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ルミオはグラスを置いて立ち上がり、机の方へと向かった。鍵のかかった引き出しを開け、中から数枚の紙を取り出し、リベリオに手渡した。
「何だこれ?」
「これは父が抱える商業旅団からの報告書です。あと、私が記録として書いたものもあります。」
「報告書?何か調べさせてたのか?」
ラントン伯爵家は代々貿易商で財を築いてきた家系であり、先代当主であるルミオの祖父の代からはさらにその手を広げ、東方や南方の国とも取引を始めている。各地を渡り歩く商業旅団は、動かずして遠方の情勢を収集するには適役だった。
「はい。例の軍務会議でマルフィーロ王国との戦の話が出てから、各地で何か変わったことが起こっていないかを密かに調べさせていたのです。」
「今日言っていた、ニスカ・ルッソの黒い噂の事か?」
「それもありますが、まずは周りから調べてみようと思いまして。」
黒い噂。それは、近年マルフィーロ王国との間で頻発する小競り合いは、ニスカ・ルッソが関わっているのではないか、というものだ。元は戦準備の際に武具を高値で売りつけられた者たちによる陰口から始まったが、単なるそれとは片付けられない、というのがルミオの主張だった。
リベリオは渡された順に文字を追ってみた。調査期間が二か月半程度と短期間だったこともあり主にリヴィニス王国内の各地からの報告が多かったが、共通している部分がある。リベリオが眉間に皺を寄せるのを見て取ると、ルミオは静かに口を開いた。
「お気付きですか?」
「あぁ、これは…奴隷売買だな。」
ルミオが小さく頷く。奴隷売買はリヴィニス王国では随分昔から法によって禁止されており、禁を犯した者は誰であれ極刑に処せられた。手元の報告書によれば、辺境地から大勢の人々が日々連れられて来ている、とある。だが、リベリオが顔を顰めたのは別の理由だった。
「これは…殆どがニスカの領地に送られているだと?」
「そうです。連なる雄大な鉱山、鉄鉱石の採掘、武具全般の大量生産。当然、相当な人員を要しますよね。実際に質の悪い奴隷商人が暗躍していると商人仲間の間で囁かれているそうです。」
「なるほど、先の戦で傷が深い地域を狙っているのもその為か。胸糞の悪い話だ。」
「黒い噂と微かに繋がっているとは思いませんか?」
リベリオは胸のムカつきを流すように葡萄酒を呷り、ルミオに視線を投げた。
「そうだな。もしその黒い噂が本当だとしたら、戦が無けりゃニスカの商売は上がったりだ。奴が法を犯してまで奴隷を抱え込んでいるのなら、リスクよりも旨味の方が相当デカいのは考えるまでもない。お前があえて戦が起こるように仕向けているんじゃないかと疑ってしまうのも無理はないな。」
ルミオは小さく頷き、グラスを手に取った。ゆっくりとグラスを回し、葡萄酒の渦模様を眺めながら息を吐いた。
「実は、黒い噂の事を知ったのは父からなのです。」
「ラントン伯爵様から?」
「はい。軍務会議で戦の話が出た事を父に話した時に。ニスカ・ルッソの名前を出した途端、表情が変わられました。十五年程前にニスカが当主となり今の地位に就いた後、当時の社交界では戦が起こる度にニスカへの陰口を聞かされていたそうです。それも一人、二人では無かったと。」
「割と有名な話だったという事か?」
「そうです。ですが、それについてわざわざ調べる者はいなかったようですね。膨大な時間と金と労力を使うだけじゃなく、下手をすればややこしい喧嘩になる。ま、皆さん自分の領地が安泰なら他人がどこで何をしていようが知った事ではありませんしね。」
両手を上げて肩を竦めるルミオを横目に、リベリオは息を一つ吐いてグラスを手に取った。
