知らないけれど、彼が助けたのはルマリナさんがいるからだし、ルマリナさんが『断る時はハッキリ言う』って事を知っているのはリブから聞いたからよね。
再び沈黙が落ちる。ルマリナはナリアがなかなか話し出そうとしない事に溜息を吐くと、先に話を進めることにした。
「わかった。それじゃあ、ナリアさん。貴女が今日私に会いに来たのは、リブの事じゃないかしら?」
「そうです。彼の事で、貴女にお話があって参りました。」
「何かしら。」
ナリアは声が震えるのを必死で堪えながら、ルマリナの目を真っ直ぐに見た。
「近いうちに、戦が始まるかもしれません。その時リブが所属する第五騎士団は前線に向かうことになるそうです。」
「なんですって!?前線って、そんな危険な場所…だったらリブはもう帰って来ないかもしれないじゃない!」
「はい。ですから、こうして貴女に知らせに来ました。彼に会っていただけませんか?」
ナリアの言葉に、ルマリナは一瞬理解が遅れた。リベリオの愛する女が自分に向かってリベリオに会いに行けと言う。解せない言葉の意味を考えていると、リベリオの言葉を思い出し、ハッとした。
----『ナリーは、なぜかお前が俺の『心に決めた女』だと思い込んでるんだよ』
ルマリナが「そういう事か」とポツリと呟く。ナリアが聞き取れなかった、と少し前のめりになると、ルマリナはもう一つ溜息を吐いた。苛立ちが含まれる分、先ほどよりもやや長い。
「全く…どいつもこいつも、どうしてそんなややこしい事になるのよ。いいわ、わかった。私からきちんと説明するわね。とにかくナリアさん、貴女は誤解してるわ。」
「誤解?」
「まったく、あのバカ男…」と眉間に皺を寄せてブツブツと文句を言うルマリナを前に、ナリアは今更ながらお腹の子が心配になった。ストレスが妊婦の身体に良くない事ぐらいは知っている。
ナリアが心配そうにお腹に目を向けていると、ルマリナはその視線に気が付き、フ、と微笑んだ。
「ナリアさん、私はね。元は娼婦なのよ。」
「えっ!?」
ナリアは驚愕に目を見開いた。ルマリナはその正直な反応に思わず吹き出すと、「いいからそのまま聞いていてね」と先を続けた。
「街の一角に娼館が並んでいる場所があるのは知って…るわけないか。私はターニオと結婚する前まで、その界隈にある高級娼館に務めていたの。と言っても昼は針子の仕事をしていたから、数日おきに店に上がって客を取ってたぐらいだったけど。リブはその内の一人だったのよ。」
「リブと会ったのは、私が娼館に勤め始めてから数か月経った頃だったわ。高級娼館だから、客も金持ちばかりでね。その殆どが親子・祖父孫ぐらい歳の離れた男たちだった中、リブは私にとって初めて歳の近い客だったのよ。」
「リブは私にとって上客だった。つまり、普通の男ってことよ。客の中には、相手が娼婦だからって理由で変な性癖を押し付けたり、暴力を振るったり、難癖付けて好き放題する男が沢山いるの。でもリブはそんな事は一切しなかった。娼婦にとっては、それだけでも有難いことなのよ。でも、たとえ相手がリブでもお金が間に無かったら寝ることは無いわ。それは他の男と同じよ。」
「私たちは始まり方が娼婦と客という割り切った関係だったからこそ、友情とは違う関係を築いてきた。要するに、単に気が合ったのよね。互いに男女の感情は無いけれど、肌は知っている。だから、事が済んだらそのまま互いの身の上話をして過ごすことも多かったのよ。」
「そんなある夜だったわ。いつものようにリブが店に来たの。どこかの夜会からの帰りだったみたいで、女に思いっきり殴られたって悪態を吐きながら部屋に来たのを覚えてるわ。でも、なぜか嬉しそうな顔をしててね。どっちなのよ、って呆れたものよ。そうしたら、その夜会で変わった少女に会ったって言いだしたの。」
ナリアの胸がドクリと鳴った。視線を彷徨わせるナリアを横目に、ルマリナはカップに口を付けて喉を潤し、続けた。