----ルミオの言わんとする事もわかるが、やはり所詮は噂だ。黒い噂と奴隷売買は全く別の話だからな。後者はともかく、前者はただの言いがかりだ。
グラスを少し傾けて酒に映った己の姿を見つめる。紅く染まったその姿に視線を落としたまま、リベリオはさっさと核心に迫ることにした。
「で?なぜ今それを俺に話した。今日団長に話さなかったのは、確証が無いからって理由だけじゃ無いんだろう?」
「流石は副団長、話が早くて助かります。」
「お前が俺を屋敷に呼んだ時点で怪しいんだよ。」
「酷いですね。これでも副団長の事を心配しているのですよ。ご実家を出られてから、まともな生活をされてないではないですか。今後はご自分の腕だけで成り上がろうと日々の鍛錬も強化されましたし。汚れてくたびれた服を着て来られた時は、流石に引き…卒倒しそうになりました。」
「おい、引いたって言いかけただろ。」
ルミオが逃げるように紙を受け取り机にしまうのを半目で眺めながら、リベリオはルミオが戻るのを待った。
「なぜ団長に話さなかったんだ?」
「これは私が個人的に調べている事ですから、わざわざ報告する義務は無いと思ったからです。」
「周りに知られたら困るってことだな。つまり、お前の中では確信しているという事か。」
「はい。ですからこうして副団長をお呼びしたのです。」
「ちょっと待て。団長に言う必要が無い事なら、俺も関係無ぇじゃねーか。」
「副団長は大アリですよ。」
「は?」
ルミオの濁りの無い毅然とした返答に、リベリオは呆気に取られた。部下の有無を言わさない態度に、上司という立場を忘れさせられそうになる。リベリオが手を差し出して「どうぞ」と促すと、ルミオは静かに続けた。
「次の戦が起これば、第五騎士団はどうなりますか?」
「…。」
「そうなれば我々はもう終わりです。ナリア嬢にもこのまま二度と会えないでしょう。」
「それはそうだが…。」
「でも、もしかしたら今ならまだ間に合うかもしれません。」
「何!?」
「もし黒い噂が本当で、ニスカが裏で何らかの手を引いているとしたら。…そんな大それた事を彼一人でできるとは到底思えません。」
「誰かと組んでるって言いたいのか?確証の無いものを上塗りしてどうすんだよ。」
「だから個人的に調べるのです。もしそれで何も出て来なかったら、その時は諦めましょう。ですが、何もせずにただ奴の思うがままに戦場送りにされるのは御免です!」
ルミオは声を荒げてテーブルを叩いた。静まり返った空気の中、リベリオは静かにルミオを見つめる。きつく拳を握り締め、悔しさに顔を顰めるルミオの肩が震えていた。
リベリオは目を瞑り頭をガシガシと掻くと、大きく息を吸い込んで吐き出した。
「わかった、俺も協力するよ。俺としても、腹に抱えたままアイツらを死地に連れて行くわけにはいかないからな。」
「副団長!ありがとうございます!」
「しかし時間が無い。大抵の者は顔が割れているだろうし、潜ませるにはそれなりの実力のある者を用意しないと…」
「あ、その辺りは大丈夫です。すでに用意してありますから。」
リベリオが「え?」と顔を上げると、先ほどとは打って変わって、ニコニコと笑う男の顔が向けられていた。唖然とするリベリオの脳裏に『ハメラレタ』という文字が浮かぶ。
目を点にして固まるリベリオを余所に、ルミオは満足げに葡萄酒を飲み干した。
*
鈍色の厚い雲が空全体を覆いつくしている。僅かな陽の光も通す気配が無いせいか、もう昼も過ぎたというのに窓の外は薄暗い世界が広がっていた。
執務室に呼ばれていたナリアは、窓の外を眺めながらルミゴンが来るのを待っていた。
「ナリア、待たせてすまない。」
「いいえ、先ほど来たばかりです。」