「私は驚いたわ。貴女も知ってる通り、リブは女関係はかなり派手だったけど誰一人の名前も出た事が無かったの。いえ、話題にも出さなかった。相手そのものには興味が無かったのね、きっと。そんな彼が初めて口にしたのが、貴女の事だった。」
「それから、度々貴女の事を思い出しては『どうしてるんだろう』とか、『またどこかで踊ってるのかな』とか呟いてた。『そんなに気になるなら会いに行けば?』って言っても、どうせ俺の事なんて忘れてるって首を横に振るだけだったわ。」
「そして二年後のある夜、リブはこの世の終わりみたいな顔をして店に来たの。彼を一目見て何かあったのだとすぐにわかったわ。案の定、彼はまるで苛立ちをぶつける様に荒々しく私を抱いた。何度もね。ナリアさん、その日何があったかわかる?」
ナリアは顔を真っ赤にして勢いよく首を横に振った。男女の事に不慣れなナリアにとって、ルマリナの話は刺激が強い。ましてや相手の男がリベリオであるだけに、どんな立ち位置で聞けば良いのかすでにわからない。
ナリアの様子に、ルマリナは呆れたように微笑んだ。
「その日はね、リブが貴女と再会して、貴女から『婚約する』って聞いた日なの。」
「え…あの夜、ですか?」
「そう。あのバカが、『婚約おめでとう』なんて心にもない事を言って後悔した夜、とも言うわね。とにかく、貴女が婚約することが相当ショックで、でも自分にはどうすることもできなくて、その苛立ちの矛先を私に向けてきたのよ?冗談じゃないっての!客じゃ無かったらぶっ飛ばしてるところよ!」
ルマリナは顔を顰めて握り拳を作った。拳を軽く振って憎々しげに空を睨み、息を吐いた。
「しばらくは荒れた夜が続いたわ。店に来る度に、辛い顔をしながら私を抱いたのよ。そしてそのままリブは戦地に向かった。二年後に帰ってきた彼は、また店に来るようになったの。そうしたら、今度は何て言い始めたと思う?」
「?」
『夜会に行くと、どうしてもナリーを探してしまうんだ。もうとっくに結婚しているだろし、子供もいるかもしれない。頭ではわかっているのに、心が言う事を聞いてくれない。』
『俺は一体どうすればいい?俺は戦地にいる間、ずっとナリーの事が忘れられなかった。二年間ずっとだ!もう今更なのに!俺は、どうすればいいんだ…。』
ナリアは頭の中が真っ白になった。妹のメラティスから聞き、何度も胸を締め付けたあの言葉が蘇る。
----『なんでも、心に決めていた女性がいたそうなの。でもその女性はすでにご結婚なさっていて、叶わない恋だと仰っていたそうよ』
胸が高鳴り、高揚感に手が震えた。同時にやり場のない後悔が押し寄せる。それこそ今更だった。
「まぁ、相当酔った時しか言わなかったから、本人も覚えてないでしょうけどね。あとは、そうね。リブが荒れたのは、貴女が婚約者との間に計算の合わない子供が産まれたと聞いた時。それから、貴女が結婚してなくて、酷い噂を流されていると知った時だったかしら。その夜に貴女への想いをやっと自覚してね。リブはそれ以来、店には来なくなったわ。」
「どうしてそんなに…。」
「わかったでしょう?リブが荒れる時は、必ず貴女が関わっていたのよ。そしてその度に私を強く抱いた。貴女の代わりにね。」
「はい?私の…代わり?」
「そうよ。だから最初に言ったでしょう。私は娼婦で、リブは客だって。アイツは元々愛だのなんだのに興味は無かった。だから自分の気持ちを自覚するまでは、好きで好きでどうしようもなくて、それでも手に入れられない貴女の代わりに私を抱いていたのよ。」
「そんな…それじゃあ、逆だったの…?」
「逆?何が?」
ナリアが呆然とルマリナを見つめる。
ルマリナを見つめる瞳も、ルマリナを抱き締める腕も、その腕に感じる温もりも、ルマリナにキスをする唇も、全てナリアに向けられたものだった。
そして、ナリアの右手にはめた指輪だけは、真実ナリアに向けられたものだったのだ。
ナリアは目の奥のジンとする感覚に抗うように、目元に力を込めた。