ルミゴンがソファに座ると、対面するようにナリアも座った。ルミゴンの後ろからついて来た侍女がお茶の用意をして出て行くのを待っている間、ナリアはチラとルミゴンの様子を窺った。
アンバルシアから帰って以来、何事も無かったかのように元の生活に戻っていた。領主の件も一切話題には出ていない。変わった事と言えば、アセロのナリアに対する態度ぐらいだろうか。
アンバルシアから戻った日、アセロは爽やかな笑顔で玄関まで出迎えに出ていた。ナリアに向けて恭しく差し出した手の上に、サフィがそっと手紙を置く。不快を滲ませた視線をサフィに向けた後、差出人が異母姉にあたるマシスタからだと分かった瞬間、アセロは顔を引きつらせて固まった。そして、翌日からナリアに対する態度が一変したのである。一変したというよりは、元の距離感に戻っただけだったが。
侍女が静かに出て行き、二人は無言のまま温かいお茶を啜り始めた。寒い上に陽の暖かさも期待できない今日のような日には、お茶の温もりが身体の中に沁みて心地良い。
カップを置いてしばらく待ってみるが、ルミゴンはまだ話し始めようとしない。険しい表情のままテーブルの上を見つめている。どこか張り詰めた雰囲気に首を傾げつつ、ナリアは先に口を開いた。
「あの、お義父様?何かお話があるのでは。」
「うむ…。たった今、私の元に報告が入ってな。今、我が国とマルフィーロ王国との間で戦が始まるかもしれないという話は知っているか?」
「はい。その噂でしたら存じております。」
「その戦で、王宮第五騎士団が前線部隊の後方支援部隊として指名されたそうだ。」
ナリアは無意識に息を止めた。ルミゴンの言葉に頭の中が真っ白になる。どんな戦であろうとも前線に立てば真っ先に敵陣とぶつかる為、ほぼ命の保証はない。そこに、リベリオが向かうというのだ。
心臓が耳の奥でドクドクと音を立てるのを聞きながら、何の冗談かとルミゴンの瞳に視線を戻した途端、今度こそ心臓が止まりそうになった。
「それは、リブのいる騎士団が前線に立たされるということですか!?」
「…そうだ。」
「そんな!どうして第五騎士団だけ…他の騎士団はどうなのです!?同じように前線に向かうのですか!?」
ナリアは今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えながら、ルミゴンに詰め寄った。嘘だと言って欲しい。しかし、ルミゴンは険しい表情で首を横に振るだけだった。
「落ち着きなさい。まだ正式に指令が下りたわけではないらしい。ただ報告によると、このまま戦が起これば前線送りにされるのは間違いないだろう、との事だ。」
「そんな…そんなぁぁ…あぁぁ…。」
ナリアの両眼に涙が溢れる。張り裂けそうな胸に耐え切れず嗚咽を漏らして泣き崩れると、ルミゴンがナリアの震える肩をそっと抱いた。
「ナリア、私が以前アンバルシアで言ったことを覚えているか?」
「え?」
「彼は必ずお前を迎えに来る、というものだ。だが状況は変わった。」
ルミゴンは身体を離してナリアの顔を覗き込む。溢れる涙を指で優しく拭うと、真っ直ぐに見つめて言った。
「できるだけ早く、お前から彼に会いに行きなさい。もしかしたら彼は自分の置かれた状況を考え、このまま二度とお前に会いに来ないかもしれない。」
「それは…死地に向かうから、ですか?」
「そうだ。戦地に向かえば帰る事は無いとわかっていて、お前に会いに来ると思うか?」
ナリアはルミゴンの瞳に映る自分の姿を見た。愛しい男の身に降りかかった災難を嘆き、後悔と悲しみに喘ぐ女の姿が映っている。このままリベリオと会えなくなるなど、考えただけで背筋が凍る思いがした。
これ以上、己の心から目を逸らす事はできなかった。
「…わかりました。お義父様、話して下さってありがとうございます。」
ルミゴンは安堵したように頷くと、ナリアの耳元にそっと口を寄せて囁いた。
「…。……、………。」
「お、お義父様!?何を…!」
「大事な事だ。いいか、よく考えなさい。彼は二度と帰って来ないかもしれないのだぞ。」
「ですが…」
「あの事なら気にするな。私が良いと言っているんだ。後の事など何とでもなるし、今度こそ誰にも何も言わせん。」
『あの事』が意味することに、ナリアは動揺を隠しきれなかった。それでもルミゴンの真剣な眼差しを正面から受ければ、ナリアは黙って頷くしかない。
ルミゴンはナリアの肩にそっと手を添えると、そのままゆっくりと立ち上がった。
「よし、それでは私は仕事に戻るよ。」
「…はい、無理をなさらないで下さいね。」
「わかった」と言いながら、ルミゴンはニコリと微笑んで部屋を後にした。そして廊下に出た途端、ギラリと空を睨みつける。手には届いたばかりの文が握り締められていた。
----軍務長官補佐官ニスカ・ルッソか…。ふざけた真似をしてくれる。
グシャリと音を立てて握り潰した文の端には、差出人の頭文字が記されていた。
*
ルミゴンと話をした日から二日後、ナリアはサフィと共に馬車に乗って街へと出かけた。窓の外を眺めれば、昨日までの雨がすっかり上がって眩しい太陽が顔を出している。激しく降った雨水を利用したのか、至る所で洗濯物が干されていた。
二人を乗せた馬車は、ぬかるみの少ない広場の一角に停められた。サフィが先に降りて、荷物を御者に渡す。ナリアはサフィの手を取りゆっくりと降り立った。その少し離れた場所に、あの宿屋がある。
----思わずここに来てしまった。
人の往来の隙間から宿屋の方へ視線を向けた。扉を押さえている若い娘が見える。その娘から指示を受けた体躯の良い男が、荷物を中に運んでいた。
いつまでもここに立っているわけにはいかない。ナリアはゴクリと唾を飲み込み、震える足を叱咤して宿屋へと向かった。
一歩近付く度に、緊張で心臓が飛び出しそうになる。思い返せば、リベリオとの間に絶望を感じたのはいつもこの場所だった。そしてその隣にはいつもあの美しい女がいた。
ナリアは無意識に呼吸が浅くなっている事に気が付き、足を止めた。空気も風も冷たいはずなのに、全身に嫌な汗をかいている。焦点が定まらず、口元の白い息が小刻みに震えていた。
「ナリアお嬢様、どうなさいましたか?」
突然足を止め、額に汗をかいている主の顔を覗き込みながら、サフィは声を潜ませた。
「は…あ、いいえ、何でもないわ。…行きましょうか。」
サフィの声に小さく跳ねると、ナリアはそのまま歩き始めた。まだ脚の震えは止まりそうにない。
----リブに会う前に、彼女に会わなくちゃいけない。そうじゃないと私は前に進めない。大丈夫、何も怖がることないわ。
宿屋まであと十数歩という所で、再び扉が開いた。中から出てきた見覚えのある女が腰に手をあてて身体をググッと反らせている。その瞬間、ナリアは突然金縛りにあったかのように立ち止まった。
----あの人だ…。どうしよう、声…そうだ、声をかけなくちゃ。でも、何て?どうやって声をかければ…
女は道行く顔見知りを見つけては挨拶を交わしている。その美しく穏やかな笑顔が眩しくて、ナリアは胸の痛みを感じながらも、思わず見入っていた。
「お嬢様?やはり、ご気分が優れませんか?」
「えぇ…そうね、帰りましょうか。」
そう言ってクルリと向きを変えた瞬間、後ろからナリアを呼び止める高い声が響いた。
「ねぇ、そこの貴女!待って!貴女、ナリーでしょう!?」
ナリアはビクリと身体を強張らせ、一呼吸置いてから静かに振り返った。