「まぁ、いいわ。後は何だったかしら。…そうそう、この宿屋が襲われた時の事ね。貴女、私たちが抱き合ってるのを見たらしいわね。あれも誤解よ。すぐ近くにターニオもいたの。質の悪い連中が暴れ回って店は滅茶苦茶、娘たちは恐怖に怯えて、彼も私も怪我を負ってたの。だから、リブを見て思わず安堵したのよ。」
「あの時、ルマリナさんの血を…舐めているところを見てしまったのです。それで…私も動揺してしまって…。」
「は?血?そんなことあったかしら。どちらにしても、アイツは騎士団に所属してるのよ?血を流すのなんて日常茶飯事だし、舐めときゃ治る程度にしか思ってないわよ。アイツも覚えてないんじゃないかしら。でもまぁ、動転していたとはいえ私も軽率だったわ。ごめんなさいね。」
「そんな、謝らないでください!そんな大変な事になっていたとは知らず、私ったら…。」
「あとは、この前よね。この宿屋の前での事よ。」
「…はい。リブのお誕生日にデートをした翌日です。」
「あれはね、貴女が私たちの事を誤解しているって相談しに来てたのよ。本当はリブも誤解を解きたかったのだと思うの。でもほら、相手は娼婦でしょう?なかなか言い辛かったのだと思うのよ。誤解は解きたいけれど、知られたくもない。特に貴女にはね。」
「…。」
今度はルミゴンの言葉を思い出す。
----『彼だって、もしかしたら話すつもりだったのかもしれない』
----『自分から女の話を言い出せる男などいないんだ。だから、愚かだとわかっていてもつい隠そうとしてしまう』
「それから、本当はもっと遅くまで二人で過ごす予定だったらしいけど、邪魔が入ったってブツブツ文句言ってたわ。」
ケラケラと笑うルマリナを見て、ナリアはすぐにアセロの事だと気が付いた。二人がデートに出かける直前に、ナリアを連れ回せないよう釘を刺していたのだ。結局、別の理由で早く帰る事になったのだが。
「あの時のリブの顔ったら!本っ当に悔しそうな顔してたわよ。『久しぶりにナリーに会えたのに』って。あとは、そうね。結婚後の事で貴女ともう一度話し合うつもりだって言ってた。詳しくは聞いてないわ。それは私が聞く事じゃないから。」
「あの…あの日、偶然見てしまったのです。リブが、ルマリナさんを抱き締めてキスをしているところ…。それで、もう何も信じられなくなってしまって。」
「…そうね。それまでに、貴女の中ではたくさん迷いや悩みがあったのですものね。その最後の最後に、誕生日の翌日だもの。爆発して当然よ。全部あのバカが悪いんだから。」
「フフフ、『バカ』…。」
「そうよ、大バカよ!さっさと誤解を解かないから振られるのよ。ちなみにあの時のキスは、これよ。」
ルマリナはゆっくりとお腹を擦った。ナリアの視線が自然と促される。
「あの時、初めてリブにお腹に子ができた事を話したの。そうしたら、すごく喜んでくれてね。お腹に負担がかからないように抱き締めて、頬に祝福のキスをしてくれたのよ。もちろん、すぐ隣にはターニオがいたわ。」
「そうだったのですか!?そんな、どうしよう。私、リブに何てことを…。」
声が震え、グッと我慢していた感情が溢れ出す。みるみるうちにルマリナの姿が滲み始め、涙が頬を伝って流れた。
「ナリアさん、今私はとても幸せなの。愛する男に愛されて、こうしてターニオとの間に子を授かった。娼婦として女を売っていた時は女であることを忌まわしく感じていた時もあったけれど、今ほど女として生まれてきて良かったと思ったことはないわ。」
「…はい。」
「リブはね、今なら貴女に自分の全てを話せると思うの。でもきっと自分からは言い出せないはずよ。」
「義父にも同じような事を言われました。」
「フフ。流石、男には男の気持ちがわかるのね。貴女の事を心から愛しているからこそ、格好の悪い自分を見せたくないのよ。」
「はい。」
「でも、覚悟してね。」
「はい?」
ナリアがキョトンとした顔のまま首を傾げると、ルマリナは美しく口角を上げてニコリと微笑んだ。
「愛する女に自分の全てを晒した男の執着心は凄いわよ。」




